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妖怪さん  作者: 黄瀬ちゃん
一章
3/14

正直に言えば、もう私は働きたくありません

 おばあさんが夕飯の支度をすると言って広間から出ていき、それからしばらくすると鈴が目を覚ましました。寝ぼけた目を擦りながら反対側の手で私の服の裾を握っていることに気が付き、はっとしたように手を離したのです。

 それから何事もなかったように起き上って、どこかへ行ってしまったのでした。

「鈴は普段、わしら以外の人間と接することがなくての。いや、お前さんは妖怪だが、まあなんにせよ、他の者との接し方というものがわからんのだろう。お前がここに住むことはあの子にとってもよいことになるはずだ」

 おじいさんは楽しそうに、しかしどこか悲しそうに言うのです。

 鈴はおばあさんの夕飯の手伝いをしていたらしく、おばあさんと一緒に夕飯を持って広間に戻ってきました。

 夕飯は豪勢なもので、私などが普段食べている物とは比べ物にならないほど美味なのです。人間とはこのように贅沢な暮らしをしているのか、と私は思うのでした。

「妖怪よ。お前には明日からしっかりと働いてもらう。ただ飯を食わせる余裕はないのだ」

 おじいさんは夕飯を終えてから厳しい口調で言いました。私は頷いて明日からの仕事というものについて考えるのでした。

 私は屋敷の一室を与えられて、そこに布団を敷いて眠るようおばあさんに言われました。

 しかし、もう半刻も布団に転がっているというのに、どうしても眠ることができないのでした。

 その間に夜は更けていき、月明かりが障子の隙間から差し込み、闇を溶かしていくのです。

 そして改めて考えてみると、おかしなことになったものだと思うのでした。

 人間を脅かしにきて、人間に捕まって、人間と茶菓子などを食べ、私は涙を流して、人間の家に住まうことになった。これほどおかしな話はないでしょう。

 私は呆れて笑ってしまうのでした。

 笑い声に反応するように外から何やら小さな音がして、私はそちらを見ました。

 障子に小さな人影が写っていて、私はその影の主が誰なのかをすぐに理解したのです。

 私が襖を開けると、縁側にいた鈴がビクりと体を震わせました。

 何をしているのか? と尋ねると、鈴は俯いて黙るのです。

 私は何か悪いことをしたような気になって、ひどく申し訳ない気持ちになるのでした。

「星……」

 鈴が空を見上げて小さく呟きます。

 私も空を見上げました。

 空には満月とそれを囲むような星々が煌めいています。鈴は星を見ていたのでしょうか? こんなものを見ていて何が面白いのだろうか? 私はそう思いながらも空を見続けるのでした。

 翌日、私はおじいさんに仕事を言いつけられました。

 薪割りから雨漏りした屋根の修理、果ては掃除と言ったものまでが私の仕事です。

 私は力の強い妖怪ではありませんでしたから、その全てを終える頃にはヘトヘトになっているのでした。

「馬鹿者! もっと腰を使うのだ」

 おじいさんはまともに薪を割ることが出来ない私を叱りました。

「馬鹿者! しっかりと前を向かんか」

 おじいさんは屋根の上でぼんやりとする私を叱りました。

「うむ。まあ埃がまだ残っているが、このくらいで問題はない」

 掃除だけは叱られずに行うことができました。

 人間の労働とは一切がこのような物であるのでしょうか。

 私は今まで、妖怪が人を脅かすのは労働の様なものと考えておりましたが、それは明らかな間違いであるに違いないと確信したのです。

 体のあちこちが悲鳴を上げていて、上手くできないことばかりで、私は人を脅かすことならばこのような苦労はないのに、と考えるのでした。

 午後になって、私が広間で休んでいると、庭に何かキラりと光るものが落ちていることに気が付きました。

 あれはなんだろうか。

 私はふらふらとした足取りでそれを見に庭へ出たのです。

 近くで見ると、それは綺麗な簪でありました。おばあさんか鈴の物であろうか。私はそれを拾い上げて太陽にかざしました。

 透き通るような鼈甲でできたその簪は美しく、誰かの大切な物であるように思われました。

「妖怪や。何をしておるか。まだ仕事はあるのだぞ」

 後ろからおじいさんの声が響き、私は体をビクりとさせてその鼈甲の簪を懐にしまったのでした。

 どうにも、私はあのおじいさんが苦手な様です。

 おじいさんの厳しさは天狗様を思い出させ、私は言うことを聞かざるを得ないのでした。

 その後もいくつかの仕事をさせられて、私はもう一歩も歩きたくないのです。

 夕食もおざなりに、私は布団に入って眠るのでした。

 正直に言えば、もう私は働きたくありません。こんなに辛い思いをしてまで、一体何を知らなければならないというのか。それとも、天狗様の言う知らなければならないこととは、この辛い思いのことなのでしょうか。

 私は毎日人間を脅かすことしかしていませんでしたから、このような辛いことは初めてなのです。しかし、こんなことを知ってなんになるというのでしょう。人を上手く脅かせる様になるわけでもなし。無駄ではないか。私はそう思わずにはいられないのです。

 いっそ、森へ帰ってしまおうか。

 私は泣きそうな思いで考えるのでした。

 今ならば誰も気づきはしないでしょう。あの鬼のようなおじいさんも、寝ている間は私を捕えることなどできないはずです。

 私はそっと襖を開けて、恐る恐る廊下を確認しました。

 そこには人影があり、一瞬だけ驚いてから、それが鈴であることを理解して安心した様な気持ちになります。

 私は何も言わず、そっと空を見上げました。

 今日もまた、月の周りに星々が輝いています。

 ちらりと鈴の顔を覗くと、何か物思いに耽っているような、大切な物を見ているような瞳が私を吸い込みそうになるのでした。

 もしかして、鈴はこうして毎日空を眺めているのかもしれません。その理由はわかりませんが、あの空には何かがあるのでしょう。

 しばらく空を見上げ、私はふと拾った簪のことを思い出して、これはお前のかと尋ねます。

 鈴は驚いた様な顔をして、少ししてから小さく頷くのでした。

「これ……お母さんのなの。ありがとう」

 鈴は私を見て言いました。

 私は生まれてこの方、お礼などというものは初めてでしたから、なんだか恥ずかしくなって顔が真っ赤になるのです。

 ああ、どうか私の顔が夜の闇に紛れていますように……

 私はそう願いながら、また空を見つめたのです。


 結局、私はこの屋敷から逃げ出すことができませんでした。

 翌日からもおじいさんは私にたくさんの仕事を与え、私は夜になると逃げ出したくなるのです。しかし、逃げ出そうとする時は決まっていつも、私の部屋の前で鈴が空を見上げていました。その度に私は逃げる機会を失って、仕方なく同じように空を見上げるのです。

 夜のひと時、私と鈴はぽつりぽつりと、少しずつ話すようになりました。

 それはほとんどがたわいのないものでしたが、私にとってはその時間が救いでもありました。

 この鈴という娘はとても饒舌とは言えませんが、不器用に、唇から零すように語る姿が、私にはひどく眩しく思えるのです。

 そしてその眩しさは、辛い仕事で沈んだ私の心に深く染み込み、体の節々から疲れが抜けていくような、そんな力があるのでした。

 そのおかげか、私はすんでのところでこの屋敷に居続けられているのです。

「妖怪さんなら、あの星まで行ける?」

 ある時、鈴は空を指さして言いました。

 その指の先にあるのは、数ある星の中でも一番強い光を放つ星です。

 なんだかその星に手が届きそうな気がして、私はその星に向かってゆっくりと手を伸ばし、それを掴みました。

 しかし再び手を開くと、その中にはなにもありません。

 私は首を横に振って、行けないことを伝えました。

 天狗様の様な力のある妖怪にはできるかもしれませんが、私などでは到底叶わないのでしょう。

「お父様とお母様はあの星にいるの。だから、いつか私もあそこに行ってみたい」

 星にいるとはどういう意味か。私にはわかりません。

 鈴の両親は死んだと、おじいさんとおばあさんは言いました。あの星にいるはずはないのです。けれども、いつか鈴があそこに行ければ良いと思うのでした。

 私は何も言わず、ただ星を眺めます。

 星々の光は、あの満月の夜よりも輝きを増しているように見えました。

 昼間はおじいさんからに言いつけられた仕事でへとへとになり、夜に鈴とほんの少しの話をする。そんな風にこの屋敷での生活を続けて、半月が経とうという頃でした。

 私はいつの間にか、夜になると鈴が来ているかを確認するようになっていて、その日も部屋の襖を開けて縁側に鈴の姿を探したのです。

 しかしその日は鈴の姿がなく、私は落胆しました。

 仕方なく襖を閉じ、私は布団の中に潜り込みます。

 そしてふと思ったのでした。

 何故私は落胆しているのだろうか?

 妖怪である私が、どうして一人の人間がいないだけでこんなにも憂鬱な気分になるのか。

 確かに、鈴と話すことで私は仕事の疲れを少しだけ忘れることができましたが、かといってそれがなければ別にそれでいいはずなのです。

 仕事の疲れを忘れることができない。それだけのことのはずです。

 ですが、鈴がいないということはそれ以上に悪い方向へ向かうのです。私は仕事の疲れを忘れることもできず、更に憂鬱な気分になるのでした。

 ならば初めから関わらない方が良いではないか。

 どうしてそんなことに私が落胆しなければならないのか。

 この屋敷に半月もいたというのに、結局私はなにも知ることができなかったのです。

 何故私が鈴の存在に一喜一憂し、何故こんなにも心に靄がかかっているのか。

 なにも知ることが出来ませんでした。

 これでは私がここにいる意味がないではないか。

 そんなことを布団の中で考えていると、襖を控えめに叩く音が聞こえました。

 鈴か!

 私は急いで襖を開けました。

「鈴? 誰だそれは」

 目の前にいたのは、頭に皿を乗せた緑色の珍妙な生物でした。そしてそれは、私にとって見慣れた姿でありました。


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