鈴という娘はそれはそれは大変美しい娘でした
鈴という娘はそれはそれは大変美しい娘でした。
今年で十二になるという娘で、おじいさんとおばあさんの孫娘だそうです。彼女の母親は彼女が生まれると同時に亡くなり、またそのすぐ後に父親――おじいさんとおばあさんの息子――も亡くなってしまい、二人はこの鈴を引き取ってこの村でのんびりと暮らしているのだそうです。
金色の頭髪と、碧い宝石の様な瞳、そして陶器の様な白い肌。私は雪女を見たことがありませんが、河童に聞いた話ではこの様な見た目をしていると聞きました。
私はおばあさんに屋敷の広間へと案内され、言われるがままに座り、しばらくしてからおばあさんがこの鈴という娘を連れてやってきたのです。
鈴は私を見て、すぐにおばあさんの背中に隠れてしまいました。
私はその時、少しだけ安心したのです。
ここに来てからというものの、私を見て恐怖する者はいませんでした。なので、私は妖怪としての自信をすっかり無くしてしまっていたのです。
おばあさんが鈴に小さく何かを言うと、鈴はおずおずとおばあさんの背中から離れて私の方を見ました。
「鈴……あなた、妖怪さんなの?」
鈴は小さく自分の名前を告げて、私にそう問いかけました。その目にはどこか不安そうな表情が浮かんでおり、私は妖怪として嬉しく思うのでした。
大仰に頷き「そうだ。私は妖怪だ」と言ってやると、鈴はどこかほっとしたように肩を下げて、私の隣に座りました。
何故、私が妖怪であることにほっとするのか。
この時、私の妖怪としての自信は完膚なきまでに打ち崩されたのでした。
いつかこの屋敷の人間をびっくりさせてやろう。私はそう心に誓ったのです。
「何か悪いことを企んでいる顔だ。さっき言ったこと、忘れてはいないだろうな?」
まるで覚の様におじいさんが私の心を見透かして、低い声で呟きました。
私は体をびくりとさせて、垂れてくる冷や汗を拭います。
「そう怖がらせなくてもいいじゃありませんか」
おばあさんがお盆を持って広間に入ってきました。何やら甘い香りが漂っています。
「さあ、どうぞ」
そう言っておばあさんは私の前に小さなお皿とお茶を置きました。
この食べ物は葛餅というそうです。
ところてんの様なものに、タレと粉とがかかっているヘンテコな食べ物でした。
おじいさんがそれを小さく分けてパクりと食べます。鈴も私の隣で美味しそうにそれを食べました。そして、それを見たおばあさんが嬉しそうに笑うのです。
私はなんだか居心地が悪くて、背中がむず痒くなりました。
「妖怪さん……食べないの?」
鈴が遠慮がちに私と葛餅を交互に見ています。
「ふん。だから言っただろう。妖怪は茶菓子など食わんのだ」
おじいさんが満足げにお茶を啜りながら言います。
「じゃあ何を食べるの?」
「人間を喰うんじゃ。こいつらは」
その言葉を聞いた鈴は、私の方を見て泣き出しそうになりました。私に食べられると思ったのでしょう。
やっと人間が私を恐れてくれたというのに、私の心にはどこかもやっとした気持ちが広がりました。
私は人間など食べませんから、自分の力で人間を脅かした様な気がしないからこんな気持ちになるのです。そう考えて、私はそのもやっとした気持ちをどこかへ吹き飛ばしたのでした。
「おじいさん」
「いや、すまん。鈴、今のは嘘だ。ほれ妖怪、さっさと食わんかい」
おばあさんが子供を叱るように言うと、おじいさんは私を睨み付けるのでした。
私は恐る恐るその葛餅を小さく切り分けて、口に運びました。
ところてんの様なものは葛餅というだけあって餅のように弾力があり、それにかかっているタレと粉の甘みが口の中にふわっと広がります。
私はこのような甘い食べ物は初めてでしたから、飲みこむ間がつかめずに何度も咀嚼を繰り返すのでした。
「どうですか?」
おばあさんが私の様子を嬉しそうに伺います。
しかし、なんと言っていいものかわからず、私はただ黙り込むのでした。
「言わんでもわかる。美味いと顔に書いてあるではないか」
おじいさんが笑うと、私は火車の様に顔が熱くなったのです。
それからはおじいさんとおばあさんが楽しそうに話しているのを、私は黙って聞いていました。話の中に出てくるおじいさんは豪胆で、とても私の知っている人間ではありません。鈴はその話に目を輝かせて、夢中になって聞いているのでした。
私は先ほど吹き飛ばしたはずの心の靄が戻ってきているのを感じました。
こんな気持ちになったことはありませんでしたから、その原因を探るのは大変なことでした。
悲しいというわけでもなく、苛立たしいというわけでもない。かといって、嬉しいわけでも楽しいわけでもないのです。
一つだけわかることは、この屋敷に来てからこの不可解な気持ちが生まれたということでした。
そして日も落ちてきて、鈴がうとうとと眠り始め、おじいさんとおばあさんの話も一段落つくと、私はどうしてこんな場所にいるのかという気持ちになりました。
そもそも、私はここに人を脅かしに来たのです。それがどうして人間と茶菓子などを食べていたのだろうか。私は私の行動が理解できませんでした。
おじいさんに捕まり、きっと私の頭は混乱していたに違いありません。それどころか、今もまだ混乱したままであるような気がしてならないのです。
この屋敷にこれ以上居てはいけない。そんな風に私は考えて、森へ帰ることにしたのでした。
しかし、私が黙って立ち上がろうとすると、何かが服の裾に引っかっているようで、上手く立ち上がることができません。
私がそちらに視線を向けると小さな手が私の服を掴んでいました。
鈴が眠りながら私の服を掴んでいたのです。
この手を無理やり外して立ち上がることは簡単ですが、どうしてかその時ばかりはそのことが憚られたのでした。
ああ、私はどうしてしまったというのでしょうか?
妖怪の私がこのような小さい娘の手も引き剥がすことができないとは……私は自分が何者であるのかがわからなくなったような、そんな喪失感を抱くのでした。
更には、鈴が私の服の裾を掴んでいることに気が付いたおばあさんが「あらまあ、まるで兄妹みたいですねえ」なんてことを言うので、私はますます心に靄がかかって、遂にはボロボロと泣いてしまったのです。
おばあさんは驚いて、どうしたのかと尋ねましたが、私は何も答えられずにただただ涙を拭うのでした。
私は妖怪ですから、人間を脅かして涙させることはあっても、人間の前で泣くような、いいえ妖怪の前でだって泣くようなことはありませんでした。
何故私は涙など流しているのか、それがわからなくて、また私は苦しくなって、そしてその苦しさのわけもわからないのです。
頭がおかしくなりそうな気分の中で、小さな声が聞こえました。
はっとしてそちらを見ると、鈴は何か小さく寝言を呟いて、またスースーと寝息をたてたのです。
それを見た私はなんだか急に恥ずかしさがこみ上げてきて、必死になって涙を止めたのでした。
「世の中にはお前の知らないことが多くある。そしてお前はそれを知らなければならない」
いつだったか、私は天狗様にそう言われたことを思い出しました。
天狗様はよく、私の様な無知な妖怪のために山から下りてきて、教鞭を執ってくださいます。からかさ小僧などはそれを真面目に聞いて、何やらわかったようなわかっていないような唸り声など上げるのですが、私や河童のような不真面目な妖怪には退屈で、すっかり居眠りなどしているのでした。
何故このようなことを学ばなければならないのか。時に私は天狗様にそう尋ねたのです。そして、天狗様はそう答えたのでした。
その時の私にはその言葉の意味がさっぱりわかりませんでしたが、今では少しだけわかるような気がするのです。
世の中には私の理解できない様なことがあり、それは私自身ですらそうなのでした。
そうした世界のいろいろなことを私は知らなければなりません。
私は鼻水をズズズと啜り、目に溜まった涙を服の袖でふき取ります。
そして、おじいさんとおばあさんに「何故、妖怪の私を恐れないのか」と尋ねました。
すると、二人は驚いた様に顔を見合わせます。
「ふむ。確かに妖怪は恐ろしい。だが、人間の前でボロボロと泣くような妖怪は恐ろしくもなんともないのう」
おじいさんに笑いながら言われ、私は顔が真っ赤になっていくのがわかりました。
「そうですねえ。私も妖怪を初めて見ましたが、まるで人間の様ではありませんか。とても恐ろしいなどとは思えません」
おばあさんは嬉しそうに言うのです。
「時に妖怪よ。お前は小豆洗いであったか?」
おじいさんが神妙な顔つきになって尋ねました。
私は小豆洗いではありません。先ほど使った小豆は小豆洗いからもらったものですが、私自身があのような有名な妖怪になることはとてもじゃないですができないのです。
天邪鬼
私はそういう名前の妖怪なのだそうです。
というのも、私は私が妖怪であることを五つの時まで知りませんでしたから、森で天狗様にお会いになったときに教えていただいたのでした。
「そうか、お前は小豆洗いではないのか。して、天邪鬼とはどのような妖怪か? 小豆洗いならば小豆を洗う、垢舐めならば垢を舐める。天邪鬼にもまた、なにかあるのだろう?」
私は言葉に詰まりました。
天邪鬼という妖怪はどのような妖怪であるのか。それを天狗様は教えてくださりませんでした。それもまた、私の知るべきことの一つなのでしょう。
「ふむ。ならば、お前は今日からこの屋敷に住むがよい。いや、住め」
おじいさんは少し怒ったような口調でそう言うのでした。
私は意味が分からず、素っ頓狂な声をあげます。
何故妖怪が人間の屋敷に住まうのか。いえ、何故人間が妖怪である私を屋敷に住まわすのか。そんな理由はどこを探しても見つかりませんでした。これもまた、私の知らないことなのでしょうか?
「なに、特に深い意味はないのだ。この屋敷は広い。部屋も余っておる。しかし、どうしても男手が足りん。そこで、お前の様な妖怪をコキ使ってやろうということだ。お前にとってもこの屋敷で暮らすことは悪いことばかりではないはずだ。違うか?」
おじいさんはまたしても私の心を見透かして、ニヤりと笑うのでした。
そうなのです。それは私にとっても悪いことばかりではありません。
知らなければならないこと。それがこの屋敷にはありそうな気がするのです。私がそう考えていることをおじいさんはいとも簡単に当てて見せたのでした。
まるで妖怪の様なおじいさんだと思いながら、私は小さく頷いたのです。