そして
星だけが輝く夜空を私と鈴は見上げました。夜を照らす月の姿はなく、ただ無数の星が散りばめられています。
言葉も交わさず、ただ空を見つめました。
お医者様が沈痛な面持ちで、おじいさんが亡くなったことを伝えてからまだ一日と経っていません。
人が死ぬ、ということをよく理解できていない様子だった鈴に、おばあさんが「おじいさんは、お父さんやお母さんのいる星に行ったんだよ」と悲しそうな顔をしました。
鈴は以前、一際輝く星を指さして、あの星にいつか行きたいと言いました。
そして私は、いつか鈴がそこに行ければいいと思いました。
そこに行くのはいいことなのか、悪いことなのか、それはわかりません。しかし今は、そこへ行かないで欲しいと思うのです。
おじいさんはもうあの星へ着いたでしょうか。いや、これから向かうのかもしれません。
私は、死んだ後どんな世界へ行くのかわかりませんから、おじいさんが今どんなことをしているのかはわからないのです。
動かなくなったおじいさんの体は、地上にあります。きっとまだなのでしょう。
「おじいちゃんも、私を置いて行っちゃった」
鈴はその碧い瞳から涙をこぼしました。
もしかしたら、死ぬということがどういうことか、鈴にもわかっているのかもしれません。
私は今、自分がどんな気持ちなのかわかりませんでした。
おじいさんが死んで悲しいと思う気持ちも、寂しいと思う気持ちもありません。しかし、なにか心に穴が空いたような。永遠に満たされない空腹感のような物が私を苛ませるだけだったのです。
これから、私はどうしようかと思いました。
こういう時、人間を脅すことで私は何もかもを忘れることができました。しかし、私はもう妖怪の森へは帰れません。
私の勝手な都合で言えば、この屋敷に住まわせてもらおうかと考えているのです。
おじいさんは私に残った仕事を頼んだと言いました。残った仕事とは何か。私は考えたのです。
おじいさんはこの屋敷の長でした。妖怪の森で言えば、天狗様と同じ立場だったのです。
天狗様の仕事は、森の妖怪を守ることでした。
おじいさんが残した仕事。私はそれを頼まれたのではないか。そう思えるのでした。それはあるいは、私の勝手な想像なのかもしれません。ですが、不思議と間違っていない気がするのです。
翌日、私はおばあさんに頭を下げました。
この屋敷に住まわして欲しい。一度逃げ出しておきながら、身勝手な願いだと言うのはわかっていました。
しかし、おばあさんはそんな私を見て、ニッコリと笑って言いました。
「あら、私はあなたが戻ってきた時から、もうここに住むものだとばかり思っていました」
私はその言葉がとても嬉しくて、つい顔がほころびそうになりましたが、必死にそれを神妙な顔つきに戻すのでした。
そして、そうやって「ありがとうございます」などと恭しく礼をする自分が、急にひどく滑稽なものに思えたのです。
私は試しに取り繕うのをやめて、ほころんだその顔を上げてみました。
それを見たおばあさんも、顔をほころばせたのでした。
それから、私は屋敷の仕事をせっせとやるのでした。
おじいさんの葬儀があるというので、おばあさんの親戚がたくさん訪ねてくるというのです。
そのために、普段使われていなかったという部屋を掃除し、布団や座布団を運び、雨漏りしていた屋根を直しました。
その労働の疲れは、以前とは比べものになりませんでしたが、私は何故だか清々しい気分なのです。
逃げ出したいとは思いません。
私も、おばあさんも、鈴も、忙しなく家の中をパタパタと駆け回ります。その音が妙に心地よく、この屋敷にずっといたい、そう思いました。
夜になって、私は布団の上でぼうっとしながら、今すぐにでも寝てしまいそうでした。鈴も今日は疲れているらしく、星を見に来てはいません。
私はふと、この屋敷に来た時のことを思い出しました。
あの日、私の心を覆ったもやもやとしたものはなんだったのだろうか。今ならわかるような気がするのです。
しかし、その内私は重い鉛のような眠気に負けてしまうのでした。
最初に訪ねてきた親戚は、おばあさんの息子でした。鈴の父親の弟だそうで、鈴にとっては叔父にあたる人です。
「そうか。親父も死んだか」
その男は横たわるおじいさんを見て、小さく呟きました。
それから、葬儀の準備をテキパキと済ませて、おばあさんを呼びました。
「今日から、俺はこの屋敷に住むよ。お袋も親父が死んで大変だろう。なにかと男手が必要になるだろうし、少しは親孝行しなきゃならんからな」
男は柔らかい物腰で、悪い人間ではないようでした。しかし、私はどうにもこの男が気に入らないのです。それは、私がこの家の者ではないからかもしれません。私は初めてこの屋敷に来た時のような、居心地悪さを感じているのでした。
「ここに住むのはかまわないけれど、家には鈴と、今はこの子がいる。この二人もちゃんと受け入れてくれるんだろうねえ」
おばあさんはその男をあまりよく思っていないようでした。自分の息子だというのにおかしなものです。
「もちろんだとも。兄貴が死んだときは俺も取り乱してたんだ。今は問題ない。しかし、こっちの子は?」
男は私を見て、訝しむような目で見るのでした。
「その子は知り合いの子供でねえ。いろいろ事情があって預かってるんだ。悪いようにしたらいけないよ」
「かあ、お袋は本当にお人よしだな。まあいいさ。別に一人増えたってかまいやしないよ」
私は妖怪ですが、それを人間に易々と教えるわけにはいかないのでした。
それから、多くの人が訪ねてきました。みんなおじいさんの親戚だそうです。
おじいさんの親戚というからどんな恐ろしい人間が来るのかと思えば、なんてことはない普通の人ばかりでした。
広間にその人達が集まり、昔話に花を咲かせています。その中で私と鈴は随分と浮いていて、部屋の隅で小くなっているのでした。
「お前、妖怪なんだろ?」
私は心臓が止まるかと思うほど驚きました。
顔をあげると見知らぬ少年が私と鈴の前にいます。鈴と同じくらいの歳でしょうか。ですが、鈴よりも幼いような印象を受けるのでした。
「おい、妖怪。無視するな」
その少年は私ではなく、鈴を指さして言います。
なにを勘違いしているのか。妖怪は私です。しかし、それを言うわけにもいきません。
「父上が言ってたぞ。こいつは妖怪なんだ! 人を呪うんだって!」
鈴は顔を伏せて何も言いません。
「おい。なんとか言え化物! この変な色の髪が妖怪の証拠じゃないか」
「いっ……」
少年が鈴の髪を掴み、鈴が痛みに声をあげました。
私は思わずその少年の手を掴み、捻り上げます。
「いてえ。何すんだお前。妖怪の仲間か?」
今度は私を睨み付けて、少年が怒りを上げました。
そうです。私は妖怪の仲間です。何故なら私が妖怪なのですから。
「おいおい。何をしているんだ?」
私と少年がにらみ合っていると、先ほどの男がやってきました。
「あ、父上! こいつらが……」
「あんまり騒ぐんじゃない。他の親戚もいるんだ」
少年はその男の子供でした。つまり、鈴の従兄弟にあたるのです。
男が少年を注意すると、シュンとしてから私達に舌を出して、男と共に他の部屋へと行きました。
鈴は泣きそうな顔で、頭を押さえています。
私は鈴が可哀想でなりませんでした。何故あんなことをされなければならないのか。
「私は、やっぱり妖怪なのかな……」
鈴が消えそうな声で呟きました。
妖怪? 鈴が? 私は笑いました。
確かにこのような髪の色をした人間を見たことはありません。しかし、妖怪でもありません。
我々と人間、一体何が違うのか。
私はその言葉を思い出しました。
そして、私にはその違いがもうわかるのです。わかるのでした。