第八話 猛女見参:前編
あいつ、まさか死ぬ気か……!幾らなんでもそんなことで……
正直なところ、その発想はなかった。思わず視線を館の方に向けた。
中庭、といってもそれ自体が既に一つの庭園の規模がある。コの字型の城館の全景が姫様のいるバロック調のガゼボ(※ 洋風あずまや)の中からも見える。
貴族の子弟ばかりで構成される追っ手の錬度が最低なのは最初から分かり切っていた。俺の指示は相手が刃向かわないことが前提だったのだ。ギリッと奥歯がなる。
くそっ!窮鼠猫を噛むってやつか!
俺は、元の自分と大して変わらない17歳という年齢にすっかり惑わされて、見通しを誤っていた。今更ながらに、シエル・フローラ、いや、この世界の価値観を、名誉と剣に生きる人間の覚悟を、まったく理解していなかったのだ。
「姫殿下、あれを!!あそこに人が!!」
「ファッ!?」
ヴィンター・メッサーシュミット少年の絶叫にも近い声がした。少年の長い指が右側の尖閣をさす。こちらからは完全に逆光となるため、俺もヴィンター少年も手で庇を作らなければならなかったが、天窓がいきなり開け放たれたかと思うと小さな黒い影がぬっと姿を現す。
あっという間もなくオレンジ色の光を全身に浴びるそのシルエットは窓枠に足をかけると、覚束ない足元で尖閣のドーム型の屋根に立つ。ツインテールの長い髪がたなびいている。
説明されるまでもなく、一族の名誉を一身に背負ったヴェンデンの少女、シエル・フローラだった。
俺の隣では庭師が設置したモグラを花壇から追い払うための小さな風車がカラカラと音を立てている。きっと屋根の上はもっと強い風が吹いているに違いない。足首まである長いスカートが大きく風を孕んでいるのが分かる。
詰襟ズボンの近衛兵たちですら躊躇するような場所に、手折れば散るようなスミレ一輪が剣を片手に風に煽られるたびに右に左に揺れていた。
「あ、危ない!!なんて無謀なことを!!早く助けなければ!!」
シエル・フローラが弄られる木の葉のようにフラフラすると、それに呼応してヴィンターは一歩、また一歩と足を前に進めた。この少年はどこまでも純粋だった。
俺の視線に気が付いた少年はハッとすると右手を左肩に当てて頭を下げてきた。
「どうかご安心下さい!姫殿下!必ずやナイトハルト卿がシエル様をお助けになるでしょう!」
いや、それは甘いぞ……おまえ……
気遣いのつもりなのだろうが少年の言葉に俺は一瞬困惑する。いや、愛想笑いをするのがやっとだったか。
ヴェンツェルの伝言の内容は何だった?やつは”最悪の事態”を覚悟しろとわざわざ言って寄越しているんだぞ?
要は、言外にこの事態の静観を俺に促しているってことじゃねえか!!
つまり、やつは鼻っからシエルを生かしておく心算など微塵もなかったということになる。むしろこの騒動が始末する大義名分になって勿怪の幸い程度にしか思っていないに違いない。
”事が事だけに穏便には出来ぬ”とはよく言ったもんだ。
ヴェンツェルの忠義は確かに本物だ。それに疑問を差し挟む余地は寸分もない。ただし、それはあくまで大公家に対しての忠誠なのだ。奴の思考は正義や不正義などといった不偏の条理に常に基づいているわけではない。そこが今の俺と決定的に違うし、どこまで言っても埋まらない平成の人間との価値観の差だった。
思考が目まぐるしく回る。
殿下がヴェンデン伯号を兼ねているならまだしも、リエナがそれを相続してマグナブルクの属国の施政者となってしまえば、元ヴェンデン伯家の人間の存在は単なるリスクでしかなくなる。つまり、俺が勅書を受けた時点で人質の価値はゼロ、いや名誉を糧に生きる貴族が逆恨みするかもしれない分だけマイナスだ。
大公家にとっての理想、それは明らかにヴェンデン元伯所縁の人間が叛意の兆しを見せることだ。そうすれば後腐れなく全てを始末できる。例えそれが美談によって救われた命であっても、だ。
身辺整理も兼ねて遅かれ早かれ適当に理由をつけて始末するつもりだったのだろう。それを勝手に向こうが暴発してくれた、というわけだ。
案外、食えねえ野郎だな……
シエルの逃走劇もひょっとしたらヴェンツェルの手引きだったかもしれない。シエルの身柄を下手に確保すれば、待っているのは俺の"直裁"だ。そして、それは間違いなくヴェンツェルの考えとは大きく異なるものになるのは明らかだ。
奴はそれを読んでいる……
ゲームではどんな裏切りキャラでもプレーヤーの指示には一応従う。仮に裏切ったとしてもその後の対処は非常に分かりやすい。なぜならCPUは”味方の状態を維持したまま”主の指示を逆手にとって己の信じる正義を果たす、ような複雑なアルゴリズムを取らないからだ。
言い換えれば、ゲームでは必ず敵か味方にクリアに分かれる。だが、ヴェンツェルは何も裏切ってはいない。現実では味方であっても味方と限らず、その逆もまた然りだ。
これが……権謀ってやつなのかよ……
俺は今、背筋に冷たい汗をかいていたが、同時に言い知れぬ不快感を覚えていた。心底胸糞が悪い。
太陽が西の山の稜線にかかっていた。あと2時間もすれば日はとっぷりと暮れて漆黒の闇がヴァーリーリエ全体を包むだろう。いつまでもシエルの気力と体力が持つわけがない。そのうち足を滑らせて地面に叩きつけられるに違いない。
このままシエルを見殺しにしていいのかよ……いいわけがねえ……
「い……わ……け……」
まるで声変わりの小学生が裏声を無理やり振り絞るような声だ。高音と低音が入り混じり、喉に言葉がいちいち引っかかる感触が気持ち悪い。
「いい……わけ……いいわけ!ねえだろうがあああ!くそったれが!!」
姫の大音声が中庭に響く。すぐ隣にいたヴィンターは腰を抜かさんばかりに驚いて慌てて俺から飛びのいた。
俺はスカートの裾を捲り上げるとガゼボの中から飛び出した。
「ひ、姫殿下!?ど、どちらに!!」
「シエルのところだ!!お前も来い!!」
「ぎ、御意!!」
ヴィンターが慌てて俺の後を追ってきた。一瞬で横に並ばれる。リエナの名誉のために言っておくがこいつの足が遅いわけじゃない。ヒールが邪魔なのだ。
俺はヒールを脱ぎ捨てるとそれをヴィンターに向って放り投げた。
「ひ、ひ、姫殿下ああ!!!!」
「お前!これ絶対なくすなよ!いいか!絶対だぞ!」
リエナの黒いヒールを胸に抱きしめたヴィンターは全身茹だこ状態だ。こいつはきっと俺と同類に違いない。
「なんなら後でお前にだけ特別に見せてやろうか?」
「え?えええええええええ!!そ、それはあああ!!ま、まずいですううう!!」
急にヴィンターの速度が落ち始めた。内股の状態で前屈みになっている。不覚にも姫様のセクハラ発言のせいで奴の36センチ連装砲が最大仰角になったらしい。いきなりこんなところで強敵を失うとは誤算だった。
リエナの白い足が伸びやかに動く。視界に入れると俺まで活動停止しかねない。努めて正面だけを見ることにした。自分の体が既に兵器というのは考え物だ。
ていうか、ホント足なげえな姫。5mは余裕でありそうな花壇を軽々と飛び越え、1m近い高さがある植え込みをハードルのようにあっさりと乗り越える。面白いほどぐんぐんスピードが出る。なんというか、勉強が出来ない分、身体能力でその不足を補っているような気さえする。
もしかして、こいつ俺よりスポーツテストの成績いいんじゃないか……
多感な男の子としてはちょっと複雑な心境だが、リエナの身体はあっという間に中庭を駆け抜けていった。馬車が回転できるように噴水の周りにロータリーが設けられている。そこをやり過ごせば館はもう目前だ。
俺の脳裏には、今にも泣きそうな顔をしたシエルの姿が浮かび上がっていた。
ヴェンツェルの筋書きに乗るのは癪だが、あの不幸な少女のことを見て見ぬふりをするのはもっと気分が悪かった。見過ごせるわけがない。
これ以上、泣かして堪るか!!
「うつけ!!!!」
聞き覚えのある馬鹿の声が館の方からすると思った途端、目の前の扉が荒々しく蹴破られた。
「ちょっ!!」
そこには、常識に囚われない男、グラハム・ヴィッテルスバッハが見事な葦毛の馬に跨って威風堂々と石造りの裏手口に立っていた。
手入れの行き届いた見事な鬣は一目で駿馬と分かる。そして、その名馬に跨る騎上の人の頭についた豪快な寝癖は一目で馬鹿と分かる。
確かに寝るとは言っていたが……マジで今まで寝てたのかよ……
家捜しであれだけ館内が騒がしかったにも関わらず、寝癖が付くほど熟睡出来るその精神力は、ある意味で人類にとって貴重なものかもしれない。
「うつけ!!早く乗れ!!このままではあの娘、本当に死んでしまうぞ!!」
え?乗れって?馬に?俺が?
差し出されている手を前に俺は凝固する。
馬が俺にガンを飛ばしていた。
「何をやっている!!貴様!!さあ!!この手に掴まれ!!」
グラハムの青い目は真剣そのものだった。今までにこんなグラハムを見たことがない。
し、しかし……
あ゛?おれに触ったらしばく、という顔を馬がしている。
冗談抜きでこいつはやばい、と俺の本能が告げていた。鼻息がめちゃくちゃ荒く、おまけに歯を見せて微妙に威嚇している。なに?この危険な生き物。
誰だよ?馬は優しくてかわいい動物だって言ったのは!まるで誰構わず因縁をつけてくる近所のコンビニにたむろしていたDQNとかわんねーじゃねーか!
「どうした!!何を躊躇っている!!おまえらしくないぞ!!ちっ!まったく……しょうがない奴だな……」
と言うなり、グラハムは性根が捻じ曲がっている乗り物からひらりと舞い降りると、いきなりリエナの体を抱っこした。後のお姫様抱っこである。
グラハムはいとも軽々と165cm/[検閲]kgのリエナの体を抱え上げると、そのまま鞍の上に載せる。
「はわわわ……」
視界がすごく高い。振り返るとそこには中庭のパノラマが広がっていた。チャリには乗ったことはあっても、さすがに馬に乗ったことがない俺は、恐怖のあまりグラハムの首に思わず手を回した。
こ、こえええ!!馬こえええ!!
「おいおいどうしたどうした、うつけ。頭でも打って馬の乗り方まで忘れてしまったのか?これではまるでそこらの淑女様みたいにではないか」
グラハムの方がやや呆気にとられている。
だが、そんなの関係ねえ。こっちは命がかかっている。もう形振り構っている状態ではない。遅れて鞍に跨ってきたグラハムに俺は正面から全力で抱きついた。
「お、おいっ!おまえ!何で前を向かんのだ!この乗り方はおかしいだろ!どう考えても!これは!」
がっしりとした背中に腕を回し、両脚を絡めた。足首まであるドレスは完全に捲れ上がって、リエナの黒のフリル付き勝負下着と両の太腿は完全にむき出し状態になる。
俺たちは互いに抱き合った状態で馬上の人となっていた。
どう見ても模範的な”だいしゅきホールド”です。本当にありがとうございました。
「ちょ……もうちょっと離れろ!おまえ!これでは走りにくいではないかっ!!」
いやどす!
ベアハグはますます強くなる。
はっ!そういえば……
時々忘れがちだが、今の俺は圧倒的な戦闘力を誇るリエナのわがままバディだったことを思い出す。自分の胸を乳がん検査するだけで衛星兵が必要になるほどの血を失い、また将来のイケメン、ヴィンター少年に至っては茶目っ気たっぷりの姫トークだけで走行不能に陥いるほど危険な体なのだ。
特大極楽トンボのグラハムが再起不能になるのは基本的に歓迎だが、この一刻を争う時に息が切れるのは非常に困る。だが、俺の懸念は全くの杞憂に終わる。
互いの一部分を除いてほぼ完全密着しているにも関わらず、このイケメンはまったく平然としていた。
なん……だと……
「ふん!まるで借りてきた猫とはこのことだな。ま、たまにはそういうお前も新鮮でいい。ははは!」
恐らくそれなりの経験値を俺や俺の強敵よりも稼いでいそうなイケメンは、右手で手綱を握り、左腕を全く自然にリエナの腰に回した。二つの体は更に密着する。
断っておくが、決して繋がっていないので、俺の頭は全くフットーしそうにはなっていない。
凄いBLを感じる……
今までにない何か複雑なBLを……
腐、なんだろう近付いてきてる確実に……
着実に俺のケツの方に……
だが、中の人が男の女の体が男と抱き合った場合は、ご腐人方の間では一体どう処理されるのだろうか。非常に気になるところだが、俺は知っている。
かつてナポレオン・ボナパルトⅠ世は言った。801の辞書に不可能の二文字はない、と。
「それでシエナ・フローラはどっちだ!!」
「み、右……の方……」
な、なにキョドってんだよ……おれ……
「よし!!右だな!!行くぞ!!マクシマス!!はあっ!!」
勇ましい掛け声と共に俺たちは裏口から正面玄関に抜ける中央廊下を駆け出した。廊下の両側に並べられている白磁の花瓶の一つをいきなり馬が前足で蹴る。
けたたましい音と共に花瓶が倒れて破片が四散し、活けてあった赤い薔薇が俺たちの後ろで舞っている。
二階部分まで吹き抜けの正面大ホールに出たところでグラハムはいきなり手綱を振り絞った。マクシマスが後ろ足立ちになる。けたたましい馬の嘶きがホールに響く替わりに、無数の拍子木をならすような騒がしい音が聞こえてくる。
「な、なんだ?この音は……」
まったく耳慣れない音だ。振り返った途端に、信じられない光景がそこにはあった。100人は余裕で入れる大ホールに芸術のデッサンに使う木製マネキンみたいなのが所狭しと並んでいた。
少なく見積もっても50体はいるだろうか。グラハムほどではないが、どれも平均的な大人の大きさがある。
おまけにその中心には高さ5メートルはあろうかというジャイアント・オークっぽい醜悪な肉塊が立っていた。
「おい……うつけ……お前はいつから魔物をペットにする趣味になったんだ?」
「ちょ……し、知るか!なんなんだ!こいつら!」
い、意味がわかんねえ!!
誰か説明してくれ、この状況。館の中には俺たち二人とDQN馬以外に気配がまったく感じられない。シエルの巻き起こした騒動で大半の人間が外に出払っているとはいえ、召使の一人すら館内にいないというのは明らかにおかしい。そして、大ホールに所狭しと魔物が、まるで降って涌いたようにいるのだ。
「ちっ!お前のペットじゃないとすると……どうやらネルの商売敵が一枚噛んでいるらしいな……」
「ね、ネルって?」
「お前は何を言っているんだ?宮廷魔法使いのネルしかいないだろ?」
ああ、やっぱお抱えの魔法使いみたいなのがいるんだ……
と思っているといきなり最前列にいたマネキンが一斉に俺たちに向って襲い掛かってきた。
「しっかり俺に掴まっていろ!大丈夫!俺を信じろ!決してお前を離したりはしないぞ!」
俺はだいしゅきホールドのままでリエナの体をグラハムに委ねた。こいつはどこまでも無駄にイケメンだった。
「あ、あれ?片手槍がない!くそ!武器を持ってくるのを忘れた!」
バカだけど……
「ええい!ないものはしょうがない!マクシマス!このクソ共を蹴散らせ!」
自分の耳を一瞬疑った。逃げるでも迂回でもなく、魔物の群れの中に単騎で突撃する馬鹿がいるらしい。
「さすがにそれは冗談でしょ?って……」
返事の替わりにグラハムが葦毛の脇腹を蹴る。
マジでしたあ!!
騎兵の醍醐味はその圧倒的な突撃にあるとはいえ、いくらなんでも無謀すぎるだろ。突撃バカが駆るDQN馬はぐんぐん速度を上げていく。
「だ、だから!!な、なんで!!と、突撃!!う、迂回すればいいじゃん!!」
凄い振動だ。舌を噛みそうになる。
「迂回していたら間に合わん!!難しいことは考えるな!!正面突破だ!!」
いや、考えろよ……
もう俺の顔は涙でグシャグシャだ。二度と馬なんかに乗るか!!
対照的にグラハムもマクシマスも全く物怖じする様子がない。ボクッという鈍い音がしたかと思うと先頭の顔無しマネキンを蹴り倒していた。
俺たちはトップスピードで群れの中に飛び込んでいった。
あまりの恐怖のせいで……俺の記憶はここで途切れた……