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猛女リエナの野望  作者: 天羽音彦
第一章
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第四話 鷲と一角獣

クチュクチュ……

クチュクチュ……


「ぺっ」

さて歯磨きも終わったことだし、寝室に向うとするか。この洗面所兼浴室が俺の実家のリビングルームよりも広いことにも、もういちいち驚いたりしない。ゆったりとしたデザインの薄い青色の部屋着を見事に着こなしているし、俺も逞しくなったもんだよ。


ガラス越しに見る外の明るさは夕方の六時くらいなのだが、日が沈むとこの館は一気に深夜ムードになるから困る。もうね、小学校の低学年の子みたいに、かなり早いうちにこの世界の大人はベッドに入っているのだ。


だって照明器具が蝋燭とかランプとか松明とかなんだぜ?一体、どんなキャンプだよ。しかも蝋燭は貴重品らしく、一度、夜更かししたことがあったけど、リューネさんに見つかってメチャクチャ怒られた。何度も同じ事を言わせないで下さい、とか言ってたからきっと姫様もちょくちょく隠れて夜更かししていたんだろうな。でも、俺は初犯なのにチキンフェイスロックを決められたのはちょっと納得できない。


窓から視線を外して洗面所に掛けられている金縁の鏡に視線を戻す。そこにはリエナ・アントーニアの息を呑むほど美しい姿がある。あと2ヶ月で16歳になると聞いているけど、とても俺の1つ下の女の子とは思えないほど既に妖艶な雰囲気が漂っている。


それに引き換え……

やっぱ…… 俺…… 

死んでるよね……


俺は深いため息をついていた。まるでお預けを喰らってシュンとなっているメスアザラシみたいな声が辺りに木霊する。

この世界に迷い込んで既に半月が過ぎていた。


昼間はみっちり授業があるため考える余裕もないが、夜になるとびっくりするくらいやることがなくなる。やることがない上に夜が長いとなると時間を持て余してしまう。就寝前にベッドの中であれこれと考えるようになるのは必然だった。


分からないことだらけのこの世界のこともだが、やはり俺自身のことや両親のことが一番気になった。最初の頃は寝て起きれば元の世界に戻っているかも、とか思っていたのだが、こちらでの生活を続けるうちに少しずつ俺の中で心境の変化が起きていた。

今は元に戻るのが怖い。


だって、あんな大事故のシチュエーションで無事ってことは奇跡でも起こらない限り絶対ありえない。通学路にあるあの坂は俺たちの学校では”地獄坂”と呼ばれている。結構勾配がある長い下り坂だ。ノーブレーキなら時速30kmは下らない。過去にも何度かあの坂道で事故が起こっていた。そこで俺は見通しの悪い脇道から出てきた車と衝突してマウンテンバイクごと吹っ飛んだんだ。

そして……

俺は「無」を味わった。今思い出しても震えるくらい怖かった。生も死もない空間。意識だけがあってそれ以外の存在を一切感じることが出来ない世界。

あの感覚…… マジでこええ……

あれは一体なんなんだろうか。世間一般に流布している”あの世”とは随分かけ離れているじゃないか。とにかく、もう二度と経験したくなかった。


姫様として目覚めたばかりの頃は記憶にも混濁があったし、元いた世界とはあまりにも異なる日常に頭が混乱しっぱなしだった。でも、二週間という時間は自分を見詰め直すには十分だった。

下手に元いた世界に戻るよりも、俺はこの世界で人生をやり直すことを考えたほうがいいんじゃないのか、そう思うようになっている自分がいる。

どうせあっちに戻っても植物人間が関の山だろう。だったら、俺はリエナの体にしがみ付いてむしろ離さない方が得なんじゃないのか。

下手に生き残るとむしろ以前よりも生に対して執着するようになるのかもしれない。だから今は元の世界に戻っている方が怖い。


父さんや母さんには申し訳ないとは思っている。だけど今は贖罪の気持ちよりも圧倒的に恐怖心の方が勝っていた。それが反動となって俺の中では、日を追うごとにリエナ姫として生きようという気持ちがどんどんと強くなっている。

もちろん、悩みがないわけじゃないが、それが今の正直な心境だった。

ほんと情けねえよなあ…… でも……

死ぬより圧倒的にましだ。

「ぼへぇ……」

最近の俺は夜になるとため息しかついていない。広すぎる洗面所にドナドナっぽい牛の鳴き声が反響した。

姫様として生きるのはいいけど……相変わらず酷え声だな……なんとかなんねえかな……

「きゃっ!」

若い女の短い悲鳴に次いで、カラン!と石の床に金属のようなものが落ちる音がした。振り返ると俺のすぐ後ろに専属侍女1号が青ざめた顔をして立っている。おや、視界にも入ろうとしなかったのに随分と珍しいこともあるもんだ。どうやらリエナ姫のワイルドなため息に肝を潰したらしい。すまんな、こんな声で。


珍しさのあまり俺はしげしげと侍女1号の姿を見る。紫色の長い髪をツインテールにしている美人さんで、歳は18くらいかな、姫様とは対照的にものすごく内気そうな顔をしている。綺麗なダークブラウンの瞳は既に涙目。侍女長であるリューネさんの部下の一人だが、今までが今までなだけに俺は未だにこの人の名前すら知らない。

そんなに怖いですか?俺。なんかヘコむわ……

ん?


よく見ると俺と侍女1号の間に抜き身の短剣が転がっている。柄がこちらを向いていたのでジェントルメンな俺はそれをひょいっと拾い上げる。

姫も随分とごつい得物を無駄毛処理に使うんだな……そんなに剛毛でもないのに……

俺が短剣を手にした途端、侍女1号の顔からみるみる血の気が失せていく。もうダメだ…おしまいだ…っていう顔だ。

え?なんでそんなビビってんの?


両手で口を押さえて必死に叫び声を押し殺している。ちょっと尋常じゃない震え方だ。まあ、リエナ姫は凶暴だという話を立ち聞きしたことがあるからな。バカに刃物ってところなのだろうか。

喋っても怖がらせるだけだしな……まいったな……


しかし、俺も拾った手前、受け取ってもらわないと困る。侍女1号の緊張をほぐすために俺はにっこりと満面の笑顔を作ると一歩を踏み出した。すぐ後ろといっても1メートルくらい離れてるし。しかし、それが彼女の限界だった。いきなり侍女1号は俺に背を向けると脱兎の如く逃げ出した。

え? ちょ!おま!


華奢な背中はみるみるうちに小さくなっていく。何なんだよアイツは。人が折角拾ってやったってのに。ったく

しかし……これを一体どうしろと……

俺は後に残された短剣を見た。この姫様専用の無駄毛処理道具はなかなかの名工の手で鍛えられたもののようだ。しかし、刃渡り15センチは逆に剃りにくいのではないか、姫。

まあ、バス・洗面所ごときでこの大きさがだからな。何かにつけて無駄に大きいのは姫様の趣味なのかもな。だがな、姫。おっぱいと道具はでかけりゃいいってもんじゃないんだぜ?


ふと見ると柄の先端にユニコーンっぽい神獣と盾を模ったレリーフが施されている。これは明らかに紋章の類だな。でも、マグナブルク大公家の紋章は王冠を被った鷲だった筈だけどな。

一角獣と盾か……


明日、侍女一号に会った時に返してやるか。いや、まてよ。無駄毛処理用ならここに置いといた方がむしろいいのか。

ちょっと悩んだ末、俺は猫足のバスタブの淵に短剣を置いておくことにした。




翌日、いつも通り夜明けと共にリューネさんに起こされた俺は眠たい目を擦りながら再び洗面所に向う。つか、無駄毛の処理はいつすれば……

「ふぁ!」

そこには短剣の姿も形もなかった。

え?もしかして俺のせい?


帝国紋章学の基礎


紋章とは特定の一家において永続的に継承、使用されるもののことをいい、一代限りあるいは断続的に用いられるものは紋章とは呼ばない。


紋章は、諸邦領主(王あるいは大公)の主権範囲内において同一のものがあってはならなず、期せずして類似の意匠が認められた場合は使用開始の時期が最も古い者に優先の権が与えられる。


紋章に用いられる図案には原則的に優劣はないが、クラウン(王冠)を模した意匠は帝室の血縁者が用いるべきであり、それ以外のものが用いるのは不遜であり、慎むべきである。


帝国筆頭紋章官 ヤコブ・ロッテンシュタイン


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