第三話 血染めの勲功
ぐきっ!右足首に激痛が走る。俺は涙目でその場にしゃがみ込んだ。
「ギギギ……」
俺の苦痛に満ちたうめき声が長い長い回廊に響く。注意しておくが米軍の新型爆弾が投下されたわけではない。思いっきり足を捻ったのだ。
「大丈夫ですか?アントーニア様」
「げぼらぼんべ……」
大丈夫じゃねえよ、という俺の必死の訴えはリューネさんに軽くスルーされる。すでに俺の両足首は機能していない。
「さ、急ぎましょう。殿下が首を長くしてお待ちですよ」
いや歩けねえんだってばよ……マジで……
ほとんどおんぶの状態でリューネさんはリエナの体を、殿下が首を伸ばして待っているという大食堂へと引き摺っていく。切羽詰るとわりとこの人は強引だった。リューネさんは本当に生真面目で几帳面なんだよね。たぶん、殿下を待たせていることが気が気ではないのだろう。
この体の本来の持ち主であるリエナ・アントーニア姫は足が二本しかないくせに百足以上も靴を持っている。しかもほぼすべてがピンヒールのような異常に不安定な靴しかない。スニーカーとかミュールとかパンプスとか色々あってもよさそうなものだが、ガチでハイヒールしか持っていない。数が豊富なわりにある意味で選択肢が非常に貧弱だ。
そのお蔭で俺は三歩あるくごとに一回足を捻るという苦痛を味わされていた。もうこれはほとんど拷問に近い。
リエナの体が少しずつ俺に馴染んでいくような…… あ、何か言い方がエロイっすね。表現を変えよう。彼女の肉体をコントロールするのはまだ非常に難しいのだ。裸足になると幾分かマシなのだが、その時ですら高下駄を履いたような不安定さを感じるのに、ヒールを履いてしゃなりしゃなりなんて優雅に歩けるわけがない。
いっそのこと、四足歩行に切り替えたいくらいだが、さすがに音に聞こえし"マグナブクルの猛女"と言えども、そんな野生的なウォーキングを公衆の面前にさらしてしまうと、この体の本当の持ち主が社会的に死亡してしまう。ていうかその前に俺がリューネさんにまたお仕置きされてしまう。
”また”というのは、昨日もやはり同じ様な状況だったのだが、12回ほど足を捻ったところで俺はつい頭に来てしまい、真っ赤なヒールを脱ぎ捨てると窓の外に向って放り投げて裸足になったのだ。その瞬間、その場に居合わせた召使達の間に戦慄が走った。
あ、あれ……?
慌てて後ろを振り返るとリューネさんが顔面蒼白状態で立ち尽くし、俺をシカトしまくっている残りの侍女二人に至ってはまるで森の中で魔物と鉢合わせたかのように抱き合ってガタガタと体を震わせる有様だった。腹が減ってついカッとなってやったことだが、俺が物凄い事をやらかしてしまったことはその様子から推して余りある。
後から知ったのだが、この世界では淑女は公衆の面前で生足を晒してはいけないそうだ。生足を見せることは自分の裸を見せることに等しいらしい。
えー!知らなかったよそんなの!
もちろん、俺の必死の弁明は牝馬のいななきにしかならかった。
けっきょく、俺はリューネさんからたっぷり1時間ほど説教をくらった挙げ句、件のヒールを履かされて校庭ならぬ中庭30周を命じられた。正直あれは地獄だった。
何故、ここまでリューネさんがキレたかのかというと、何を隠そう、リエナ・アントーニアの礼作法の教授の名はリューネ・エニグマ、他ならぬリューネさんその人だからである。
どうやら、さすがのマグナブルクの猛女もリューネさんには全く頭が上がらないらしい。だってこの人だけがリエナに対して物怖じしないんだもん。
しかし、俺が上手く歩けないということには理解を示してくれた。だから今日は肩を貸してくれているというわけだ。俺の脇腹辺りにリューネさんの胸が当る。リエナよりも大きい。ぐへへ。
ぐしゃ!
「ぎゃおん!!」
何の前触れもなく俺の爪先に激痛が走る。リューネさんがヒールの踵で踏みつけていた。
「アントーニア様!余所見をしないでちゃんと前を見て!歩くことに集中してくださいな!はしたないですよ!」
正直すまんかった……
尻を鞭で打たれたフタコブラクダのような俺の悲鳴は幾重にも回廊の中を反響するのだった。
自分の部屋から軽く300メートル歩いてようやく大食堂につく。入り口の両サイドを固めていた二人の屈強な衛士が俺とリューネさんのために重厚な扉を押し開く。
「おお!!姫!!待ちかねたぞ!!」
姫ご一行様が到着するやいなや、大音声が鳴り響く。皇弟にて帝国随一の大貴族、そしてリエナの父親であるマグナブルク選帝侯オットー三世は巨躯を揺らしながら愛娘を迎える。
肩まである髪の色はダークブラウンで、カイゼル髭っていうの?とにかく手入れの行き届いた立派な口ひげを蓄えたピザ紳士だ。ん?昨日は気が付かなかったんだが、オッサンは緑色っぽい瞳の色をしているんだな。ということはリエナは母親似ってことか。
なんか、すごい納得するわっていうか……
近っ!!ああ、もうこいつ抱きついて押し倒しかねない勢いだよ。こいつのパーソナルディスタンス異常すぎね?つか、どさくさにまぎれてパイタッチするのは止めろ、クソ親父。
「うんうん! 今日も一段と美しいではないか!」
ぶちゅう!
「ぎょぼっ!!」
脂ぎった中年の顔が近付いてきたかと思うと、いきなり右の頬にたらこ唇がタコの吸盤のように吸い付いてきた。
「うーん……甘いいい香りだあ……今日の香水は何かな?」
き、きめええええ!!な、なんなんだこいつ!!家臣や侍女さんたち全員どん引きしてるじゃねえかよ!!
全身に鳥肌が立つ。朝から俺のSAN値はガリガリと削り取られていく。
「どうしたのだ?姫?顔色が悪いようだが?」
全部てめえのせいだろうが……
俺がおっさんにガンを飛ばしているとリューネさんが小さく咳払いをする。いや、俺ぜんぜん悪くないし。
っていうか、なんなの?さっきから。食堂の空気が微妙なんですけど。俺と殿下を遠巻きに囲んでいる召使達の列からヒソヒソ声が洩れ始める。あーこのパターン俺知ってるわ。
教室とかで誰かが空気読んでない時のあの感じにそっくりだ。で?誰だよ。空気読めてねえのは。
「お、おほん!で、では、リエナ……余にも挨拶をしてくれんかね?」
咳払いの後、殿下が遠慮がちに俺に向って愛想笑いをする。
は?こいつなに言ってんだ?んなもんするわけねーし!さっさと飯食って悪竜とやらのことを調べた方がここにいるより何倍も有意義だし。
さっと殿下を無視して席に付こうとする俺の肘をいきなりリューネさんが掴む。
「姫……どうぞ殿下にご答礼を……」
はああ!何言ってんのおまえ!バカなの?死ぬの?
ちらっとリエナの親父の方を見る。飼い主を見て千切れるくらい尻尾を振る子犬のような目で今か今かと娘からの挨拶とやらをハアハアしながら待っている。
それ見ろ!おまえがそんな事言うからすっげー期待しちゃってるじゃねーか!したいならお前が替わりにしろよ!
尚も無視して席に付こうとする俺だったが、ぞくっとするような殺気を後ろから感じる。
「姫……」
肘を掴むリューネさんの手に更に力が篭っていた。正直、めちゃくちゃ痛い。間違いなく殺気はこの人から発せられているものだ。いやいや、だからあんたね、そんな凄まれても困るわけですよ。だって……
いま、中の人は男なんだよ!!
なにがうれしくて男同士、しかも四十過ぎのおっさんに俺がキスせにゃならんのだ。
は!も、もしかして……リューネさん……腐じょ……
「ヴぇぼんぼ!!」
今度は尻を思いっきりつねられた。リューネさんは俺の隣にならぶとボソボソと耳打ちを始める。
「よろしいですか……アントーニア様……ご挨拶を受けたら必ず答礼するのが作法でございます……挨拶もせずに素通りなさるなどもっての他……私にこれ以上の恥をかかせないでください……それとも後で私のきつい罰を受けたいとでも?」
俺は首をブンブンと横に振る。それはそれで激しくお断りしたい。
「では…… 先日教えた通りに……」
いや、先日って……それを習ったのは姫様本人であって俺じゃないけど……答礼っていうからには同じ様なことをしなきゃならんわけで……ああ……なんて不幸なんだ…… 前門の殿下、後門のリューネさんとは……
だめもとで姫様の脳を使って”先日習ったこと”を思い出そうとするが、全然何も浮かんできやがらねえ。
だめだこれ……腐ってやがる……
どの道、結果は同じってことだ。うん。さめざめと涙がこぼれる。だが、俺も男だ。覚悟を決めようじゃないか。
俺は美少女でしかもお姫様になったからといって調子に乗りすぎていたのかもしれない。昨夜は自重して、両方の胸を揉むにとどめておいたのだが、はやり奢れるものは久しからずということなのか。だから天罰が下されてしまったのだ。
俺はくるっと殿下に向き直り、そして両方の肩にしなやかに手を置いた。
「ん?」
殿下を含めてその場にいた全員が呆気に取られたような顔をしている。実に面倒臭い連中だ。挨拶を受けたら答礼しろっていうからそうするんじゃねえか。
特に……てめえだよ……
なにきょとんとしてんだよ変態オヤジ。これはてめえが望んだことだろうがよ。娘にこんなことを強要するなんてとんでもないクズだぜ。
俺は瞑目する。そして、呼吸を整える。
「うりゃあああ!!」
ぶちゅー!!
俺は殿下に抱きつくと思いっきり右の頬っぺたに吸い付く。
「ふ、ふぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
歓喜の雄叫びを上げたかと思うと、殿下はいきなり鼻血を噴出してその場に崩れ落ちていった。おびただしい血の量だ。
「ふぁ!?」
おいおい…… おっさんマジかよ……
まあ気持ちは分からんでもない。この姫様のわがままバディの戦闘力は高すぎるからな。俺も昨日はほぼ逝きかけましたよ。
しかし、ちょっと血出過ぎじゃね?俺のピンクのドレスは真紅に染まり、大理石の床は血に濡れていた。俺は視線を足元に落とす。当の殿下はといえば興奮のあまり白目を剥いて血溜まりの中でビクンビクンしている。
これはもうだめかもわからんね……
「で、殿下!!」
「大公様!!お気を確かに!!だ、誰か!!誰か典医を!!」
大食堂はもう阿鼻叫喚の大パニックに陥っていた。
さっきから腹がぐうぐう鳴ってるし、おっさんの方はとりあえず放って置いて何か食べたい。正直、空腹には勝てない。俺の隣で青ざめているリューネさんの肩を指で突いた。何故か凄く睨まれる。
首を傾げつつも俺は口を開けて指で食事のゼスチャーをしてみせる。それをみた途端、リューネさんの眉毛がどんどん釣りあがっていく。
え!ちょ!ちょっと!リューネさんなんで怒ってんの?ちゃんとお返ししたじゃん!俺!
「それどころではありませんわ!!姫様!!今日から地獄の特訓です!!どうかお覚悟を!!」
「ふぁ!?」
ていうか、いきなり俺の手を取るとリューネさんは問答無用でアームロックの体勢に入った。
「もう私は呆れました!!絶対に作法を覚えるまで許しませんからね!!分かりましたか!?」
いけない!!それ以上いけない!!リューネさん!!
「ぎぇいいい!!げぶ!!げぶ!!」
トリケラトプス(♀)のような不気味な叫びが50人収容の大食堂で鳴り響く。
マグナブルク大公国の領主とその娘は二人揃って今、とんでもない目に遭っていた。
さて、この話には後日譚がある。
殿下がこのリエナの居館から運び出されて約2週間後、首府の殿下より勅書が俺たちの元に届けられた。
どんな厳罰が下るのかと俺もリューネさんも内心ガクブルだったのだが、勅書の内容は俺たちの予想の遥か斜め上を行く内容だった。
「汝、リエナ・アントーニア・マグナブルクにヴェンデンの地を与え、ヴェンデン伯爵夫人の称号を与える」
この時、俺は確信した。
このおっさんはアカンと。
マグナブルク年代記は記す
神聖紀1528年6月
大公オットー三世の第二内親王アントーニアは、大公を卒倒させるほどの感銘を与え、その功によりヴェンデン伯号を相続した。(記録官:ヨハン・モンデュエル)