第九話 猛女見参:後編
人馬一体。その言葉は、今まさに彼のためにあった。
親兄弟のみならず、寄り子たちからも軽んじられて育ったヴィッテルスバッハ家の三男坊、ヨハン・グラハムにとって、友と呼び、そして心を許せる相手があったとすれば、それは唯一、彼の愛馬マクシマスをおいて他にはなかった。
幼い頃から孤独であった彼の傍らにいたのは馬だけだったのだ。
グラハム少年は毎日のように馬と語らい、そして彼らと共に風を感じて育ってきた。
まさしく竹馬の友であった。
そして、孤独な少年の馬術の腕はいつしか橋の代りに川にかかる大人一人がやっと渡れる大きさの丸太を乗馬のままで駆け抜ける、という離れ業をもたやすくやってのけるほどになっていた。
そんなヨハン・グラハムの姿を見て父レオポルトは大いに感心したが、同時に悲哀に満ちた表情を浮かべるのが常であった。首府の近くにある800世帯程度の小さな騎士領しかないヴィッテルスバッハ家が少年に与えられるものはほとんどなかったからだ。
「あやつが日の目を見ることはおそらくあるまいよ。だが、まっすぐに忠義に生きて欲しいものだ。畏くも大公家より直参騎士(※ 旗本に相当)に列せられた我が家の家名に恥じぬようにな……」
父レオポルト・ヴィッテルスバッハのこの願いは、今、このヴァーリーリエの地で結実しようとしていた。
「トウ!トウ!はっ!」
掛け声一番、ヨハン・グラハムは彼の愛馬とまさに一体となって中空を舞っていた。着地と同時に素早く体勢を立て直し、再び大人の背丈ほどある木人形たちの間を右手一本のみの手綱さばきで巧みに縫っていく。
まるで無人の野を行くが如きその疾風に追いすがる者はいなかった。
「おい!うつけ!どうした!しっかりしろ!」
彼は自分の胸の中でぐったりとしている白顔の美女を見る。リエナ・アントーニアの真紅の瞳は硬く瞼で閉ざされ、涙で両の頬が濡れていた。鞍の前方に木人形の頭部の半分が引っかかっており、もう半分はリエナ・アントーニアの顔面に張り付いていた。
両の手を使わずとも巧みに馬を御するほどの馬術の名手は無造作に木片を少女の顔から引き剥がす。
美女と手綱で両手が塞がっているグラハムは額の汗を拭うことも出来ず、ひたすら彼の愛馬を励ましながら木人形の間を掻い潜る。
「まさかおまえ……頭にこいつを食らって気絶しやがったのか……道理でさっきからやけに静かで気色悪いと思っていたところだ。どこまでも手間がかかるやつだな……おい!起きろ!寝るな!おい!」
忌々しく言うとヨハン・グラハムはリエナの体を支えている自分の左腕を盛んに揺らした。
「う、うーん……」
僅かにリエナの眉間に皺が僅かによる。
「お!聞こえるか!うつけ!貴様がこんな様では、あのデカぶつに近づけん!」
事実、彼は大ホールの中央部に陣取るジャイアント・オークの手前を距離を取りながら右に左にマクシマスを走らせていた。
ハッとリエナがグラハムの腕の中で目を覚ます。
「あ、あれ? こ、ここはどこ? わ、わたし……」
「やっと起きたか……うつけ姫」
グラハムはため息交じりに、何度も目をパチパチと瞬きさせながら不思議そうに辺りを見回すリエナを見る。
「!?」
リエナの瞳が金色に光っている。普段とはまったく異なる瞳の色にグラハムは困惑の表情を浮かべたが、生来が細かいことを気にしない天真爛漫な性格の彼のことだ。すぐに普段どおりの彼に戻った。
自分を見下ろすグラハムの視線とカチッと眼が合うとリエナは目をひときわ大きくした。
「ヨ、ヨハン!!ど、どうして貴方がここに!?って……」
まったく剥き出しになっている自分の下半身に気が付いたリエナは顔を真っ赤にする。馬上で正面から抱き合った状態であることに少なからず混乱していた。
「やっと目覚めたと思ったら今度はお惚けか?そんなことより早くシエル・ヴェンデンのところに行かなければならんのにこんな状況ではな」
「シエル?もしかしてあの侍女のこと?」
リエナは鞍馬の体操選手のように鞍の前にあるグリップに手をかけると、両足をマクシマスの横に出してひらりと正面に向き直った。
「そうだ。やつはヴェンデンの宝刀を俺から盗み出した挙句に、大立ち回りをこの館で演じて今、本人は尖閣の上だ。放っておくと足を滑らせてしまう。いつまでも女が立っていられるような場所ではないからな」
「ふうん、なるほどね。どうりで侍女にしてはおかしいと思っていたわ。リューネに聞いても何もいってくれないし……そうか、ヴェンデン伯の身内だったのか……やってくれたわね……」
グラハムからは華奢な背中しか見えなかったが、何故かリエナが眉間に深い皺を刻んでいる表情をしていることが分かった。
「で?この魔物みたいな奴らは何なの?」
「知らん。さっきも言ったがネルの同業者が一枚噛んでいるとしか思えん。でなければこんな場所にいきなり前触れもなく現れんだろう。少なくとも俺がお前を迎えに行くためにマクシマスとここを通った時にはいなかった」
「はあ……貴方って相変わらず常識が通用しないのね……城の中を馬で走るなんて発想が出来るのって、この地上で貴方だけだと思うわ、ヨハン……」
「ふん!褒められたと思っておこう!」
「何とでもいいなさい。右から来るわよ!」
「言われずとも分かっている!はっ!」
手綱を振り絞り、あえて馬首を右に向ける。マクシマスの前脚が勢いよく彼らの正面に立ちはだかった木人形をけり倒していた。
「それにしてもこいつらは一体なんなんだ……あまりにも脆すぎるぞ」
ヨハン・グラハムは後ろを振り返って呆れたようにつぶやく。
あるものはマクシマスの前脚でけり倒され、またあるものは鉄製の鐙と接触して引き倒される。木人形たちはいとも簡単に転倒し、倒れたものが更にそのすぐ後ろにいた別の一体に倒れ掛かって将棋倒しが至るところで発生した。
通るものを打倒するにはあまりにも脆弱に過ぎたが、かえってその呆気なさこそが相手の目的のように感じられた。進路を妨害して足止めする程度であれば、その効果は十分に果たされていた。
誰が?何のために?
疑問は尽きなかった。
転倒した木人形たちはかなり時間がかかったが、やがてゆっくりと立ち上がると再び彼らに向かってくる。転倒した際に腕や足などが折れて部位損傷を起こした個体もそれは同様だったが、唯一の例外は頭部を失ったものだった。
見上げるばかりの大きさがあるジャイアント・オークの背後に尖閣に入る木製の扉が見えていた。しかし、木人形の林の真っ只中でそれはどんどん彼らから遠ざかっていくような錯覚さえ感じていた。
「くそっ!これではきりがないぞ!」
「ねえ、ヨハン。このまま真っ直ぐ突っ込めるかしら?」
「なにっ!」
リエナが指差す方向には岩石の棍棒を構えたジャイアント・オークが仁王立ちしていた。
「大丈夫!二、三周あのでくの坊の周りを回ってくれるだけでいいの」
「正気か?うつけ。如何にマクシマスが俊足とはいえ二人乗りの状態では厳しいぞ。まして鬱陶しいマリオネットどもがウジャウジャしているんだぞ?もし、万が一にこいつらにマクシマスの足を止められたら……」
グラハムは怪訝な顔つきで、目を合わせてきたリエナの金色の瞳を見た。こうしている間にも手綱を握る彼の手はまるで別人のものように巧みにマクシマスを導いている。
やがて彼はふっと口元に不敵な笑みを浮かべると、お前には適わないとばかりに大げさに肩をすくめて見せた。いきなり馬首を返すとまっすぐにジャイアント・オークの方に向かって駆け出す。
「よかろう!ちょうどマリオネットの相手にも飽きてきたところだ!しっかり掴まっていろ!行け!マクシマス!この無茶な姫君にお前の早さを見せつけてやれ!」
返事の替わりにマクシマスはスピードをぐんぐん上げる。もう二人の目前に青白い肉塊が迫っていた。
ジャイアント・オークが不気味な雄たけびを上げて棍棒を振り上げる。
「来るぞ!頭を伏せろ!」
「え?うぶっ!」
グラハムは振り返ろうとするリエナの頭を掴んでいきなりマクシマスの首に押し付けた。うなり声を上げながら巨大な岩石が真横に走る。
「今だ!!マクシマス!!しゃがめ!!」
リエナに覆いかぶさるようにグラハムも体をすくめると、それに合わせてマクシマスも四肢を折って首を下げる。彼の愛馬は床の上を膝でスライディングしながら紙一重でジャイアント・オークの一撃を交わし、そのまま股の間を潜り抜けていた。
メキ!メキ!メキ!という音と共に周囲にいた木人形たちが薙ぎ払われ、粉々に砕け散りながら中空を舞った。
ジャイアント・オークの背後に出るとマクシマスはすぐに立ち上がり、再び駆け出し始める。
獲物を見失って盛んに左右に首を振っていたジャイアント・オークは馬影を見つけるや否やリエナめがけて棍棒を振り下ろしてきた。
どっごおん!轟音と共にたちまち辺りが土煙に覆われる。
さっきまでいた床には直径3mはあろうかという巨大な穴が開いていた。
爆風にも似たジャイアント・オークの一撃のせいで味方のマネキンの多くが吹き飛び、直撃を受けたものは原形を留めないほど粉々になっていた。敵と味方の区別がまるでジャイアント・オークには付いていないようだった。
「ふう!あっぶねえ……間一髪ってやつか。思った以上の馬鹿力だな」
グラハムが額の汗を拭って見せる。全てが紙一重、まるで薄氷の上を行くようなぎりぎりの状態が続いた。群を抜くマクシマスの俊足のお蔭でどうにかなってはいるが、さすがのグラハムも並みの馬で今の状況を作り出す自信がまったくなかった。
息をつく間もなく、ジャイアント・オークが再び岩の棍棒を天高く振り上げていた。
「ヨハン!次が来る!」
「分かってる!うつけ!そんなことより振り落とされるな!」
グラハムは馬首を返すとジャイアント・オークが振り下ろす強烈な一撃をまたスレスレのところでかわす。
「おい!いつまで続けるつもりなんだ!」
「もう十分よ。見て御覧なさい」
土埃がもうもうと立つ中をリエナが指差す。ジャイアント・オークの周囲には逃げ遅れた木人形の残骸が積み上がっていた。ほとんどが粉々の木片に帰していた。
「なるほど……そういうことだったのか……あの化け物に始末させれば妨害されずに済むというわけだ」
「なによ、その今分かったみたいな口ぶり」
「いや、お前が言っていた事の意味が今ようやく分かった」
「は、はあ!?貴方バカなんじゃないの!?意味も分からないのに私が言う通りにジャイアント・オークに突っ込んでいったっていうの!?」
「そうだ(キリッ」
リエナは半ば呆れたような顔で埃に塗れた三男坊の顔を見る。
「さすがは向こう見ずの馬きちがいと言われるだけのことはあるわね。貴方はいつでもそう。他人の言うことの裏を見ようともしないで、いつも人間の善意だけを無条件に信じようとする。そのせいで貴方は騙されてきたというのに……」
均整のとれた彼の顔から僅かに血が流れていた。どうやら木片の飛まつを浴びて頬骨の辺りを浅く切ったらしい。リエナはその傷にそっと細い指を押し当てると流れる血を拭った。
「ああ……おかげで親父からは勘当寸前だ……それに、いつの間にか借金も300ターナー(600万円相当)まで膨れ上がってしまった……だが」
自分の傷口に添えられたリエナの白い手をグラハムが掴む。
「だが、お前だけは僕の信頼を裏切ったことはなかった。今までも、そして、これからもだ。僕が疑問を持つ理由などない」
「ちょ、ちょっと!な、なにいってん……のよ……」
顔を朱に染めたリエナが真顔のグラハムの視線から逃れようとして身をよじると、いきなり彼女の視界に深い紫のローブに身をまとった少女の姿が入ってきた。馬上の二人のやり取りに鋭い視線を送っている。
「ね、ネル!!あ、貴女までどうしてここに!!」
「偉大なる大魔導師アル・フトレ(※ 死ぬまでDTだった)はかつて言った。いちゃこらカポーには死を……リア充には滅びの制裁を……引用以上。私も実に同感だ。てめえらの腐れ脳みその中身は何色だ?」
つばの広いとんがり帽子を深く被った少女は、いかにも魔法使いが持っていそうな杖を持っていたが、自分の背丈の倍以上あるせいか、杖というよりは釣竿を持っているように錯覚する。
恐らくそれはマグナブルク大公国の主席宮廷魔法使いであるネルの身体的な特徴によるところが大きかった。
今年16歳になるリエナよりもネルは2つ下の14歳だったが、他の同じ年頃の子供と比べて明らかに背が低く、酒場に入っても主からオーダーすら聞かれることなく自動的にホットミルクを前に出されるほど、理想的な幼児体型だった。
また、胸元がふくよかな女性が多いヴェストリアにおいてネルは胸囲的な格差社会に悩まされてもいた。
「しかし、ナイトハルト卿が連絡飛竜を飛ばしたのは今日の夜明けの筈だが……おまえ首府からどうやって来たんだ?馬に乗れないだろ(小さすぎて)」
「途中、幸運の竜フ○ルコンをチャーターしたから問題ない」
「おいそれは止めろ!危険すぎるだろ!いろいろな意味で!」
「あの犬みたいな顔のクソ竜、行きたい場所につれてってやるとか自分からシャシャってきたくせに目的地が10gal(※30キロに相当)先だと言ったら近すぎるとか、いったいどんな乗車拒否だよと小一時間言い合いになった。けっきょく、この星を逆周りに一周したらお互いちょうどいいって話になって、さっき到着したところだ」
「わかった……もういい……」
グラハムは考えることを放棄する。そんな馬きちがいを尻目にネルはリエナの方に向き直る。
「あ、ここまでの運賃2.5ターナー(※5万円)は経費で落ちるよね?」
「ま、なにい!!竜の癖に金取るのかよ!?」
心底驚くグラハムを押しのける様にして、ネルは小さく丸められた巻き物をリエナの方に見せた。
「う、うん……多分……じゃあ私からあとでリューネに話しておこうか?」
リエナは遠慮がちに答えた。
「頼む。あの侍女長ちょっと苦手でな……アイアンクローされた時はガチ泣きしたぞ……あ、これ領収書だから」
大ホールには数体の木人形とジャイアント・オークを残すのみだった。領収書らしき羊皮紙をリエナに渡し終えるとネルは小さくため息を一つつく。
「やれやれ……どこの誰かは知らないが、この館の結界はあとで全部張り替えないといけなくなった……まったく無駄な仕事を増やしてくれる……顧問契約だからサビ残になってしまうじゃないか……」
ネルは先端にマデライトの結晶が付いている杖をゆっくりと構える。その途端、ジャイアント・オークの足元が青白く輝き、無数の強い光の線が石の床の上を縦横無尽に走り始めた。
「あ、あれは……まさか……」
グラハムとリエナが呆気に取られる。巨大な魔方陣がゆっくりと浮かび上がっていた。
「そう、召喚魔法陣の一種……あのがさつで凶暴なオークがさっきからずっと同じ場所に留まっているのを見て不審に思っていた。人間の臭いを嗅ぐだけで涎をたらして追いかけてくるようなフ○ック野郎がどうしておとなしくしているのかと、ね。どうやらこの術者はオークを完全召喚できるほどの魔力がないらしい。その証拠に奴の足元を見てみろ」
ネルに促されてリエナとグラハムが目を凝らすと、魔法陣の範囲内だけ石床ではなく、草むらになっている。
「こ、これは!?」
グラハムが驚きの声を上げる。
「そうだ。オークの動きに気を取られていて気が付かなかったのかもしれないが、あの魔法陣は局所的に場所だけを入れ替える召喚陣なんだ。本物の魔物を召喚するほど魔力を使わない替わりに召喚物は魔法陣の発する魔力の効果がある範囲内でしか行動できない。まあざっと三等導師の仕事といったところか。恐らく、殺れたらラッキーくらいで、基本的には足止めを狙っていたのだろう」
淡々と話すネルの言葉を聞いていたリエナは僅かに唇を噛む。
「そうだ!こうしてはおれぬ!早くヴェンデンの娘のところに行かねば!」
グラハムは馬首を返す。
「ネル!ここお願い!少しでも時間稼ぎをして!」
「時間稼ぎね……引き受けよう……だが……」
ネルはゆっくりと振り返ってリエナとグラハムの方を見た。
「別にあれを倒してしまっても構わんのだろう?(ニヤッ」
「え……う、うん……」
リエナの顔が僅かにこわばる。
「すまんがここは頼んだぞ!ネル!行くぞ!ハッ!」
リエナとグラハムはマクシマスに乗ったまま右の尖閣に続く長い螺旋階段を駆け上っていった。
二人を見送った後、ネルは魔法陣の中で雄叫びを上げているジャイアント・オークの方を向くと、今度はひと際大きなため息をついた。
「はあ……リエナが目覚めてしまったのは誤算だったな……あの様子だとまだ例の魂はリエナの体をものに出来ていないらしい……まったく、半月もあったのに何をやっていたんだ……」
外山ショウ……