プロローグ
「うぜえんだよ!!このクソ親父!!」
俺は目の前にどかっと座っている父親に向ってA4サイズの封筒を投げ付けていた。白いカーペットが敷かれた床に分厚い冊子が乱雑に散らばる。
「俺が音大に行ったって、別にあんたに迷惑がかかるわけじゃないだろ」
声が少し掠れていた。喉が痛くなるほど叫んだのは一体どれくらいぶりだろうか。父親は返事の替わりに大袈裟にため息を一つ付く。
なんだよその態度は。またじわじわと頭に血が上り始める。
相談がある。先にそう言い出したのはあんたの方じゃないか。なのに俺の希望を深く聞こうともしないあんたは一体何様のつもりなんだ。俺ももう高二だ。自分のことは自分で決められるんだ。第一、俺はあんたの操り人形じゃない。もういい加減にしてくれ。
「だいたい……」
「迷惑をかけるとか掛けないとか、そういう問題じゃない。お前もいちいち突っかからないで少しは落ち着いたらどうなんだ?」
俺の言葉は父親に遮られていた。いや、落ち着いて人の話を聞かなきゃならんのはテメエの方だろ、クソ親父。胸の中で毒づく。
「それはこっちの台詞だろ。だったら俺の話も少しは聞いてくれたって……」
「もうお前の話は十分聞いた」
「は?」
なんだろうこの上から目線。マジでムカつく。偉そうに腕組みなんかしやがって。居間には肩を怒らせた俺の荒々しい息遣いだけが響いている。父親はそんな俺をじっと見つめたまま眉毛一つ動かさない。
この人はいつもそうだ。人の頭を無理やり押さえつけて自分の意見ばかりを押し付ける。俺がガキの頃からそれはずっと変わっていない。そしてそれは高校の進路調査を話し合う歳になってもだ。
これからもずっとこの人は俺の父親として君臨し続けるに違いない。俺がそれを壊さない限りずっとだ。
「わしが聞きたいのは音大とやらに行った後の将来の展望をどう考えているのか、ということなんだが……」
「だから!さっきからそれは何度も説明しただろ!」
「説明?一体何をだ?」
「何をって……聞いてなかったのかよ!!だから!例えば自分で作った曲を売って……」
「だから!それは片手間にどうにでもなる話だと言ってるんだ!バカモノ!」
「なんねーよ!!ふざけんなよ!!」
長く、そして大きなため息が洩れる。これだ。いつもこの平行線が続いて決してお互いが交わることがない。うんざりしているのは俺のほうだ。下ろしかけていた腰を再び浮かせる。そして、俺の正面に立ちはだかる障害物でしかない人間を睨み付けた。
「まったく……いい歳してふざけてるのはどっちなんだ……それが17歳にもなった奴の考えることなのかね……」
ぶん殴りたい。初めてそう思った。
今まで俺は黙ってこの人のいうことに従って来た。夏期講習に行けといわれれば素直に行った。スイミングスクールに通えと言われればそうしてきたし、どっかの学校教師が趣味でやってる登山クラブにも参加した。
俺が興味を持ち始めた音楽だってその一つだ。三軒隣に住む顔馴染みの家族の一人娘が音大に通っていたのがそもそものきっかけだった。頼みもしないのに両親の方から五歳児だった俺にピアノの家庭教師を勧めてきた。俺から頼んでそうしたわけじゃない。全部だ。全部、あんたらから一方的に与えてきたんじゃないか。俺はちゃんとそれに従って来たにすぎない。
その一つがたまたま俺の波長にあっただけじゃないか。与えておいて今更それを否定するとか、意味が全くわかんねえ。一体何の文句があるっていうんだ。
「いいかショウ。そんなものは所詮は趣味の領域の話であってだな、将来展望とは言わないんだ。将来展望というものはまずどうやって自分の身を立てるのか、ということなんだ」
うっせーよ……
「曲を作って動画サイトにアップして自作CDを売ってどうこうとか……ネットで生ライブを配信するとか……そんな雲を掴むような話など聞きたくもない」
それ見ろ。あんたは自分とは違う意見をことごとく否定したいだけだろ。けっきょく、自分と同じ価値観を俺に一方的に押し付けることしか考えていない癖に何言ってやがるんだ。
確かに旧帝大を出て総合商社に勤めているあんたは立派だ。年収なんかも3千万を余裕で超えてるんだろう。いい暮らしをさせてもらっていることには一応感謝はしている。防音完備の自室にグランドピアノが一台置いてあって、下手なスタジオよりもよっぽどいい環境に囲まれている。他の同級生と比べても自分が恵まれていることはよく分かっている。分かりすぎるほどに。だけど…
だからといってこれから先の俺の生き方にいちいち干渉する資格があるのか?
「ふざけてるのは……」
「なんだ?聞こえんぞ?何かいいたいことが他にあるのか?」
拳を握り締める。痛いほど。
「ふざけてるのはテメエの方だろが!!このクソジジイ!!」
そこから先のことはほとんど覚えていない。家を飛び出した俺は気が付けばマウンテンバイクに跨っていた。右手がやけに熱い。足がガクガク震えていた。
逃げてるのか?俺…
何故逃げる必要があるんだ……いや、そもそも……
俺は一体いま、何から逃げているんだ。
親から与えられた部屋に住み、与えられたマウンテンバイクに乗り、毎日をのうのうと送る。そんな自分がどこまでも惨めだった。
それを誤魔化すために俺は今、夢中になってペダルを踏み続けている。どこに向うともなく、ただ何も持たずに走っているだけだった。見慣れた街並みがどんどん後ろに流れていく。
通学路の途中にある長い下り坂に差し掛かっていた。猛スピードで駆け下る。怖いとは思わなかった。ペダルがどんどん軽くなっていく。今までに感じたことのない強い風が体全体を包む。
何やってんだ…… 俺……
ふっと我に帰ったその時だった。狭まっていく視界の隅から不意に黒い影が現れる。
え……
それが車だと気付くのに一秒とかからなかった。どーんという強い衝撃が俺を襲ったかと思うと、次に見えたものは真っ青な空と白い雲だった。
普段と違うのはそれが何倍も近くに見えるということだ。
ブレーキをかけたのか、それすらも分からない。今までに味わったことのない奇妙な味が急に口の中にじわじわと広がり始め、それがなんなのか、悩む間もなく、今度は全てが真っ暗になった。
やけに体が軽い。いや、まるでそこら辺の空気と混ざり合ったように感覚が全くない。そこは光一つない、真っ暗闇だった。辺りを見回す、といっても感覚が何もないので、どこまでが自分でどこまでが暗闇なのか、まったく判然としない。一体この闇というか、空間はどこまで続いているのだろう。
おいおい…… うそだろ…… 冗談じゃねえぞ!! 誰か!! 誰かいないのかよ!!
俺の叫びは音にすらなっていないみたいだった。ここには何もない。自分自身という存在さえもここにあるのかどうか疑わしい。完全な闇と静寂が横たわるだけの空間のなかに俺はただそこにいるだけだった。
ふざけんなよ!! おい!! 訳わかんねーよ!! ありえねえよ!!
今、俺は無様に泣いて叫んでいる、筈だった。だが、何も感じることが出来ない。
なんだこれ…… まさか…… 俺…… 死……
浮かんできた言葉を慌てて振り払う。絶対にありえない。それだけは。
寒くもなくて温かくもない。立っているのか、寝ているのか、あるいはぷかぷかと漂っているのか。まるで分からない。
いや、まじでおかしいでしょ…… こんな…… こんな……
そうだ。こんな馬鹿な話があるわけがない。俺は今、こうして考えることが出来る。つまり、意識はちゃんとここにあるんだ。生きているんだ。存在しているんだ。
ただ……
今はそれを実感することが出来ないだけだ。まるでどこかに何かを置き忘れたように。ある筈と信じていたものが、必要な時になくなっていたと急に気が付いたように。
俺は突然のことに戸惑い、怒り、焦った。そして……怖い…… まじでこええ……
今度は、今までに味わったことがないほどの恐怖が襲ってきた。”死”を否定した俺のすべてを恐怖があっさり飲み込む。今にもどこか深いところに引きずり込まれそうだった。
認めねえ…… こんなの認めねえぞ…… 誰がこんな夢みたいな…… ん?
そうだ、夢だ。何で今まで気が付かなかったんだろう。今までにもこんな異様にリアルな夢を何度も見てきたじゃないか。朝起きて学校に行って授業も受けて、そして最後に家に帰ってくるまでの一日を体験した筈なのに、目覚ましの音で目が覚めてベッドの上で混乱するみたいなあれだ。
そうだ…… 夢…… これは夢なんだよ……
そう、夢なら今の信じられないような状況もすべて説明が付く。目が覚めれば何もかもがすべて元通りになる筈だ。
目が…… 覚めれば…… でも…… もし覚めなかったら……
いや、やめておこう。今は余計なことを考えるべきじゃない。こんな不気味な場所ともお別れ。自転車に乗っていたことも、そして見事に空中にダイブしたことも全部めでたくリセット。
そう、進路のことで親父と口論になったことも含めて…… 全部だよ…… だとしたらリアルすぎる夢だな…… ははは……
もう無理。限界だ。どんなに誤魔化したところで自分を騙すことなんて出来ない。多分、俺は死んだんだろう。だから感覚がない。肉体を失って魂だけにでもなっているんだろう。笑うしかない。泣きながら。
ほんと何やってんだ俺……
急に頭が覚めた。いや、覚悟を決めたとでも言うべきなのか。そんな気持ちになると怒りに任せて家を飛び出した自分があまりにも情けなかったし、将来のことをろくに考えずにとりあえずで音大に行こうとした自分が恥かしかった。
けっきょく全部正しかった…… あの人の言うことが……
俺はきっと取り返しの付かないことをしたんだ。
もうガキじゃない!自分のことは自分で決められる!いちいち俺の言うことに干渉してくるな!
今まで散々並べてきた御託が今となってはただの黒歴史だった。父親の建てた一軒家でぬくぬくと生活して、その稼ぎでのうのうと暮らしてきて、身の回りのことは全部母親が面倒を見てくれて。考えるまでもなく、俺はそれに対して感謝どころか文句しか言っていなかった。
情けねえ……
おもいっくそガキだし、自分のことは自分で全然出来てねえし、おまけに甲斐性も皆無の居候状態で干渉すんなとか非常識にもほどがある言い分だ。
ごめん…… ごめんなさい……
謝ったところでどうにかなるもんじゃないのは分かっている。
分かっているけど……
最期に一つだけ願いが叶うとしたら、もう一度二人に会いたかった。そしてどんな形ででもいいからとにかくもう一度会って謝りたかった。今までのことを。土下座でも逆さ土下座でも何でもいい。しろと言われればなんだってやってやる。
本当にごめんなさい…… 今まで調子に乗ってました……
「と…… さ…… 父…… さ……」
考え出したら涙が止まらなかった。どんどん涙が溢れてきてるのが分かる。後悔先に立たずって言うけど、あれは本当に名言だった。
今更、枕が涙で濡れるほど泣いたところでどうにか…… ん…… 涙?枕?
「……」
俺はパチッと目を覚ました。強烈な違和感と共に。メイドっぽい一風変わった格好をしたナースと思われる若い女性が一人、薄絹のカーテンの向こうに見えた。彼女は俺と目が合うなり飛び上がるようにして椅子から立ち上がる。
「ああ!よかった!お目覚めになられたのですね!姫様!ああ神よ…… このお慈悲に感謝申し上げます……」
は?ひ、姫?か、神!? 一体こいつは何を言っているんだ……
外山ショウ、 17歳、性別男、普通の人間、どれをとっても神様だのお姫様だのと言われる要素は何一つとして持ち合わせていない。ひょっとしておちょくられているのだろうか。
「そ、そうだ!こうしてはいられません!急いでお伝えしなければ!」
いや…… ちょっと待……って?
その不届きなナースは事情を聞こうと弱々しく手を伸ばす患者を置き去りにして慌しく部屋を出て行く。大声で謎の言葉を撒き散らしながら。
「どなたか!どなたかおられませんか!急いで殿下にお知らせしてください!たった今、アントーニア様の意識がお戻りになられました!」
「は?」