かすみ堂
カラン、カラン……
渋が所々はがれた扉を開けると、取り付けられたベルが鳴った。さほど広くない店内に響き、来客を告げる。戸の脇にある観葉植物のイミテーションが嘆くように微かに揺れた。
「いらっしゃいませー」
オレを出迎えたのは、そんな間延びした若者の声だった。木を用いた内装は良い具合に古びていて、年を経た趣があるのだが、彼の声はその重厚な雰囲気とは全くそぐわない。
これは少し期待はずれか。
まだ時間が早いために客はオレ以外には居らず、カウンターでは若いバーテンが暇をもてあますようにグラスを磨くだけだ。
「バレンシア」
オレはカウンターの中程の席に座り、注文した。
バーテンダーは、それが地顔ではないかと疑いたくなるようなにこやかな笑みを浮かべたままうなずき、手際よく氷と材料をシェーカーに入れ、内蓋と外蓋をかぶせ、振り始める。肘を伸ばして胸の前へシェーカーを押し出し、肘を曲げ、戻す。また肘を伸ばし、戻す。そうして徐々にペースを挙げる。材料の混ざるリズミカルな音が心地よい。バーテンダーの振るう動きに見とれている内にカクテルができあがる。
「どうぞ」
まだ若いのに、大したものだ。その堂に入った動作に舌を巻く。ただ、相変わらず店の雰囲気からは浮いているが。
出てきたカクテルをオレは二口で飲み干し、お代わりを頼もうとしたとき、隣の席に、すっ、とグラスが置いてあった。中には琥珀色の液体が入っている。客はいないのに。カウンターの影になってる場所なので今まで気付かなかった。
不思議に思い、どうしてなのか、その理由を聞いた。
「ジンクスでね、この席にカクテルを置かないと、客が寄りつかないんですよ」
面倒ですけどね、彼はそう言うかのように、ふっ、と笑った。
「錆びた釘を打たなきゃなのかい?」
グラスの中身はラスティネイルだと予想して、その意味に引っかけて訊ねてみた。
「ええ、そうです。ご覧の通り、古い店ですので。それに、カウンターを支えるんですからラスティネイルでないと危なっかしくて」
バーテンはグラスを磨きながらそう言って、やれやれ、と肩をすくめた。
「なるほど、それもそうだ」
オレは笑って言った。
カラン、カラン…………
どうやら、他の客が来たようだ。
ィィ……
この店に来てから、2,30分も経ったろうか。
何か、音が聞こえたような気がした。
気のせいだろう。今日は少し飲み過ぎたのかもしれない。
それに、自分以外に聞こえた様子はなかった。
まだ中身の残った自分のグラスを見るが、何も変わってはいない。
少し首をかしげながらも、残りを飲み干そうとグラスに口を付けた。
その時。
ピシリ……
ガラスが、ひび割れるような音がした。
店中のどんな音よりも響いた。
何故か、店中の音が一瞬消え去る。
お ざ
ク たし
すんま ん
こっちにはミモザもらえるかい
ロゼッタストー
こっちはダイキリだ
だんだんと店中の音が戻ってくる。やっぱり飲み過ぎたのか、それか疲れているのかもしれない。
だが、この違和感は何だろう?
カウンターも、客も、カウンターの奥の古びた棚も、そこに並ぶいくつもの酒ビンも。
変わっていないと思えるのは、自分の手の中にあるグラスと、バーテンダーだけだ。
何故だろう。
理由を探し、辺りを見回してみる。
そして、例のグラスにひびが入っている事に気付いた。別の客も気付き、バーテンダーに言う。
「バーテン、ヒビ、いってるぞ。例のヤツに」
教えられたとき、バーテンダーはカクテルを作っていた。見るたびに、彼はカクテルを作っている気がする。
「ラスティネイルのですか? すぐに変えないと」
相変わらずの笑顔で、もったいない、と言うような口調だった。
しかし、その目は何故か笑っていない。
出来たカクテルを客に渡すと、彼はすぐに新しいグラスを取り出す。
「カクテルが流れて、客も流れてなんて事にならなければ良いんですけどね」
そう言いながら、慎重に移し返し、そのグラスを置いた。
そのとき、一滴だけ雫が落ちる。
そして、カウンターテーブルにあたり、弾ける。
俺には何故かそれが一瞬、毒々しくも、人を引きつけずにはいられない美しい宝石のような紅に見えた。その宝石の中に自分の顔が映り、弾けたようにも見えた。
気のせいだ。
落ちている水滴は紅くない。グラスの中身と同じ色だ。
「カクテルがこぼれてしまいましたね」
顔はにこやかなままだが、こぼれたと言うほどでもないのに、こぼれたと言い、何故か苦々しい口調だ。
「垂れただけじゃないのか?」
その疑問を訊いてみた。
「ジンクスに関わる物ですからねー。やな言い伝えもあるし」
バーテンダーはまた違うカクテルを作りながら言った。気のせいだろうか。口調が独り言のようにも聞こえる。
「何かあるのかい?」
俺は訊いた。口調はこの際無視し、興味がある事を聴く。もしかしたら、今の店の雰囲気に関係あることかもしれない。
「誰かが消える・・・。冗談でしょうけどね」
俺は笑った。笑わずにはいられなかった。たちの悪い冗談だ。
彼は俺のほうを見なかった。ただ苦笑いを浮かべただけだ。
多少の不安をごまかす為に、俺はつまみを口に放り込んだ。
バーテンダーがカクテルを作っている時、カウンターに座っている酔っぱらった常連の一人が青ざめた顔で声を掛けてきた。
「なっ、なあ。ばっ、バーテンよぉ。おっ、俺の見まっ、見間違いかもしれねえけどよ。そっ、そこにいたのが消えたんだよ」
そう言っている彼の声は、この店の常連にしては、あまりに震えすぎている。
全く肝の小さいことだ。この店の常連なら、急に誰かが消えるなど見慣れているだろうに。
バーテンダーは心の中で嘆息した。
誰かが消えたなどと噂されても困る。十中八九、客が減る。収入も減る。そして店長に怒られ、給料が下がる。
幸い、他に見たのは常連だけらしい。それに彼は酔っている。自分の給料の為にも誤魔化そう。バーテンダーはそう心に決めた。
「何を言ってるんですか? そこの人なら確かにさっき出ていきましたけど、急に消えてはいませんよ? 飲み過ぎたのではないですか?」
「そっ、そうかな?」
この酔っぱらいは単純で助かる。普通はもう少し面倒なのだが。
「そうですよ。今日は強いカクテルばかり飲んでるみたいですし」
嘘は言わない。というより言えない。店長に客に必要のない嘘をついたなどと知られたらやはり給料が減るのだ。あの鬼め。
「そうかもしれねえな。今日はもう帰るわ。なんかもう飲む気になんねえし」
「そうですか。御勘定は七千円になります」
良かった。これで何とかなりそうだ。
給料の減る確率が低くなり、バーテンダーは安堵した。
その常連は、財布の中をのぞき込み、先ほどより青ざめた顔で言った。
「・・・すまねえが、五千円ぐらい、つけといてくれねえか?・・・」
無いものはとれない。ツケにされた分は給料から引かれる。これで五千円減った。安堵するのは早かったらしい。
「・・・・・・この次に、必ず、払ってください・・・・・」
怒気を無理矢理押さえ込んでバーテンダーは言った。
昔、部活で書いた作品のリメイクです。
でも、手直しなしで出せるんじゃないかってレベルでした。
見直したら今より上手い気がして微妙にへこみました。
注
この物語はフィクションです。
実在の人物、店名、企業団体などとは全く無関係ですのでご了承ください。