二章 7/
二章 7/
風呂が好きだ。
というより、水が好きだ。
少し熱めの湯に浸かりながら、ぼんやりと過ごしていた。無音の空間が心地よい。
あの日――薊と会ったあの日から、まだたった一日しか経っていない。薊との出来事は、識々には話していない。話すべきか迷って、結局言わずじまいだった。どうせ言わなくても大丈夫だろう、みたいに割と適当に考えていた。
あれから、僕は普通に家に帰って、普通に華音に抱きついて、普通に寝て一日を終え、普通に学校に行って普通に風呂に入っている。それだけだった。今日は、なんと言うか、無味乾燥な日だった。高校行っても話すような友達は居ないしメルカは話しかけてこなかったし、帰宅中に虚衣姉妹と鉢会うこともなかった。
と、そこまで考えて、虚衣の二人のことを思い出す。思い出すというよりは、思考の焦点をそれに合わせただけかも知れない。何となく、彼女達のことを考えてしまうのだ。高校でも、授業中、彼女達のことを考えていた。どうやら僕は虚衣姉妹に興味を抱いているようだ。いや、自分で自分を説明してどうする。という突っ込みも何だか悲しいぞ……。
「はあー」
溜息なのか露骨な呼吸なのかよく分からない吐息を放出した。
彼女達は、僕にとってはあくまで闘争相手だ。命を狙い、狙われる関係にある。それでも何故か好意的に捉えてしまうのは、どうしてだろう。やっぱり、人殺しでも命を狙ってくる奴でも、可愛いければ何でも許せるようになってしまうのだろうか。……なんでやねん。
それに、容姿が可愛いからといって性格がいいわけでも……ないわけでも、ないのか。薊のほうは少し問題があるが(何せ戦闘狂だ。よく考えなくても少しって程度のもんじゃない)、もう一人、蓬のほうは良い子なのではないだろうか。武士道精神ということは良くも悪くも直情的なのだろうし、なにより礼儀正しかった。それに、薊のほうも問題はあるが、それはそれでいいのかもしれない。多分ヤンデレキャラだ。
……もし、彼女達との出会いがもう少し違えば、と思う。
例えば、僕と彼女達が仕事仲間になったとき。或いは、僕と彼女達が、僕とメルカがそうなようにクラスメイトだったら。
もう出会っている時点でそんなことを考えてもしょうもないのだけれど、考えること自体は悪いことではない。
もしくは、彼女達を殺さず生け捕りにして、一期一会のメンバーに加えるか。僕に生け捕りなんて高度なことを求められるのは無理だから絶対に実現しないのだが。それに識々が許しはしない。……いや、もしかしたら許すかも。一期一会結成から三年近く経つが、まだメンバーは僕一人だ。識々自体には情報の収集能力もあるし人脈も広いなんてもんじゃないが、何故か、このギルドはメンバーは増えない。二人、それも中々の実力者ともなれば、あるいは……?
って、先に生け捕りは無理だと確信してたのか。どの道無理か。
湯を両手で汲み、顔にぶちまけた。思考を断ずるかのように。別のことを考えよう。
――僕の魔具は、その名を〝白ウサギの目〟という。肉体寄生型と呼ばれる、通常の魔具とは少し違ったものだ。その名の通り、魔具使いに寄生する魔具。ちなみに、その中で更に二つに分けることも出来る。
一つは、既存の肉体を作り変えるもの。僕のがこれに当たる。既存の肉体――つまり、普通の人体にあるものを模倣した形だ。例えば僕なら、両目。覚醒時に僕の本物の両目は壊れ、代わりに〝白ウサギの目〟が埋め込まれた。この魔具の本来の姿は赤だが、普段はただの目だ。以前までの僕の目を模倣しているから――だ。
もう一つは、新しいモノを作るもの、だが……やっと待っていたのがきたから、もう一度思考は中断された。
「良い湯だぞー、華音」
「…………ん」
ドアを開けて現れたのは、バスタオルを体に巻いた華音。女性らしいくびれは全く見られない体だった。極一部には需要がありそうな体型。肩口までの艶やかな黒髪はゴムでポニーテイルにまとめられている。いつも思うことだが、華音のうなじは綺麗だ。他の人のを見たことはないからどこがどう、とは言えないけれど。うなじ属性もないけれど。
「……変態」
「何でだよ!?」
何も考えてなんかないよ? ……嘘だけど。
華音は桶で浴槽の湯を汲み、体にかける。それを何度か繰り返した後、湯に入った。
といっても、うちの浴槽は二人もくつろいで入れるような広さではない。だから自然に、華音の体は僕の上に乗る形になる。
太腿の上に軽い体と柔らかい感触が乗っかる。華音は僕と反対の向きに……つまり、僕と向き合う形で座った。
「なーなー、今日はどうだった、学校」
「いつもどおり。ゼンとユメアとサンカが騒いで、それをぼーっと眺めてた」
「それ自体はいつもどおりでも、内容までいつもどおりというわけでもないだろう? 聞かせてくーれーよー」
華音相手だと声を伸ばし気味になるのは悪い癖だ、と思う。多分心が安らいでいるんだ、と勝手に想像。決して鼻の下が伸びてるから声も伸びているということではない。
ちなみにゼンとユメア、サンカというのは華音のクラスメイトだ。三人とも女の子で、無口で無愛想な華音の世話を焼いてくれる貴重な人物である。たまに華音がうちに呼ぶから顔も知っている。
「……今日は、カレー派かハヤシライス派かを話し合っていた」
「なんで!?」
「……分からないから言うつもりはなかったんだけど」
「あー……すまん。…………けど何でその話題になったんだ?」
「……分からないから言うつもりはなかったんだけど」
「二度も同じ台詞で返さないでくれ……」
何でそうなったのか分からない、って、どんな状況だったんだろう。
「ちなみに三人ともカレー派だった」
「じゃあ何で話し合っていたんだ!? 物理的に無理だろう!」
「私がハヤシライス派だったから」
「ぼーっと眺めていたわけじゃないっ!?」
「二時限目はそれで潰れた」
「潰すな……。勉強をしろ、中学生」
「ごめんなさい」
「……分かればいいんだけど、そのしおらしい態度はやめてくれ」
苛めたくなるじゃないか。じゃなかった、興奮してしまうじゃないか。でもなかった、抱きしめたくなるじゃないか(華音の表情に熱暴走中)。
「……そういや、華音は辛いものが苦手だったけな。僕と反対で」
「…………うん。それと、苦手なんじゃなくて大嫌いなんだよ、お兄ぃ。……そういえば、お兄ぃがカレーを作って私に食べさせて、私がそれから一週間話さなかったことなんかも、あったよね」
「あー……あったな、そんなこと。華音は食べた瞬間泣いちゃってさぁ。……すんげー可愛かった」
母さんが居なくなって――死んでしまった後、一ヶ月くらい経った時のことだったっけか。初めてカレーを作って華音に振る舞った。それが辛口で、華音は口に運んだ瞬間に泣いちゃって。華音も少し情緒不安定だった時で、それに追い討ちをかけた形になったのだった。それにしても、一週間も恨まれるなんて、今から思えば凄い根に持っていたんだな……。
「……何でみんなが辛いものを食べれるのか……世界は不思議がいっぱい」
「それほど不自然なことではないと思うけどなぁ。味覚の種類の一つにも数えられるぐらいだからな。むしろ華音が弱すぎるだけで」
説明するように言う。その直後に華音を見やれば、彼女の顔は目の前まで迫ってきていた。思わずのけぞってしまう。
「な、何だ。キスは駄目だぞ、兄妹なんだから。僕にもそのくらいの分別はあ……る?」
「…………違うよ」
はあ、と息を吐いて、元に戻る華音。その吐息が若干顔にかかって、思わず陶然としそうだったのは隠しておく。
「……辛味っていうのは味覚じゃないよ。痛覚なの。痛いの。痛い痛いーなの」
「へぇ……そうなのか。知らんかった。それとその喋り方やめてくれ、その『なの』ってやつ。知り合いと被ってしまう」
しかし辛味が痛覚だっていうのは初耳だった。じゃあ、何だ、辛いのが好きな奴は痛いのが好きってことになるのか? マゾなのか? ……違うか。人間は基本的に痛覚は苦手だ、本能レベルで。僕も伊達に幾つもの戦闘を経験していないわけじゃない。本能的に攻撃を避けようとしてしまうことだってある。まあ、それは僕がまだ戦士として未熟なだけなんだろうけど。
しかし、だとすれば辛いものは『矛盾』なのか。そう、恐怖と同じだ。人間は本能レベルで恐怖も苦手だ。しかし、ホラーやスプラッターが好きな人がいるのも事実。辛味と恐怖は、似たようなものなんだな。
そんなことを考えていると、おもむりに華音が立ち上がり、浴槽を出た。隅に置いてあった椅子を引き寄せ、それに座る。シャワーのレバーを捻って、水を出す。さあああ、と水が壁に跳ねる音。
髪を洗うらしい。シャンプーの液を手のひらにとって、頭を洗う。ちなみに髪を留めていたゴムはさっきとっていた。
「……そもそも……この世界に……辛いもの、なんて……あるほうが、おかしい」
「髪を洗いながら独り言を言うな。切れ切れだから余計怖いわ」
「だって……だって……辛いものは嫌なんだもはふぅっ」
「あははははは!」
水で洗い流しながらだったもんだから、泡と水が口に入ってしまったらしい。腕の動きを止めて呆然とする華音。僕に笑われたことが余程ショックだったか……? 普段はクールで無愛想だからなあ、恥ずかしいところを見られるのは慣れていないんだろう。
にしても、可愛いことするなあ。
あまりにも華音が動かないものだから、心配して声をかける。
「おーい、華音……? 悪かったよ、笑ったのは」
反応なし。しかし、暫くすると動きを再開した。泡が全て落ち、次にリンスをする。それをなじませた後、こちらを見た。
「…………目、瞑ってて」
「分かってるよ、いつものことだからな」
言われたとおり、目を閉じる。バスタオルが地面に落ちる音の後、シャワーの細かい水粒が弾ける音がする。
一緒に入り始めてから、いつものことだ。やはり裸を見せるのは嫌らしい。
ちなみに、僕と華音が一緒に風呂に入り始めたのは、三年前のことだ。また三年前か、と思うかもしれないが、事実としてその時期なのだから仕方がないではないか。
家族が僕と華音だけになったとき、初めて華音が風呂に一人で入れないことを知った。
華音が何故一人で風呂に入れないのかは知らない。華音は黙して語ろうとしなかった。まあ、考えられる可能性は風呂で溺れた、くらいだろうけど。
また暫くして、シャワーが止まる。
「……もういいよ」
「ん。おいで」
華音がまたバスタオル姿で浴槽に浸かる。華音が十分温まったら、二人一緒に出る。
多分、僕の入浴時間はかなり長いほうだと思う。一時間もはいってないけれど。それも今ではもう慣れていた。
「……さて。もう出るか?」
「…………まだ、もう少し」
言って、華音は反転した。華音の背中が僕の腹に当たる形だ。そのままもたれかかってくる。僕はその細い腰に手をさしいれ、軽く抱く。バスタオル越しの柔らかい感触。
……多分、このまま十分近くいるから入浴時間が長くなるんだ。