三章 12/ 或る男
男は店をちらりと見ていくだけで、歩みを止めることはない。両手をコートのポケットに突っ込み、ガムを口に入れているのか、しきりに顎を動かしていた。
かなりの長身だ。百八十五センチはあるだろうか、それでいてその肉体には弱弱しい面は全く見えない。コートの下の肉体は、強靭な筋肉で包まれているだろうことは、体格を見れば容易に想像がつく。
エスカレーターを上がって、四階。この階には店はなく、立体駐車場と繋がっている。男は扉を開け、その立体駐車場に足を踏み入れた。
もう帰宅するのだろうか――まだ、その正体は掴めていない。このままここを去って行くようなら、深追いはしないが――
「おい」
突然、発せられた問いは男のものだ。
この駐車場、今は人がいない。男と、それを追って来た僕だけだ。ひんやりとした空気が服の中を通っていった。
駐車場の真ん中で立ち止まっている男。
僕は咄嗟に柱に隠れ、気配を隠した。
「さっきから、視線がびんびん伝わってきてイライラしてたんだ。さっさと出やがれ、鼠が」
どうやら――もうバレているらしい。
「出てきな――さもないと、斬る」
大人しく柱から身を乗り出す。左手は腰の裏、隠していた護身用ナイフを掴んでおく。
対面した男は、想像以上の威圧感に溢れていた。鋭い眼光は猛禽類、薄く笑みを浮かべた口元は捕食者の野獣。その立ち構えには隙がなく、どうやら僕は少しでも動けば攻撃されそうだった。
「怪しい者じゃないさ」
「このオレを付け狙う奴が、怪しくねぇわけねぇだろ、この野郎」
「まあ、世界には怪しくない人なんていないさ。みんな何かしら、秘密を抱えているもんだし」
「お前はオレとそういうくっだらねぇ話をしにきたのか?」
「勿論、違うさ」
男の金髪は、根元には黒を残した鮮やかな金髪だった。そんなどうでもいいことばかり見てしまう。
「問おう。お前は、オレの敵か、否か」
「あんたが何者かによる」
「まあ、そうかもしれねぇな」
はは、と笑みを零して、少しだけ相好を崩す。だが構えは解かれていない。警戒心に関しても、そうだ。一寸の付け入る隙もない。……手練の魔具使いだ。
さてどうしよう、この男と戦えば、〝白ウサギの目〟にこの身を委ねない限り、勝つことも難しそうだ。
「そもそもだ。お前、追跡が下手すぎんだよ。少々の魔具使いなら、すぐに気付くぜ」
「初めてだったらこんなもんだろ」
「初めてで、よくやってみようと思ったな」
やはり、向こうは僕が魔具使いであることを見抜いている。当然といえば当然だけど。
「何事も最初は初心者じゃん?」
「だからといって、それが失敗した際のリスクを考えないのはただの馬鹿だ。そういうところ学習しておけよ、小僧」
「あんたにそんなこと言われてもなぁ」
「……それで、話を戻そう。お前は何のためにオレを追跡してた?」
「何で……か」
それは勿論、あの《、、》男かもしれないと思ったからだが。
「……僕は、ある男を捜している」
「……そう、か」
男の顔に、一瞬だけ表れた表情。形容するなら、それは驚き、になるのだろうか。
「――まあ、この一件のことは気にしないといてやるよ。これ以上、追ってくるつもりがないならな」
「適当な奴だな」
とりあえず、向こうは問答無用で僕を攻撃する気はないらしい。そして僕が手を引くことをアピールするのに最も有効なのは、警戒を解くことだ。左手をナイフから離し、諸手を上げた。
「それでいい。……ところで、一つ聞きたいことがあるんだが」
「何だ」
「お前は何の武器を使っている?」
「何の……って」
それは、あまり教えたくない情報だ。この男、敵対する気がないとはいえ、仲間だと断言できるわけでもない。そういう相手に情報を与えるのは得策でないからだ。
僕が渋っているのに感づいたのか、男はちっ、と舌打ちをした。
「教えないなら斬るぞ」
「……ナイフだ」
「ナイフ、か。どんな?」
「そこまで言わないと駄目?」
「当然だ」
「ふう……大型のサバイバルナイフに、スローイングナイフ。その他諸々」
「なるほどな」
一瞬で意見を翻す奴だな。本当に斬られそうだから教えてしまった。
男は何か考え事をした後、再び僕に焦点を合わせた。
「じゃ、違うな」
「? 何が――」
「じゃあな」
言うが早いか、動くが早いか。
男はさっと身を反転させ、駐車場から逃げた――飛び降りて。
すぐさまダッシュし、駐車場の端まで来て眼下を覗き込む。男は金の頭髪をこちらに見せながら悠々と歩いていた。
「……あーあ」
逃げられてしまった。
「けど、まあ」
単なる勘でしかないけど……僕の仮説とは、違うようだった。
あの夜出会った男の、気味悪さ、得体の知れなさ。気色の悪い雰囲気というものが、全く感じられなかったのだ。
それに、追ってくるなと釘を刺されていたこともある。もう一度尾行してばれようものなら、あっという間に殺されるだろう。
「僕もまだまだ修行が足りない、か」
今度識々にスニーキングの極意でも教えてもらうかな。
と、踵を返した時、
「何してたのよ」
……メルカが、やってきていた。
「どうしてここに来てんだよ……」
「だって、放っとけるわけないじゃない」
「……そうですか」
メルカの視線が痛い。どうやら気分を悪くしているようだ。……っていっても、それは僕のせいなんだけど。
「ごめん」
「昼飯、奢ってもらうわよ」
それで許してもらえるなら安いものなのかな、と僕は半ば観念しながら、はい、と答えた。
白ラピⅡの鍵となる男。
と、雷兎が出会うお話でした。