二章 10/ ――とある夜、三
泣く子も眠る、丑の刻。
月も雲に覆い隠され暗黒が支配した空間に、ある一人の男が佇んでいた。光を灯していない街灯に背を預けて何処かを眺めていた。
そこは、人気が全く無くなってしまった橋の上だ。橋といっても、車が通るような橋ではない。強いて言えば、公園の池を跨ぐひっそりとした橋だ。
長身を包む黒いコートが、まるで闇に溶けているようだ。襟の間から見える首元には銀に光る飾りがあった。
男は、人を待っていた。
自らの願いを果たすために――大事なものを捨ててまで。
「やあ――待たせてしまったかな」
「ちっ。遅いぞ」
声に次いで、闇の中から浮き出るように姿が現れた。赤みを帯びた茶髪も、気だるそうな瞳も、だらしなく歪められた口元も。全てが黒く染まっていて、当の男はそれを知らない。だが男にとって現れた人間の容貌などどうでもよかった。
「まずは、自己紹介からだね。よろしく、僕は朝威識々と呼ばれる者だ」
「朝威――か」
鸚鵡返しに呟いて、その視線を識々から外す。
「手はずは?」
「大丈夫。明日、僕のとこのメンバーにも紹介するよ」
「……そうか」
識々は男の横の欄干に凭れかかった。
「君も大変だねぇ。何があったのか僕は知らないけど、とんでもない覚悟だ。それは。そうまでして、何を求めるんだい?」
「あんたには関係のない話だ」
「いいや、あるよ。だって、君にとって僕は雇い主のようなものだ。僕もそういう立場であるからには協力は惜しまない――けど、僕のモチベーションのためにも、ね。大事な話は、先にしておいて貰いたい」
「何度も言わせるな。朝威には関係ない」
「本当にそうかな」
「……どういう意味だ」
「僕なしで、君はこの町で求めているものを見つけられると思ってるの?」
「…………」
識々の言葉には、口調とは裏腹に威圧的な重さが含まれていた。顔を、目を合わさずとも感じるそれを、男はなんと形容すればいいのか、言葉を見つけられない。ただ思ったのは、この男には何かある、という漠然とした感覚だけだった。
「……ああ」
「なに?」
「たとえ、お前がいなくとも、俺は奴を探し出す。その邪魔をする奴は――誰であろうと、斬り払う。朝威、お前もだ。立ちはだかるな。ただ俺の前に道を用意してくれさえすればいい。それ以上は望まない。それが守れないようなら――斬る」
「……なるほど。過去は話したくはないと。まあいいけどね」
識々は小さく笑って、欄干から身を離す。
「じゃあ、僕は帰るよ。また明日。……それと、君、結構恐いもの知らずだね。僕を斬った暁には、凶悪な番犬が地獄まで追ってくることになるよ。僕、割と要人なんだよ」
現れたときと同じように、闇に溶け込むように姿が消えていく。それを男は目で追って、識々が完全に見えなくなるとそれをあてどなく彷徨わせた。
「……だからどうした」
斬りたいものは、何が何でも斬る。
そう悪態をついて、男は中空を眺め続けていた。