二章 9/ メルカと恋歌と
「……ふぅ」
濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングへ繋がる扉を開ける。
冷蔵庫から炭酸飲料を取り大、コップに注ぐ。一口飲んでから、ソファまで歩いていった。
「識々。僕の血臭とれた?」
「どうだろうね」
大して興味がないというような識々の答え。一瞬手に持っているコップの中身をぶちまけてやろうかと思った。勿体無いからしないけど。
ソファに座って、もう一口煽る。大型テレビではニュースが流れていて、識々はそれを見ていた。
「とりあえず、仕事は終わった」
「まあ、見たら分かるし。お疲れ様」
時刻はもう深夜だ。それでも識々は起きていないといけなかったから、機嫌は悪そうだ。
抗争を終えてから、僕は地下闘技場を後にし、朝威邸へ赴いた。識々に結果を報告するためだ。
さっきまでは、体にこびりついた血とその臭いを落とすためにシャワーへ入っていた。その間も考えていたのは、先ほどの抗争――瀬尾玄甲と芹沢鴎のことだった。
彼らも、一種の師弟関係だったのだろう。友として、共に戦っていたのだろう。それはゆがんだ関係だったのかもしれないけど。
少なくとも弟子である鴎はそれを良しとしていて、恐らく玄甲もそれに満足していた。瀬尾玄甲と会話することは叶わなかったけど、きっと。
鴎を拾い、道具として扱ってきた玄甲。
その玄甲を、道具とされながらも慕い戦った鴎。
玄甲のしたことは、必ずしも悪とは言い切れない。暴力が支配するこの世界では、それぐらいのことはどこにでも転がっている些事だ。そもそも助けてもらった――鴎は拾ってもらったと言い張っていたが、それの意図するところは助けてもらった、だろう――時点で、その行為には愛のようなものがあったはずだ。
愛すら与えられない、虫けらのように扱われる者もいる。
鴎は、幸せだったのか、不幸せだったのか、僕には知る由もない。最後には慕っていた、信じようとしていた玄甲に傷つけられたけど、それでも慕っていれたのか。
戦う相手、殺し合う相手である僕には、本音を話さなかったかもしれないから。それは、僕には分からない話である。
ただ、玄甲は――鴎を、本当に道具のように扱っていたのか。それだけ、それだけが本当なのかを確かめたい。
道具だと思うなら、何故共に戦っていたのか。二人だけで。道具に背中を預けられるだろうか。僕はそう思わない。自分の背中を預けられるのだとしたら、それは人――仲間だ。特に後衛からしたらそれは顕著だろう。何せ、前衛が破られると自分の死はすぐそこまで迫っているのだから。
殺してしまった後となっては、全てがもう遅い。
結局は想像でしか彼らの物語は語ることが出来ない。
それが――もどかしくもある。
「次の抗争っていつになるんだ?」
「二、三日後になるよ。詳しくはまだ決まってない」
「数日後、か……」
何人か戦闘メンバーが揃っているギルドだったら、交代で抗争に出ることも出来る。だけど、今の〝一期一会〟ではそれは無理な相談だ。現在戦えるのは僕しかいない。
だから全ての戦いに僕は一人で出る。他のギルドに比べればその消耗はとてつもないだろう。
今まではそれでも抗争は月に一度、あるかないかぐらいの頻度だったから良かったものの、最近は立て続けに抗争を受けている。魔具蒐集戦線による、表面的には普通の抗争、だけど裏では僕を消耗させ確実に勝てるように状況を動かされている。
打開策は今のところない。僕が踏ん張るだけだ。
「せめてメルカが出られたらなぁ……」
「メルカちゃんに戦わせるのは嫌なんじゃなかったっけ?」
「現実を見させるなよ。そんなことは分かってる」
もしメルカが抗争に出させてほしいと自分から願い出たとしても、僕はそう簡単には首を縦に振れない。出来るだけ、メルカからは闘争を遠ざけたい。
でも、それは無意味な葛藤だ。
「出来るだけ長く、メルカの魔具には眠ったままでいてほしいな……」
「自分の負担が増えることよりも?」
「それよりも、だ」
「情熱的で結構だけどさ」
識々はそれだけ言い放って、席を立った。
「もう寝るのか?」
「寝たいけどね……僕がわざわざ遅くまで起きていたのは、雷兎君を待ってたのもあるけど、もう一つ用事があるからなんだ」
「用事……?」
「そういうこと。帰りたいときに帰っていいから。鍵は閉めてってね。じゃあ」
欠伸をしながらドアを開けて姿を消す識々の後ろ姿を見ながら、どんな用事だろう、と呟いた。
識々は情報収集を専門にしているから、人脈が広くて用事も絶えないような忙しさなんだろうけど、この時間帯に呼び出すとは、随分と非常識だな。
「魔具使いとかに非常識なんてないのかも知れないけどな……」
常識自体があるかどうかも疑わしい。
ソファに体を預け、もたれかかる。戦で疲れた体はその気持ちよさに無抵抗だ。
テレビで流されている通販番組の音を聞きながらくつろいでいると、どたどたと、階段を降りてくる音が聞こえた。二人分かな。
そしてこの家で識々を除いて二人分ということは、答えは一通りしかなくて……
「こんばんはなの、雷兎」
「御機嫌よう」
「……こんばんは」
炎恋歌と、正宗メルカの二人だった。
いつもどおり、何かの動物の耳がついたフードを被っている恋歌。寝間着は自分で改造したのか大きなフードが付いている。今日の耳は垂れ耳の……犬だろうか。それに隠れがちな髪の毛は毛先が黒でそれ以外はこげ茶色の、少し変わった色。
小学生みたいな低身長の上に眠たげな目をした顔が乗っている。
「恋歌、寝る時間じゃないのか?」
「さっきまで寝てたけど起きちゃったの」
「そのまま寝ろよ」
「寝れないの」
昼寝が長引いて夜まで食い込んでしまったらしい。
その横のメルカは、恋歌とは正反対にパッチリと開いた目をしていた。眠たそうにはとても見えない。
「メルカは?」
「私? 私はずっと起きてたわよ」
「何時から」
「朝の六時から」
「二十時間も起きてんじゃねぇよ」
こいつはこいつでおかしい。
腰まで届く、とてもよく手入れされた黒髪は艶やかで綺麗だ。髪の毛の下には美貌が備わっている。クールビューティと呼ぶに相応しい、怜悧な瞳、切れ長で薄い眉、少しへの字に曲げられている唇。
身長も僕がぎりぎり勝っているくらいで、高校生女子にしては高身長だろう。スタイルもよくて、足がどこまであるのか分からない。むしろ分かったら軽く絶望しそうだ。
「何しにきたんだ」
「二人でトランプとかしてたんだけど、識々が外に出て行くのが見えてね。雷兎一人で寂しいだろうと思って、来てあげたの。感謝なさい、まずはその手始めとして足を舐めてもらおうかしら」
深夜になってもメルカの毒舌(というか暴言)は健在だった。
眠さの欠片も持ち合わせていない。
「僕はもう帰るつもりだったんだけれどな……」
「何故? 私たちを差し置いて、帰るというの?」
「差し置くつもりはないけど」
「帰ってすることでもあるというの?」
「寝ることがあるだろうが」
明日だって学校あるんだぞ。
そのことをメルカに言ったら、だからどうして、みたいな表情をした。
「起きていればいいじゃない。別に寝なくても大丈夫でしょ?」
「大丈夫なわけない。お前はどうしてるんだよ」
「いつも三時間くらいしか寝てないわよ。テスト前だったら二日くらいは徹夜出来るし」
「…………」
想像以上に凄いメルカだった。
不眠少女正宗メルカ……。
「どうすればそんなに起きていられるんだ……」
「生まれつきもっている体質もあるけど、正宗家で鍛えられた所為もあるわね。数時間で体を完璧に休められる寝方を教え込まれたの。寝ずにいられる方法も。睡眠時間を自分でコントロールする方法も。叩き込まれた」
「そう……か」
なんでもないことかのように言うメルカだが、その言葉には本人が表してない以上の重みがある。
正宗一族は、どうやら、相当のスパルタであったらしい。
「……まさか、聞いちゃいけないことだなーとか思ってないよね」
図星だった。表情でそれが悟られたのか、メルカはこれ見よがしに溜息をついてみせた。
「全然そんなのじゃないから」
「でも……お前はそれでいいのかよ」
「何がよ? 別に私はそのことを悔いてるつもりも恥じてるつもりもないけれど。実際役に立ってるわけだしね。人が、一生のうちのどれだけを睡眠に費やしていると思う? ざっと計算しても三分の一から四分の一。それを少しでも削ることが出来たらそれは素晴らしいことだわ」
「確かに、そうだけど」
「この技術《、、》のおかげで、勉強にしても、運動にしても、趣味にしても。何もかも、普通の人間よりも多く時間を使えることが出来る。今の私にとっては、なくてはならないことよ。――今更正宗一族ではないと言い張ることも出来ないし、普通に戻すことも出来ないし」
便利だからという良さともう覆すことは出来ないという諦念がないまぜになった感情。メルカ自身、本当はそれを扱いかねている点もあるのだろう。
彼女は小さく頭を振って、雑念を追い払うかのように強く瞼を閉じた。その後何事もなかったかのようにこちらに向き直る。
「確か、織神も魔具使いの家系なんだったっけ……。雷兎は、そういうところどうなの?」
「織神一門は……潰れているも同然の一族だしな。小さいころは自分がそういうものだということも知らなかったし。教えられたことなんてほとんどないよ」
没落貴族ならぬ、没落一族。
織神一門は――僕と血を同じくする者は、もう数人しか残っていないだろう。
華音含め。
「織神が健在なら、そもそも雷兎はこんなところにはいないのだろうけどなのねー」
「そうだったのかな。そうかもしれない」
適当に相槌を打っておいた。
「そもそも、よ。織神一門って、どういうところなの?」
「どういうところがどういう意味だ」
「そのまんまの意味よ」
どういうところ……なあ。僕だって、その身を以って体験したわけじゃないし。
「分からない。まあ、よくある昔気質の集団だったんじゃないの」
「私も驚くほどの適当ぶりね」
「自分で自覚してたのか」
「まさか」
「してるじゃん」
「メルカは自由なのー。それと、昔気質っていうのはちょっとだけ否なの」
溜息を伴い、恋歌が会話に入る。
「ちょっとだけ?」
「なの。織神一門は他の、有名な一族の下部組織だったの。その有名な一族っていうのは、日本では魔具使い御三家と呼ばれるほど有名なところなの。今は下部の一族が続々と失脚していて勢いを失っているけど」
と、じろりと僕を見る恋歌。……なんか、責めているような視線なんだけど。痛い痛い。
僕にどうこう出来る問題じゃないし。
「御三家とかあるんだな。知らなかった」
「識々の教育が悪いの……。御三家といっても、日本国内の話だから、世界基準で見たら十指に入るくらいだろうけどなの」
「世界で十指って、十分凄いことじゃない。御三家全てが、ってことなのよね?」
メルカの横槍が入る。尤もなことだ。
「そうなの。日本は何故か強力な魔具使いが多いの。人口当たりの魔具使いの割合も。個人個人で見ても、世界的に有名な魔具使いは結構いるはず」
「……へえ」
「ちなみに、その世界的に有名な魔具使いって、メルカの父親も入ってるの」
「…………」
正宗村正が、か。
それほどまでに、奴は強いのか。
「まあ、気になったら識々に頼めばいいんじゃいないの?」
「正宗村正について教えてくれって?」
「是なの」
識々が教えてくれるとは、あまり思えないけど。あいつ、僕が必要な情報については詳らかに教えてくれるけど、どうでもいいと判断したことは全く教えてくれないんだよなあ。
僕にだって、関係なくとも知りたいことは山ほどあるのに。
例えば――さっきの話の、僕の一族についてとか。
以前聞いたことはあったけど、何も教えてくれなかった。『雷兎君にはまだ早い。それに今知ろうとしなくても、いつか必ず知るはずだから』、と。そう煙に巻かれて、今もまだその時は来ていない。
「あ、それと丁度いいから今聞くけど。雷兎、篝さんと話していたそうね」
「知ってたんだ」
「そりゃそうよ。だって、あの雷兎に女の子、しかも篝さんみたいな子が声をかけてたんだから。教室で」
「何? 雷兎告白されたの?」
「恋歌は何も話すな」
「雷兎が酷いの、メルカおねえちゃん」
「よーしよし」
何だこの二人。
……ともかく、それを何故聞いてきたんだろう。確かに僕が学校で話しかけられるのは滅多にないことだけど。
「で、本当は何だったの? まさか本当に愛の告白?」
「愛の告白ではない。けど、うん……告白っちゃあ、告白だよな」
広義な意味での、だけど。
「へえ、雷兎にもついに春が」
「だから、違うって言ってんだろ。何回言ったらお前は理解してくれるんだ」
「まあ冗談はこれくらいにして。内容は」
「内容……でも、な……」
あまりにもプライベートで、重い話だ。僕の口から第三者に言うべきではない。特に、識々の耳にでも届こうものなら、激怒されるかもしれない。
「他人には、あまり話せない内容だから」
「言わないと雷兎に襲われかけたって校内で言いふらすわよ」
「待て」
「私本気だから」
「待て!」
メルカだと本当にしそうで恐い。
「さあ、言うのよ。あなたが知っていること全て!」
何こいつ鬱陶しい。どうしたらいいんだ。
「……識々には、言うなよ」
「勿論」
「なの」
なんで恋歌も聞く気まんまんなんだ。
「あのな……………………」
――で、事の次第を語り終えた。僕が話している間一言も話さず耳を傾けている二人が少し気味悪かったけど、それは口にはしない。
そして、聞き終えたメルカはソファに凭れかかりながら一言、
「どうしてそれを人に話すのかしら……そんなプライベートなこと」
「ちょっと待てええええ!!」
「篝さんが知ったら、下手すれば泣くわよ。雷兎に話したことを後悔するかもしれないわね」
「知らせる気なの!?」
だから拒んだのに!
お前らが話させたようなもんだろ!
「これだから雷兎は最低のクズなのよ……」
「言われすぎだろ僕! 僕はそんな鬼畜じゃないし!」
「じゃあ何でそんな大事なことを話したのよ!」
「お前が話させたんじゃねぇか!」
駄目だ、話が通じない。僕にどうしろと言うんだこいつ……。
「はあ……まあ雷兎が暴露したことはひとまず水に流しておきましょう。そんなことより、まさかあの篝さんがそんなに深刻だったとはね」
「何その、話が進みそうにないからとりあえず僕を貶しておこうみたいな流れ」
「あの子、いい子よね」
「……そうだな」
メルカが人を褒めるとは思わなかった。彼女の視線は明後日の方向を向いていた。
「なんの躊躇もなく僕に話しかけてきたりね」
「私も、そうね。学校では普段人とは殆ど話さないし話そうとしてないけど、篝さんはよく話しかけてきてたわね……」
「なんか、二人とも面倒そうな学校生活を送っているの……」
当然のように話していた僕とメルカの台詞に、恋歌が憐れなものを見るような目をして突っ込んだ。
「そんなことないよ。慣れてきたら普通だ。一人でいる分気が楽なこともあるしな」
それに、友達は出来るだけ作りたくない。――何か、あったときのためにも。いつか来るであろう惜別と、友達と笑い合っているときの幸福、それを天秤にかけたら――一度経験している分、惜別の苦しみのほうが重いから。
「それにあの子、可愛いわよね」
「……た、確かに」
あどけなさを残した顔つきで、いつも周囲に笑顔を振りまいている。手足は丁度いい感じにふっくらとしていて、胸も、セーラー服の上からでも普通よりは大きいことが分かる。愛嬌のある風貌で、男女共に人気だ。
「雷兎、今やましいことでも考えたでしょう」
「な、何も?」
「…………それに彼女、それだけじゃないわ」
「何だよその間」
「勉強は常にトップ、運動に関してもトップクラス、人気者投票でもあれば、間違いなく三位以上には入るでしょうね」
「何で無視したの」
「私、あの子に勝ったことないのよ」
「……勉強で?」
もうメルカに返答を求めるの疲れた。諦めて話の流れに乗ってみると、メルカは小さく頷いた。
「私も相当頭がいいけど、成績を見てもいつも二位かそれくらいなのよ。対して、返却のときに聞こえる歓声。篝さんが一位なのは、もう、見なくても分かるわよ」
「確かに……テスト返却のときはあの子の独壇場だよな」
ざわざわと広がる歓声を思い出す。
「正直、あの子には勝てる気がしない」
メルカらしからぬ、諦めの言葉。本人自身が、それを悟っているのだろう。
「けどさ、勝つことは出来なくても、同率一位なら狙えるんじゃないか?」
「それは難しいわ。私、集中力が続かないから」
それが何故一位になるのかははっきりとは分からないが。……多分、テスト前の勉強とかを飽きてしまって終わらないままにしてしまうんだろう。
「篝さん、ね……何もないといいんだけど」
「そう、だな」
その言葉が何を表しているか、定かではない。
会話が途切れて、ふとメルカの傍らを見てみると、そこには、ソファに寄りかかってぐーすか寝ている恋歌の姿があった。
「いつの間に寝たんだ、こいつ」
「さあ。話がつまらなくなって寝ちゃったんでしょうね。人間って、自分が関与していない話にはとことん無関心になれるから」
「僕達しか分からない話だったもんな」
メルカがおもむろに立ち上がって、僕もそれに続いた。互いに顔を合わせて、苦笑した。
「さて。夜も遅いし、恋歌を運んでから僕も家に帰るよ」
「そうしましょうか」
明日も学校あるんだし。……多分授業中は寝っぱなしだけど。それでも徹夜はきつい。
恋歌を背中に抱えて、リビングの電気を消した。
雷兎たちの日常パートでした。
仲良いね。