一章 5/ ――とある夜、二
一章 5/ ――とある夜、二
男は歩く。明かりも灯されていない回廊を。
その男は血にまみれていた。体を包む元々は紺だった長外套も、防刃性能の高いカーゴパンツも、鋲が打ちつけられた戦闘用ブーツも、全てが赤黒く染まっている。しかし男自身は一つの擦過傷も負ってはいない。
それはつまり、男がたった今他の誰かの命を刈り取ってきたということに他ならない。
男は広く長い回廊を歩く。左右にはドアが並んでいる。訓練室一、訓練室二、鍛錬室一、鍛錬室二、医務室、諜報室……そのギルドの大部分が、その建物に集められている。
訓練室や鍛錬室からは気迫の入った一声が、医務室からは男のうめき声が漏れている。彼の所属するギルドは、その百人を越える、巨大集団だ。実力も、決して伴っていないわけではない。だが末端の、魔具使いになりたての者たちは特に入れ替わりが激しい。
彼はギルドの中では中堅の部類に入る。高校一年生のときに魔具が発現してから、以来七年間、刃を振るい続けてきた。
実力も、戦歴も、申し分ない。彼らのギルド――〝武來〟にとって、欠かせない存在だった。
単対単の真っ向勝負で最も大きな能力を発揮する彼の力は、ギルド間の抗争によく適している能力だった。
だが、最近の彼は調子が篩わない。理由は分かりきっているけど。
男は唇を噛み締め、回廊の一番奥のドアを開けた。
そこには豪奢なデスクが一つだけ。周りには調度品は何も備え付けられていない。味気ない部屋、無機質な部屋。
そこで彼を待ち受けていたのは、二人の人物。
デスクの椅子に座っている若い女。その斜め前で立っている青年。
椅子に座って腕を組んでいるその若い女こそが、彼らが〝武來〟の頭領――桐峰白亜。
白亜は、男に尋ねる。
「首尾は」
「勝った。見りゃ分かるだろ」
「私の主観だけでは物事を確実に判断できるわけではないからな」
玲瓏な白刃と称される桐峰白亜の声には、鋭さがあった。頭脳明晰にして戦闘能力も随一の、〝武來〟の誰もが認め、誇る頭領の姿。
男はデスクの前まで歩んだ。青年と横に並ぶ形になる。
「とりあえずは、お疲れ様と言っておこう」
「どういたしまして、白亜さん。……それで、アロイ。そっちは?」
「僕のほうは……」
言いよどんだ青年の名は、アロイというらしい。
西欧風の顔つきに、くすんだ金髪、長身――紛れもない外国人である。アロイは、〝武來〟の諜報担当の魔具使いだ。そして――今回アロイが頼まれていたのは、男に個人的に頼まれていたことだった。
個人的に――ということは、頭領の白亜も知らない所で、ということだ。アロイは、男と白亜の顔を交互に見た。
「ああ、大丈夫。もう隠す必要はないから」
「そ、そうなんですか……?」
「久遠。隠し事が、私にあったのか?」
久遠と呼ばれた男は、すみません、とそれだけ言った。
「――あったよ」
アロイの言葉に、久遠の眉が跳ね上がった。
「ここから三つ隣の県だ。町の名前は、八代町」
「八代町……」
「久遠! 何をしようとしている」
白亜は椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がり、久遠に近寄る。激情と冷酷さを秘めた美貌の双眸に睨め付けられ、久遠はわずかに後ずさりしながらも、目線だけははずさない。
「――俺が最近調子が篩わない理由は、知ってるでしょう?」
「それは、勿論だが……まさか」
「その、まさか……ですよ」
「八代町で、昨日、全身がバラバラに引き裂かれて殺された事件が発生したそうです。俺に情報を届けたのが魔具使いなことからも、犯行が魔具使いによるものであるのは自明です」
アロイはまだ若い魔具使いだ。だが、その情報収集能力はぐんぐんと腕をつけてきている。〝武來〟の中でも頭角を現してきている。
アロイは、久遠のことを敬愛していた。アロイが初任務で担当したのは、抗争のチーム戦に出た、久遠だった。そのとき久遠の強さを垣間見、その戦いに惚れこんだ。そのときに久遠に励ましの言葉をかけられたのも大きい。
久遠もアロイの成長を見込んで、自らアロイの支援を頼んだりもしていた。所謂、相棒の間柄だったのだ。
だからこそ、久遠はアロイに頼んだ。
自分にとって、大切なことを。
「白亜さん」
「……行かせてください、と?」
「そのとおりです」
久遠は苦笑しながら頷いた。白亜は、表情を険しくしながら、久遠の襟首を掴んだ。
「出来るわけない! 今、我らは戦争の最中だぞ!? 久遠は、重要な戦力だ。お前一人でも、いや、お前一人だからこそ、失うわけにはいかないんだ!」
「――それでも!」
白亜の腕を掴んで、引き剥がした。久遠の行動に、白亜のみならずアロイまでもが驚いた。
「それでも、オレは……行かなきゃならないんです。いや……行きたい。自分の意志で」
「それは、何のために」
「――復讐の、ために。弔いの、ために」
久遠の心の大半を占めていたもの。
それは、久遠の目の前で奪われた。
その光景がフラッシュバックして、その悔しさに久遠は血が滲むほどに唇を噛み締めた。
「……アロイ、ありがとう。白亜さん――今までお世話になりました」
「何を……言っている」
「どうしても白亜さんが許可してくれないなら、ギルドを旅立つしかないでしょう」
それは、決心だった。固く辛い、決心。
「これはオレだけの戦いです。〝武來〟は巻き込めない。オレは〝武來〟だけど、〝武來〟はオレじゃないから。たとえ一人でも、決着をつけないとならない」
私は〝武來〟。だが、〝武來〟は私ではない――
それは、桐峰白亜自身が、ギルド創設の際に放った言葉だった。以来、それは彼らの矜持にもなっていた。
〝武來〟は、人がいてこそギルドたりえる。だが、ギルドは一人だけで成り立ってはいない。いつか、尻尾を切り落とさないといけないこともある。手足でも、頭でも、一緒だ。やむをえない場合は、迷ってはいけない。
自身も一個の〝武來〟だという、一見すればドライな思いを抱いていた白亜。だがそれは、全員のことを思ってのことに他ならない。
俺は〝武來〟だけど、〝武來〟は俺じゃない――
ならば、久遠の言葉もそうなのだろうか。
「じゃあ、さっさと行くことにします。部外者は、ここにいてはならない」
「待て――」
久遠は踵を返して、部屋を出ようと歩を進める。
白亜は、その背中に言葉を放った。
「いつか、戻って来い」
「……気が、向いたら」
それだけ残して、久遠は扉を開け出て行った。
残響のように、言葉が二人の心に木霊した。
「……あの、馬鹿野郎」
白亜の呟きは、アロイにしか聞こえていない。
アロイは、静かに涙を流していた。