一章 2/ 朝の兄妹
一章 2/ 朝の兄妹
じりりり、じりりり、と。アラームが鳴る。
「…………ん……」
僕がセットした、昔懐かし黒電話のアラーム。ということは、もう七時らしい。
「眠たい……」
携帯電話を開いて、ボタンを押してうるさいそれを止める。そして再び布団にもぐりこんだ。
「幸せ……」
あ、今日学校あるな。
あー……でも、どーでもいーやー……。もう一眠り……。
「兄ぃ」
「はいッ!」
飛び起きた。
「華音、おはよう!」
「……うん」
愛すべき我が妹と比べたら、二度寝など一片の価値もない!
華音は既に通っている中学校――八代中学の制服に着替えていた。ごく普通のセーラー服だ。赤いスカーフはまだ結んでいない。細身の華音によく似合っている。
「うん……いつ見ても華音の制服姿は素晴らしいね」
「変態……」
ベッドから降りて、思いっきり伸びをした。あ、ぽきぽきいってる。
「私、ご飯作ってくるから」
「うん、お願い」
朝ご飯は平日は華音が、休日は僕が担当だ。昼と夜は日に日に変わる。
華音は部屋から出て行って、僕はクローゼットを開けた。中にはハンガーにかけられた制服とか洋服とか――あとナイフを陳列したガラスケース。
前まで、華音はこの部屋には入れていなかった。何故なら、そこには彼女にとっての非日常があったから。それが、これだ。
だけど、前にメルカが華音と話していたとき、華音が兄の部屋には入ったことがない、と漏らしていたらしい。
僕としても、愛しい妹を部屋に招き入れたかったし、妹の要望は出来るだけ叶えたかった。
だから、このガラスケースをクローゼットの中に入れたのだ。
それにはメルカが協力してくれた。二人であれやこれやして、何とか収納するとこまでいけたのだ。
代わりにクローゼットの中はぐっちゃぐっちゃになってるけど。この巨大な面積を空けるために、服も結構捨てたりした。
けど、満足。
華音は部屋に入るようになって、僕は毎朝華音の声で目覚められるわけだ。実際目覚めている原因はアラームだけど、気にしない!
「華音……」
たった一人の、血を分けた兄妹。大事な大事な、僕の妹。
あの子に非日常は見させたくないから。あの子にだけはせめて幸せでいてほしいから。
そのためなら、服なんてむしろいらねぇや。
「ま、流石に全部は困るけどな」
と、自分でオチをつけて、制服を手に取った。
普通の学ラン。
パジャマを脱いで、適当にとったシャツを着て、その上に学ランを羽織った。下も着替える。
部屋に置いている時計を見ると、七時五分を指していた。
「やっぱ、起こしてもらうようになってから大分早く起きるようになったな」
いつも七時四十分くらいには家を出ている。前までは二十分くらいまで寝ていたのに。
ともかく、と、僕は扉を開け階段を降りていった。
「華音ー」
階段を降りて左方向にはキッチン。右方向がリビングで、テーブルとソファとテレビ。階段を降りてから反対を向くとトイレと風呂。
僕は正面近くにある食事用のテーブルに近付いて、イスに座った。
すぐに華音が料理を運んでくる。
こんがりトーストと、シーザーサラダと、牛乳。
「おお、洋食」
華音は自分が小食なので朝飯の量もそれほど多くない。パンは二枚だけど。
トーストに苺ジャムを塗りたくりながら、華音を見る。
「あれ、化粧水変えた?」
「……何で分かったの」
「いや、そりゃ華音の肌のことだったら見ただけですぐ分かるよ。前のは、しっとりもちもち? って感じだったけど、今はさらさらしてる気がする」
「……日に日に兄ぃが変態になっていく」
実はおしゃれさんな華音。
てか、そのくらい分からなくて何が兄なんだよ、ってね。
「気持ち悪い……」
華音が酷い。
「何? メルカと話してからそんな感じになった気がするけど。まさかあいつの影響?」
「……知らない」
華音は何もつけずにトーストを齧っていた。ちなみに華音はトースト一枚だ。
「化粧水変えたのって、何で? 確かこの前のは、気に入ってたのか二つ目くらい使ってたよね。気分の問題?」
「……何で同じの続けて使ってたこと知ってるの」
「そりゃ、兄だから」
「こんな兄が全国にいたら、世の妹たちにはもっと笑顔が増えていたでしょうね」
「え、何、僕褒められてるの?」
そう……だよね?
「私は、ため息しかつけないけど」
「前言撤回!?」
「だけ、じゃない。悲しんでる……から」
「悲しむ!? 何をだよ!?」
「兄ぃがいつか犯罪を起こさないかと……」
「起こさねぇよ……」
華音の頭の中で僕はどういう風に扱われているのだろう。
「……話を元に戻すけど、気分の問題だから」
「そう? ならいいんだけど」
一枚目を食べ終わった。サラダのレタスをフォークで突き刺して、口に運ぶ。うん、シーザー。
「男が出来たとかじゃないよな」
「…………」
「男が出来たわけじゃないよな!?」
机に手を突きながら、前方へ乗り込んだ。華音の顔を伺う。
「……出来ると思ってるの?」
「そりゃもう。びっくりするほど可愛いし」
「出来てない」
その言葉を聞いて、安堵の息を吐きながらイスに座り直した。華音は若干呆れ顔だ。あと残念そうな目で僕を見ている気がする。気のせいだと思いたい。うん、きっとそうだ。
「いや、華音に彼氏が出来ることは全然悪いことじゃないんだよ? けど、もし出来たのなら、僕も挨拶しないといけないし、やっぱり相手のことは気になるから、身辺情報とかは徹底的に調べるけど。その上で相手に後ろ暗いところがあるなら、僕はやめろって言うけど。それにそんなことがなくてもチャラ男だったり性格が悪かったりする奴は却下だけど。けど、華音に彼氏が出来るのは悪いことじゃなくて、むしろ良いことなんだけど――」
「兄ぃ、そろそろうるさいよ。黙ってご飯食べたら?」
いつの間にかまくし立てていた。
華音も多少本気が混ざった声音で言った気がするので、黙ってサラダをつついてトーストを頬張る。
そして喉を潤そうとして牛乳に手を伸ばしたとき、ふと気付いた。
「そういえば華音、身長伸びた?」
「……変態の兄ぃなら、分かるんじゃない?」
「身長はよく分からん」
自分も身長伸びてるわけだから、比較もあんまり当てにならないし。
「……あんまり、伸びてない、けど」
ちなみに華音の身長は百四十五センチくらいだ。小柄な部類に入る。僕は百六十七センチくらいの平均的な身長。
「華音、知ってた? 牛乳に入ってるカルシウムは、確かに身長を伸ばすためには必要だけど、たんぱく質もとらないと駄目なんだってさ」
最近知った話だけど。
華音は、それを聞いて、牛乳を睨んでいた。
いやいや。牛乳の所為じゃないじゃん。
「あ、あと、運動もちゃんとしないといけないんだって。栄養とってるだけじゃ意味ないらしいよ」
「……いいもん」
牛乳を一口で飲み干した。自棄酒ならぬ自棄牛乳だ。
そんなに身長のことでコンプレックス抱かなくても良いように思うけどなあ。身長低い子は低い子で可愛らしくもあるし。
女の子は若いだけで宝物ですよ。
「って、僕はおっさんか」
「おっさんよりタチが悪いと思うけど」
即座に返ってきたのは華音の突っ込みだった。
トーストを齧り終えて、サラダを少しずつ咀嚼していた。
僕と同色の黒髪は肩口で切り揃えられている。前髪は眉が隠れるくらいのぱっつん。髪は、細くもなく、太くもなく。丁度いい感じだ。適度な艶が光を映していた。
レタスやミニトマトを運ぶ口元は、小さい。小食のうえに一口一口が少ないから食べる時間は僕とあまり変わらない。傷一つない、つやつやした肌。先刻も述べたとおり実はおしゃれさんな華音は髪と肌の手入れは欠かさない。そのおかげで肌は真っ白だ。
その上にのる双眸は、闇のような黒さを湛えている。大きくて、形もいい。実は目が悪くて、コンタクトを愛用している。休日にはために眼鏡で代用しているのが可愛らしい。眼鏡姿の華音は僕だけが知っている気がして、見るたび優越感に浸っていたりする。
「……何じろじろ見てるの」
「見とれてた」
「……………………気持ち悪い」
「そんな溜めて言うこと!?」
きついな……。
「さっさと自分の分、食べたら?」
言われて、華音は食べ終わっていて自分はまだだということにやっと気付く。華音は食器を重ねて台所に持っていった。
僕もさっさと食べてしまおうとさっきより速く手を往復させる。サラダを葉の欠片一枚残さずに完食して、トーストにジャムを塗ってかぶりつく。ん、ちょっと冷めてもうた。
食べながら、気持ち悪い、という単語を思い出す。
気持ち悪い――男。
あれと相対したのは、昨日のことだ。時間にしてみても、十時間くらいしか経っていない。正直、あのときの気持ち悪さはまだ拭いきれていない。
寝る間も奴のことを考えていた。
あの男も――あの、手に持っていたものも。ひたすらに、気持ち悪い。
気味が――悪い。
なによりも、出会って直感した。奴は、僕の日常に波紋を起こす、と。
言いようのない不安。例えようのない不心。
何だったんだ、奴は。
「兄ぃ、また腕が止まってる」
台所から戻ってきた(といってもすぐそこなんだけど)華音に注意された。内心の不安を見せないように、笑顔で応えてから、またトーストを齧る。
「それに、怖い顔してた」
齧れなかった。
華音を見る。僕を見返す、同色の瞳。兄妹であることを示すかのような、同じ色。
「……ごめん」
僕の不安は、隠しきれてないみたいだった。
華音。
二人になった時から、守り続けてきたたった一人の妹。僕が妹のことを良く知っているように、華音もまた兄のことを良く知っている。
寄り添って生きてきたから。
それくらいは当然なのかもしれない。
世の中のお兄ちゃんと僕がちょっと違うのは、普通の生き方をしてこれなかった所為かもしれない。
「……いい、けど」
華音はそっぽを向いて、呟いた。
僕の生きている理由は、戦っている意味は、その何割かは、間違いなく華音のためだ。
ごめん、と、心の中でもう一度謝った。
華音までも不安にさせてしまってごめん、と。
「……早く食べないと、遅刻しちゃうんじゃないの」
「まだそんなに経ってないよ」
苦笑しながら、時計を見た。
七時三十七分を指していた。
僕は四十分には家を出ている。僕の通っている愛染高校につくのはいつも遅刻数分前だ。
「やばい!」
ぼーっとしてた!
まだ三十分くらいだと思ってた!
「じ、準備!」
鞄二階に置いてきたがな!
席を立って、階段を上って、鞄を見つける。中身。大丈夫! 文房具とルーズリーフが入っていたら大体大丈夫!
階段を駆け下りて、元の席に戻った。
「はあ……何秒かかった?」
「……二十秒くらい」
華音はソファに置いていた鞄を取ってきているところだった。
「よし、トースト食うか」
二分もあれば食い終わるだろう。
「兄ぃ、まだ?」
「もうちっと待って……」
華音とは家を出てすぐ分かれないといけないけど、そこまではいつも一緒だ。華音もいつもわりと遅刻気味だと思うけど(自転車漕ぐのもそれほど速くない)、それでも僕を待ってくれている。
だから、さっさと食べないと。
折角華音が作ってくれた料理を、よく味わいもせずに食べるのも申し訳ないし後悔するけど。
料理って、オーブンで焼いただけじゃんとか言うな。
味わうって、ほとんどジャムの味じゃんとか言うな!
僕は二枚目のトーストをようやく齧って、立ち上がった。
「さて、行くか」
「……食べながら?」
「食べながら」
華音は溜息を吐いた。
トーストは、冷えちゃったけど美味しかった。