序章 1/ ――とある夜
序章 ――とある夜
五月。
暗い町を、駆ける音。何かから逃れるように。町の裏通りを走る。
それは少女だ。塾の帰りだった彼女は、高校の制服のまま、鞄も持ったままだ。
何でこんなことに――と、彼女は世の中の不条理に唇を噛み締めた。いつもどおりの塾帰り。県外の有名国立大学を志望する彼女は、勉強にも熱心だった。友達も多く、恋もする、普通の女子高生だった。
塾が終わって、時刻は午後九時ほど。まだだった夕食をコンビニ弁当で済ませよう、と帰る途中にコンビニに寄り、弁当とおにぎりと飲み物を買って店を出た。
家までは自転車で十分ほどだ。さっさと帰ろうとした矢先――
ソレは、現れた。
ソレは男のようだった。荒い息を繰り返しながら、彼女に近寄ってくる。
飛びつかれた。
いきなりのことで動転した彼女は、自転車も放って、逃げ出した。男は追ってくる。どっと、汗が噴き出る。嫌な汗だ。
早く、家へ。
彼女は橋に差し掛かった。家は橋のすぐ近くだ。もう少し、というところで。
男の手が彼女にかかった。男の尋常ではない膂力が、軽い少女の体躯を投げ飛ばした。
橋から落ちている、と彼女は感じた。
なぜなら、あまりにも、浮遊が長かったから。ゆっくりと――時が流れて、視界が遠ざかっていく。
死ぬのかな――と、ぼんやりと思った。
落ちる。
橋の下は川が流れていて、砂浜がある。少女は水の中に落ちた。
水の柱が立つ。彼女の体は、水面に叩きつけられ、底にぶつかった。浅い。底は石だらけで、激痛が走った。
少女は痛みに喘ぎながら、水を這って出る。砂浜に辿り着くと、のた打ち回り、必死で痛みをかき消そうとした。
その時、彼女の体に影が被さる。
彼女をこんな目に合わせた張本人が、目の前にいた。
痛みを忘却させるほどの恐怖。蛇に睨まれた蛙。体がカタカタと震えているのは、びしょ濡れになった所為だけではない。
少女は、男から眼を離せなかった。
黒いコート。そして――顔の左側に走っている、酷い傷。
あれ――と、彼女は不思議に思った。
どうやってここまで来たんだろう、と。
さっきまで手に何か持っていただろうか、と。
男の手に握られているのは何だろう、棒にも見えるけど、暗くてよく分からない。
男は少女を見下ろしたまま、嗤った。
ぎぃぃぃぃぃん――と、手の中の物が唸りをあげた。
◆
「雷兎、次のテスト大丈夫なの?」
「……多分」
僕とメルカは平行して歩いていた。
僕の家からの帰り。メルカを朝威邸まで見送っている。
「多分じゃ駄目じゃない。今日も休んでいたし」
「今日のは仕方ないって……」
「また、戦い?」
「そうだよ」
メルカと関わりあったあの事件から、早数週間。
四月から五月へと時は移り、僕は、平和とはいえないまでも普通の日々を送っていた。
メルカを連れ戻そうとする、魔具蒐集戦線と戦いながら。
「というか、腕は大丈夫なの? まだ全治してないんでしょ?」
「そうだけど。戦わなくちゃいけないからね。多少は無理しないと。それに、脚技も使うようになったし」
「脚?」
「そう。前の――〝瀧夜叉〟の虚衣薊は、ナイフと脚技を使う相手だった。それの真似を、ちょっと」
「……そんな感じで敵倒せるの?」
「うん。向こうがどんなつもりなのか分からないけど、戦線は僕が倒せるくらい弱い奴しか送ってこない。……正直、気味が悪い」
メルカを取り戻すために――と、さっきは表現したけど、それすら怪しい。魔具蒐集戦線のような巨大ギルドなら、僕を殺すくらい容易く出来る猛者はいくらでもいるはずなのに。
その辺の調査も識々には頼んでいるけど、情報が捕まる可能性は殆どないだろうとあいつも言っていた。
「まあそんなことはどうでもいいのよ。問題は雷兎の学力よ」
どうでもいいのかよ。
「つーか、それはもう何ともならないって」
「ならないわけないじゃない」
今日、戦線の連中と戦うために朝から昼まで飛んだり跳ねたりした後、家へ帰って休んでいると、メルカが尋ねてきた。学校を休んでいたのを何となく気にかけていたらしい。
それから僕の家で夕食を作ったり、話し込んでいたりすると、もう時間は九時を過ぎていた。一人は危険だということで、僕はメルカを朝威邸まで送り届けている。
メルカは住んでいたマンションを引き払って、朝威邸に転がり込んでいる。そのほうが安全だからだ。
で、僕の家で居る時に話したことだったけど。
「あなたの頭の悪さはどうにかする必要があるわ」
僕があまりにも勉強が出来ないことにメルカが嘆いていた。
うるさい。
「ただでさえ酷いのに、高二になってすぐからこんなに休んでいたら、本当に留年しちゃうわよ」
「……危機感は持ってるつもり、だけど」
「持ってないわよ」
メルカのため息。今日何回目だろう。
「……まあ、助けてもらった礼もあるし、出来ることはするけどさ」
「本当に!?」
「嘘は言わないわよ」
「嘘つき」
耳を捻り上げられた。
激痛に、押していた自転車を手放しそうになった。
「痛い! ちょ、べきって! 今耳からべきって!」
「こっちは真剣に言っているのよ。ちゃんと聞かないと、引きちぎるわよ?」
「耳を!?」
ようやく離してくれた。
「はぁ……耳ちぎれてない?」
「声が聞こえてるんだったらちぎれてないでしょう」
冷たい。
メルカが冷たいのはいつもだけど、暴力は……なんか違う。うん、なんか、違う。
……あれ? 僕今すごく変態みたいなこと考えてなかった?
「僕そろそろやばいかも」
「何よ、いつものことじゃない」
日に日にメルカのS度が増してる気がする……。
「んー……いいや。あ、それとメルカ、さっき聞き捨てならないこと言った気がしたから、言っておくけど」
「何」
「『礼もあるし』……って、そんな、礼に思うようなことじゃないからな。僕がやったことは」
メルカを助けたのは、当然のことだ。
それを間違えてもらっちゃ、困る。
「ふぅ……いつもそれぐらい格好いいことを言えたらいいんだけどね」
「え? なんて?」
「何でもない」
何でもないって言うんなら、何でもないんだろう、多分。
識々の家まではもうすぐだ。
――という時。
僕は立ち止まった。
「どうしたの?」
「何か――聞こえる」
悲鳴のような、誰かを呼んでいるかのような。
「……私には何も聞こえないけど」
それは脳内で響いているみたいだ。
気持ち悪い――なんだこの音。
『雷兎!』
「……恋歌? この音、お前の仕業か?」
『音? 何のことか分からないの。それより、魔具の反応が出たの』
恋歌の魔具〝アルファヴォイス〟による脳内通信。そして伝えられた言葉。
そうか……これ、魔具なのかな。
ぼんやりとそんなことを思う。
「どこだ?」
『橋なの』
「橋……あそこか、オッケー。行く」
そういって、メルカのほうに自転車を差し出した。
「ごめん、メルカ。行かなきゃ。一人で帰れる?」
「馬鹿にしないで。それくらいは出来るわ。自転車は朝威邸に置いておくわよ」
「ありがと」
それだけ言って、踵を返した。
橋……八代町には橋はいくつかあるけど、恋歌が固有名詞を出さないってことは、最寄の橋だろう。確かここからだと、方角は北の方か。
しかし――なんで、探知能力のない魔具を持つ僕が、魔具の開放を察知できたんだろう。
疑問は残ってるけど、目前のことを確かめる方が先だ。
「目覚めろ――〝白ウサギの目〟」
純白の髪、真紅の瞳。卓越した身体能力。
僕は駆け出した。
◆
跳ぶ。
目的の場所までは一分もかからない。
『メルカは?』
「一人でそっちに向かわせた」
メルカも〝一期一会〟の魔具使いだ。けど、まだ戦闘経験はない。
そう――メルカの〝獄炎響鳴十四翼〟は、まだ眠ったままだ。
『一人で大丈夫なの?』
「……大丈夫だろ」
着地して、駆け抜ける。着いた。
橋の中央。周囲を見渡すが、何も見えない。車はいくつか通っている。
「――下か!」
迷わず欄干をジャンプして、飛び降りた。
砂が跳ねる。前方――
「何をしている」
黒いコートの男と――
元が何だったのか分からないような、肉塊。
途端に激情が胸の中を吹き荒れ、僕は走り出した。腰の後ろに隠していた鞘から大型ナイフを取り出す。
突進しながらそれを振るう。男は後退しながらそれを避けている。
ナイフを振るった勢いのまま、空中で体を捻る。真上から敵を狙った踵落とし。
だがそれは砂を蹴るだけ。
「くかか――」
男の手の物が、唸りを上げた。
「何者だ」
男は答えない。ゆらゆらと、歩んでくる。
瞬間。
男が目の前に現れ、それを振り下ろした。
「――速っ」
一瞬で十メートル以上の距離を跳んで避けた。男の攻撃も空を切る。
「お前さんはぁぁ――どこのどいつだぁ……」
男の声。狂ったような、声。
「犯罪者に答える義務なんかねえよ。ぶっ殺すぞ」
何だろう――凄く、嫌な予感。
力をぶつけるまでもなく感じる、圧倒的な禍々しさ。
――気持ち悪い。
それにあの武器は、何だ。よく分からない。
「まぁぁいぃぃや……今日は戦うべきではぁないぃぃ……」
「気持ち悪ぃ喋り方しやがって。逃すと思ってんのか」
「じゃあ、ここで殺してやろうかぁ?」
「――ちッ」
踏み出そうと思った一歩が、踏み出せない。
これはきっと恐怖だ。
感じたことの無い、恐怖。違和感。
「じゃぁぁなぁ……」
男は、後ろに跳んで消えた。まさしく闇に溶け込むように。
「くっそ……」
手が出せなかった。
「あんな奴が、どうしてこの町に……」
僕はその場に膝を付いて、へたれこんだ。
また新たな事件の予感がした。
やっとこさ白ラピ第二幕、始動です。
詳しいことは活動報告に書きます。書くつもりです(何