ふるさと
「あなたのふるさとはどこですか?」
そう尋ねられたとき、私は今住んでいる福岡がふるさとだと答える。生まれは福岡ではないらしいが、それでもふるさとは福岡だと答える。日本ではない。
私は物心ついた時には、福岡に住んでいた。
小さいときは、家の周辺。そして保育園までの道のりしか知らなかった。私にとってのふるさとはそこだけだった。休みの日などに、ちょっと遠出をした時。私にとっては未知の世界への冒険だった。
少し大きくなると、やがて自分の知る道のりが増えていく。自分の住む福岡がさらにたくさん見えてくる。私にとっての世界。ふるさとが広がった。
ふるさととは、もっとも多くの思い出を共有できる場所なのではないかと思う。それこそがふるさとなのではないかと思う。
東京や鹿児島に旅行に行ったとき。同じ日本だが、ここはふるさととは違うと感じた。子供のころと同じ、遠出で訪れた、未知の世界だ。私の知る場所ではなかった。
そして旅行から帰り、自分の知る世界に戻ってきたとき。その時になって、やっとふるさとに帰ってこられたと思った。
その時に私は思った。何度も旅行を繰り返せば、やがてその未知の世界も私のふるさとになるのだろうか。自分の知る世界から、徐々に繋げていけば、そこも私の知る世界の一つになるのだろうか。分からなかった。
私は海外に出たことが無い。日本を離れたことが無い。
当たり前のように、日常的に日本語を聞いている。
もし日本語のない世界に訪れたら、私にとって日本はどう映るのだろうか。海外から日本へ戻ってきたとき。周りに日本語があふれる世界に帰ってきたとき。
そこが福岡ではなくても、私は帰ってきたと思うのだろうか。それはどこに帰ってきたのか。何の意味を持つ、帰ってきたなのだろうか。日本語のある世界という意味か。私にとっては未知の世界の一部であるはずのその世界に対して、帰ってきたという言葉を使うのか。なじみのある世界。それが答えなのだろうか。
早く家に帰ろう。私はそう思うかもしれない。それが一番いい。そこはふるさとだ。
故郷という歌がある。子供の頃の野山の風景を遠い地から懐かしむという内容で、生まれ故郷から離れて学問や勤労に励む人の心情を歌っているものだ。
これに限らず、故郷を題材としたものは、その故郷から離れた人を描くことが多い。逆に故郷に居座っている人はあまり題材にされない。されたとしても、それは故郷を思うという内容ではない。
故郷を懐かしむ人たちは、いったいどこまでを故郷と思っているのだろうか。親が住んでいる実家か。子供のころの思い出のある学校、遊び場、その周辺か。どこまで近づいたとき、故郷に帰ってきたと思うのだろうか。
私は故郷を懐かしんだことはない。当たり前だ。旅行で福岡を離れるときも、せいぜい二、三日だ。家に帰ってきたときになって、初めて故郷を意識する。帰ってきたと。
もし仕事などで、福岡を離れたとき。何年も福岡から離れたとき。その時になって、私も懐かしむのだろうか。私の知る世界。わたしのふるさとを。
日本から離れた場合はどうなる。故郷を歌う人はどこを思うのか。自分の生まれた場所か。それとも日本か。故郷から離れた自宅に帰ってきたとき、その人は帰ってきたと思うのか。そこはその人のふるさとなのだろうか。それはどこに帰ってきたという意味なのか。学問や勤労に励む拠点に帰ってきたという意味か。またそこで故郷を歌うのか。歌わないのか。
私にはまだ分からない。私の周りは未知の世界が多すぎる。それでも私の世界は徐々に広がっている。これはどこまで広がるのだろうか。私はどこまでをふるさとだと思えるようになるのだろうか。私は、自分の知る世界に身を置いていれば、家に帰らずとも故郷を歌うことはないのだろうか。私にとって、そこは本当に帰る場所なのだろうか。私はどこに帰りたいのだろうか。
ふるさととはいったい何なのか。
思い出の眠る場所なのか。ふるさとを思う人は、皆自らの思い出を思う。思い出のある地を思う。私もふるさとは思い出のある場所だと思う。私の場合は現在進行形だが、ふるさとを離れ、故郷を歌う人たちにとって、もうふるさとからの思い出は生まれない。過去の産物が静かに積み上げられている。
ふるさとはまるで、思い出の墓場だ。
思い出の墓を思い、人は故郷を歌うのか。美しき、たくさんの思い出が眠る墓を。そして離れた世界で、新しい墓穴を掘るのか。
私は現在進行形だ。黙々と墓穴を掘っている。一つの墓穴だ。初めは小さかったその穴は、世界を知るごとにどんどん大きくなっていった。この墓穴はどこまで大きくなるだろう。いつになれば、私はそこに墓を建てるのだろう。そして新しい穴をどこに掘るのだろうか。
私はいつ、ここを離れるのか。この世界を離れるのか。そして離れた先で故郷を歌うのだろうか。分からない。だがこれは今考えることではないのかもしれない。いずれ分かることだ。
いずれ私はこのふるさとに墓穴を掘る作業を終わらせるだろう。
いつか私は、自分の建てた思い出の墓を懐かしみ、そして涙を流すのだろう。