恋は撃たれるものじゃない。
放課後の教室は、昼間の熱が嘘みたいに静かだった。
机の上には消しゴムのカスと、置き去りにされたプリント。
さっきまでの騒ぎが、遠い出来事に感じる。
三谷ひかりは、あのあと救急車で運ばれた。
命に別状はない。意識も戻っている——担任がそう言っていた。
「……行くか」
五右衛門が立ち上がる。
一条が小さく頷いた。
「うん。気になるし」
澪も、迷いなく席を立つ。
「わたしも行く。放っておけないよ」
五右衛門は一瞬だけ澪を見た。
“いつも通り”の顔をしているのに、目だけが真剣だ。
「……無理すんなよ」
「無理してないって」
澪は笑った。
笑って、すぐ真顔に戻る。
「だって……あれ、怖かった」
それは三人に共通していた。
怖い。なのに、目を逸らせない。
---
病院へ向かう道は、駅とは反対方向だった。
夕方の街には、制服姿がちらほらいる。
部活帰りの集団、塾へ向かう子、買い物袋を提げた人。
——普通の景色。
なのに、五右衛門は胸の奥がざわつくのを感じていた。
(まただ)
(昨日から、ずっと)
理由はわからない。
けれど、ゼロが“何か”を嫌がっている。
一条が歩きながら言った。
「今日のやつ、三谷さん……覚えてないって言ってたな」
「うん」
澪が頷く。
「担任が言ってた。『本人は混乱してる』って」
五右衛門は、足を止めかけて、すぐ踏みとどまった。
「……混乱で済むかよ」
「済まないよ」
一条が淡々と言う。
「ただ、本人が“悪い”わけじゃない可能性が高い」
澪が小さく息を呑む。
「……誰かが、やったってこと?」
一条は答えなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
---
その時だった。
ふっと、空気が変わる。
人の流れが——一つの方向へ寄り始める。
「……え?」
澪が立ち止まった。
前を歩いていたカップルが、急に喧嘩でもするみたいに距離を詰める。
その横の男子が、関係ないはずの女子へふらっと近づく。
「……近い」
澪が呟く。
「みんな、近い……!」
その瞬間、澪の体が前へ引かれた。
「っ——」
見えない糸に手首を引かれたみたいに、足が勝手に出る。
「澪!」
五右衛門が反射で腕を掴んだ。
だが止まらない。
澪だけじゃない。周りの人間も同じ方向へ寄っていく。
引き寄せられる。
理由もなく。
「……これ、恋能?」
五右衛門が低く言う。
一条が、周囲を観察するように目を動かした。
「恋能っぽい。でも——」
言いかけて、眉を寄せる。
「感情の“方向”が揃ってる」
「方向?」
澪が聞き返す。
「たぶん好意、執着、未練……そういうのが、同じ矢印になってる」
一条は唇を噛んだ。
「誰かが、恋心を“磁力”みたいにしてる」
五右衛門の胸が嫌な音を立てる。
(また操られる系かよ)
澪が、困ったように笑う。
「……やだな、それ」
笑ってるのに、指先が震えている。
「恋磁力」
一条が、ぽつりと名を置いた。
五右衛門は息を吸う。
(ゼロ)
拒絶。
恋能の流れだけを——ずらす。
空気が、ふっと薄くなる。
引っ張られていた足が止まり、周囲の人間が「……あれ?」と我に返る。
「なんで、ここに……?」
「え、俺、何して……」
ざわめきが広がる。
一条が低く言う。
「………完全には止まってない。発生源が近い」
その瞬間だった。
「そこまで」
聞き覚えのある声。
「この先は、私が引き受けるわ」
路地の奥から、黒川園美が現れた。
薄い笑み。
軽い足取り。
なのに、周囲の空気が一段だけ締まる。
「黒川さん」
五右衛門が呼ぶと、園美は片眉を上げた。
「……またあなた達?」
澪が小声で言う。
「すごいタイミング……」
「タイミングじゃないのよ」
園美は淡々と言った。
「追ってたの。あなた達が原因じゃなくて、“この現象”をね」
園美が路地の角を一瞥し、指を鳴らすように軽く手を振る。
——恋磁力が、すっと消えた。
空気が解ける。
人の波が元に戻り、何事もなかったように歩き出す。
「……今のは?」
澪が聞く。
「媒介を潰しただけ」
園美は言い切る。
「本体じゃない。使い捨ての“仕掛け”よ」
一条が目を細める。
「……仕掛け」
「ええ」
園美は頷く。
「つまり、これは偶然じゃない」
五右衛門が低く言う。
「今日の三谷の件と、繋がってる?」
園美は迷いなく頷いた。
「繋がってる。だから来た」
そして、さらりと言う。
「病院、行くんでしょう?」
三人は顔を見合わせた。
澪が小さく頷く。
「……行きます」
「じゃあ、一緒に」
園美は当然みたいに歩き出した。
---
病院は、白くて、静かだった。
受付で名前を伝え、案内された病室の前で立ち止まる。
「面会は短時間ね」
園美が言う。
「本人が混乱してるはずだから、刺激しない」
五右衛門は小さく息を吐いた。
「……わかった」
扉をノックし、入る。
ベッドの上で、三谷ひかりが上体を起こしていた。
顔色はまだ悪い。
けれど、目は開いている。
「……あ」
三谷が、怯えたように目を揺らした。
「……ごめん」
開口一番、それだった。
「わたし……また、やった?」
澪が慌てて首を振る。
「違う! もう大丈夫!」
三谷は唇を噛む。
「でも……わたし、覚えてないのに……」
涙が滲む。
「みんな、怖かったよね……」
五右衛門は言葉を探して、結局、短く言った。
「怖かった」
三谷の肩がびくりと跳ねる。
でも、五右衛門は続けた。
「……でも、お前のせいじゃない」
三谷が目を見開く。
「え……?」
そこへ、園美が一歩前に出た。
柔らかい声で言う。
「あなたは、被害者よ」
三谷は固まった。
「……被害者?」
「ええ」
園美は頷く。
「あなたは選んでない。準備も覚悟もないのに、恋能を“撃ち込まれた”」
一条が、静かに口を開く。
「……無理やり覚醒させられたんだ」
三谷の瞳が揺れる。
「そんな……こと、できるの?」
園美は迷いなく答えた。
「できる。だから問題なの」
少しだけ間を置いて、続ける。
「今回みたいに、人の心に“引き金”を引く恋能覚醒者がいる」
澪が息を呑む。
「……引き金」
「私たちはその恋能を恋引鉄と呼んでる」
園美の言葉が、病室に落ちる。
三谷は震える声で聞いた。
「じゃあ……わたしは……」
「あなたは、撃たれた側」
園美は言い切る。
「あなたが悪いんじゃない」
三谷の目から、涙がこぼれた。
「……よかった」
それは救いの言葉であり、同時に——恐怖だった。
「でも……じゃあ、誰が……」
園美は視線を細める。
「最近、そういう事件が増えてる」
「意図的に恋能を覚醒させて、混乱を楽しむ連中がいる」
五右衛門が拳を握る。
「……堕恋者」
園美は頷いた。
「通称、堕恋者。組織名は《フォールン・アモーレ》」
三谷の顔が青くなる。
「……組織?」
「まだ全部は話せない」
園美は言った。
「でも、あなたはもう巻き込まれた。だから——守る」
澪が小さく頷く。
「……わたしも」
五右衛門は視線を逸らして、短く言う。
「……次は、俺が止める」
一条が、病室の窓の外を見た。
「……また同じことが起きる前に、な」
三谷は震える指で、布団の端を握る。
「……わたし、どうすればいいの」
園美は一瞬、優しく笑った。
「まずは休むこと」
「それから、必要なら——教える」
三谷は小さく頷いた。
「……わかった」
---
病室を出て、廊下を歩く。
園美がスマホを見ながら言った。
「さっきの恋磁力も、偶然じゃない」
「あなた達を“止める”ための邪魔よ」
一条が眉を寄せる。
「つまり……監視されてる?」
「ええ。おそらく気づかれてる」
園美はあっさり言う。
「あなた達が動き始めたってね」
五右衛門は、胸の奥の嫌なざわつきを噛み潰した。
(……面倒が、近づいてくる)
園美がちらりと五右衛門を見る。
「男前崎 五右衛門くん」
「あなたの力、隠す気ある?」
「……ない」
五右衛門は即答した。
「守るために使うだけだ」
園美は満足そうに息を吐いた。
「いいわ。じゃあ、ついてきなさい」
---
その夜。
どこかの暗い部屋で、画面の数値が静かに跳ね上がった。
「ふふ」
誰かが笑う。
「引き金は、効くね」
指先が画面をなぞる。
「準備できてない人間ほど、きれいに壊れる」
画面の向こうで、ひとつ通知が消える。
日常は、まだ壊れていない。
けれどーー
すでに引き金は引かれていた。
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