引き金。
朝の教室は、いつも通りのざわめきで満ちていた。
「おはよー」
「おはー」
「今日の小テストやばくね?」
雑談の中に、軽い悲鳴が混じる。
澪が席に着き、隣の列に顔を出す。
「おまえざきくん、おはよ」
「……おはよ」
五右衛門の返事は短い。
いつも通りだ。
一条は少し離れた席で、机の上に資料を広げていた。
生徒会の書類だろう。やたら几帳面に並べている。
「……一条、朝から真面目だな」
五右衛門が声をかけると、一条は顔を上げて笑った。
「真面目というか、期限が今日なんだよ」
「一条くん、生徒会の副会長のくせに期限ギリギリなの?」
澪が茶化す。
「人聞き悪いな。余裕持ってやってる」
一条は澪に軽く手を振ってから、五右衛門を見る。
「昨日の放課後、変な空気あったろ」
五右衛門の眉が動く。
「……気づいてたのか」
「気づくよ。あんなに露骨なら」
一条は小さく息を吐く。
「変な感情の波。……嫌な感じだった」
澪が目を丸くした。
「え、わたし気のせいかと思った」
「気のせいじゃない」
一条は断言する。
「昨日からずっと、薄く続いてる」
その瞬間だった。
教室の奥で、椅子が倒れる音がした。
ガタン——。
「……っ」
声にならない声。
誰かが息を呑む。
五右衛門と一条が同時に立ち上がる。
「何だ?」
教室の奥。
女子生徒、三谷ひかりが立っていた。
肩が震え、目は赤い。
周りのクラスメイトが距離を取っている。
「……近づかないで」
三谷ひかりが絞り出すように言った。
「お願い、来ないで……!」
一歩、誰かが近づこうとした瞬間。
空気が弾けた。
「っ——!」
見えない衝撃が走り、男子生徒が壁に叩きつけられるように転ぶ。
「え……なにこれ」
澪が青ざめる。
五右衛門は思わず一歩踏み出した。
「……恋能が暴走してる?」
その言葉に、一条が首を振った。
「たぶん違う」
「え?」
「あれは暴走じゃない」
一条は三谷の様子を見つめたまま続ける。
「たぶん、あれは——」
一条の声が低くなる。
「まだ自分の恋能を制御できてないだけだと思う」
五右衛門は目を見開いた。
「制御……?」
「誰かに急に力を持たされたとか」
一条は唇を噛む。
「心の準備も、自覚もないまま」
三谷の肩が、びくりと跳ねる。
「いや……いやだ……」
「私、そんなつもりじゃ……」
言葉が途切れ、涙が落ちる。
「……嫌だよ……!」
また空気が跳ね、机が揺れた。
澪が思わず後ずさる。
(……怖い)
怖い、のに。
(でも、あの子……泣いてる)
五右衛門の胸が、静かに反応する。
ゼロが——“拒絶”に反応している。
「……俺が行く」
五右衛門が言った。
一条はすぐに頷く。
「頼む」
「でも、傷つけるなよ」
「わかってる」
五右衛門は深く息を吸って、一歩踏み出した。
「大丈夫だ」
声は、できるだけ静かに。
三谷が首を振る。
「来ないで……!」
「俺は、お前を傷つけない」
五右衛門は距離を詰める。
見えない壁が、ひりつく。
空気が押し返してくる。
(……強い)
でも、ゼロは——逃げない。
五右衛門が手を伸ばした瞬間。
音もなく、何かが“ほどけた”。
空気の壁が、崩れる。
三谷の身体から、力が抜ける。
「……え……?」
膝から崩れ落ちた彼女を、周りの空気がようやく受け止める。
「……ごめん……」
女子生徒は震える声で言った。
「ごめんなさい……っ」
「……悪いのは、君じゃない」
五右衛門はそれだけ言って、視線を上げた。
教室の窓の外。
廊下の向こう。
(……見られてる)
そんな気配がした。
一条も同じ方向を見る。
「……今の、誰か見てた気がしないか」
五右衛門は答えない。
澪だけが、胸の奥のざわめきを感じていた。
(……なにか、来る)
三谷の周りに駆け寄ったクラスメイトが、震える声で言う。
「大丈夫? 何があったの?」
女子生徒は首を振る。
「……わかんない」
「急に、頭が……」
「嫌なこと、いっぱい……」
言葉にならない嗚咽。
そして、気を失ってしまった。
一条が、ぽつりと言った。
「……力ってさ」
「やっぱり、ちゃんと使える人が使えなきゃだめだよな」
五右衛門は、拳を握りしめた。
(誰がやった)
(どうやって)
その答えは、まだ出ない。
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夜。
部屋は静かだった。
窓の外には、街の光が滲んでいる。
机の上に広げたノートを、指でなぞる。
「……やっぱりさ」
誰に向けるでもなく、呟く。
「力って」
少しだけ間を置いて、続けた。
「準備できてないやつが持つと、
だいたい、碌なことにならない」
小さく息を吐く。
「……だから…」
画面の光が、顔を照らした。
画面の向こうで、
ひとつ、通知が消えた気がした。
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日常は、まだ壊れていない。
だが確実に、
歪みは広がり始めていた。
ここまで読んで頂きありがとうございます!
引き続きよろしくお願いいたします!




