静かな異変。
朝のホームは、いつもと変わらない。
電車を待つ人の列。
スマホを見る顔。
流れるアナウンス。
五右衛門は、いつもの電車、いつものドアから降りた。
人混みの中でも、無意識に周囲を見渡してしまう癖がある。
(……平和、だよな)
そう思った直後だった。
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由のない違和感——いや、“理由が見えない”だけだ。
笑っている人。
不機嫌そうな人。
やけに距離の近い男女。
どれも普通だ。
それなのに。
(……感情が、濃い)
人の心が、必要以上に前へ出ている。
薄い膜の向こうで、誰かが空気をかき混ぜているみたいに。
「……おまえざきくん?」
そう遠くない場所から声がした。
澪が、首をかしげてこちらを見ている。
いつもの明るい顔……のはずなのに、今日は少しだけ真剣だ。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
五右衛門はそう答えたが、視線は無意識にホームの先を追っていた。
(なんだこれ)
(変な感じだ)
言葉にできない。
言葉にした瞬間、馬鹿みたいに聞こえそうで。
澪は五右衛門の横顔を見ながら、心の中で首を傾げる。
(おまえざきくん、たまに、急に遠くを見る)
(……なんだろ。あれ)
理由はわからない。
でも、その瞬間だけ。
自分の胸の奥が、少しだけ——きゅ、と縮む。
(……ごえもんくん)
その呼び方を、澪は誰にも聞こえないところへしまった。
電車が到着し、人の波が動き出す。
澪は流れに押されながら、五右衛門の袖のあたりを軽くつまんだ。
「ほら、行こ」
「……ああ」
それだけのことなのに、
澪はほんの少し安心した気がした。
---
昼休み。
教室は騒がしい。
机を寄せて談笑する輪、購買のパンを見せびらかす声、窓際でスマホを覗き込む集団。
五右衛門はいつもの席で、ぼんやりと窓の外を見ていた。
(今日、変だ)
朝だけじゃない。
さっきも——廊下ですれ違った男子が、妙に苛立っていた。
(……イライラが伝染するみたいに)
澪が戻ってきて、机の端に肘をついた。
「ねえ、おまえざきくん」
「ん?」
「さっきから、なんかぼーっとしてない?」
「してない」
「してるって」
澪は笑う。
笑いながら、少しだけ覗き込む。
五右衛門は視線を逸らした。
「……気のせいだ」
「ふーん?」
澪はそれ以上は追及しなかった。
ただ、ほんの少しだけ眉を寄せる。
(……やっぱり、変)
(でも、言っても絶対認めないやつ)
そんなことを思いながら、澪は席に座り直した。
---
放課後。
校内はいつも通りだった。
部活へ向かう足音、廊下の笑い声、昇降口のざわめき。
けれど——
「ねえ、あの人……」
「さっきから、様子おかしくない?」
小さな囁きが、廊下の端で生まれる。
五右衛門は、その視線の先を追った。
そこにいたのは、笑っているはずなのに、どこか壊れた目をした男子生徒。
友達に囲まれているのに、表情が薄い。
(……なんだ、あれ)
胸の奥が、微かに反応する。
ゼロが——“何か”を嫌がっている。
「おまえざきくん?」
澪が小声で呼ぶ。
「……あれ」
五右衛門は顎で示した。
澪が視線を向ける。
「……普通に笑ってるけど?」
「……いや」
五右衛門は言葉に詰まる。
説明できない。
「……変なんだ」
澪は少し黙って、男子生徒を見つめた。
その瞬間、男子生徒がふいにこちらを見た気がした。
目が合う——ほんの一瞬。
澪の背筋が、ぞくりとする。
(……なに、今の)
(なんか、見られた?)
男子生徒はすぐに視線を外し、友達の輪の中に戻った。
なのに、澪の心臓だけが少し速い。
五右衛門は小さく息を吐いた。
(やっぱり、変だ)
——まだ、何も起きない。
でも確実に、何かが近づいている。
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――同じ頃。
恋保・都内観測室。
モニターに映る数値が、一定のリズムで上下していた。
「平均値は正常……だが」
黒川は腕を組む。
「局所的に、感情密度が高すぎる」
部下が報告する。
「事件には、まだ繋がっていません」
「ええ。だから厄介なの」
黒川は画面を指でなぞった。
「恋能を、抑えず、隠さず……むしろ解放している」
一拍置いて、静かに言う。
「……堕恋者のやり方よ」
画面の数値が、またひとつ上がる。
日常は、まだ壊れていない。
だが確実に、
歪みは広がり始めていた。
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