凪いだ水面に立つさざ波
第一部 静かな波紋
第一章 ありふれた幸せ
午後の遅い光が、リビングの窓から斜めに差し込んでいた。世田谷区の閑静な住宅街に建つ、結婚したときに少し無理をして買った小さな一戸建て。空気中を舞う埃の粒が、その光の帯の中でキラキラと踊っている。キッチンのカウンターに置かれた小さな花瓶には、昨日スーパーで買ったガーベラが二輪。夫の達也が好きなオレンジ色と、息子の健太が選んだ黄色。
床に座り込んだ健太は、任天堂Switchの画面に夢中だった。小さなコントローラーを握る指が小刻みに動き、時折「あー、くそっ!」とか「よしっ!」とか、短い歓声が上がる。三十六歳の主婦、裕子にとって、それは聞き慣れた、そして心安らぐ生活音の一部だった。
炊飯器からは、あと十分でご飯が炊きあがることを知らせる優しいメロディーが流れる。裕子は洗濯物を取り込み、健太の体操着と達也のワイシャツを丁寧に畳んだ。ふわりと香る柔軟剤の匂い。裕子の幸せは、こういう小さなことの積み重ねでできていた。大きな情熱や劇的な出来事があるわけではない。でも、夫と息子と三人で暮らすこの穏やかな日常は、何にも代えがたい宝物だった。
健太は小学四年生。少し宿題を面倒くさがるけれど、友達と外で走り回り、ゲームに熱中する、ごく普通の男の子だ。特に野心的なところはなく、それはこの家族の今の空気をそのまま映しているようだった。達也は中堅の会社に勤めるサラリーマン。実直で愛情深いが、物事を白黒はっきりさせたがるきらいがある。彼の信条は「よそはよそ、うちはうち」。裕子が日々の生活の中で感じる、東京という街が放つ細やかな社会の圧力など、彼にはどこか他人事なのだ。
裕子は、健太が生まれた時のことを思い出す。ただ、この子が健やかに、幸せに生きてくれればいい。それだけを願ったはずだった 。偏差値の高い子になってほしいなんて、一度も考えたことはなかった。
夕食の準備をしながら、裕子は窓の外に目をやった。茜色に染まり始めた空に、一番星が瞬いている。もうすぐ達也が帰ってくる。食卓には、健太の好きな唐揚げと、達也が喜ぶほうれん草のおひたしが並ぶ。ありふれているけれど、満ち足りた一日が終わろうとしていた。
第二章 午後の陽だまりの会話
その波紋は、ごく穏やかな午後に、突然立った。
いつもの砧公園のベンチで、裕子は数人のママ友とおしゃべりをしていた。話題は学校の行事や、夏休みの計画など、たわいのないことばかりだった。子供たちは少し離れた場所で鬼ごっこをしている。笑い声が、初夏の心地よい風に乗って聞こえてくる。
「そういえば、理奈さんのところの賢治くん、もうSAPIXに行き始めたんだって?」
口火を切ったのは、グループの中でもリーダー格の理奈だった。彼女の言葉に、それまでの和やかな空気がぴんと張り詰めるのを感じた。
「ええ、まあ。本人が行きたいって言うから、試しにね。まだ遊びみたいなものよ」
理奈はそう言って微笑んだが、その目にはかすかな誇りが浮かんでいた。その一言が、会話の舵をまったく違う方向へと切った。
「うちはまだ何も考えてないなあ」と誰かが言うと、別の母親が「でも、もう四年生だもの。そろそろ考えないと、あっという間に乗り遅れちゃうわよ」と囁くように言った。
そこから先は、裕子にとって未知の言語の世界だった。SAPIX、日能研、早稲田アカデミーといった塾の名前。偏差値という不可解な数字。模試という言葉の重み。彼女たちの会話は、表面上は情報交換のようでありながら、その実、互いの家庭の教育熱心さを探り合う、静かな探り合いのようだった 。
「裕子さんのところの健太くんは、どうするの?」
不意に話を振られ、裕子は戸惑った。「うちは…まだ何も」と答えるのが精一杯だった。周りの母親たちが、悪気はないのだろうが、どこか憐れむような、あるいは「まだそんなところにいるの?」とでも言いたげな視線を向けているように感じた。彼女たちは悪人ではない。ただ、自分たちとは違う周波数で動いているだけだ。それでも裕子は、見えない壁で隔てられたような疎外感を覚えた。
これが「同調圧力」というものなのだろうか 。誰もが中学受験という道を歩むのが当然だという、その場の暗黙の了解。裕子の心に、最初の疑念の種が植え付けられた瞬間だった。公園の子供たちの笑い声が、なぜか少しだけ遠くに聞こえた。
第三章 言葉の壁
その日の夕食後、裕子は意を決して達也に話しかけた。健太は自室で宿題をしている。二人きりのリビングで、裕子は午後の公園での会話を、できるだけ客観的に伝えようと努めた。ママ友たちの熱気、誰もが当たり前のように塾の話をしていること、そして自分が感じた焦燥感を。
達也は、仕事で疲れているのか、テレビのニュースから目を離さずに聞いていた。彼の反応は、裕子が予想した以上に素っ気ないものだった。
「ふーん。まあ、よそはよそ、うちはうちだろ」
その一言で、会話は終わったかのように思えた。裕子は食い下がった。「でも、みんながやっているのよ。健太だけ何もしないで、本当にいいのかしら」
そこでようやく、達也は裕子の方を向いた。「みんなって誰だよ。大事なのは、健太自身がどう思ってるかだろ?あいつがやりたいって言うなら考えればいい。やりたくないなら、無理にやらせることはない」
それは正論だった。裕子もそう思う。しかし、達也の言葉は、裕子が感じている社会的な孤立感や、母親としての不安をまったく掬い取ってはくれなかった。同じ出来事を体験しても、感じ方や受け止め方は人それぞれだということを、痛いほど思い知らされた 。彼にとって、これは近所の噂話の一つに過ぎない。だが裕子にとっては、自分たちの家族のあり方を揺るがす、深刻な問題の始まりだったのだ。
「あなたは、私が一人でこのプレッシャーと戦っているのがわからないのね」
喉まで出かかった言葉を、裕子は飲み込んだ。ここで感情的になっても、溝が深まるだけだ。達也は悪気があって言っているのではない。ただ、本当に理解していないだけなのだ。その事実が、裕子を一層孤独にさせた。
この問題は、まず一人で向き合わなければならない。裕子はそう覚悟を決めた。リビングの沈黙が、いつもより重く感じられた。
第二部 広がる渦
第四章 受験という言語
あの日を境に、裕子の周りの世界は少しずつ色合いを変えていった。ママ友たちの会話は、完全に「受験」というテーマに占拠された。学校の門の前で交わされる短い挨拶でさえ、「昨日の模試、どうだった?」という言葉で始まるようになった。LINEのグループチャットには、塾のクラス分けの結果や、志望校の偏差値一覧表のスクリーンショットが飛び交う。
それは、裕子の知らない外国語のようだった。彼女は相槌を打ちながら、内心では焦っていた。偏差値とは何か。αクラスとβクラスでは、何がそんなに違うのか。なぜ皆、そんなに必死なのだろう。
彼女たちの間では、子供の成績や塾のクラスが、そのまま親の序列になっているかのような空気があった 。何も知らない裕子は、その新しい社会階層の最下層にいるようだった。
ある日、カフェで理奈が何気なく言った。「裕子さん、まだ何も考えてないなんて、のんびりしてるわね。今の時期の頑張りが、子どもの将来を決めるのよ」。その言葉は、善意の忠告を装った、鋭い棘を持っていた。
裕子は、自分たちの「ありふれた幸せ」が、実は親としての怠慢だったのではないかとさえ思い始めた。健太の将来のために、何も準備をしていない自分は、母親失格なのではないか。その疑念は、じわじわと彼女の心を蝕んでいった。
健太がリビングで楽しそうにゲームをしている姿を見るたびに、胸がちくりと痛んだ。このままで、この子はこの先、厳しい競争社会で生き抜いていけるのだろうか。穏やかだったはずの日常の風景が、すべて不安のフィルターを通して見えるようになっていた。
第五章 入学許可証の値段
その夜、健太と達也が寝静まった後、裕子は一人、キッチンテーブルでノートパソコンを開いた。昼間の喧騒が嘘のような静寂の中、彼女は決意を固めていた。もう、知らないふりを続けるのはやめよう。この「中学受験」というものが、一体どれほどのものなのか、自分の目で確かめなければならない。
検索窓に「東京 中学受験 塾 費用」と打ち込むと、画面にはおびただしい数の数字が並んだ。大手進学塾のウェブサイト、教育情報サイト、先輩ママたちのブログ。抽象的だった「お金がかかる」という言葉が、具体的な、そして恐ろしいほどの金額となって裕子に襲いかかってきた。
彼女は震える手で、ペンを握り、ノートに見つけた数字を書き出していった。それはまるで、自分たちの家計への死刑宣告を書き写しているような気分だった。
項目
推定年間費用(円)
メモ/出典
進学塾(5年生)
¥700,000
(月謝 約¥58,000 )
進学塾(6年生)
¥1,200,000
(月謝・特訓含む )
季節講習(夏期・冬期など)
¥500,000
(夏期講習だけで20万円超 )
模試・教材費
¥150,000
(別途必要 )
受験前費用 合計(2年間)
¥4,550,000
(この数字を書く手が震える)
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私立中学 初年度(入学金含む)
¥1,030,000
(都内平均 )
私立中学 2・3年次
¥1,800,000
(授業料・諸経費 年間約¥900,000 )
制服・交通費・その他
¥500,000
(学費以外の諸経費 )
進学後費用 合計(3年間)
¥3,330,000
総額
約 ¥7,880,000
私たちに、これが払えるの…?
ノートの最後の行に合計金額を書き出した時、裕子は息を呑んだ。約788万円。それは、達也の年収をはるかに超える金額だった。自分たちのささやかな貯金をすべて切り崩しても、足りるかどうか。
裕子はノートを閉じた。パタン、という乾いた音が、静まり返ったキッチンに響く。これは、ただの教育ではない。裕福な家庭だけの特権なのだ。そう思わずにはいられなかった。自分たちのような平凡な家庭が、足を踏み入れていい世界ではなかったのだ。絶望的な気持ちで、裕子は暗い窓の外を見つめた。
第六章 母親たちの秘密の生活
裕子は、ママ友たちは皆、裕福なのだと思い込んでいた。そうでなければ、あんな途方もない金額を、ためらいもなく子供の教育に注ぎ込めるはずがない。しかし、その考えは、ある日の夕方、スーパーマーケットで覆された。
タイムセールのワゴンに群がる人だかりの中に、裕子は意外な顔を見つけた。いつも身綺麗な服装で、余裕のある笑みを絶やさないママ友の一人、美咲だった。彼女は、割引シールの貼られた豚肉を手に取り、真剣な眼差しで他の商品と見比べていた。その姿は、裕子が知っている優雅な彼女とはまるで別人だった。
思わず声をかけると、美咲は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。「あら、裕子さん。うち、食べ盛りがいるから大変で」と冗談めかして言った。
その日の帰り道、偶然にも美咲と二人きりになった。ぽつり、ぽつりと彼女が語り始めた話は、裕子にとって衝撃的なものだった。
「みんなお金持ちだと思ってるでしょ?全然そんなことないのよ」
美咲の夫の会社は業績が芳しくなく、ボーナスもカットされたこと。彼女自身、夫が寝静まった後、深夜のコンビニでパートをしていること 。食費を切り詰め、自分の服はもう何年も買っていないこと 。フリマアプリで家中の不用品を売り払い、それを塾の費用に充てていること 。
「うちだけじゃないわ。理奈さんだって、実家のお父さんに頭を下げて、お金を借りてるって聞いた。みんな、必死なのよ。子どもの将来のためだから」
裕子は言葉を失った。彼女たちが繰り広げる競争の裏には、こんな壮絶な現実があったのだ。彼女たちは、裕福だから受験させているのではない。母親という執念にも似た愛情で、家計を、そして自分自身の生活を犠牲にして、その費用を捻出しているのだ。
この発見は、裕子の心に複雑な感情を呼び起こした。彼女たちへの反発心は薄れ、代わりに、ある種の畏怖と、そして自分にはないその覚悟に対する劣等感が芽生えた。これは、単なる流行りや見栄ではない。母親たちが信じる「愛」の形なのだ。そして、その愛の表現に加わらない自分は、やはり母親として何かが欠けているのではないか。
その夜、裕子は達也に美咲の話をした。達也は「大変だな」と同情はしたが、やはりどこか他人事だった。裕子は、この問題の根深さを、夫と共有することはできないのだと、改めて悟った。
第三部 深い水の中へ
第七章 母の愛の重さ
家は、もはや安らぎの場所ではなかった。裕子は日々の家事をこなしながらも、頭の中は受験のことでいっぱいだった。それは、目に見えない重りとなって、常に彼女の心にのしかかっていた。不安、焦り、孤独感、そして言いようのない苛立ち。中学受験を控える母親が陥りがちな、典型的な精神状態だった 。
健太がゲームをしている時間。以前は微笑ましく見ていられたその光景が、今では「無駄に過ごしている時間」にしか見えなくなった。友達と公園に行く約束をしたと聞けば、「その時間で漢字の一つでも覚えられるのに」という言葉が喉まで出かかった。
自分の愛情が、毒に変わり始めているのではないか。その恐怖が裕子を苛んだ。世の中には「教育虐待」という言葉がある 。子供のためと信じてかけた期待が、子供を追い詰め、心を壊してしまう。自分も、そちら側の母親になってしまうのではないか。
ある夜、裕子はノートに自分の不安な気持ちを書き出してみた。心理療法の一つだと、どこかの記事で読んだからだ 。
『私は悪い母親なのだろうか?』 『このままでは、健太の笑顔を奪ってしまうのではないか?』 『なぜ、他の母親たちのように、我が子のためにすべてを捧げる覚悟ができないのだろう?』
書き出された言葉は、彼女の心を軽くするどころか、黒々とした文字となって、彼女の不安を増幅させた。客観的に見つめれば見つめるほど、自分の無力さと矛盾が浮き彫りになるようだった。
この重圧は、すべて自分が一人で背負い込んでいる。達也は協力してくれない。健太はまだ何も知らない。ママ友たちは、仲間であると同時に、プレッシャーの源だった。出口のない迷路に迷い込んだような感覚に、裕子は押しつぶされそうになっていた。
第八章 最初の亀裂
その日は、学校の算数の宿題で、健太が分数の割り算につまずいていた。いつもなら、裕子は根気強く、健太が理解できるまで付き合ったはずだった。しかし、その日の彼女には、心の余裕がまったくなかった。
「どうしてこんな簡単なことがわからないの!」
自分でも驚くほど、冷たくて鋭い声が出た。健太の肩がびくりと震える。裕子は、募りに募ったストレスと不安のすべてを、目の前の息子にぶつけてしまっていた。
「理奈さんのところの賢治くんなんて、もう中学の範囲をやってるっていうのに…」
言ってはいけない言葉だった。他人との比較は、子供の自尊心を最も傷つける行為だと、育児書で何度も読んだはずなのに 。口から滑り出た言葉は、もう取り返しがつかなかった。
健太は、顔を上げて裕子を見た。その目には、戸惑いと、悲しみと、そしてかすかな怯えが浮かんでいた。彼は何も言わず、鉛筆を置くと、静かに立ち上がって自分の部屋へ行ってしまった。
リビングに残された裕子は、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。外部からの圧力が、ついに自分たちの家庭の中にまで侵入し、最も大切な母と子の関係に、最初の亀裂を入れてしまったのだ 。
健太にとって、母親は一番の味方であり、安心できる場所だったはずだ。その母親が、今やプレッシャーを与える存在になってしまった。裕子は、テーブルに突っ伏して、声を殺して泣いた。何のために、誰のために、自分はこんなに追い詰められているのだろう。その答えは、どこにも見つからなかった。
第九章 答えのない問い
健太が眠った後、裕子はそっと彼の寝室を覗いた。すうすうと安らかな寝息を立てる息子の顔は、あどけなく、何の悩みもないように見える。その平和な寝顔を見ていると、裕子の心は激しく揺さぶられた。
自分は、この子のこの寝顔を守りたいのか。それとも、この子を厳しい競争の荒波に送り出すべきなのか。
裕子の頭の中で、二つの道がはっきりと分かれた。
一つは、「受験」という道。それは、より良い教育環境、高い学歴、そして社会的な成功へと続くかもしれない道だ。しかし、そのために支払う代償はあまりにも大きい。健太の自由な時間、家族の貯金、そして何より、今のこの穏やかな家庭の空気 。未来の幸せのために、現在の幸せを犠牲にするギャンブル。
もう一つは、「受験しない」という道。それは、健太の子供らしい時間を守り、家族の平和を維持する道だ。しかし、その先には、周りから取り残されるかもしれないという恐怖、親として機会を与えなかったという後悔が待っているかもしれない 。
この葛藤は、単なる進路選択の問題ではなかった。それは、現代における「良い親」とは何かという、二つの異なる思想のぶつかり合いだった。
一方には、子供の将来を設計し、成功のために早期から戦略的に投資する「プロデューサー型」の親がいる。ママ友たちは、まさにこのタイプだ。彼女たちの献身的な努力は、子供というプロジェクトを成功させるための投資なのだ。
もう一方には、子供が本来持つ力を信じ、それが自然に花開くための環境を整える「庭師型」の親がいる。かつての裕子や、達也の考え方はこちらに近い。彼らは、今ここにある幸福と、子供の内面的な成長を何よりも優先する。
裕子は、この二つの、決して相容れないイデオロギーの狭間で引き裂かれていた。「本当に子供のためとは何か?」という問いは、普遍的な正解などない、答えのない問いだった。どの道を選んでも、何かを失い、何かに後悔する。
裕子は、健太の額にそっと手を置いた。温かい。この温もりを守ること。それが唯一確かなことのように思えた。しかし、どうすれば守れるのか。その方法が、どうしてもわからなかった。
第四部 岸辺への帰還
第十章 違う種類の授業
翌朝、裕子は衝動的に行動した。登校の準備をする健太に、彼女は言った。「健太、今日、学校休もうか。お母さんと、どこか遠くへ行かない?」
健太はきょとんとした顔で裕子を見つめ、それから、いたずらっぽく笑った。「うん、行く!」
二人は電車に乗り、江の島へ向かった。平日の午前中、人気のない砂浜を、ただ二人で歩いた。裕子は、何も聞かなかった。ただ、健太の話に耳を傾けた。健太は、学校の友達のこと、新しく見つけたカブトムシのこと、どうしてもクリアできないゲームのステージのことなどを、夢中になって話した。学校の勉強の話は、ほとんど出なかった。
裕子は、久しぶりに息子の顔をちゃんと見た気がした。受験というフィルターを通さずに、ありのままの健太の姿を。
昼食を食べながら、裕子はさりげなく聞いてみた。「ねえ、健太は、中学受験って、本当にやってみたいと思う?」
健太は、ポテトフライを口に運びながら、少し考えてから言った。「うーん…みんながやるから、やってもいいかなってくらい」 。
その言葉には、強い願望も、熱意もなかった。ただ、周りの空気に流されているだけ。彼自身の内側から湧き出たものではないのだ。
その瞬間、裕子の中で何かがすとんと腑に落ちた。自分はずっと、周りの母親たちの声や、社会のプレッシャーばかりに気を取られて、一番大切な、息子の本当の声を聞こうとしていなかった。この子の自主性を、自分自身で摘み取ろうとしていたのだ 。
帰り道、電車の窓から夕日を眺めながら、裕子は健太の手を握った。今日は学校の授業は受けられなかったけれど、親子にとって、それ以上に大切なことを学んだ一日だった。それは、偏差値では測れない、心の授業だった。
第十一章 新しい対話
その夜、裕子は再び達也と向き合った。しかし、今度の彼女は以前とは違っていた。不安や不満を訴えるのではなく、静かで、毅然とした態度だった。
「あなたと、もう一度ちゃんと話がしたいの。私たちの家族のこと」
裕子は、今日健太と過ごした一日のことを話した。そして、自分がこの数ヶ月間、どれほどのプレッシャーを感じ、悩み、そして何を悟ったのかを、自分の言葉で丁寧に伝えた。それは、近所の噂話や、世間の流行の話ではなかった。健太の幸せとは何か、そして、この家族にとっての「成功」とは何かという、根本的な問いかけだった。
「私は、健太に、偏差値の高い人間になってほしいんじゃない。自分の頭で考えて、自分の足で立てる、自己肯定感のある人間になってほしいの」 。
彼女の真剣な言葉に、達也は初めて、この問題の重さを理解した。これは、単に隣近所と張り合うための話ではない。妻と息子の心の健康、そして家族の未来そのものに関わる、重大な岐路なのだと。
「ごめん…お前に全部背負わせてたな」
達也は、深くため息をついて言った。「俺も、一緒に考える。どうするのが、俺たち家族にとって一番いいのか」
ようやく、二人の視線が合った。対立ではなく、協力へ。その瞬間、裕子を縛り付けていた孤独の鎖が、音を立てて解けていくのを感じた。これはもう、彼女一人の戦いではなかった。
第十二章 答え
数日後、夕食の席で、家族三人だけの会議が開かれた。テーブルの中央には、裕子があの夜書き出した、費用の計算が書かれたノートが置かれている。
裕子と達也が見つけた「答え」は、受験をするか、しないか、という単純な二者択一ではなかった。それは、外部の価値観に振り回されるのではなく、自分たちの家族の軸をしっかりと立てる、という新しい哲学だった。
「健太」と達也が切り出した。「お父さんとお母さんは、お前が無理して受験する必要はないと思ってる。でも、もしお前が、挑戦してみたいっていう気持ちが少しでもあるなら、全力で応援する。ただし、いくつか約束がある」
その約束とは、こうだった。
一つ、家族で過ごす時間を犠牲にしないこと。 二つ、もし勉強が辛くて嫌になったら、いつでもやめていいこと。 三つ、目指すのは、偏差値の高い学校ではなく、健太が「ここなら楽しそうだ」と心から思える学校にすること 。
結果がどうであれ、目標に向かって努力した経験そのものが、お前の財産になる。だから、合否は気にしなくていい。これは、裕子と達也が、長い対話の末にたどり着いた結論だった。
健太は、両親の顔を交互に見つめ、それから、少し照れくさそうに、でもはっきりと頷いた。「うん、やってみたい」
その言葉は、以前の「みんながやるから」という受動的なものではなく、彼自身の意志を宿していた。
その日から、田中家の生活は少し変わった。健太は週に二回、家の近くの小さな個人塾に通い始めた。裕子は、ママ友たちの会話に以前のような焦りを感じることはなくなった。彼女たちには彼女たちの信じる道があり、自分たちには自分たちの道がある。そう思えるようになっていた。
小説は、特定の結末を描く必要はない。健太が志望校に合格したか、あるいは不合格だったか。それは、この物語の本質ではないからだ。
本当の結末は、ある晴れた休日の朝の風景にある。リビングで、健太と達也がテレビゲームで笑い転げている。キッチンで朝食の準備をする裕子は、その姿を微笑みながら見つめている。かつて不安の象徴だったその光景が、今では再び、愛おしい日常の輝きを取り戻していた。
凪いでいた水面に立ったさざ波は、彼らを一時は不安の渦に巻き込んだ。しかし、その波を乗り越えたことで、田中家は、以前よりも強く、そして深く、自分たちだけの「幸せ」の形を見つけたのだ。その穏やかで、揺るぎない確信こそが、この家族が見つけ出した、唯一の「答え」だった。




