6話 悪魔として
「こんなこと……あっていいのか……!」
息を切らし、痛む関節を抑えながら、快斗は逃げていた。
唐突に訪れかけた異世界ライフの終了は、流石に予想外と言う他ない。ヨギに案内されて手をかざした石版のせいとも言えるし、まんまと手を差し出した自分のせいとも言えるが、
「あんのクソ魔女……本当に何も教えないでこの世界に俺を堕としやがったな」
強い恨みを込めた呟きを吐き出して、快斗は壁に寄りかかる。ここは人通りの少ない場所。逃げてくるのにはとても苦労した。
突き出される剣や槍などの刃が肌を掠める度に肝を冷やした。あれほど明確な殺意を多数から向けられたのも初めてだ。
「流石に死ぬのには慣れてない……生きるって決めた以上、そう簡単にくたばってたまるかよ」
人から殺されかけた。あの強い殺意が、今になって快斗の足を震えさせる。
咄嗟に危機を感じとって走ってきたのはいいものの、行く宛をなくし、無駄に傷を負っただけという今の状況はいいとは言えない。
「どこだ!」
「悪魔を逃がすな!」
「なッ、まだ来てるのかクッソ!」
快斗を狙う冒険者の声が聞こえ、快斗は街と森を隔てる柵をとびこえて森へと逃げ込んだ。追っ手の存在を危惧して振り返るが、随分と離れたようで誰の声も聞こえなかった。
だんだんと水平線へと近づく太陽。陽炎が人々で賑わう街を揺らして見せる。
冒険者達は快斗を悪魔と言った。その言葉の響きから、その種族が歓迎されたものではないことも十分に分かる。
仲間が一人もいない状況下でこの仕打ち、この風当たり。やって行ける気がしない。
暗い暗い森の中、斜面になっている地面を踏み締めて進む。名をつけるほどではない山を登り、街の灯りが美しく見える岩の上に座った。
そんな遠くまで逃げてきた自分を省みて、なんだかとても憤慨した。
いじめから逃げるために死を選んで、アラディアにゲームに無理やり参加させられて、新たな世界では悪魔だ殺せと刃を振るわれて───
多分、普通に人と接することが難しい呪いでもあるんだと思う。
「あぁクソ、泣くな俺……」
潤み始めた眼球を殴って、快斗は染み出た涙を引っ込める。真っ暗な森の中は静謐で、そんな快斗の独り言すらよく響く。
そして、そんな静かだからこそ、快斗は自分以外の足音に気づくことができる。
夜でもはっきりと目が見えるのは悪魔だからだろうか、快斗はその足音の主の姿がよく見えた。
「な、なんだよ……」
首に鎖を巻いた、狼のようなその生き物は、腹の虫を鳴かせて快斗を睨んでいる。一匹だけでなく、全部で四匹いる。滴る涎が意味するのはすなわち、空腹だ。
危機感に背筋が凍った。
───魔獣だ。
「な、なんだってんだよ!」
飛びかかってくるその狼は逃げ出した快斗を追いかける。斜面を走る快斗は足の筋肉の痛みも無視して牙から逃げる。
どれほどの距離があるかと振り返ると、快斗を追いかけているのは二匹だけだった。
「あ?残りの奴らは───」
頭に浮かんだ疑念を口にした瞬間、快斗の両サイドからそれぞれ一匹ずつ狼が飛び出した。
「うぉわぁ!?」
涎まみれの大口が快斗の右腕と首にかぶりつき、傷口から血が派手に散った。相応の痛みに視界が赤く染まり、狼二匹分の体重を支えられない快斗は地面に倒れ込んだ。
すかさず背後からの二匹が快斗の足と腹にかぶりついた。血が流れ、臓腑が空気に触れる感覚がある。
「ぐぁ……!?が、ごぼ……ッ!?」
血が喉を逆流して出てくる。傷の痛みがどんどん増していき、狼の口に自分の肉が飲み込まれていくのを見て心が折れそうになった。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ───
「なんだって、俺ぁ……」
低迷する思考に涙を流す快斗。逃げられない理不尽にまた行く手を阻まれた。
どうして、こんなことになったのか。
快斗が悪魔だったから?アラディアが快斗を転生させたから?快斗が死んだから?バスを落としたから?皆が虐めてきたから?
どれも違う。そのどれも原因じゃない。原因はもっと根幹にある。知ってるはずだろう。
───弱い。快斗が弱いから。ずっと反撃できずに、母の死さえ嘲笑われ、涙を流すだけの弱虫。
そんな生き物、嫌われて魔獣に食われて死ぬ悪魔がお似合いで──
「なら、なんで……」
バスを落とすなんて暴挙に出ることが出来たのか。
誰かが背を押してくれた気がした。快斗は天野快斗で、何者にも踏みにじられていい存在ではないのだと。
踏みにじられないためには、虐められないためには、死なないためには。
生きるためには───
「グルルァァッ!!」
血の味がいる雄叫びを上げ、快斗は全身に力を込めた。無理やり起き上がる上体に弾かれた狼が二匹吹っ飛び、それに驚いた残りの二匹は快斗から離れた。
血に塗れ、息も絶え絶えな快斗は赤と青の瞳で敵を睨みつけた。逃げ出したさっきとは違う、狼も待っている敵対の目。
「そう、だ……生きる、ためには……!!」
他の『生きる』選択肢を、摘み取る覚悟が必要だ。
クラスメイト達を殺して、自分も殺して、死んで、魔神に転生させられて、皆に殺されかけて、食われて、ようやく辿り着いた答え。
中学生が出した、生きるための答えだ。
「いつまでも、俺以外が食う側だと、思うなよ……!!」
心臓が鳴る。いつもよりも大きく、早く、強く。
「い、くぞぉおぁあ!!」
踏み込み一番近い狼を狙った。思いの外脚力が強く、快斗の想像の何倍も疾く快斗は動けた。
狼は先程と同じように牙を見せて威嚇。こちらに手を出せば、先程のように目の前でお前の肉を喰らうぞと言外に脅した。
だがそれはもう通用しない。もう、快斗には覚悟と、それ以上の怒りがある。
痛みによる恐怖は、もう意味を成さない。
狼の喉を快斗が引っつかむ。手のひらに収まる程度の細さではないため、少し抵抗されれば手は離れる。
だから、全ての指を気管に届くほど肉に突き刺した。
狼はキャインと悲鳴をあげ、次いで快斗と同じように血を吐き出した。
「今ッ更……逃げるなんて言わねぇよなぁ!!お前らから手ぇ出してきたんだからなぁ!!」
快斗は空いている方の手を狼の口の中へねじ込み、できるだけ奥まで差し込んだ後に、中にある大切なものを沢山引きずり出した。
聞いたこともない異音が響き、生きるために必要な器官がぶちまけられた狼は恐怖の中命を落とした。
臓腑を掴んだ快斗の手から湯気が上がる。
命は暖かい。摘み取って、冷えていくその感覚が直に伝わって、快斗は目を細めた。
地球における人道から、大きく逸れたことを実感した。
「あ?」
ふと、快斗の目の前に半透明な丸いものが浮かんでいることに気がついた。今にも消えてしまいそうなそれを見た瞬間、快斗の腹の虫が鳴いた。
それは臓腑の胃ではない。悪魔という種族が持つ『別腹』という器官だ。
魂を食べられる悪魔の、魂のための消化器官。
快斗は目の前に浮かぶ魂を、躊躇無く飲み込んだ。
食感は寒天のようで、味は独特な甘みがあり、飲み込んだ時の快楽は忘れられないほど鮮明に脳に刻まれた。
生まれて初めての感覚に、快斗は口元を抑えた。
「……寄越せ」
狼達は姿勢を低くして身構える。狩りの対象から一変、目の前のそれは天敵として彼らの瞳に写った。
血濡れた白髪の少年は、いつの間にか塞がった腹を撫でながら、死体から上がる湯気の中で笑った。
「俺は、悪魔だ」