1話 死せる悪魔
自然が美しい山道を、三台のバスが走っている。
バスに乗っているのは、とある中学校の生徒達だ。皆これから向かう場所への興味と今この瞬間の楽しさに心を踊らせている。
今から行くのは、三泊四日の修学旅行。中学三年生の彼らは持ってきた携帯片手に各々で目的地までの暇つぶしを楽しんでいた。
しかし三番目のバスだけは、少しだけ雰囲気が違った。
「おい『独りっ子』、何外見て黄昏てんだよ、かっこよくないよー?」
「子供だよねー、それともアニメの見すぎ?」
「ねぇ、汚い鼻歌歌わないでもらえる?眠れない」
生徒達が楽しい気分なのは変わらない。しかしそれが全員ではなく、そしてその生徒達の鬱憤が一人の生徒に集中していることが異常だった。
「はぁ……」
左から右へ流れていく景色を眺めながらため息をついたのは、天野快斗という名前の少年だ。
茶髪の髪を弄りながら、鼻歌交じりに気を紛らわせていた快斗であったが、周りはそんな快斗を放っておいてはくれないらしい。
後ろの席の生徒にはうるさいと席を蹴られ、前の席の生徒にはその態度を嘲笑され、通路を挟んだ先の生徒には馬鹿にされてクラス総出で笑われる。
もちろん、それを面白く思わない生徒もいるが、ほとんどは傍観者だ。同じ責める対象があると人間の仲は深まりがちだが、このクラスの場合は快斗だった。
「快斗……大丈夫?」
「……多分」
隣の席に座っている生徒は、快斗を心配して声をかけてくる。その生徒の名前は星野沙春。このクラスで唯一、快斗と普通に接してくれる友達だ。
そんな彼は優しく快斗へ問いかけるが、快斗は窓の外を眺めたままであまり反応しない。
前に、皆からのいじりが行き過ぎて、皆の前で泣いてしまったことがある。それ以降、快斗へのいじりはエスカレートし、やがてそれはいじめに発展しつつある。
そんなクラスの状況を、担任の教師は見て見ぬふり。結局、快斗といじめ側以外は皆傍観者なのだ。
心配している沙春さえも。
「そんなこと思ってねぇから、安心しろ」
「快斗……」
「お前がキレて状況が変わるんならやって欲しいかもしれないけど……俺がキレても変わらなかったし、誰がやっても一緒だと思う……多分、逆効果だ」
反抗しても意味がないことを知っている快斗は、今の状況を甘んじて受け入れている。
やめろと反論すれば、彼らは快斗が思いつかないような酷い言葉を浴びせてくる。これ以上のいじめにはなってほしくない。その思いで、快斗は浴びせられる罵詈雑言を全て受け止めている。
「コツは耳を塞がずに音を聞かないようにすることだ」
「それってコツなの?不可能に近いじゃん」
「そう。だから鼻歌歌ってんだよ」
それも、うるさいと一蹴されてしまったが。
「あーやって平気なフリしてるけど、もっと言ってたら前みたいに泣くぞあいつ」
「うわーそーなったらウケる!」
「あっちについたら、一人だけ目ぇ赤いんでしょ?他のクラスの奴らに気ぃ遣われてさ!悲しいねー!」
快斗の苦悩そっちのけで、生徒達は快斗をバカにする。過去の失敗やあることないこと全部引っ張り出して、思いつく悪口全部投げつけてくる。
無神経に人を傷つけても謝れば許される年齢だからこそ、歯止めが効かない。
歯止めが効かないと、やがて言葉は踏み込んではいけない所へいってしまう。
「平気なフリばっかして何もしないから、母親死なせたんだろ。あの『独りっ子』」
「───ぁ」
「ッ!やめろよ!」
流石にライン越えの陰口を聞いた沙春が、血相を変えて叫んだ。快斗も聞こえたその言葉。彼は心無い言葉に一瞬頭が真っ白になった。
まずいと思った。沙春に怒らせてしまった。ここは自分がキレて、沙春には静かにしてもらわないと、沙春までいじめの対象になってしまう。
でも声は出なかった。言った生徒にとってはなんてことない陰口。しかし快斗にとってそれは、この世に存在するどの悪口よりも鋭利な言葉の武器だった。
「なんだよ星野ぉ。今更正義面?」
「流石に酷いでしょ。君らだって自分の母親が死んだ時にそんなこと言われたら……」
「でも、俺らの親は『独りっ子』と違って生きてるから関係ありませーん!」
「てか星野ってそんなキャラだっけ。痛いからやめなー?」
「君達は……!」
反省できない生徒達は沙春を嘲笑する。それを止めたいのに、快斗は視界が歪み始めて動けない。
心に深く、何かが突き刺さった感覚だった。
「あっ!あいつ泣いてる!」
「えーまじまじ!?きたきた神演出じゃん!」
「うーわ、ちょっと泣かせたの誰ー?かわいそーじゃーん!」
次々に出てくる最悪の手札。向けられる嘲笑とカメラが怖くて目を窓に向けても、反射した泣き顔が情けなくて下を向いた。
───弱い。あまりにも。
「快斗、聞いちゃだめだよ。少し寝てたらいいから……」
「沙春……」
沙春だけは快斗を庇おうとしてくれる。結局怒らせてしまったが、ダメージを負ったのは快斗だけ。
唯一の家族の母親が死んで、『独りっ子』になった自分だけ。
『可哀想に』
「───ぁ?」
『あなたは、そんなことされていい人じゃないのに』
ふと、誰かの声が聞こえた。その声はとても母に似ていて。
『もう、躊躇なんてしなくていいのに』
「は──」
心で渦巻く衝動が、涙を後押しするみたいで気持ち悪い。
「躊躇、なんて───」
『大丈夫。あなたは──天野快斗だもの』
「──快斗?」
気づけば快斗は立ち上がっていた。走行中のバスの中で驚く沙春を跨いで通路へ飛び出し、バスの中を一望した。
その奇行に、クラス中が盛り上がり始めた。
「おいおいなになに!?また黒歴史作る?」
「やば!せんせー!天野君が立ってまーす!」
高い金切り声が担任を呼んだ。今までうんともすんとも言わなかった担任は振り返り、泣きながら通路に立つ式実へ一言、
「座りなさい。みんなに迷惑かけるな」
その言葉が合図のようだった。
「ッ!快斗、駄目ッ!」
何かに気づいた沙春が快斗を止めようとしたがもう遅い。快斗はバスの通路を歩き出し、歯が欠けるほどの強さで歯軋りしながらバスの先頭へ向かう。
生徒達は盛り上がり、沙春は焦りを隠せず、担任とバスの運転手は緊張感が高まった。
「おい、席に戻れ!どれだけ迷惑を──」
「うるさ」
担任は快斗を声量で席を戻らせようと、普段出さない大声を出して振り返った。
それが良くなかった。
「急に強……」
その顔は思っていたよりずっと上にあって、担任はその顔を見あげようとした。
しかし顔は上がらず、視界も半分消えていた。顔を動かすと、何か肉をえぐるような音が聞こえて──
「──ぃ、ぎぃぃいいい!?!?」
快斗の手に持っていたシャーペンが目に突き刺さったと気づいたのは、痛みが頭を突きぬけた後だった。
「あ、え?」
「なになに?何その声……」
引き気味な生徒達。担任の絶叫の意味を知るのは、快斗の持つ、血の滴るシャーペンを見てからだ。
「やばば!?」
「はぁ!?やばいだろあいつ!人刺した刺した!」
「お、おい!こっち来んなよ!」
振り返る快斗へ皆が口々にこっちへ来るなと叫ぶ。近くにいる生徒はシートベルトを外して後ろへ逃げてしまった。
「意味無くしてやる。その行動全部」
そんなことは関係のないこと。快斗はそのまま前へと進み、運転手の隣へたどり着いた。
運転するために前を向いていた運転手が、ようやく快斗を見た時、快斗は深くため息をついて、
「今生最後の仕事、お疲れ様でした」
そう呟くと、運転手の首元へシャーペンを突き刺した。
「ぐぇっ!?」
突然の攻撃に驚いた運転手が喉を抑えた隙に、快斗はハンドルを思いっきり右へきった。
バスは急に進路を変え、中にいる生徒達をぐちゃぐちゃにかき混ぜながらとある方向へ向かう。
「……ぇ?」
突如襲う浮遊感。回転するバス。窓から覗いた景色が左右ではなく上下に動いてるのを見て気づいた。
このバスは、崖から飛び出した。
「きゃぁぁああああ!?!?」
「うわぁぁああああ!?!?」
今更悲鳴をあげる生徒達。その様子を眺めながら、落ちてゆくバスに体を預けた快斗は再び涙を流して呟いた。
「──ごめんなさい」
誰に対してか、その言葉は誰にも聞かれることなく、次いで響いた爆発音に掻き消された。