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小1から小3、そしてインナーチャイルドとの対話


 小学生になって初めての担任が生徒の物を盗み盗んだものを他の生徒にあげたり矛盾した言動を取られる方だったり


 同じ幼稚園を通っていた生徒たちが幼児期健忘で記憶が書き変わったのか幼稚園の先生やばかったよなと言いあった友人が翌週に担任Wをいい先生だと記憶していたり


 父の好意で隣の家に住まわせていた隣人兼運転手が我が家と自分の家の立場を逆にした噂を流して町内で集団いじめが起きその隣人が逮捕されるニュースが流れるまで地域による集団いじめが続いたりなどありました。


 我が家の躾は菜箸から電源コード、電源コードからケーブル変わり、頻度も姉妹で口論になったり泣き声を出したといういまだに意味のわからない理由で叩かれるようになっていました。


 頻度はほぼ毎日で痛みに耐えきれず号泣する姉を見て「声をあげて泣いたら余計に叩いてくるのになんで泣くんだろう」と不思議に思う程度には過剰に反応せず痛みに鈍感だったと思います。

(のちに姉には優しかった頃の母の記憶があったということでこの差異が生まれたのだとわかり納得しました)

 

 私にとって母は何度も生命の危機や嫌な状況に追い込む人だったので何を懇願しても意味がないと諦めていたので助けてくれる誰かがいるという前提で泣き叫ぶということはできなかったのだと思います。

 余計叩かれますからね。


 当時の母は私が卵アレルギーだと診断されたその日に丼いっぱいの卵料理を食べることを強要してきたり、体のどこかが痛いと言えば叩けば治ると鞭打ちをする人だったので早く私に死んで欲しかったんだなと思ながら過ごしていました。


 母が落ち着いているときに尋ねたところ卵料理を出してきたのはアレルゲンをいっぱい食べたらアレルギーが治るからと思い込んでしていたからだそう。

 (※経口免疫療法は必ず医師と相談して行ってください)


 そんな親でも家族としての情はあったので死ぬなら保険が降りる学校かなーと考えながら過ごしていたある日。


 見慣れない子供が家にいました。


 それがたぶん私のインナーチャイルドとの初めての遭遇だったと思います。


 当時のフジオリの家はいわゆる心霊現象がよく起きる家で家で出没するものに同世代ぐらいの幽霊がいたこと(いずれ機会があったら書きます)

 近所に住む人間が勝手に家に上がり込むことがあったのでそのた子供を見かけた瞬間、そういうのかな?と思いました。

 

 しかしその子供がつけている髪飾りが幼少期自分がすごくお気に入りの髪飾りだったのですぐに自分だと気づき「あ、殺さなきゃ」と自然に思いました。


 それが一番最初に自分のインナーチャイルドを見て思った感想です。

 でもその時は逃げられその子を殺せませんでした。


 その後その子とは何度か会うことはありましたが気分が乗らなかったり忙しかったりで仕留めずいつしか普通にいる近所の子供に相手にするようにして接したりしていました。


 小学3年生のある日

 日本語もある程度使えるようになりフジオリの中で言語化ブームが起きていたとき、たまたま自分のインナーチャイルドを捕まえてしまった時がありました。


 この頃はどちらかというとインナーチャイルドである小さい自分よりも現状を生きている自分の方が死んでほしいと思っていたので「殺そう」という気持ちはありませんでした。

 むしろ対話ができるのなら死ぬ前に喋ってみようと話しかけました。


「なんできみは存在してるの?」


「子供でいたかったからじゃないの」


「なんで生きてるの?」


「アニメとか動物を見るのが楽しいから」


「それは共感できるけど、自分の楽しさを優先してもダメじゃんみんな怒る」


「なんで?なんで悪い方に進むってわかってて我慢しつづけなきゃいけないの?」


「……私がわかることを大人がわからないわけないよ」


「そうかな、海や竹猪だってテレビを知らなかったしママもパパのことだって私が言ったことが当たってたじゃん」


 当時、両親の仲は子供から見ても悪く母は父への鬱憤を私と姉に当たるということを続けていました。

 なんでも私たちに当たることでその場にいない父がそれを察知して態度を改めると思い込んでいたからだそうです。


 何度も我が子が死ぬかもしれないという状況でお金を持ち逃げしたりして見捨て続けてた男がそんなことするはずがないのに。

 それを母に指摘し、こちらが指摘した通りになったことが片手では足りない回数ありました。


 いつのまにかどっちが問いかけ答える側か立場が入れ替わったことに気づかずただ私は幼い子供の自分に問いかけ続けました。


「近い時代を生きてる親を手本にしないといけないし生きていけないじゃないか」


「それもまた家族への情だとは思うけど、私たちは親がいなくなった後も生きていかなきゃいけないんだよ?」


「こんなに死にたいのに生きなきゃいけないの?」


「どんなに死にたくても嫌でも生きなきゃいけないよ。産まれる前に約束したでしょ?人である限り生き続けなきゃって」


「それはやだな、つらいな」


「じゃあ、それを全部誰かに背負わせる?」


「それは嫌だ。この死にたい気持ちも全部私のものだもん。

 自分とはいえ他人に背負わせるものじゃない」


「でもつらいんだよね?生きるのがしんどいんだよね?

 いいじゃないゴミ箱みたいに嫌な記憶だけ持ってくれる誰かがいても」


「それでも私はずっと私でいたいよ」


「バカバカしい、分かれたらそれぞれ持てるものは少なくなるけどきみの苦痛は軽くなるのにそれは嫌だ、でも死にたいけど生きたいって矛盾してる」


「じゃあ期間を決めよう。小学校6年までどうしても辛かったら成人まで自殺チャレンジをしてもいいことにする。

 ただし痕が残ったり後遺症が残るような手段はダメ」


「ルールを作るのはいいけど生きるのはきみだけど大丈夫?」


「きみも私ならきみもこれを味わって生きるんだよ」


 小さい子供の自分はそれを聞いて嫌そうな顔をしていたのは覚えています。

 見た目5歳にもなっていないその子供は深いため息を吐いてどこか観念したように肩を落として笑っていたのを覚えています。


「楽しもうと思えば全部楽しめるからいいよ」


 それからその子供は見ていません。


 今にして思えばインナーチャイルドは子供でいたかった「フジ」で主人格として生きてきた方が「オリ」だったのかもしれません。

 背伸びをしていないと生きていけなかったので子供でいたかった自分を切り離していたんだと思います。


 幼稚園に入る前の自分が長い散歩をして帰ってきたのだと思います。


 でも私の場合はそれでよかったんだと思います。



 ただ、このタイミングで人格の統合をしなければ多重人格になっていたのかもしれないなと大人になって思いました。


 以上でインナーチャイルドに関するフジオリの記述は終わります。

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