幼稚園に入ってから
幼稚園についてまずフジオリには同腹の三つ上の姉がいます。
しかし姉は元々保育園から幼稚園に入ったので集団生活はある程度学んでいる状態での幼稚園入園でした。
対してフジオリは保育園は行かず、幼稚園から集団生活スタートだったので母自身も混乱していたと思います。
この混乱が思い通りに育たなかったと強烈な記憶として母の中に残りいつしかフジオリは出来損ないの子供になっていったのだと思います。
何度もそう言われてきましたし。
そう思っていたのは幼稚園の教員たちもだったようで、記憶にあるだけでも一人だけ倉庫に閉じ込められたり、教室に仕切りを作ってその中で一人で生活するという隔離でした。
咄嗟に日本語が出てこない中、英語や韓国語で答えると「日本語以外喋ってはいけない」と今でいう体罰のように揺さぶられたり叩かれたり隔離されたりしていましたが、言葉が通じないから仕方ないかとどこか納得していました。
人間は異物を排除するものですから。
けれど当時の私はそんなことは分からなかったので言葉で意思表示ややりたいことを伝えることができなかったので咄嗟に手や行動で示す粗暴な子供になっていきました。
そのことで親が呼び出されるようになりました。
もともと日本語以外を喋ったとか同級生に水をかけたとかでも執拗に責める担任だったので何をしても何をしなくても呼び出されてました。
母が家で怒るようになった頃、家でもどの言葉で喋ればいいのか分からず喋ることができなくなっっていました。
そんなフジオリを矯正するためか母はムチに見立てた竹でできた菜箸で四肢を叩く、長時間正座をしたまま両手を頭上に上げ続けるなどの躾けが始まりました。
より苦痛を感じる状態になれば言うことを聞くし母の思い通りになるだろうという思い込みで
正座をしてただ上げてるだけの手は折りたたみの椅子を持ち上げ続けることになり、気づけば大人も持ち上げるのに苦労する木製の数キロの椅子を持ち上げ続けるに代わり
菜箸による鞭打ちもすねや足から腕、腕から手、指先へとより苦痛や痛みを感じる方法になっていき自分から腕を差し出すよう強要され叩かれるようになりました。
この間、少しでも声を漏らしたり一滴でも涙をこぼしたら母の気が済むか痛みに反応をしなくなるまで回数と時間が何倍にも増え続けていきました。
おかげさまで小学生の頃までずっと長袖で過ごしてました。
覚えているだけでも短くて2時間は椅子を持ち上げ続けなければならなかったし叩かれても蹴られても正座から姿勢を崩せば母は怒り状況が悪化し続けるので耐え続けるため無になるしかなかったです。
これらのことから幼稚園の時点で体が強くないと死ぬという危機感が刷り込まれ袋入りの肥料をもって走り回ったり母親を背負って走り回れる元気な子供になりました。
自分に危害を加えてくる人間の体重を持ち上げさえできれば衝撃のある攻撃は軽減できますから。
痛みや苦痛に対する耐性が嫌な形ですがついたおかげで周りを少し俯瞰して見ることができるようになりました。
ここで担任Wがフジオリに対するような扱いをしている子供が同級生に数人いることに気づきます。
そこで担任Wは思い通りにならない生徒に体罰をする教師だと気づきました。
フジオリが育った地域ではフジオリが入園する前に記録的な震災が起きていたためそのトラウマで担任Wはこの行動をしていたのかと思っていました。
しかし子供が問題を起こしその現場を目撃したときに笑い、当該生徒を解決できないことで追い詰め泣かせ続けることが何度かあったのでただ単に担任の性格が悪かったのだと思います。
母は入園前もあとしばらくいつものように「教師と親は神のように扱いなさい」と言っていたのでできる限り親の言うことに従うようにしていました。
が
担任Wにとってなにか嫌なことが起きたら私かその危害を加えてもいい判定をした子達の粗や問題を執拗に探し見つけて週に何度か幼稚園のみんなが通る廊下で怒ったりしていました。
それは職員室の前だったり他の教員がいる前でもしていたので横切る他の教員に助けを求めたりしたことがあります。
その時の担当W以外の教員が目を合わせずに逃げるように教室だったり職員室の中に自分の受け持つ生徒だけを足早に連れて行くのを覚えています。
なんなら問題を起こした時、担任W以外の教員も一緒になって一人の生徒を見下ろし続けていたのも覚えていますし
たまに助けに入った先生に担任Wが「生徒が言うこと聞いてくれない私かわいそう」と言っていたのも覚えています。
食べられないと体が拒否して吐き出してしまったものをもう一度食べさせられることが苦痛だと言うことは幼稚園で知りました。
これらの行為が見せしめるためだったと確信を持って言えるのはある日の帰りの会で「フジオリちゃんのお母さんが先生をいじめるの」とクラスメイト全員の前で担任Wが泣き出したことがあるからです。
この帰りの会の少し前に私はこの担任Wによって負わされた外傷により入院しており、幼稚園の園長や責任者が家に来て謝罪、再度登園という流れでこう言い出したのです。
丈夫とはいえ幼稚園児を投げ飛ばして頭から着地したのを放置したりしたらダメだと思うんですよね。何年も経った今でも。
そもそも幼稚園に入る前に3mの高さから落ちても無傷だったことが何回かある子供だったので投げ飛ばされさえしなければ成人女性の肩あたりの高さであれば全然無傷だったと思います。
助力をつけて投げ飛ばされて数メートル転がったのでダメでしたね。
ただこの外傷についても悶着があり、人形を使って担任Wにされたことを再現してしても家族、医療関係者全員が理解しなかったので相手に通じる言語の重要性を強く意識したエピソードでもあります。
言葉が通じない。
子供が本当のことを言っても再現しても大人は信じてくれない。
親からトラブルメイカーとして機嫌のいい時以外に喋りかけると怒られるようになり幼稚園の年長から小学3年生あたりまであまり喋ることができなくなりました。
幼稚園の年長
この頃から希死念慮を持つようになったように思います。
ただ幼少期のこの希死念慮に対抗してたのが竹猪と海です。
「子供のうちにこんなことで終わるのは惜しいことだ」
「生きていたらなんとかなるかもしれない、終わるのはその時でもいいじゃないか」
そんな確証のない未来に起きる何かのために生き続けなければならないのかと絶望した記憶もあります。この悪い方の予想は当たってたわけですが。
少し年齢が上で自分を俯瞰していたオリは「今自分が自傷行為をしても親の責任にされる可能性があるから様子を見よう」でした。
卒園間際になり投げ飛ばされた現場を目撃した同級生がフジオリを見て拒絶反応を示したり
その親や周囲にお前が何かやったのかと怒られたりなどしましたが、一部のPTA関係者である同級生の親たちはフジオリを隔離した現場を見ていたりフジオリ以外で被害を受けた子の状況からとても悪質だとして何度か保護者会議をしたりして揉めながら幼稚園を卒園しました。
この時はこの幼稚園だけが異常だと思っていましたがそんなことなかったです。
小学校一年生になり、ようやく地獄が終わったと新しい環境を楽しみにしていました。