産まれてから幼稚園
こんにちは人類諸君。
これはいつか漫画にでもしたためようと思っていたことだがそのいつかは来そうにないので文字を使っての自己開示や言語化を測ろうと思う。
まず私は混血である。
お相手はお隣の国だが、国や文化が隔てられた者たちから生まれたという点では私自身の状態を混血と名指すのが適切だと考えている。
国籍は日本であり、これしか持っていない。
生まれた当時、女性がよその国でよその国の人間との間にできた子供に国籍を付与するような制度がなかったためだ。
なので産まれた時から一国籍(日本のみ)の混血である。
国籍について知ったのは比較的最近のことだがそのことに関するトラブルはまたいつかの自分に託そうと思います。
今回はインナーチャイルドについて見かけた記事と似た経験を「そういえば昔していたな」と思い出したのがこれを書き始めたきっかけです。
書いていこうとは書いたものの私はこの体になる前の記憶も誕生してから今日に至るまでの記憶も持っているためどこから書き出せばいいのかわからないのでひとまず覚えていることを全部書いていこうと思います。
幼稚園時点であった人格は普通の子供であり続けたかった「フジ」
現在の環境が異常であると憤る前世の人たちだった「竹猪」と「海」
当時の自分よりも少し年が上でそれらを俯瞰できる「オリ」がいました。
竹猪に関しては幼児期健忘が始まる年代ぐらいに「自分が生きた時代ではないし共に歩みたいと想った相手がいない時間はむなしいだけ」といつのまにか消えていくことになります。
海も海で23年に起きたトルコの地震が起きるまでは年に数回現れてはへんなアドバイスをしてくる近所に住んでるおっさんのような存在として自分の中にいました。
主にこの四人が現在の自分を作り上げた人格の大元だったと思います。
私はたまたま体の発達が速い子供でした。
3ヶ月で掴まり立ちとはいえ立ち生後半年には歩いていた程度には速かったです。
フジオリが本来産まれる日は8月25日かその辺りだったのですが自分の母方の身内の占い師によってこの日が良いとこの日に産めと決められた日が19日。私が生まれた日です。
もう少し生きるために心の覚悟をゆるく決めていっている時に腹から押し出されたマジかよ感は忘れません。
押し出されて出てきた世界が凍えそうなほど寒かったのも忘れません。
視界は不鮮明で眩しく(今思えば分娩台のライト)それでいて凍えるかのような寒さに泣きました。これが私の産声でした。
「こんな寒い世界で生きていくの?無理、絶望」が産まれた時の感想です。
これだけだったらまだ産まれてすぐに抱いた感情は寒いと絶望だけで済んだのですがこの後が問題でした。
外国人が無理やり予定日よりも先に産んだということもあってか、誰かが緊急で産む状況と重なって人が足りていなかったのか今は知りようがないが、優先順位が低い状況だったのは今ならわかる。
産まれてすぐどこかの台に置かれ分娩室から人がいなくなりました。
母親と臍の緒が繋がったまま。
人がいなくなった混乱とパニックで発作を起こした母とまだ臍の緒が繋がった状態だった自分を隔てるものはなく、そのパニックによって冷たくなった血液がフジオリに流れてきてしまった。
お腹から体が冷えていく感覚は今でも忘れられない。
フジオリが誕生日付近でいつも死にかけるバッドイベント第一回目は誕生日に心停止でした。
今更ながら思うにこの時点で成長によって消えていく前世だった人たちの記憶を使わないと生き残れないと確信したせいでその記憶を手放せなくなったのだと思います。
何人かいわゆる前世に当たる人たちはいましたがその中でも悲惨な死に方をしたのが竹猪と海でした。
竹猪は日本に住んでいた青年で奥さんと一緒にたけのこ掘りの帰り、猪に襲われ奥さんが逃げるのを見送った後、噛み殺されました。
海はどこかの国の商人で主に石材を外国に売って儲けを出していたがある夜、何者かに刺されて冬の海に落とされ殺されました。
どちらも徐々に体が寒くなっていく感覚がある記憶だったため心停止した際、その死んだ時の状況が重なってしまったのだと今にして思う。
そんな状態のせいか中途半端に人間として生きている意識が混じった状態で過ごすことになりました。
退院してベビーベッドで寝かされてる時も横を通り過ぎる人たちをみて「私は寝転ぶことしかできないのに二足歩行しやがって羨ましい。私が二足歩行になった時覚えてろよ」と嫉妬していたのを覚えています。
発達心理学を学んでいる人たちからしたら鼻で笑われそうなことですが実際に客観視できることで
ホームビデオやカメラで撮影した記録。
その場にいた人たちの記憶。
腹這いのフジオリが覚えている記憶。
これらについて差異はないどころか本人たちは見ていないがフジオリの視界には写っている出来事を答え続けていたので捏造記憶ではなく覚えていると判断できる程度には意識と記憶を持っていました。
ここまで書けば産まれたときから異常者かもしれないと思うでしょうがその自分ですら眩む天才児が血縁者で何人かいたので私は平凡な人間であると自称します。
体の感覚が鈍く、傷が衝撃ではなく痛みに繋がったのは5、6歳ぐらいでしたし。
そんなフジオリですが、幼稚園に入る前に使っていた言語はイギリス寄りの英語、韓国語、日本語でした。
韓国語は母親との会話。
英語は英会話を学んでいた姉の授業を聞き勝手に覚え姉妹間での会話に。
日本語はたまに帰ってくる父とテレビアニメの内容を知るために。
なのでどちらかというとよく使っていた言葉順に英語、韓国語、日本語という日本に住んでいて日本語を使う機会が少ない環境でそれまで過ごしていました。
そんなもので幼稚園に入り一番苦労したのは言葉でした。
相手が日本語で話しかけてきても咄嗟に出るこちらの言葉が英語と韓国語。
ゆっくり状況を理解して自分の中で日本語に置き換えて答えるもタイミングが遅かったり思っていた意味の言葉でなかったりとで怒られたりしました。
それが幼稚園の時の担任Wにとって不愉快だったのだと思います。
これからは繊細な方やトラウマを想起されやすい方に厳しい経緯があるのできついなーと思った方は一話を飛ばして読み続けることを推奨します。