爆弾犬
どこか腑に落ちない、と首を傾げるように地面に立ち並ぶ木の杭。それらを結ぶ鉄線が背の高い茶色の雑草がひしめく平原とひび割れた道路を区切っている。
と、そこから一匹の灰色の犬が出てきた。耳と頬が垂れ下がり、道路をヒョコヒョコと歩いているが、足を怪我しているわけではない。ただそうしたほうが同情を買えると思っていただけ。そして、それは正しかった。
今、一台のトラックが停まり、犬は開いたドアから助手席に乗り込んだ。吹いた風は雑草をさざめかせ、まるで映画のエンドロール。遠ざかるトラックの背に拍手を送っているかのようだった。
確かに、物語はこれで終わりだ。だが、それでは何の事かまるでわからない。ゆえに遡るべきである。彼らのためにも。
「なな、なあ、ややっぱり、ややめようよ」
「黙れピーチ……。あのクソッタレの戦車をこいつでオシャカにするのさ」
コヨーテは犬の首根っこを掴みながらそう言った。
コンクリート造りの建物。瓦礫が散乱し、天井にあいた穴から見える空は壁の色と同じく灰色。曇天。ここにいる彼ら同様に今にも泣きだしそうだが、一応屋根の役割はなしているので雨が降っても凌げはする。
ガラスの無い窓の傍で外を眺めるバッグが身じろぎし、それに気づいたコヨーテが唾を飛ばし訊ねる。
「バッグ、奴らは来たか? ああ? 来たか? なあ、来たのか?」
「まだだよコヨーテ」とバッグは口に咥えた爪楊枝を落とさぬようクチャクチャと鳴らしながら答えた。
『ピーチ』『コヨーテ』『バッグ』いずれも、あだ名だ。彼らが所属する部隊には他に『ファイア』と『バレット』それに『マスティフ』がいたが、いずれも死んだ。
戦場だ。運がなかった、そこが寿命だったと言えばそれまでだが、その勇ましい名に煽られ、無茶をやり死んだと言えなくもない。
あだ名は基本、自分で決めず部隊仲間につけられた。往々にして立場もとい気の弱い者には気に入らないあだ名をつけられるもので『ピーチ』も呼ばれる度に本人は自覚はないが眉を寄せる。他の者はよくその泣きそうな顔を面白がった。
『ピーチ』その由来は軍舎でシャワーを浴びたときに露わになった彼の綺麗な尻から。『コヨーテ』は本人がつけた。彼はそれを昔映画で観た西部劇か何かの主人公の名だと思っていたが、幼い頃に観たアニメの影響だった。『バッグ』は股部白癬の患者がズボンの上から股間を掻くように、しきりに背中のバッグに触れるからだ。何か落としていないか不安らしい。訓練時代に一度官給品を失くし、えらい目に遭ったその心的外傷が表れている。
『ファイア』ら死んだ者たちも同様、このように物事には何かしらの理由があり、過去と現在、そして未来は地続きである。
この灰色の犬もそうだ。なぜ彼らに捕まったのか。何人兄弟の何番目で戦争の最中そのうちの何匹かは死に、逃れ逃れ彼は運よく生き残ったからここにいると、あまり過去を振り返るばかりでも退屈なので、ひとまずはそれで締めさせていただくとして物語を先に進めよう。
「ほら、ピーチ。こいつを押さえてな!」
「わかったよ」としぶしぶ従うピーチ。両手で上から押さえるように犬に触れ、そのやや湿った感触。体温にまた泣きそうな顔になった。
鞄の中から取り出した針金といくつかの手榴弾を犬の身体に括りつけようとしているコヨーテ。
息は荒く、汗で脇と背、靴下が湿り、口の中が乾いている。目は血走り、口角を上げ、端から見れば薬中の狂人だが上官含む仲間たちをあっけなく殺され、本隊から離れ孤立無援とくればそうなっても仕方がない。コヨーテはただひたすらに怒りを燃やし、ピーチは誠実、清く正しくあれば神が助けてくれるとどこか現実逃避気味。バッグは諦念。三者三様のようで等しく精神は恐怖に蝕まれていた。
「足りねぇ……。バッグ。お前の手榴弾もよこせ」
「あったかな……」
「お前、しょっちゅう確認してたのにわかんねぇのかよ」
「あった」
「チッ、ほら、ピーチ。お前のも寄越せ」
「やややっぱりやめた方がいいよ……い、犬がかわいそうじゃないか、ば、爆弾犬にされるなんて……」
「てめぇ、仲間の仇を討ちたくないのかよ! 薄情者だな、ほら、出せ!」
ピーチはしぶしぶ、コヨーテに自分の手榴弾を渡した。一度、ちゃんと反対表明したという事実が欲しい彼だったが、その思惑に気づいているコヨーテはただ苛ついた。
「へへっ、爆弾犬。そういうのがあるって昔どっかで見たんだよなぁへへへ、知識は役に立つってもんだな、へへへへ」
爆弾犬。その昔、どこかの軍により考案された対戦車兵器。その名の通り、爆弾を取りつけた犬を敵の戦車の下に潜らせ、起爆する。しかし
「うううまく行かなかったって話じゃなかったか……? そ、そもそも、その犬は訓練なんてしてないし、き、起爆装置もないし、やっぱり、かわ、かわいそうだよ……」
「案外、うまく行くかもしれないだろ! こいつ、おれらに近づいてきたことから見ても人慣れしてるし、それにほらこの顔。へへっ、意外と肝が据わってんだろぉー? 戦車にビビらずに向かって行けるさ。それにそう、この涎を見ろよ。戦車の動線にソーセージかなんか投げときゃ、喜んで飛びつくぜ。で、この針金をピンに引っ掛けて……ああ、めんどくせえ、狙撃すればいいだろ」
「そ、狙撃って……そそそんなの、やっぱり非人道的だし、かわ――」
「次、かわいそうってその口から屁みたいに漏らしやがったら、てめえの口にこいつのケツを突っ込んでやるぞ!」
そう言われれば引き下がる他ないピーチ。尤も前述の通り、彼は反対の意を示すことそれが目的なので、さほど胸に痛みを感じてはいなかった。むしろ、自分が反対すること。それ自体が、自分の役割であると彼は無意識ではあるがそれを理解していた。
誰も彼も賛同し、背中を押されるとむしろうまく行かないのではないかと頭によぎるものだ。どこか作戦がうまく行くんじゃないかと、そんな雰囲気が漂い始めていた。
さらにピーチは自分の役割を全うすべく、バッグに助けを求めるような視線を送る。
「……味方が戦っている中、いつまでもこうやってビクビク隠れているわけには行かねえ。物資も限られてるし、行動に出るべきだ。軍全体のためにな」
彼は空を眺めながらそう言った。また彼も無意識に、自分の役割を果たしたと、気分が和らいでいた。
「おれは恐れてなんかねぇ……へへへっ……」
と、笑うコヨーテ。それもまた自分の役割。犬の身体に爆弾を取りつけると、一仕事終えたように大きく息を吐き、汗をぬぐった。その後は三人とも無言。外の様子を窺いつつ、やがて夜を迎えた。
明日はここを出て歩き、敵を探す。必ず近くにいるはずだ。見つからないよう火も起こせず月明かりの下、コヨーテがそう言うと他の二人は頷いた。
三人距離を置き、薄い毛布にくるまり目を閉じる。寒さに震え、咳が出るとその方向から顔を背け、自分もまたつられるように咳をした。明日こそ死ぬかもしれない。そう考えると涙が込み上げるが泣きはしなかった。他二人のために我慢したというわけではないが。
翌朝。冷たく凝り固まった体と靄がかかった脳を揺り動かし呻き声。そしてエンジンをかけるように何度か大きな咳をした後、隈が目立つその顔を撫でつけ、のそのそと三人は起き上がった。
三人、離れて眠っていたはずだが、寒さのため暖を求めていたのかいつの間にか固まっていた。犬はその中心にいた。爆弾は付けておらず、部屋の隅に置かれていた。寝付けなかったピーチが外してやり、犬を抱きかかえ眠ったのだ。
ぼんやりと犬を眺めるコヨーテとバッグに昨夜、傍に来た犬を抱き寄せた記憶がうっすらと甦ってきた。また、こちらから寄っていった覚えも。多分、そうしている間に三人寄り集まり、といった話なのだろうと、三人とも緩慢な脳で理解したが誰もそれを口にしようとはせず、ただ咳払いした。
「……さあ、飯だ。そのあと、戦車を探そう」
「な、なあ、コヨーテ。やややっぱりやめないか……?」
またか、とコヨーテはため息をついた。そして息を吸い込むと肺が痛み、咳をしてから言った。
「お前だろ? ピーチ。ぜっかく取り付けた爆弾を外しやがって、馬鹿がよ」
「でもさ、ほら、こいつガリガリだけどよく見りゃかわいいじゃないか。へへへっ、お、おれ、ね寝惚けて夢かと思ったけどさぁ、き昨日の夜だって、ほら、おおお前も寝ながら撫でててたんだぞ。へへへへ」
「な、や、やると決めたらやるんだよ。親父から教わらなかったのか? それとも、てめえの親は両方ともホモのジジイかよ。ででできそこないのきき吃音やろろろぉ!」
「ううぅぅぅぅ!」
ピーチが唸り声を上げてコヨーテに飛び掛かった。彼がそうした理由はこれまで積み重なってきた恥辱に耐えかね、とうとう怒りが噴出したのと彼自身がゲイであるからで、口の端から血を流し、吊り上げた目。その気迫に押されたのかコヨーテは一歩退き、そして、真正面からその怒りを受け止めることになった。
「……もうよさねえか」
倒れ、揉み合う二人にバッグがビスケットをかじりながら言った。バックは窓枠に凭れて、幼き頃を思い出していた。ちょうど外はその時と同じ青空であったのだ。
犬を飼っていた。バッグが物心ついて間もない頃、事故で寿命より早くに死んだため、これまで思い出そうとも思わなかったが、昨夜の出来事に触発され、その匂いと体温。芝生の上、陽だまりの中を飛び跳ねる姿が鮮明に蘇ったのだ。
「っ、どけよ!」とコヨーテはピーチを押しのけた。
息を荒げ、咳き込む二人。膝に手をやり立ち上がろうとするコヨーテの前に犬が舌を出しながら近づいた。
コヨーテはその顔を見て、昔観た犬が主役のアニメを思い出した。そして自分の名の由来がそれだと気づくと、自分でもどうしたことかわからず、涙を流した。
「ああああぁぁぁ!」
ピーチは手榴弾のピンを一つ抜くと叫び、窓枠から外に向かって、汚い言葉と共に放り投げた。
コヨーテとバッグの二人は反射的に身を伏せた。間もなく爆発音がし、建物全体が震え、埃と小さなコンクリート片が上から降ってきた。
「馬鹿野郎ピーチ! どういうつもりだてめぇ!」
「はは、ははは、ゴホッ、ははは! なあ、盛大にクソした気分だろう?」
「ふっふん」
「……チッ。ああ、最高の気分さ」
三人とも笑い、しばらく経つとその爆発音を確認した味方の部隊がやってきた。
この辺りはすでに敵が撤退していた。戦争もじきに終わるだろう。敵は大幅に弱体化している。味方からそう聞かされた三人は何度も咽返るほどに大笑いした。
犬は味方が来る前、三人が笑い合っていたときにはもうその姿を消していた。
手榴弾の爆発に驚き、尻尾を撒いて逃げ出したのだろう。それが生き残る秘訣だと感心したくらいで臆病とは思わず、また誰も行方を気にはしなかった。あの犬なら元気でやるだろう、と。
そして犬は歩き続け、冒頭に至る。
病原菌犬。戦争中、ある国によって研究、開発され、そして人知れず姿を消した。しかし、やがて世界はその兵器を知ることになる。
一羽の蝶の羽ばたきが嵐を……などとは言わないが、三人の選択とその風が運ぶものの影響は小さくはないだろう。
遠のくトラック。あるいはこれはオープニングだったのかもしれない。