序章
帝都の工場で、奴隷の居住区が崩壊した。
その報せを聞いて、慌てる者はいない。気をかける者も、とても少ない。
何せ、所詮は奴隷の住まいだ。死んで困る者も然程いないし、修繕に当たるのも他ならぬ奴隷たちである。
地の魔法を使える者が軽く土砂をどかす程度はするだろうが、それでも『有神人種』にとっては何の話題性もない話である。
本来は口外無用の話は、しかし噂として町を駆け巡り、そして然程の騒ぎになることもないまま、緘口令を出されるまでもなく人々に忘れられた。
しかし、
「……異人の諜報員が二人と、その部隊の管理者が行方不明です」
帝都アルタビスタの中枢、帝城の広い一室では、見るからに豪奢な服装を纏った老人たちが、まさにこの話題について議論していたのである。
議事が読みあげた報告内容、特に異人の諜報員という単語に揃って眉根を寄せた高官たちは、口々に状況の委細の説明を求め始めた。
「その者たち……コマルフ財務の処理にあたっていたな? 確か、父を尋ねて娘が帝都に来ていたとか。その娘は」
「行方不明の三人と共に、死体は見つかっていません。始末のため財務の屋敷に手の者を送り込みましたが、娘は既に出立した後でした。ですが番兵の報告では、それらしい少女が供を二人連れて、工場を出ていったとか」
「行方を追わせなさい。供の二人もです。捕らえたなら、必ず身元を明らかにするように」
「はっ」
下っ端に聞かせられる話はこれまでと、聞くべき事を聞いた高官たちは早々に議事や、茶を汲んでいたメイドたちを下がらせた。
そして、彼らが退席するのを見てか、入れ替わって一人の男が、同じく一人の連れと共に会議室の中へと入ってきた。
しっかり礼服を着こんだ高官たちの中で、一回り若い『有神人種』の男は軍服に似た質素な服を纏っている。
しかし、身なりの貧相さを補うように、その顔は、逞しい長身は威厳に溢れ、その存在感は権威を着飾ったような官吏たちを霞ませるようだ。
背後に控えている異人の男も、ただの傍仕えと言うには威圧感がある。
布地の豊かな文官の礼服は体格を隠すが、大柄な体に、襟から覗く褐色肌の首元は筋骨隆々で逞しい。
普通、異人が皇帝の傍に控えるなどあり得ないことだったし、この男に対しては老人たちも冷ややかな視線を送っていたが、返す一瞥はその全てを威圧し、控えさせる迫力を纏っていた。
軍属と言われても納得できるような二人は、この中でも相当の立場のようで、現に先に席についていた老人たちは彼らの入室と共に立ち上がると、恭しく頭を下げて二人が席に着くのを見守った。
「……良い、座れ」
高官たちが座る時も鶴の一声である。
この場に集まっているのは帝国で最も腰の重い古狸の集まりだが、それを一挙手一投足で思うままに操れるのはこの国ではただ一人だ。
老人たちが座るのを確認すると、逞しい姿をした軍服の男は不機嫌そうに長卓に頬杖を衝き、低い声を発した。
「例の件が教会に漏れたやも知れぬとは、本当だろうな?」
「はっ……お耳の早い事でございます、皇帝陛下」
辣腕そうな老人たちが、額に汗を浮かべながら低頭した。
この男こそアステルフォス五世帝、この帝国の現皇帝だ。
五世帝、つまり、現皇帝はこの国の元首としては、その名の通り五代目だ。このアステルフォス帝国は、実は大陸の中でも歴史の浅い国だった。
最初は魔導教会の総本山リコンに面する、大陸でもどちらかと言えば南の方に興った小国だったが、当時は寒さから未開だった北方の領土に密かに目を付け、周辺国の顰蹙を他所に強引にそれらの土地を切り開いて我が物とした。
当然、教会からも最初は目を付けられたが、そこは掘り出した資源を上納するという形で丸め込み、挙句後ろ盾として急速な増長を果たしたこの国は、五代目の現在では大陸随一の軍事国家となっていた。
それを為した辣腕の一族が、この帝国の皇族だ。
そうした経緯から、この帝国は大陸諸国の中でも特に教会に恩があり、現在に至るまで多額の布施を払い、長らく互いに懇意にしてきた。
そんな彼らが教会に対して秘め事があるなど、外に漏れれば大事である。
そのために緊急で開かれたのが、この会議だった。
「まだ、確証はございません。しかし、機密を知った者の身内が未だ生きている可能性がございます……今回行方不明となったのが、その者の始末に当たっていましたので……」
「それで?」
「はっ、勿論、追跡を命じたところでございます。決して野放しにはいたしません」
「よろしい」
皇帝は最後に小さく頷くと、頬杖をやめて、代わりに腕を組み、椅子に深く腰掛けた。
「余は、真実を申す者は極力罰せぬ。会議を続けよう」
これは、この人の機嫌が少し良くなった証拠だ。逆に頬杖は最悪である。実際、先と比べて皇帝の声音は少し柔らかくなっていた。
主君との付き合いが長く、顔色のうかがい方を知る高官たちは、それを見てややため息混じりに脱力した。
これで多少は、周りも意見が述べやすくなる。
それがわかっている皇帝は、臣下の肩の力が抜けるのを見ると、自分から質問を投げかけた。
「で……追跡は諜報員がやるとして、それで捕えられなんだらどうするつもりなのか、考えてあるのか? 状況を見るに、その相手はかなり使うようだぞ」
「いいえ……異人の魔法使いは、我ら『有神人種』のそれより強力です。それを見て生きて帰っている事自体考えにくい事ですし、行方不明者が見つからないことには判断も」
と、そこで、会議室の戸が叩かれた。
皇帝も参席している場で、こうした急な来訪は不敬だ。
そもそもが秘密の内容なので、関係者であっても招かれない者の来訪は十分罪に当たったが、
「良い、入れ。くだらん報告ではないのだろう?」
「はっ」
これもまた、皇帝が許せばそれまでだ。
入ってきた伝令は、戸を開くなり皇帝に手招きされ、その場に傅いて小声で報告を述べた。
それを聞いた皇帝は短く嘆息すると、伝令を労って部屋から退散させた後、再び頬杖を衝き、
「……その行方不明者、全員死体で見つかったようだぞ。死体には火の魔法の痕跡……それも、高等以上の威力だそうだ」
高官たちも再びさっと蒼褪めた。
魔法による攻撃の痕跡があるということは、要するに他殺だ。
国の諜報員が殺害されるなど、当然大問題である。
だが会議の面々が気にしているのは、犯人の人相もそうだが力量の方だ。
強力な筈の異人の魔法使い。それが戦いで敗れたとなれば、下手人の力は相当なものだ。
そもそも犯人が生きていることから半信半疑だったらしい高官たちは見るからに慌てふためき、それを見た皇帝は更に溜息を重ねた。
「さて、これで下手な者は寄越せなくなった。腕の立つ者を捜索に出さねばならんが……当てはあるのか?」
先までは、慌てながらも皇帝の問いに即答を重ねてきた高官たちだが、ここにきてぐっと押し黙った。
会議室に重々しい沈黙が流れ、やがて一人が「恐れながら」と声を上げた。
「そもそも、異人兵の実験自体が、教会の引き抜きの穴を埋めるためでございました。それが通用せぬのであれば、更なる戦力など、我らが軍門の中にはとても」
「その教会の動きも、十年前から妙でございます。何のためかは存じませぬが、突然門下の国々から精鋭を……時には一軍を預かる将官級の者までも強引に聖騎士団に引き入れて。一体何があったものか」
そのまま高官たちは、互いに状況への憶測を交わし始め、会議が止まった。
現在は、どこの国でも似たようなものだ。
十年前のある時期を境に、リコンの聖騎士団は大多数が謎の失踪を遂げた。
教会はその理由について頑として語らず、各国が密偵や諜報員を用いて探ろうとしても多くは失敗、最悪の場合は探る側が一緒に姿を消していたのだ。
だが、この大陸の『有神人種』は、ほとんど例外なく教会の信徒である。魔法が使える者はその恩恵が教会の説く天主の賜物であり、優等種としての立場も彼らが保障してくれるからだ。
さらに『魔導教会』の教義は『有神人種』を国ではなく人種で束ねている。なのでこの大陸においては国の法律よりも教会の教えの方が力が強く、教会に盾つけばその国は司祭に煽動された自国民に滅ぼされることになる。
教会を強く追及することは、誰にもできない。なので、大陸の国々は大切な戦力を差し出すしかなく、その分の穴埋めの確保に躍起になっていた。
だが、劣等種である『神なし』に魔法を習得させる術を持っていることは、教会の教義への重大な挑戦、背信行為だ。
国を統治する身としては、教会を敵に回す可能性に気付けば穏やかではいられない。
不安に駆られた高官たちが好き放題に話を脱線させる中、まとめ役である皇帝は、拳で卓を叩いて全員を威圧し、黙らせた。
「話を逸らすな。そもそも犯人が教会の手の者かもわかっておらぬ。だからその正体を探る当てを付けよと言っているのだ」
「いえ、ですから、軍の中には……」
「たわけ、我らの戦力は、今や軍だけではないだろうが。使い捨てられる非国民が、無数にいるだろう」
高官たちは一斉に目を点にした。
焦りと不安からか、彼らは視野が狭くなっていた。
それ故に忘れていた。
彼らは他にも、自らのための駒を無数に集めていたのだ。
使い捨てられる、つまりは機密を知っても消してしまえる、そして死んでも後腐れの無い、根無し草の軍勢が。
「方々から集っている傭兵連中がいるだろう。金に糸目はつけんで良い。使える者を探してくるのだ」
その一声で会議は再び動き出し、悪名高い荒くれ者や、名高い客将たちの案を、高官たちが口々に出し始めた。