終章
アステルフォス帝国の夏は短く、早くも冬備えに入る頃、しかし他の国々は未だ夏の盛りである。
星々が聖者の座を作り、人々は天なる神に新緑の恵みと、与えられた力への感謝を祈りに乗せる。
作物の実りを増やすのも、夏の暑さを、冬の寒さを凌げるのも、天主に与えられた力と、権利の賜物なれば、と。
人々は己の信心と謙虚を示すべく、厳しい季節が来る都度に教会に集い、祈りの場を設け、祭りを催して時節を祝うのが、習わしだった。
ルーニィも、去年まではそうしていた。
父も必ずその時期は都から帰ってきて、使用人たちと共に目一杯に祝い、御馳走を楽しんでいた。
だがもう、その父はいない。
神の存在は、出鱈目だった。
権利として与えられていた『神なし』の奴隷たちは、実は自分たちに従わなければいけない謂れなどなかったのだ。
まして、犬同然に扱うなど、こんなにおぞましいことはない。
全てを知ったルーニィは、その重さに耐え切れず隠れ家を飛び出し、その後ろを一人の女性がゆっくりと追いかけていた。
連れてこられたこの暑い国は、北国育ちにとっては慣れない環境だ。
子供の足で、隠れ家を隠れ家たらしめる森の中を走ることはできず、元々衝動的に飛び出しただけのルーニィは、すぐに疲れて蹲ってしまった。
手近な木に縋りつきながら、情けなさと恐ろしさに涙を流すルーニィの背中に、追いついたその女性は勤めて優しく、声を掛けた。
「ルーニィちゃん……ボルグ君、探してましたよ。とても心配していましたから、早く帰りましょう?」
「ユキさん……」
ルーニィが振り返ると、背後には美しい異人の女性が立っていた。
日差しを受ける川のように銀の髪が月明かりの下でなびき、輝く翠の瞳は木漏れ日のように優しく輝く。
纏うのは村娘用の質素なドレスだったが、艶やかな白い肌も、華奢だが肉付き豊かな身体の線も、同性でさえうっとりと見惚れてしまうような美人だった。
何度見ても綺麗な人だと思った。
直後、あぁ、そうだ、彼女は、彼らは、人だったと思った。
自分たちは今まで、彼らを人とみなしてこなかったと、思い出した。
こんなに綺麗な人を、優しい人たちを、自分たちは鞭で打ちすえ、対価もなく働かせ、根拠もない理由で冷遇してきた。
それを思いだすと、ルーニィの身体にはまたしても貫くような悪寒が襲い掛かり、涙が止め処なく、溢れてきた。
「嘘よ……あの子が私の心配なんかするはずないわ……そんな必要ないんだもの。私はもう、あの子のご主人じゃないんだもの……心配どころか、きっと恨んでいるんだわ……」
「………」
ユキは十年前に『大精霊』を宿し、奴隷時代の主人と共にその秘密を知る『精霊の使徒』となった女性だ。
だが『有神人種』を恨んだことは一度もない。
ユキの主人だった同い年の少年は、所謂『神なしくずれ』と呼ばれる存在だった。
魔法が使えず、それ故に異人たちへの優越感も差別意識も薄い、心優しい主人だった。
彼もまた『精霊の使徒』となり、主従の線はなくなったが、今でも二人は仲睦まじく共にいる。
それが特別なことだと気付いたのは、国を離れて組織の一員となってから、またしばらく経った後だった。
純粋に主人を愛し、彼と二度と切れない絆を確かめあったユキにとって、真実に打ちひしがれる『有神人種』たちの姿は、すんなりと理解が及ばないものだった。
心善き人は、知ればこうして良心の呵責に苦しめられる。
そうでない者は、聞いても何も感じないし、そもそも聞かせるべきでない。
難しい考えは愛する人に任せて、ただ彼を癒すことにだけ専念すればよかったユキは、しかし最近になって否応なく、自分たちの問題について考えるようになった。
自分たちは、異人たちは、この円状大陸では虐げられているのだ。
信仰と力の下に、それを正当化している人たちがいるのだ。
その免罪符が両方とも取り去られた後、この世界がどうなってしまうのか。
主への怨恨も何もなく生きてきたユキにも、きっとボルグにも、すぐには想像できないことだ。
だが、
「……わ、私たちみんな、殺されるのよ……お父さんも異人の魔法使いを……『精霊の使徒』を探って殺されたんだわ。だから諜報員が、私を。今まで酷いことをしてきた仕返しにって、きっと、同じことを……」
「そう思ってたら、あんなに必死に探したりしませんよ」
「殺すために探してるかもしれないじゃない! 今はそのための力が、あの子にはあるんだからっ」
ここまで言われれば、実感も沸く。
『有神人種』にも、後ろめたい思いがあったのだ。
差別がいけないことだとわかっていても、社会に取り込まれた彼らは集団の悪を見過ごし、流されるしかなかった。
そして、それが何の言い訳にもならないこともわかっている。
だからこそ、こんなにも異人からの復讐が怖いのだ。
同時に、傅かれて生きるのが当たり前だった人々には、想像もつかないことだとわかる。
人を使い、働かせることが当たり前の者たちにとって、自分が利用した相手が己を恨む理由などわからない。
国のため、社会のためにやっている。だから誰に恨まれる筋合いもない。
だからこそ、アステルフォスの皇帝は不審な導師の接近を許し、帝国は水面下で危機に陥っている。
あの人は、だからこそ旅立ったのだ、と。
曖昧な理解がはっきりとした形になったが、だからと言ってそれは、ユキの気持ちを変えるものではない。
きっと、あの子もそうだろう。
小さな主従がこの地を訪れた時、大勢の異人に怯えた様子のルーニィを庇って立っていた、あの少年。
それが、何を一つ知ったからと言って、復讐。馬鹿な話だ。
そう思っていると、
「くすっ……」
ユキは思わず、噴き出した。
ルーニィが縋る木の裏から、小さな影が迫ってくる。
どうやら、ユキとは逆方向から追ってきていたらしいが、伺うように恐る恐る近づいてくるその姿は、確かに子犬によく似ている。
無垢な幼獣が、拾ってくれた相手に恨みもつらみもある筈がない。
狼の名を与えられた、心優しい異人の少年は、しかし真実忠犬そのものの素直な顔で、主人の少女を見つめている。
彼を背中から導くのは、また別の人間だったが。
「やれやれ……隠れ家だと説明したじゃないか。そんな風に迂闊に飛び出しちゃだめだよ、ルーニィさん」
ボルグの後ろから歩いてきたのは、黒肌銀髪、赤い瞳をした異人の男。
初老、という程老け込んでもいないが、なまじ背が高いばかりに白衣から覗く手足は線の細さが目立ち、顔立ちが優男なのも相まって弱々しい印象の人物だ。
だが、目を見張るほど美しいユキの隣に立っても褪せないような奇妙な存在感に、ルーニィもボルグも最初は戸惑ったものだが、話を聞いてみれば何ら不自然はない。
この男こそ、ラナたち『精霊の使徒』の始祖にして長。
ラナの手紙の送り先であり、ルーニィとボルグの引き取り手となった人物だった。
彼は数日前に手紙を受け取って内容を改めるなり、隠れ家にいたもう一人の異人に何やら指示を与えて外に出し、それからルーニィらを受け入れてくれた。
ボルグに『大精霊』を与え、二人に自分たちと、世界についての説明をしたのがつい数十分前のことだ。
ルーニィを探すだけなら御大自らが出てくる必要も無かっただろうと、ユキは彼がここに現れた要件について、すぐに見当を付けたのだ。
「リゲル先生、もしかして、都からお知らせですか?」
「あぁ、彼が動き出したようだ。やはり調査の通り、帝城がきな臭いらしい。私たちからの報せは、すれ違ってしまったようだけど……まぁ、彼ならまず心配ないよ。ユキさんも安心して、子供たちの世話に励んでくれたまえ」
「先生、サボっちゃダメですよ? 励むっていっても、この子たち教えるのは先生なんですからね。あと、たまには洗い物くらい手伝ってください。研究ばかりじゃダメですよ、お皿の数も洗い物の数も、これから二人分増えるんですから」
「……新顔の前なんだから、手加減して……いや、なんでもない、仰せの通りに、若奥様」
ユキは秀麗な顔をぷくりと膨らませて、リゲルを睨んだ。
美人で顔立ちが優しいユキは怒っても然程迫力がないが、それでも何となく相手を逆らわせない奇妙な圧力がある。
話はついたようだが、先生という呼び名の割に、リゲルの雰囲気や周囲の扱いには威厳が感じられない。
ルーニィたちとの初対面の時も、これまでの数日も、ユキや同居している異人たちにいいように言われていたし、小さな客人にも優しかったが、迫力がなすぎてどこか印象が軽々しいのだ。
だが、弟子からの苦言にやれやれと肩を竦め、一拍置いた後に再び背筋を伸ばすと、男の周囲には不思議と厳然な雰囲気が満ちる。
ユキに言われてしまったが、先は改めて名乗りの最中だったのだ。
今度は勝手に抜け出してはだめだよとルーニィに念押しし、異人の男は優しく、しかし凛とした眼差しで、蹲るルーニィを見下ろした。
「さて、すっかり腰が折れてしまったが、改めて名乗ろう……私は『精霊学者』リゲル。この世界の魔法の源にして、我々人間の隣人たる生命『精霊』について研究する者だ。もう粗方知っているだろうけど、この名を聞いた人には、命をかけて『精霊』の秘密を守ってもらわなければならない……」
「………」
命をかけて秘密を守れとは、つまり漏らせば殺すということだ。
つい最近死ぬ目に遭ったルーニィは、明らかに脅しでない忠告に思わず涙ぐみ、息を呑んだ。
その上で、リゲルと名乗った男は変わらず微笑みを浮かべるだけだ。
リゲルは怯えるルーニィに歩み寄り、膝を屈めて目線を正面に合わせ、小さな頭にそっと手を置いた。
「……大丈夫、守る限りは何ともないってことさ。秘密を共有できる限り、ボルグも君も『精霊の使徒』。つまり我々の家族だ。例え『有神人種』でもね。もし破っても、まぁ……状況次第では許してあげよう。君たちの恩人のようにね」
ルーニィがラナから受け取った手紙には、小さな主従の現在の状況と、彼女自身についてが書かれていたという。
最初に手紙を受け取ったガルズ商会の異人は、内容を検めるなり血相を変え、手紙は右に左に、そして商会の重役へ重役へと流れ、やがてルーニィたちは馬車で帝国を出て、南の隣国トトレサンにある、この隠れ家まで連れてこられていた。
ルーニィたちを安心させるため、連れ込んだ目的は第一に二人の保護だと言っていた。それは嘘ではないのだろうが、第二の目的もまた、彼らにとっては重要なことだったのだ。
ラナは『精霊の使徒』を名乗っていた。だが、大師であるリゲルには会ったことがないとも言っていた。
思えば、気になる言葉はまたいくつもあった。
なので、
「代わりと言っては何だが……そのラナさんについて教えてくれないかな? 私はそんな孫弟子を知らないし、その子の師匠の心当たりが、少々厄介な人なんだ……」
そう言われれば、悴んだようだったルーニィの口は瞬く間に緩み、知っていることを、感じていた疑問を、滑らかに吐き出し始めた。
叛逆者ヨナの、唯一にして最後の弟子。
探し人への最初の約束。
帝国での、最後にしたかったという約束。
自分たちを助け、ここに導いてくれた不思議な旅人について知ることを、ルーニィはリゲルに対して、思いつく限り語ってみせた。




