プロローグ
※前作『異端賢者と精霊の使徒たち』と大まかな設定は共通ですが、設定に細かい変化を加える場合があります。
時代も舞台も地続きですが、本作は独立した一つの物語としてお楽しみいただけます。
一人になってから、二度目の冬。
父と母はいつの間にかいなくなり、暮らした家にはある日別の家族が押しかけてきて、追い出された。
その日から雪と、風と、蒸気の沸く排水口を避けて、民家の窓から零れる灯の陰で、十歳のラナはその日もごみを齧っていた。
壁に張り付いていると、いくらか温かいのだ。
水路を渡る工場の排水は、浴びている時は温くて気分がいいが、離れると濡れたところが凍ってしまう。一人になった年に試してみたが、その時は皮膚が酷く膿んで、剥がれた。血の代わりに透明の汁が出てくるのが恐ろしくて、以来二度としなかった。
それが凍傷という症状であることも、誰もラナには教えてくれない。
この町も、どの国も、この大陸の人々は皆、ラナのように祝福無い人間には冷たいのだ。
「……おい、あの子『有神人種』だろ? 親はどうしたんだ。何故あんな所に一人でいる」
「あぁ、気にしなさんな。『神なしくずれ』だよ。同族なのに魔法も使えない、同族だから異人のように奴隷にもできない、穀潰しさ……」
余所者らしい男が一瞬ラナを気に掛けてくれたが、隣を歩くもう一人に『神なしくずれ』と呼ばれた瞬間「あぁ」と一声漏らして、同時にラナに関心を失った。
最初に喋った男の右手の上には、赤い光。
よく見ると、男の開いた空手の中には、蝋燭大の炎がぼんやりと浮かび、本人は左手を、付き添いは両手を翳して、かじかんだ手を温めている。
この二人もそうだが、この町でしっかり毛皮を着こみ、身綺麗な格好をしている人は皆、シャプカやウシャンカの下から、金の髪と青い瞳をのぞかせ、そのさらに一部は手の上に炎を浮かべて暖を取りながら歩いている。
これらの人種は『有神人種』と呼ばれ、その他の人種は異人、蔑称として『神なし』と呼ばれていた。
両者の関係は、早い話主人と、奴隷だ。
この大陸に生きる人間は、地水火風どれかの自然を意のままに操作する、魔法という特別な力を有している。
地属性なら土砂を浮かせ選別したり、風なら風向きを自在にし、炉に空気を送ったり、水ならそれを重力に逆らって動かすこともできる。
特に火の魔法はわかりやすい。雪国であるこの『アステルフォス帝国』では、暖を取る火を意のままに作り出せる火の魔法使いは殊更重宝され、多くの仕事を与えられていた。
人々は生活を支えるそれら魔法を、古の神の手により与えられた力と考え、授け手である天主を慕って『魔導教会』という組織を作り、自らを『有神人種』と名乗った。
逆に魔法が使えない大陸外から来た異人たちは、神に祝福されぬ人種と蔑まれ、それ故『神なし』と呼ばわれて迫害されていたのだ。
この『円状大陸』の社会は、魔法で回っている。あちこちで蒸気を噴く煙突も、その下の工場も、重要な動力の基は魔法だ。
それでも人間の仕事がなくなるわけではないが、いざとなれば替えの効く、雑用ばかりだ。必然、実入りの良い仕事は『有神人種』が独占し、異人たちは奴隷として、僅かの食料と引き換えに雑務をこなす。こうして、この大陸には格差が根付いていった。
ラナもまた、その落伍者の一人だった。
「………」
『有神人種』は、得てして八つの歳までに魔法に目覚める。
だから、ラナが捨てられたのは八つの時だ。
元々あまり裕福でなかったラナの両親は、生まれた子を愛娘ではなく、未来の金づるとして迎えた。はっきりそう言われて、育ってきた。
『有神人種』が魔法を宿さない例は、稀だ。まともな親なら医者という医者へ駆け回っただろうが、そんな期待はできよう筈もなかった。
金になる見込みがないとわかったから、捨てた。ただそれだけのことだろう。
空腹には慣れていたし、特に両親を懐かしむこともなかった。町の人の反応にも、不自然を感じなかった。
これがこの世界の、普通だった。
だから、
「酷いものだな」
普通はこんなことを、人間は言わない。
こんな感想を抱かない。
そう思っていた。
有り得ない言葉を聞いたラナは、振り返り、
「……なんだ、その顔は」
「……!」
こっちの台詞だ、と思った。
上等、とは言えないが、しっかりした毛皮のフードの中から覗く顔は、浅黒い。
日焼けした者は珍しくないが、不穏に輝く赤い瞳や、黒い髪は、はっきりと異人のものだ。
それが、路地裏とはいえ堂々と立ち、『有神人種』のラナを見下ろして「まあいい」と、不遜に言い、
「そんな事より、君は一人なんだな?」
「え?」
「で、『神なしくずれ』の穀潰し。勤め先も、行く当てもない。例えばいなくなっても、関知する人間もなし……と」
挙句一人で始めたのは、どう考えても誘拐の相談だ。
行く当てのない子供、特に女をを攫っていく者など、この国にはいくらでもいる。
ラナが今日まで見向きされなかったのは、単に『有神人種』だからだ。
落伍者とはいえ、教会が定めた同族。それが商品として市場に流れるのは目につく。だから奴隷商は誰もラナを狙わなかった。
逆に言えば、それさえ気にしなければ同じことだ。
この二年の間にできた、ささやかな友人たちも皆、同じように消えていった。十中八九、ほとんどは生きていないだろう。
彼らは奴隷だったが、自分も末路は同じだろうと、ラナは心の底で覚悟しながら生きてきた。
彼らと同じように「来い」と手首を掴まれ、どこへなり連れていかれて、何なりと使い捨てられる。
あぁ、とうとうその時が来たのだ。
運命の時が。
「時に君」
「……?」
そう、胸の内で覚悟しているだけならよかったのだが、
「運命って、信じるかね?」
厳つい真顔の男が、十歳の少女に、穏便な口説き文句として言ってしまえば、形無しだった。
知らない大人についていくな。
そんな常識を子供に教える親も、いない。
ラナが、この日の出会いに自分なりの名前を付けられるようになったのは、もう少し後の事だった。
***
やがて、師となり、育て親となった男が死んだ日、ラナは十七歳になっていた。
男の方がいくつだったかは、知らない。一度も聞いたことはなかったし、多分四十代後半から、五十歳くらいに見えた。病で死ぬには早いとも遅いとも言えなかったが、ラナにひとしきりの頼みごとを終えると、短い夏の、温もりを帯びた日差しに目を細めながら、満足した表情で逝った。
どこから来たのかも、これまで何をしてきたのかも、結局何も教えてくれなかった。
素性についてわかっているのは、名前と、彼が過去に大きな事件を起こしたこと。それによって教会に追われるお尋ね者になったこと。一緒に追手に追われたので、嫌でも知ることになった、それだけ。
おかげで苦労はしてきたが、今となっては何もかも、どうでもいい話だ。
彼はラナにこの世界の知識と秘密を授け、生きるための知恵と力を授けてくれた。
暗い路地裏とも、慎ましい隠れ家とも別れ、今、ラナは正しく自由だ。
だから、大恩ある彼の願いを全て叶える。
それがラナの生きる目的となった。
「……さよなら、行ってくるね、ヨナ先生」
ヨナ、というのは男の偽名だった。
頼み事ついでに本名は教えてもらっていたが、その名を聞いたのは別れ際だ。たとえ偽名でも、長く家族として親しんだ名前はヨナだった。だからこれからもそう呼ぶのだ。
盛り土に、石を突き立てただけの質素な墓に、ラナは想うさまの祈りを終えると、立ち上がった。
荷物は、背後に置いてある。
小さな背嚢の中には少しの着替えと、ナイフ等の小道具。干したパンと、周りの林で獲った猪の肉の燻製。
それから樫の杖。この世界では旅人、そして魔法使いの相棒だ。
ラナは師がいつの間にか仕立ててくれていた旅装に身を包み、たった二つの装備を背負い、手に取った。
人間、これだけあれば十分に旅人になれる。
金は稼ぎ方を教えてもらっていたし、旅装にいくらか金子も仕込まれていた。
雪は溶けて日が経ち、風は温かく、日はまだ登り始めたばかり。
あとは出かけていくだけだ。
帰る場所は、もうなくなった。
愛しい人は、この世を去った。
ならば、見たいものを見て、会いたい人に会うために。
あの日、師がラナを見つけたように、ラナもまた、それを求めて。
「わたしも運命を、探しに行くよ」