転ばぬ先に
短編小説です。よろしくお願いします。
スタートまで残り5分を切った。会場のピリリとした空気が頬をなでる。周りに目をやれば、イヤホンをして曲を聴き、集中を高めている人。ペンダントや写真を握り思いをはせる人。かれこれ10分ほどアップを続けている人。かくいう私も特に意味もなく東へと続くコースの少し上にある太陽をサングラス越しにじっと見つめている。特に意味はない。特に意味はないが自分の名にも入っている彼(彼女?)の存在は、なぜだか私に勇気を与えてくれる気がする。アップを終えてあったまった体が少しづつ冷えてくる。同時に胸の高まりを覚える。いつものルーティーンは今回ばかりはどうにも効果はないようだ。まぁ仕方のないことだ。
カウントダウンが始まる。10秒前、ゆっくりと足へと意識を持っていく。5秒前、もう一度あの太陽を見つめる。1秒前、ゆっくりと息を吐きながらそっと右足を挙げる。ブーという音を合図に全員が太陽めがけて走り出した。ドタバタと何百人もの足音は朝聞くにはどうも五月蠅すぎる気がしなくもない。
少し走るとすぐさま大通りに出る。私たちよりも朝早くに集まった係員や学生たちが道路を仕切り専用のコースをあつらえてくれた。わきには多くの観客達が旗を振っている。あの中に私の知り合いなど一人もいないけれど、彼らは私をまるで旧知の仲であるかのように笑顔でその声援を飛ばしてくれる。さらに進むと、コンビニが見えてくる。ここでは早くも尿意に襲われた人達がお世話になっている。彼らを尻目にそのまま第一関門にたどり着いた。道路を貸し切っているから、そのルートには時間制限がある。故に、時間内にそれぞれの関門にたどり着く必要がある。今回は何人が涙を呑むことになっただろうか。だが今回ばかりはそんな悠長なことばかり言ってられない。
そのまま第二関門を目指す途中、足に激痛が走ってしまった。その場に蹲ってしまいそうになったが、何とか足を引きずり、路肩までたどり着くことができた。そばにいた観客の一人が係員を呼んでくれたらしく、さっそうと駆け付けてくれた。棄権をしようと提案した係員だが、何とか事情を話し簡単なケアを受けてマラソンを再開した。一歩一歩踏み締めるたびに足に激痛が走った。膝から崩れそうになる時もあった。何とか第二関門には辿り着けたが、第三関門には惜しくも間に合うことは無かった。そしてすぐに例の係員が駆け付け、通りぬけれず呆然としていた私に病院へ行くように促してくれた。まだ高い太陽がじりじりと私を照り付けていた。
病院への送迎は大会側の車が担ってくれた。社内の中で私はまだ痛む足をさするとも言わないような、手を置いて、閉鎖された橋の向こう側に思いを巡らせた。橋を渡れば、山に入っていた。その山は私が若すぎたころ、いつも駆け回っていたところだった。あの山は私の成長を知っていた。小学校入学式の当日、私が登校をするために山を登り転んでしまい大泣きをしたこと。友達と上手くいかず、泣きじゃくりながら山を下ったこと。だが、今回ばかりは行くことが叶わなかった。理由は分かっている。この足だ。2年も前から私は足に少しの重荷を抱えていることは分かっていた。それでも走り続けたのは此れが私の青春だったからだ。あの山には悪いことをしてしまった。私の青春の果てだけを魅せることが叶わなかった。もう一度会うとするならば、その時の私は一人の中年野郎なのだろう。それでも私はかつての自分の面影を探して何度も足を運ぶだろう。なんと業の深いことか。足に置いた手は、暑くなりすぎてしまった。
帰り支度を済ませ外に出ると、太陽はもうビルよりも低い位置にあった。続々とランナーたちがゲートを潜り抜ける。私はそのゲートをくぐることは許されなかった。私の始まりは終わりを潜り抜けずに終わってしまった。半ばヤケに、ランナーにタオルを配る仕事を引き受けた。ランナーたちから見れば不遜な態度だというのが分かったかもしれないが、それでも最後まで何かしら、この大会にかかわっておきたかった。ありがとう、と言ってくれたランナーたちの後ろからは真っ赤な夕焼けが照らしていた。