Chapter8
第八章
「きみは、水族館・・・」はやとがとぎれとぎれにつぶやいた。「はやとくん、チケットをありがとう。存分に楽しませてもらったわ。だけどね、全部気づいたわ。水族館に着いてからふと映画のチケットやローレンツ祭のことを思い出してもしや私を外出させたいのかもと思って佐々木さんに聞いたらやっぱりはやとくんに頼まれたっていうじゃない。それでまだいるかもと思って少し早めに切り上げてきたのよ」全部気づかれていたのか。こんな時だったがさすがだと思った。「それにお父さん、長年私に隠してきたことも知ってるわ。ね、パリティ・シティの構築者パリィ博士」はやとは今度こそ飛び上がらんばかりに驚いた。パリィ博士の方はもっと驚いたようだった。反射的に椅子から立ち上がり、さやかの方に駆け寄った。「なんだって?パリティ・シティを知ってるだって?いったいどうやって」「そりゃあはやとくんと遊びに行ったからよ」さやかは今度は面白がるように言った。すさまじい効果だった。パリィ博士は驚きの叫び声をあげ、それを聞きつけたさやかの母さんがエプロンをつけたまますっ飛んで来て「いったいどうしたの?」と言った。「一家の秘密が暴かれたんです」さやかがそっけなく言った。「あら、我が家の歴史的瞬間に立ち会い損ねたわね。気付いたのはさやか?それともはやとくん?まさかパリィ博士自ら言ったわけではないでしょうね」さやかの母さんがさも面白そうに言う。はやとはこの余裕っぷりに感嘆した。夏芽一家そろってすごい人ばかりだ。「私とはやとくんよ。お互い言わなかったけどきっと同じくらいの時に別々に気付いたのね」「しかもさやかときたら遊びに行ったと言っている」パリィ博士が落ち着きを取り戻して言った。さやかの母さんが今度は驚いたようだった。「それじゃあトンネルがまた開かれたのね。クラン博士がやってきたんじゃないかしら。あなた、夢の一つが叶ったわね。トンネルが開かれたならもう一度彼に会えるかもしれないわね」博士はすぐにも出発しようとするかのように立ち上がった。「お父さん、まず説明してほしいわ。これで私たちも本格的にかかわることになるんだから」さやかが言った。
「もちろんだ。二人が発見したんだから」パリィ博士は大きく息をついて座るように促した。「まずきみたちに聞きたいがいったいパリティ・シティについてどこまで知っているんだね?」そこで二人は代わる代わるパリティ・シティの知ってる限りのことを話した。パリィ博士は長い間娘にも言っていない秘密から解放されたようにみるみる顔が輝いてきた。三〇分かかって船戸くんとの冒険、そして研究の文書が破棄されたところまで来た。「そうか、クランは軟禁されてしまったのか。トンネルを開いたのに再会できないままに捕まってしまったのか」パリィ博士はしばらくじっと遠くを見つめたがおもむろに話し始めた。「私の話は、一八年前、そう、パリティ・シティが事故を起こした日から始まる。それ以来、親友であり、ライバルでもあったクランと共に昼夜必死に元の時間に解放するための研究をつづけた。その時のタイムリミットは約二八年だった。私とクランに街の寿命を一切口外せず、ただ研究に取り組めと命じた。毎日身を削る思いだった。二人とも他でもないパリティ・シティの構築者である自分たちがやるほかないことが分かっていたし、二八年以内に解放しないと一万の人と街は滅ぶ」博士の声は次第に重々しくなった。「だが一年もたたないうちにその研究がいかに困難な事かが分かった。最初のうちは徹底的に事故原因を調査すれば似たような状況を作って未来へ時間座標を戻すこともできるのではないかと思った。ところが事故の背景はまだ理論段階だったし、事故には普通では起こりえない確率上きわめてまれな現象が関係していた。それを人為的に作るのはまず無理だった。それを知った時には私もクランもぞっとしたよ。パリティ・シティを構築するときは世界の優秀な何百人もの協力者が得られた。しかし今回のような研究を行えるものはディメンションセンターの中でも限られていたしほとんど我々二人にかかっていたと言っていい。そればかりか一万の人たちが生きるか死ぬかの問題だ。未来へ戻すことがおそろしく困難だと分かった時、私は以前から考えていたある案を出した。それがまさしく過去へつながる研究だよ。私はこう考えた。過去につながってそちらと共存することも考えるべきではないかと」さやかが横から「私もそう思うわ」と言った。「ところがこの提案を出した日から私とクランの間で確執が生じた。彼は決して同意しようとしなかった。私たちは親友だったが同時に根本的に異なった考えも持っていた。クランは理想主義者であり、決して譲れない信念があった。彼曰くこの世界はあらゆるところが不完全で時には救いようがないと思えるほどだが常に未来には希望がある。よく言っていたよ。明日、一年後、一〇年後の世界は必ず今より良いものだ。そしていつか遠い未来にはあらゆる点でほとんど理想に近い世界が得られるはずだ、とね。極めて均整の取れたパリティ・シティの美しい街は彼のそういう思いもあってのものだ。きみたちもあの街が非常に快適だと思っただろう。話を戻すが、時間とともに世界は良い方向へ進むという考え方には私も同意していた。私たちの住んでる世界は全体として考えると数百年前より格段に良くなっているはずだ。単に豊かになったと言う事だけでなく、例えば多くの人の自由や権利は昔よりはるかに得られているし圧政者も格段に減った。そしてパリティ・シティの時代にはこれがもっと進み、世界はずっと理性的になったんだ。紛争や武器などは古代の遺物と言われるようになり姿を消した。なによりあらゆる人々が十分食べられるようになった。もっともクランの考える理想にはまだまだ遠かったがね」「そして世界の最大の問題は人類の繁栄すなわち人口増加にどう対応するかという事になった。あまりに世界が過密すると限られた資源を求めてまた過去の遺物が復活しかねない。そこで人類の住む十分な空間を得るために余剰次元が開拓された。こんな時代に住んでいてしかも常に希望は未来にあると信じて努力していたクランが過去につながるなんて想像すら出来なかったのが分かるだろうか。少しでもイデアに近い明日に向けて生きてきたクランにとって過去に戻れと言うのは信念を崩壊させるに等しかった。私は何度も説得しようとした。確かに理想的な世界、すなわちイデアは未来にしかないのかもしれない。しかしその破片なら、断片ならいつの時代にも、いつの人にもあるんだと。そしてそれは手の届かないイデアと同じくらいに価値があると言う事を。私はそう信じていたから説得する傍ら一人過去につながる研究を行った。しかし彼はどうしても信念を曲げなかった。躍起になって研究を阻止しようとした。私は彼の考え方とは違ったが彼の考えはよく理解していた。クランは自分のすべきことをよく分かっていたし、世界を良い方向に導こうとすさまじい努力もした。彼は自分の信念を決して机上の空論にせず、非常に建設的な方向に用いた。高い理想に見合うだけの強靭な精神や行動力も備えていた。住みよい余剰次元開拓のためにいかに手を尽くしたか。しかしながら彼はイデアを求めていながら自分の世界、現在をそのまま愛することはできなかったんだ。もし何も事故が起こらずに一生を終えたら彼ほど立派に使命を果たした人もそうはいないと言われるに違いない。しかしパリティ・シティが過去に戻ってしまったことが彼の弱点をつついて苦しませた。彼は何度も、例え街が滅ぼうとも過去に戻るよりはましだと言った。彼の弟子がその考え方を引き継いでいることからして今でもそう信じているに違いない」「でももし寿命内に未来に解放できず、街の一万の人を見殺しにしてしまったらそれこそ彼の理想に反しはしなかったのですか?」はやとは質問した。「よく気づいたね。私も何度もそれを指摘して意見を変えさせようとした。このままだと結局何も救えないかもしれないと。でもクランの考えは少々極端だった。想像しにくいかもしれないが彼にとって過去に戻ることは感覚的にはきみたち月の台の人々全員に明日から原始時代や始皇帝の治める秦で暮らしていけというようなものだった。だがそれでも良いという人は大勢いるだろう。私は助かりたい人々がいるのならその自由を保障すべきだと言った。何日も説得し、どうにか納得してくれるかもしれないところまで行った。しかし・・」「博士を追放してしまったんですね」はやとが言った。「いや、そんな簡単に親友を見捨てたりはしないよ。それどころかある時期彼が過去とつながることも考えようと言ったことがあったのだ。自分は決して過去に戻りたくはないがそうしたい人の自由までは奪えないとね。ところがその決心の数日後、一大事件が起こったんだ」パリィ博士は言葉を切った。さやかの母さんはこれらの話は全部知っている様子でみんなを見守っていた。「その話の前に言っておくと、パリティ・シティ当局は事故の後、未来では考えられないような独裁や隠ぺいを行っていた。人は監獄や無人島に閉じ込められたとき往々にしておかしくなってしまうことがあるのを知っているだろう。隔離されたリミット付きの世界を統治するのは平和な未来を統治するよりはるかに難しいし、正確な寿命を知っている当局の事だからある程度無理のないことだったかもしれない。ところで話はそれるが、クランは当局が未来に相応しくないことをするたびに自分の研究を放ってでも猛烈に反対した。最も憤ったのが当局が街の日照時間を数時間減らすだけで一〇年は寿命が延びるというのに人々に悟られないためにそれをなそうとしないことだった。パリティ・シティは隔離されている間にどんどんイデアから遠さがっていった。この退行をクランはいかほど辛く思ったことだろう。とにかくクランは日照時間の件でまたもや当局を訪問した時だった。偶然恐ろしい陰謀を耳にすることになる。彼は自分たちが街を解放する研究に行き詰っていること、しかし過去と空間接続するのはそれほど難しくなく、私が秘密裏に研究していることが当局に知られていることを見つけた。さらに恐ろしいことにすでに暴走しかかっていた当局が未来の力で過去から人や物資を略奪し、最終的には支配しようと考えていることを突き止めた。それを知った時、クランはもはやここは未来どころか数百年退行した世界だと思ったらしい。すぐさま私に情報を伝え、過去に行くトンネルをすぐに閉鎖するように迫った」博士が言葉を切り、沈黙が訪れた。「待ってください、もうそのトンネルは完成していたんですか」はやとが質問した。「すまない、言ってなかったね。私の研究は一年で完成したんだ。空間接続はそんなに困難ではなかった。それ以降私は今まで何度後悔したかしれぬことをした。自分の家の東屋にトンネルを作り、たびたび過去に出歩いた。好奇心の赴くままにね」はやとはまさしく自分たちがこの逆のことをしているなと思った。「長い間狭い世界と解放のための研究に閉じ込められていた私にとってそれは唯一の気晴らしだった。月の台や他の街を歩き、世界のことを知った。技術は劣っているし人々の正義も未来に比べればまだまだ未熟だ。しかし何度も訪れるうちにちょっとした人々との出会いやふと現れる美しい場所のようにあちこちにイデアの破片があることを見つけた。そう、私はこちらの世界を好きになっていた。当局の陰謀を知って以来、そんな世界と人々を危険にさらす研究をしたことを長い間後悔したが」「でもあなたが過去に来たおかげで今の生活があるんだから」さやかの母さんが口を挟んだ。「本当に。今でも後悔しているというと自分を欺くことになるな。とにかく私が過去へ赴くうちにちょうどきみたちが本条家や船戸くんと邂逅したように私は今の妻に出会ったわけだよ」博士はさやかの母さんを指した。「私は先にも言ったように当局の陰謀を知るまでは過去にもいくらでもイデアの破片があることをクランに伝えようとした。彼は一度たりとも来ようとはせず、未来へ解放する研究に没頭するばかりだったが。私は過去と共存するどころか当局が破壊的な陰謀を持っていること、私がその手助けをしたようなものだとクランに言われた時に初めて自分が重大な過ちを犯したことに気付いた。これまでクランの意見を変えようとしていた自分が今度は説得される番だった。クランが冷徹に当局を分析していたのが正しく、私の考えだった過去と共存できるということは幻想にすぎず、もっと悪いことに過去に重大なリスクをもたらしたことを悟った。私はトンネルを閉鎖し、これからは未来に解放する研究だけをすることに同意したものの個人的な問題があった。というのは娘の誕生までもあまり日がなかったからだ。私はとにかく数日くれと言って過去へ行き、妻と相談し、寛容にもすべてを捨てて解放の時までパリティ・シティに住むことに同意してもらった。しかし妻は後一週間ほどで子どもが生まれると言う事ですぐには身動きが取れなかった。私は妻がこちらに来られるまであと少しだけトンネルを閉鎖するのを待ってほしいと頼んだ。しかし当局によって自分のイデアを裏切られ続けたクランはついにあまり協力的とは言えなかった友人に対して堪忍袋の緒が切れた。激しい口論の末、彼は私に今すぐにトンネルを閉鎖するかとっとと過去へ逃げてしまうか選べと迫った。私は何とかなだめようとしたがすでに遅かったようだ。次の日、私がさやかの生まれたのを見届けに過去へ行ったちょうどその日、トンネルは使えなくなっていた。誤って誰かが通らないようにしていたトンネルの生体認証をいじられてしまったのだろう。トンネルそのものは一種の余剰次元空間で、一度作ればもう消すことはできないから。こんなわけで私は過去を危険にさらし、ついにクランと一致を得られないままに追放されたのだ・・・」「でもいつかトンネルが開かれると信じてクロノス像を作ったんでしょう」さやかが言った。「そうなんだ。私は常にそう信じていた。彼ほどお互い信頼できる人はいなかったし落ち着いたら少なくとも何か言いに来てくれるだろうと信じていた。しかしいくら待ってもその日は来なかった。私は彼が一目でも過去をのぞく気になったらすぐ分かるように、つまり私が少しも恨んではいないということが分かるように彼の像を立てたんだ。たったそれだけしかできないことを悔やんだよ。私は月の台で暮らしながらいつもすぐ横の、それでいて手の届かない空間でクランが自らの理想とそこからどんどん離れていくパリティ・シティに挟まれてもがいているのがいつも目に浮かんだ。だから彼ならきっと気づくに違いないあの像の裏に書いたのは自分の言い訳でも謝罪でもなく、今でも彼に理解してほしいと思う私の考えだよ」はやとは丹念に読み解いたあの詩の意味が漸く少しは分かったかなと思った。「これで最後だが、トンネルが再開されそうにないことが徐々に分かってくるとこちらで暮らすための現実的な問題を解決した。ちょっとした手を使って市民権を獲得し、過去の研究を乱さないように気をつけながら電池を少し改良して必要な財産もつくった。追放されてから一五年が経った。今日、きみたちが話をしてくれるまでの一五年間パリティ・シティとは一切遮断されてたし、クランがどうなったかも全く知らなかった。彼が無事だったのが何よりだ」はやとが博士の深い話を聞いて単に禁じられた研究を行って追放されたと考えていた自分、さやかに重荷を背負わせたくないと思っていた自分の考えがいかに単純だったかを知った。「どうしてこのことをもっと早く話してくれなかったの?」さやかが不満そうに言った。「何事にも相応しい時期っていうのがある。私と母さんはさやかが全部知っても自分を見失わったりしないでいられる時まで待とうと思ったのだよ。そして、父さんが見る限りさやかもはやとくんも大丈夫なようだ。二人とも自分の方から解き明かしたのだから」博士は微笑んで言った。それから「下でお茶でも淹れよう」と言った。はやとはこれまでの話を纏めながらぼんやりと階下へ降りた。「一つ質問があるんですが」リビングに着くとはやとは口を開いた。「あのトンネルをさやかちゃんだけが通れるというのは一体どういうわけなんでしょう」「東屋の地面の下にトンネルと接続した生体認証がある。私の研究を保管していた地下室の装置と似たものをね。あれほど高性能なものではないから長年放置している間に似た遺伝子を持ったさやかを間違えて通すようになったんだろう。クランが生体認証を壊さなかったのが幸いだよ。DNA情報を少し変えただけだったんだろう」リビングでレモンティーが入れられ、みんな少し休憩した。「これからどうするつもりなの?」さやかが聞いた。「出来るだけ早くクランを助け出そうと思う。あれから一五年間も当局が私の研究保管庫を見つけられなかったのは幸いだった。しかも見つかってからもきみたちと船戸くんのおかげで当局の手には渡らなかった。クランを助けられたら二人で未来に解放する研究を再開しようと思う。まだ街の寿命まで一〇年あるんだし二人で協力すれば十分希望はあるだろう」博士の声に熱がこもってきた。「未来に解放する研究をしていたクランが軟禁されるなんて当局はいろいろ邪魔をしてくるんではないでしょうか」はやとが尋ねた。「それは一つの困難になるだろう。でもこの一五年間当局が過去を支配するという陰謀の実行を可能にする文書を探し回る他に手荒なことをしなかったことはむしろラッキーだったのかもしれない。もっとも文書を手に入れ損ねた今からはどう出るか分からないが」
「僕たちも何か手伝えないでしょうか?もし出来ることがあるなら」はやとはさやかの方を見ながら言った。できればさやかとパリティ・シティでの冒険を続けたかった。すると隣でさやかが熱心にうなづいて言った。
「そうよ、街の謎は二人で解決しようって決めてたんだし。いいでしょう?」
「もちろんだ。きみたちが助けてくれれば大いにうれしい。元はと言えば私のせいでこんなことになってしまったのに」パリィ博士が心からうれしそうに答えた。「僕は博士が間違っていたとは思いません。未来にしか希望はないと信じていたクラン博士の意見を改めようとがんばられたのですし」はやとが言った。「それに私だって街が滅ぶくらいなら過去と共存することを選ぶと思うわ。あくどい当局さえなかったらきっと可能なことなのに」さやかも言った。「ありがとう。きみたちには本当に感謝するよ。早くクランを救い出してぜひきみたちに会ってもらおう」パリィ博士の目がきらりと光った。「じゃあ早速行きましょうよ」さやかがもう立ち上がって言った。「いや、今日はもう遅いし明日ゆっくり街に行って計画を練るとしよう。今日はさやかの一五歳の誕生日じゃないか。クランだろうとパリティ・シティだろうとそれ以上に大切なものはないよ。はやとくんもぜひパーティに加わってくれ。さやかの誕生日とクラン救出団結成を祝って」はやとは喜んで承諾した。「でも、こんな時に・・・誕生日だなんて。父さんは一五年もパリティ・シティから離れていたんでしょう」さやかがきまり悪そうにもごもご言った。「だが一五歳の誕生日は一生に一度だよ。さっき母さんと買い出しに行ってたんだ。きみたちは部屋で休んでいてくれ」はやとはこれを聞いてさやかの両親がいかに素晴らしいかを身にしみて感じた。ラプラシアンハウスはさぞ居心地がいいことだろう。さやかはちょっと赤くなってうつむいていたがはやとに「私の部屋で待ってましょう」と言った。はやとは前来た時には入れてもらえなかったさやかの部屋に入った。自分の部屋より幾分広かったが別に変わったところがあるわけでもなかった。大きめのベッド、コードにさしっぱなしになってる携帯の充電器、学校の教科書とその数倍の参考書の詰まった本棚・・・。何の変哲もない部屋なのにはやとは二人きりになるとなんだかちょっと気まずい気分になってきた。さやかもぼんやりと部屋の真ん中に立ち尽くしている。「さやかちゃん、わざわざきみを追い出して博士に会ったりしてごめんね。前から父さんがパリィ博士だって気づいてたなんて・・・」はやとは沈黙を破るために言った。「とんでもないわ。私、気づきはしたんだけど追放者の娘という運命を受け入れる勇気がなくて・・だからはやとくんにも父さんにも黙っていたの。ここ数週間悩んでたんだけどやっぱり決心出来なかった。でもね、はやとくんがそれを変えてくれたのよ。私に準備ができていないのを分かって、こっそりあんな手を打ってくれるなんて。それで気づいたの。全部一人で引き受ける必要はないんだって。だから父さんやパリティ・シティの秘密がどんなであれ全部聞こうと思って帰ってきたのよ。まあ結果的には父さんがいろいろ問題を起こしたことが分かったけどもっとひどいことも想定してたからあの程度でよかったわ」「それどころか僕はパリィ博士をほんとにすごい人だと思うよ。悪いのは当局だけだよ」はやとの胸には今だに博士の言葉がこだましていた。「ありがとう・・・あの、いろいろ気にかけてくれて」すぐ目の前でさやかが少しうつむいて言った。なんだかいつもとだいぶ違った調子だった。はやとは急に部屋の温度が上がった気がした。心臓が早鐘を打った。そして、何も考えず、ためらいもせず、目の前のさやかをしっかり抱きしめた。周りの世界が飛び去ってしまった気がした。胸のあたりから温かさがじわっと広がってきて手の先まで広がったところで二人とも我に返った。はっとして離れた。さやかの部屋が瞬時に戻ってきて少しくらくらした。さやかが先に口を開いた。「えっと、あの、うん試験勉強があるんだった。一学期分の英語をやらないと」さやかが少し上ずった声で言った。さやかは机に向かい、はやとはさやかの教科書を借りてベット脇の卵形のテーブルで勉強し始めたが二人ともなぜか試験前日の夜のようにやけに熱心だった。「ご飯ができましたよ、あら勉強してるの?」一時間後さやかの母さんが呼びに来た。階下に降りると豪華なディナーが待っていた。さやかの席にはプレゼントの箱が積み重なっている。それを見てはやとは初めてさやかの父さんと話すことばかり考えていてプレゼントを買うことをすっかり忘れていたことに気づいた。さやかははやとの表情でそれに気付いた。「はやとくんは水族館のチケットをくれたじゃないの。佐々木さん経由だったけどありがとう」さやかがにっこり笑って言った。「貯蔵庫にワインがないぞ」博士がさやかの母さんに言った。「まだあるはずだって言ったから買わなかったのに。まあ仕方ないわね」さやかの母さんが首を振って言った。はやとはさやかにパリティワインのことを囁いた。「お父さん、ワインならパリティワインがあるわ。前に本条さんに頂いたの」「なんだって、そりゃありがたい。あのワインは実にうまい」博士がさも嬉しそうに言い、さやかが自分の部屋に取りにあがった。さやかの母さんがやってきた。「はやとくん、いつもさやかと親しくしてくれてありがとう。さやかがこんなに早くパリティ・シティのことを知るなんてあなたと切磋琢磨してきたおかげね。今日もわざわざパーティに付き合ってくれてありがとう」「いいえ、うちではこんなに誕生日を祝ってくれるなんてことないので見てるだけでも楽しいですよ」「このパーティは半分ははやとくんのためよ。これからもぜひ一家をよろしくね。いつでもうちに遊びにいらっしゃい」さやかの母さんが言った。パリティワインが開けられ、素晴らしいご馳走を前に子供たち二人とクランのために乾杯がされた時、はやとは長年の一家の秘密が開かれてよかったと心から思った。
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次の日、パリィ博士がさやかと一五年ぶりにクロノス像から旅立つのを見届け、自分は対外試合のために駅に向かった。公園の広場を出た瞬間ばったり会ったのが佐々木涼子だった。いかにも高級そうな服で全身をつつみ、驚いた表情をしている。「あら、こんなところでばったりなんて驚きね」はやとは二人の姿が消えるのが目撃されたかとどきっとしたのでその言葉でほっとした。「うん、今から試合行くところ」「私も行くところなのよ」涼子はそういって駅までついてきたのではやとはだいぶうんざりだった。駅で部活仲間と合流してやっと涼子は先に行くねと言って去って行った。「夏芽さやかの次は佐々木涼子か?」チームメートの一人がにやにやした。「おい、今は常盤をからかうのをやめろ。大事な試合なんだぞ。引き締めていけ」中本くんが横から口を出した。電車で試合の行われる中学校まで行った。はやとは今頃さやかたちはどうしてるかななどと思いながら試合に臨んだが始まるとそんなことをすっかり忘れてしまった。相手チームとは戦力が拮抗していた。前回の大会の時は初戦負けしてしまったので今回はどうしても負けるわけにはいかない。はやとは何度もおしいチャンスを作ったがどうしても決めきれなかった。後半になってお互い疲れてきたころに漸く中本くんが先制点を入れた。はやとは先を越された悔しさで胸がいっぱいになった。相手に勝ちたいというよりライバルの中本くんに負けたくないという一心ではやとは必死にボールを追った。試合の終わる一〇分前、ついにはやとがシュートに成功した。「常盤、すばらしいシュートだった。よかったよ。二大会初戦負けはつらいからな」中本くんが試合後、汗を拭きながら声を掛けた。「キャプテンが先に入れてくれたおかげで最後にいつも以上の力を出せたよ」はやとが言った。「いやいや、常盤の二点目は大きかったぞ。俺たちのチームも相当疲れていたし、あれがないと高い確率で追いつかれていただろう」中本くんがいつもに似合わずほめてきたのではやとは言葉に詰まった。「それはそうと今からうちで打ち上げをするんだが常盤は来れないぞ」はやとは試合が終わったらさっさとパリティ・シティでの集まりに参加するつもりだったのでありがたい言葉だったがなぜだろうと思った。中本くんはにやにやしている。「というのも常盤にはもっと大きなお楽しみがあるからさ。じゃ、また明日な。そこで待ってろよ」中本くんはそういって荷物を持つとロッカールームを立ち去った。示し合わせたようにそれに続いてチームメイト全員が出て行った。はやとはいったいどんなサプライズがあるのだろうと不思議に思ってしばらく待っていた。扉が開いて佐々木涼子が入ってきた。そうだった、試合を見に来ていたことをすっかり忘れていた。「はやとくん、試合お疲れ様。すごいシュートだったわ。一番前にいたんだけど見えた?」はやとの心に友梨とのお茶会の様子がまざまざとよみがえった。第二の友梨は勘弁してくれ。「よそ見してる場合じゃなかったよ。じゃあ僕は打ち上げに行くからまたね」はやとは早口に言って逃れようとしたが涼子が手首をぐいとつかんだ。失望したような怒ったような表情だった。「そんな風に逃げるのは失礼よ。一分間だけ待ってね。言いたいことがあるの」はやとはここで待ったらもっとひどいことになると思って無礼だろうがなんだろうが腕を思いきりねじってふりほどき、出口に突進した。「さやかのことなんだけど」その言葉ではやとは思わず立ち止まって振り返った。「どうしたんだ?」「さやかならあんたのことを何とも思っていないわよ。水族館に行ったときに直接聞いたから間違いないわ。だからあんまり追っかけないほうがいいわよ」なんだ、その手の脅しか。はやとは笑いたくなった。「そうなんだ。じゃあ僕は帰るね」はやとは扉に手をかけた。「信じてないのね。私はさやかと何でも話せる仲だってことを忘れたみたいね」そう言って涼子は扉のところまで歩いてきた。そして信じられないことを言い出した。「例えばパリティ・シティとかディメンションセンターとかいう言葉を聞いたら信じてもらえるかしら?」はやとは思わず自分の耳を疑った。「ね、私たち親友なのよ。だからさっき言ったことも残念ながら本当なの。じゃあ私は帰るわ。これ、差し入れよ」涼子は小さな紙袋をはやとの手に押し付けた。呆然としているはやとを残して。はやとはとりあえずパリティ・シティへ急ぐことにした。荷物をまとめ、外に出る。涼子の紙袋はお菓子の詰め合わせで小さなカードも入っており、「試合おつかれさま。涼子より」と書かれていた。文の最後に手書きの大きなハートマークがついている。
出口のところでチームメイトが待っていた。中本くんが早速やって来た。「おい、さっき涼子が泣きそうな顔で出て行ったけど。まさか涼子を振ったのか?あんなかわいい子を?」「これ、あげるよ。打ち上げの足しにして」はやとはお菓子の詰め合わせを渡した。「常盤は来ないのか?分かった、前にあんなこと言ったけどやっぱり夏芽さやかとつきあってるから涼子を振ったんだな。それにしても涼子は気の毒だな」はやとはもう打ち消す気にもなれず、また明日と言って駅に向かって行った。月の台公園に戻るともう午後一時半だった。さやかがクロノス像の台座に腰掛けて本を読んでいた。
「遅かったわね。あら、負けちゃったの?残念だったわね」はやとの顔を見て言った。「試合には勝ったんだよ。ただ、その後涼子が来てね・・・」さやかはびくりとして顔をしかめた。はやとは少し考えてこのことを話すのは帰りにしようと思った。今日は大切な集まりがあるのだから。「いや、何でもない。もう話し合いはだいぶ進んだ?」はやとはクロノス像に登りながら言った。
「あんまり進んでないわ。はやとが来るまで待とうということで午前中は本条一家にあいさつしてたわ」さやかがはやとと共にお屋敷のリビングに入ると歓声が上がった。パリィ博士、さやかの母さんと久しぶりに見るトミーがソファに腰掛けている。「はやとくん久しぶり。さやかの父さん、いやパリィ博士から全部聞いたよ」とトミー。「ようこそ、パリティ解放団へ」とパリィ博士。「いらっしゃい、私もお邪魔してるのよ」とさやかの母さん。「どこまで決まったんですか?」はやとは待ちきれない思いで聞いた。涼子の事件の後でこの歓迎はうれしかった。「まだ大したところまで行っていないよ。まず我々の一団に名前を付けようということでパリティ解放団に決まった。その任務はクランと船戸くんを探し出し、クランと共に街を未来へ戻す研究を再開することだ」パリィ博士がてきぱきと話した。さやかが博士の持参したノートパソコンの画面を見せてその通りのことが書かれているのを示した。「次にメンバーなんだけど」さやかが続けた。「父さんが副隊長、隊長は父さんの案で救出予定のクラン博士になったわ」「うん、クランは人を率いる能力に長けているからな。共同研究の時も彼がセンター長だったし」パリィ博士が言う。はやとは軟禁されているクランを隊長にしてしまう余裕がいかにもさやか一家らしいと思った。「そして団員が私夏芽さやかとその友人常盤はやと、それにこれまた不在の船戸航、そして何とトミーこと本条友樹がぜひともということで協力してくれることになりました」さやかがアナウンスでもするかのように言った。トミーがにっこりした。「というところまでなんだけど意見はない?」さやかが言った。「友梨には声をかけないの?」「私がもう聞いたわ。入らないって」さやかがぶすっとした声で言った。明らかに歓迎しないムードで誘ったのだろう、はやとは思った。「でもトミーが入ってるわけだし前に探検した時にも心配して来てくれたし入ってもいいかなと思うんだけど」はやとがそう言うとさやかは驚いた様子だった。「えっと、あの時は確か途中までしか来なかったんじゃなかったっけ」さやかが遠慮がちに言った。「正直お姉ちゃんがいると面倒だな」トミーまでがそう言い出した。「でもメンバーで女の子はさやかだけだしさやかの話し相手にもいた方がいいんじゃない?それにレベル六なら頭脳戦でも役に立つかも」「ねえ、はやとくん、そんなにして友梨を入れたいの?本当の理由は何?」さやかが強い口調でで聞いた。はやとは正直に言うしかないなと思った。はやとはさやかは無視してパリィ博士の方を向いた。「実はここだけの話なんですがこれをきっかけに友梨がしっかりしてくれたらと思うんです。彼女ちょっとあやふやなところがあって人に頼りたがるんですが今それが僕なんです。僕は別に誰かに寄っかかられたくないし、何より友梨にとってもあまりよくないのかと・・・。まあ、決定はパリィ博士にお任せしますが」はやとは言いながらあんまり説得力がないなと思った。
「私は賛成だよ」博士が即座に言った。
「パリティ解放団はお姉ちゃんを教育するところじゃないと思うんだけどな」トミーが少し不満そうに言った。
「いや、かまわないよ。きみのお姉さんを信用しよう。友樹くん、もう一度誘ってみてくれるかな」博士がそう言ったのでトミーは素直に二階に上がって行った。
しばらくすると友梨がやって来て博士にやっぱり参加しますとか何とかもごもごと言った。それからはやとの方をちらっとみた。明らかにうれしそうな様子だ。
「よし、じゃあそれで決まりだ。ではパリティ解放団結成を祝って乾杯しようか」博士が言ったのでトミーは友梨のためにもう一つコップを取ってくるとみんなジュースの入った杯を上げた。
その時、屋敷中を揺るがすどらの音が鳴った。
「いったい何事だ」博士が言った。
「インターホンですよ」トミーが立ちあがって言った。
「私たちが住んでた頃は小さな鳥の鳴き声だったわね」さやかの母さんが言った。
「来客に気付かずに何人もの人に居留守を使ってしまったな」博士が可笑しそうに言った。
「大変だ」玄関でトミーの声がしたので一同は玄関ホールへ駈け込んだ。
思いがけないことに玄関に立っていたのは船戸くんだった。
船戸くんはこの前別れた時もひどい姿だったが今回はもっとひどかった。全身泥だらけ、上着はぼろぼろだし顔にはいくつもひっかき傷がついている。前よりももっとやせていた。はやとたちと別れて以来相当な困難をくぐり抜けてきたに違いない。「すまないが、シャワーをお借りできないかな。それから食べ物を少し・・。ここ二日なにも食べてないんだ」「二日も!」友梨が驚いて叫んだ。トミーはとりあえずパンがあるからといい、はやとはすぐ食べるように言ったが船戸くんはどうしても先にシャワーを浴びると言って聞かなかった。一五分後、トミーに借りた服を着て(それは船戸くんには短すぎたが痩せていたので着るには支障なかった)、傷以外の汚れを落としてリビングにやって来るといそいそとサンドイッチやクッキーを平らげながらもしょっちゅう窓の外をうかがっていた。食べ終わると漸く少しは生き返ったように見えた。「迷惑をかけてすまない、追われてたもんで」しばらくして船戸くんが口を開いた。「ここは安全よ。いったいどうしたの?」さやかが聞いた。「三号区の友人の家に潜伏していたんだが一週間ほど前に足取りをつかまれたんだ。当局が家までやって来たから裏口から脱出してまた楠森に入った。でもそこへも大掛かりな調査が入ってしまったから調査の少ない夜だけ歩いてここまで来たんだ。偵察機が何機も飛んでたしロボットだけでなく人間の探索部隊まで出動してきたから今まで捕まらなかったのは本当に幸運だったよ」「しばらくここにいたらどうかな」トミーが提案した。「いや、きみたちには迷惑を掛けたくない。かくまっていたことを知られたら大変なことになる。食べ終わったらすぐに行くよ」船戸くんがそう言って最後のサンドイッチを飲み込んだ。その時、リビングで様子を見ていたパリィ博士がダイニングの方からやってきた。「船戸くんだね。クランから話を聞いているかと思うが私が行方をくらましていたパリィ博士だ。きみはいつまでも直径三〇キロの街に隠れてはいられない。私の家に招待するから安全のためにも過去に潜伏してくれ」船戸くんは飛び上がらんばかりに驚いた。「あなたがパリィ博士?なぜここに?」「はやとくんとさやかに正体が知られたんだよ。きみはさやかを私の研究の文書を開けるのに使ったほどだからもちろんさやかとの関係は知っているだろうね。どうやって探り出したのかわからないがさすがはクランの弟子だ」すると船戸くんはすっくと立ち上がり、はっきりとした語調で話し出した。「なるほど、いつか夏芽さやかが気付いてあなたがやってくるんじゃないかと思っていましたよ。しかし僕もクランもあなたに用はありません。最近当局はいまだかつてないほどに強大化している。あなたの研究は非常に危険だった。あの文書だって危うく利用されるところだったんだ。クランはあなたが戻ってくることを許可していない。すぐに帰って下さい」船戸くんの声は強い意志に満ちていた。
「きみがクランと同じ考え方をしているのはよく分かっているよ。しかし私を追い出したところで当局の暴走は止められないし街は寿命に向かって行くだけだ。私は何とかしてクランを救出し、再び未来へ解放するために共同研究をしようと思って来たのだよ」博士は落ち着いて言った。船戸くんは言い返そうとして言葉に詰まった。
「それにきみはクランの考えに賛成していながらも完全に信じきっているわけではないだろう」博士の目が鋭く光った。
「なぜそんなことが言えるんです?」船戸くんはぎくりとして思わず聞き返した。
「なぜならきみは文書は奪ったがトンネルは閉じていない。クランがしたように生体認証を少し書きかえればさやかも私も二度とこちらに来られなくなるのにそれをしなかった。心のどこかではさやかやはやとと再会できることを望んだんじゃないかな。当局に捕えられて第二の文書になりうる可能性もあると知っておきながらもね」博士が静かに言った。船戸くんの顔が蒼くなり、それから赤くなった。その時、外でモーターの激しくうなる音が聞こえてきた。船戸くんがどきりとして立ち上がると部屋の隅に隠れた。パリィ博士が窓の端から覗いた。「偵察機だ。きみを探している。いいかい、きみが何を信じていようと私のことをどう思っていようと構わないがとにかく過去へ逃げるんだ。それから一緒にクランを救出することを考えよう」パリィ博士が言った。はやとは一瞬船戸くんが断固として断るのではないかと思った。船戸くんが迷うのが分かった。窓の方へちらっと目をやった。そしてゆっくりと口を開いた。
「では・・・そのようにしようと思います」一同はほっと息をついた。偵察機の音が少しづつ遠さがっていった。