Chapter7
第七章
扉の向こうでどたどたと足音がして鍵が回される音がした。
「扉が開いたら地上に向かって猛ダッシュするんだ」船戸くんが叫んだ。がらがらと扉が開き、作業服の人たちが数人見えた。彼らがこちらを見るより早く、はやとは固まって立ち尽くしているさやかの手を引っ張って扉に突進した。作業員の一人に思い切りぶつかったが振り返りもしなかった。すぐ後ろで船戸くんの足音が聞こえた。廊下の壁が猛スピードで後退し、何人かの作業員の驚いている作業員の姿がちらっちらっと目に入った。誰かが「事件だ」と叫ぶ声が聞こえた。「A32」の扉に体当たりし、逆風の中、トンネルを駆け抜け、縦穴にたどり着くまで足を止めなかった。はやとはすべすべする梯子を出来るだけ早く登り、蓋を押し開けて夕方の楠森に出た。すぐ後ろからさやかと船戸くんが現れた。
「もうじき捜査が入る。ここで二手に分かれよう。僕は楠森を東に突き抜けてほとぼりが冷めるまで友人の家に潜伏する。きみたちは僕の携帯を持って過去に戻ってくれ。ワームホールの切符もそれで買える。くれぐれも怪しまれないように」船戸くんが早口に言った。
「了解」はやとが短く言った。
「ありがとう。最後に一つ頼みがある。常盤くん、きみなら分かってくれるだろう。文書が失われたとはいえきみたちが見つかってしまうと第二の文書になりうる可能性がある。あのトンネルはすぐには閉じられないができればもうパリティ・シティには来ないでほしい。殊に夏芽さやかが今後一人でパリティ・シティに来たりしないように、危険に陥ったりしないように気をつけてくれ」
「パリティ・シティに来ないかどうかは約束しかねるけど、さやかの安全なら出来るだけのことはします」はやとが正直に言った。
「ありがとう。きみたちには本当に感謝する。じゃあ、後は任せた。もしも機会があったらまたどこかで会おう」船戸くんはそう言ってはやとに携帯を預けて森の奥へ消えていった。
「さあ、帰ろうか。大丈夫かい」はやとがうつ向いているさやかに声をかけた。
「私・・・私って馬鹿だったわ。私が協力しなかったらパリティ・シティは解放できてたかもしれないのに・・・。あんな子と親しくなるべきじゃなかったんだわ。はやとくんは最初から怪しく思っていたんでしょう。私が間違ってたわ」見るとさやかの目に涙が溢れていた。はやとはその肩を軽くたたいた。
「今は間違いと思ってもあらゆることはどういう方向に働くか分からないよ。それに、とっても不思議な気分なんだけどきみが船戸くんを完全に信用してた頃には僕は疑わしく思ってたのにきみが不審に思い出してから逆に僕は彼を信頼し始めたんだ。確かにパリティ・シティを解放するチャンスを逃したかもしれないけど彼にとっては正しく考え抜いた結果だと思うな」
「でも私が助けさえしなければ文書は残ったのよ。私、自分の弱点が分かったわ。自分より知識のある人の前では簡単に目が見えなくなるのね」
「見えないどころかハートのクッキーを作って来るほどにね」はやとはからかうように言った。
「あの時はほんとにいい人だと思ったのよ。もしこれでパリティ・シティが滅んだら全部私のせいだわ」さやかはそう言ってしゃくりあげた。
「そんなことはないよ。今わかったんだけど船戸くんの言ってた『とっておきの鍵』ってきみのことだったんだ。だからきみの方から惚れ込んで無くてもきっと船戸くんならどんなやり方でもあの部屋まできみを連れて行ったに違いない。それにどっちが良かったかなんてまだ分からないだろ。済んでしまったことは仕方ないよ」はやとは優しく言った。さやかが顔を上げた。髪からはまだタンクの水でぐしょ濡れだったがもう泣いてはいなかった。
「そうね・・・済んでしまったことは仕方が無いわね・・・。なんとか出来ることを探してみようと思うわ」
「さすがさやか先輩、おっと違った、さやかちゃん。でも前みたいに一人で街に行くなよ。また他のレベル一二にでも出会うと困る」はやとは冗談めかして言った。
「ええ、分かったわ」
「それからあの文書だけどね、船戸くんがまずい方法って言ってただろう。あれはみんなが思ってるような未来への解放じゃない。粉砕機に投げられる瞬間にタイトルが見えたんだ。『余剰次元空間から通常空間への空間接続について』だよ。パリィ博士が秘密裡に行っていた研究は街を未来に戻すことではなかったんだ」さやかは驚いて立ち止まった。
「そうなの?私、完全に未来に戻すものと思っていた」
「みんながそう思っただろう。トミーの父さんだってそう言ってたし」
二人はGPSを頼りに元来た道を戻っていった。森を二つに分ける荒れ果てた道に着き、三号区へ引き返して行った。誰にも出会わなかったし追っ手が来る気配もなかった。二人は暗くなる前に森を出ようと急いだが空は次第に漆黒に染まってゆき、人工照明の代わりに明るい星のような光がつき始めた。森を出ると打ち捨てられた通りにところどころ橙色の街灯が点灯していた。三号区に入っても誰にも出会わなかったが行きにクロワッサンを食べたベンチまで来て初めて人影が見えた。漸く安全なところに戻ってきた気がした。
二人がやって来るのを見てベンチの人影が立ち上がった。驚いたことにそれは友梨だった。
「いったいどうしたの?こんなところで」はやとが尋ねた。友梨の肩が震えていた。
「無事だったのね。私、後ろからついて行ったの。さっき、東の方で船戸くんが泥だらけで一人逃げるように森から出てきて怖かったわ。だって行く時は三人だったのに。私、二人ともオオカミか山猫に食べられてしまったんじゃないかと思うと怖くて・・・」友梨がヒステリックな声でわめいた。
「怖くて助けに行くどころではなかったんだろう」はやとがくすくす笑いながら言うとさやかがぷっと吹き出した。
「いったいどこまでつけてたの?」さやかが尋ねた。
「荒れた道をちょっと行ったところまで。ほんとはどこまでも行くつもりだったんだけど船戸くんが気付いて睨んでくるの。また気の抜けた炭酸水呼ばわりされるんじゃないかと思って仕方ないからあきらめてここで待ってたのよ」今度ははやとが吹き出す番だった。友梨は怒ったように「心配してたのよ」と言った。
「それでその格好はどうしたの?」友梨が聞いた。二人はお互いの姿を見た。全身ずぶ濡れの上にぬかるんだ森を歩いたため泥まみれだったし、はやとのシャツは破れている。リュックには木の枝や葉っぱがくっついているし底が裂けて参考書の破れかかったページがぶらぶらしている。
「ちょっとひどい雨にやられたんだ。オオカミじゃないよ。じゃあ、帰ろうか」はやとは何事もなかったようにすたすた歩いた。
駅に着くと人々の視線が集まったが一切無視して船戸くんの携帯をタッチして切符を買い、五号区まで瞬間移動した。友梨はいろいろ聞きたそうにしていたが二人とも話すには疲れきっていたので黙って東屋まで帰った。友梨はシャワーでもと言ったが二人ともさっさと帰りたかったので遠慮しておいた。
「心配させてごめんね。それにしても船戸くんに案内してもらうって言ってたのについてくるなんて」はやとが別れ際に言った。
「疑ってたわけじゃないのよ。ほんとに心配だったから・・・。それと」友梨が言葉を切った。さやかが東屋の柱にもたれて待っていた。
「お茶会の時は悪かったわ」友梨は微笑んでそれだけ言うとお屋敷に向かって駈けて行った。
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「それにしてもいったいどうして船戸くんはあの文書を破棄したかったのかしら」四階の使われていない教室に入りながらさやかがこれまで一〇〇回くらい繰り返した質問をまた言った。「本人に聞き出すことができたら話は早いのになあ」はやともがらんとした教室の机に腰掛けて一〇〇回目の返事をした。長かった梅雨も漸く明け、六月も残すところあと数日だった。南校舎四階の予備教室二、ここがはやととさやかが毎日昼休み「パリティ・シティの謎解明」に向けて議論を繰り広げるのに選んだ場所だった。あの大冒険の後、二人は数回トミーたちのためにお屋敷に新鮮な魚を届けに行った以外パリティ・シティに立ち入ることはなかった。船戸くんの警告があったし、パリティ新聞に「極秘文書、強奪される」といったような見出しが連日現れているのをトミーが見せてくれた。新聞には今だ文書は見つかっておらず、怪しい少年二人と少女一人が作業員に目撃されていること、隣接するリサイクルセンターの壁を巧妙に爆破するという詳しい手口も書かれていた。幸い(かどうかは分からなかったが)船戸航という名前は出ていなかったし捕まったという話もなかった。トミーは一部始終を聞いても二人に対してこれっぽっちも態度を変えなかったが父さんには言わない方がいいと忠告した。トミーの父さんは文書が失われたと知ってあからさまに機嫌が悪かった。さやかは後ろめたい気持もあってかわざわざトミーの父さんじきじきに鮪や鮭を届けたりした。例え船戸くんの警告がなかったとしてもはやとは以来パリティ・シティでゆっくり一日を過ごすという時間はありそうになかった。期末試験が迫っていたし、もっと重要なことに七月にサッカー部の対外試合があったので週末も一日中練習があった。そんなわけで空いている時間は昼休みくらいしかなく、パリティ・シティに行けない分、謎の解明に向けて議論しようということでさやかが空き教室を見つけてきたのだった。四階の隅にある予備教室二では休み時間中誰もやって来ることなくゆっくり話し合うことができた。はやとは議論の初日に今まで言うのをすっかり忘れていた情報;ずっと前にクロノス像の製作者に会ったこと、じいさんが持っていた情報を提供した。「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?これってものすごい貴重な情報だと思うわ」さやかが予想通りの反応をした。「すっかり忘れていたんだ。製作者に会ったその週に本と砂時計の反転事件があったし、じいさんと話した次の日はきみがパリティ・シティを発見してそれどころじゃなかったし」二人はクロノス像の製作者は誰だろうというところから議論を開始した。「じいさんの話によると製作者はパリティ・シティから追放された。それから船戸くんの捨てた文書のタイトルから月の台とを結ぶトンネルを作ったのはパリィ博士って可能性が高いよね。すると誰かパリィ博士の敵がトンネルを通して追い出されたんじゃないかな」議論の二日目、はやとはさっそく仮説を立てていた。「だとするとそれがクラン博士って可能性はないかしら。二人は共同研究者でしょう。もめることだってあり得るわ」「でもクランは軟禁されているはずだよ」「当局の新聞ではね。でもパリティ・シティの寿命をごまかしていることからして当局は信用できないっていう結論に昨日なったじゃない。パリィ博士がクランを追放した。それでその恨みを晴らすために弟子の船戸くんがパリィ博士の研究を破棄したとか」さやかが推測した。「彼が恨みを晴らすためだけにあんなことをするとは思えないな。だいたいトミーの父さんの話ではパリィ博士は既に葬られている。恨みだったらパリィ博士を消すだけで十分じゃないか」はやとが言った。そこでさやかはクランについて少し聞いてこようということで放課後お屋敷に出かけた(お屋敷から一歩も出るなよとはやとは念を押した)。次の日、さやかがパリティ新聞を持ってきて報告した。「クランは間違いなく軟禁されてるわ。新聞に写真が出てるしトミーの父さんが1ヶ月前に直接会っている」「この写真ちょっとクロノス像に似ていると思わないか?」はやとが指摘した。「そうかしら?言われてみればそんな気がしなくもないわ」「僕はかなり似ていると思うんだけどなあ、もしクロノス像がクランなら彼ともめて追放されたのはパリィ博士の方かもしれない。姿を消したという話にも合致するし」
「でも自分で作ったトンネルなのにそこから追放されるなんてことあるかしら?自分で作ったトンネルなら帰れないはずないと思うわ」さやかが疑った。はやとは少し考えた。「物理的には帰れてもそれを許さない状況かもしれない。それにパリィ博士が追放されることは十分あり得ると思う。だってトミーの父さんいわくタブーだとされる過去に行く研究をしていたんだから。それを共同研究者のクランが気づいて危険に思い、何らかの方法で過去に追放した。ところが最近になってその研究が文書になっていて楠森の地下にあることが分かった。だから船戸くんは探しに行って破棄したんだ。このシナリオならうまく説明できそうじゃないか?」「確かに今までの話の中では一番辻褄が合いそうね。でもそれならクランを軟禁してまでその危険な研究を探している当局はいったい何がしたいんだろう?当局はどうも信用できない気がするわ」「街が滅びてしまってもあの文書で少なくともパリティ・シティの人たちは助かるから当局にとっては十分パリィ博士の研究を探す理由があるよ」「でもそれならあの研究がタブーっていうのはどういうわけなんだろう。私、前から思ってたけど過去と繋がってパリティ・シティを解放するっていうのも一つの手じゃないかしら。だって一万人の命がかかってる分けだし過去の人たちと共存することも可能じゃないの?私、今だに船戸くんの行動に納得できないわ」さやかが首を振って言った。「船戸くんがなぜあれほどまで文書を破棄したかったかは分からないけど過去に逃れるのがタブーっていうのは分からないでもないよ。いざ世界が滅びるとなれば知らないけどそうでもない限り当局や学者は『過去へ逃げれば命だけは助かるよ』などと簡単に言うことは出来ないだろう。街の人たちに責任を放棄したと思われても仕方ない。いったい当局はあの文書でどうしたかったんだろう」こんな風に毎日様々な推測をし、さやかと議論を繰り広げた。もっともクロノス像の製作者はパリィ博士で、クランによって追放されたということが一応の結論になった以上の進展はなかったが。はやとは毎日午前中、その日の会議を楽しみにしていたし特に退屈な授業の時には新たな説を考えながら昼休みまでのあとどのくらいか五分おきに時計を見ていた。解くべき謎があるということは日常生活に今までにないほどの刺激を与えてくれ、毎晩次の日が待ち遠しかった程だがはやとには二つだけ小さな問題があった。まず、毎日昼休み、さやかとどこかへ行っているということに気づく生徒が何人か現れ始めた。中本くんたちと急いで昼ごはんを食べた後(月の台中学校には食堂があった)、一人さっさと立ち去るのは少々不自然だったしさやかの方でも示し合わせたように女の子たちの仲間を抜けるのは否応なく目についた。最初に中本くんが話しかけてきた。「常盤、ちょっとした噂になってるんだけど夏芽さやかと付き合ってるんじゃないのか?」昼休み終了のベルと共にさやかと急いで教室に駆け込んだ後だった。「違うよ、ただの噂だよ。えっと、物理を教えてもらってるだけなんだ。もうすぐ試験だしね」はやとは不自然に見えないように努めて言い訳をした。「でも常盤は物理はできるじゃないか?この前の小テストも満点だっただろ。おい、四階の予備教室で二人きりで何話してるんだ?」中本くんがにやにやしながら言った。はやとは既に調査が入っていることを恨めしく思ったが幸いにもじいさんがどっさり宿題を抱えて入ってきたのでクラス中が静まり返り、難しい返事から逃れることができた。
次の日はもっと災難だった。朝、学校に行ってみるといつもは騒がしい女子たちの一団が何やらひそひそ話をしており、はやとを目にすると唐突に期末試験の話を始めた。昼休みにははやとのクラスの学級委員長をやっている佐々木涼子が食堂の外で待ち構えていた。涼子はさやかのことを親友だと言っていた。二人はよく一緒に話していたがさやかの方でどう思ってるかは知らなかった。涼子は話しやすい人柄で誰にでも親切だったので男女両方から人気があったがはやとはいつもちょっとした言葉の裏から誠実さに欠ける子だと思っていた。「常盤くん?今日もさやかちゃんとお勉強?」全く余計なお世話だ。
「うん、数学を教えてもらうんだ」
「さやかちゃんは英語を教えてもらうって言ってたけど教えっこしてるの?」
「うん、まあね」はやとは何か問題でも?という口調で言った。
「あら、そう?何とかシティとか秘密とかいう声が聞こえたんだけど」何か言いたげだ。
「別に付き合ってるわけじゃないよ、今日の朝も噂してたみたいだけど」中本くんに続いて探索されていたことをいい加減うんざりしていたはやとは強い口調で言った。
「そうなんだ、うん。あの・・もう少しで対外試合だよね、応援してるわ」佐々木涼子はためらいがちに言った。はやとは第二の友梨が現れたような気がした。
「ありがとう、じゃあまたね」はやとは急いで言って立ち去った。廊下の曲がり角で振り返ると佐々木涼子が額の汗をぬぐっているのが見えた。
予備教室二に入るとさやかはもう来ていた。
「今日は遅かったのね」
「うん、なんだかみんなが僕たちのこと噂してるみたいで・・・」
「気にしないことよ。誰かにつかまってたの?」はやとはなかなか鋭いなと思って感心した。
「佐々木涼子につかまったんだ。これまでろくに話したこともないのに試合頑張ってって言われた」はやとが正直に言った。
「涼子か、まあ気を付けることね。あんたは自分で思ってるよりずっと女子に人気があるんだから」さやかがため息をついて言った。
「まさか、同性でも友達が少ないほうなのに。そんなことは・・・」はやとは顔がほてってくるのを感じた。
「そこも人気の出るところの一つね。誰とでも馴れ合わないところがいいのよ」
「それはそうと彼女部屋の外で聞き耳たててたみたいだけど大丈夫かな」はやとは言った。
「その話なら私にもしたけど単語レベルでしか聞かれてないから大丈夫よ」さやかが少し慌てたように言った。
その後いつも通りのパリティ・シティの話になったが二人とも小声で話し、物理の教科書を開いておくことにした。
クラスで噂されることはさやかに言われた通り気にしないことにしたがもう一つの問題ははやとをもっと悩ませた。
昼休みの議論で二人はありったけの意見を交換し、何十もの推測をしたが一つだけ二人とも触れようとしないことがあった。それはさやかがどうやらパリティ・シティと特別な関係を持っているらしいと言うことだった。月の台とのトンネルをくぐれるのはさやかだけだし、船戸くんはわざわざ金庫の認証装置の解除にさやかを選んだ。はやとは一度だけこの二つの点に言及したことがある。さやかの答えはこうだった。
「別に特別な意味はないかもしれないわ。私だけがトンネルを通れるのもたまたま最初に通った人だけを認識するのかもしれないし、もしかして物理のできる人しか通さないのかも」さやかは冗談を言ったがその顔は深刻そうだった。
「おいおい、おとぎ話じゃないんだから。この次にはかわいい子しか通さないとか言うんじゃないだろうな。それに船戸くんのとっておきの鍵って言うのはどうなる?わざわざさやかが選ばれたんだ」
「それも偶然かもしれないわ。自前の装置を持ってきてたんだし。たまたま私が隣にいたから手伝わされただけかもしれないわ」はやとはそれを聞きながらさやかが本当にそう思ってるわけではないことを察した。さやかの声にはいつもと違って不安な、どこか怯えたような調子があった。さやかはパリティ・シティの謎、それも創造した学者やパリティ・シティ当局が関わり、しかも一万の命がかかっている問題に部外者として以上にかかわることを恐れているのだろう。それにパリティ・シティとの特別な関係がいいものとは限らなかった。はやとはさやかに関係する謎は自分で調べようと思った。もうこの問題を議論に出すことはしなかった。
七月の最初の月曜日、はやとは部活の友達と月の台公園で別れ、東町へと向かう途中、またさやかとパリティ・シティの関係について考えていた。いろいろな考えがもやもやと浮かんだ。パリティ・シティに行けるのはもしかしたら元々あちらに住んでたからかもしれない。もしかしてさやかは幼いころにパリティ・シティから捨てられたのではないだろうか。はやとはそんな悲劇まで考えた。まさか、そんな単純な話ではあるまい。パリティ・シティの誰でもがあのトンネルを通れるわけじゃないんだ。トミーなどお屋敷の人でさえ通れない。何かあれを作ったパリィ博士が関係しているはずなのだ。それに・・・はやとは東町への門をくぐりながらはっとした。船戸くんはパリィ博士の生体認証を破るときに確か自前のDNA何とか機器を取り付けてからさやかに触れさせた。これはさやかのDNAを使ったに他ならないのではないか。何人ものディメンションセンターの学者が破れなかった装置をあんな機械だけで破れるはずがない。とっておきの鍵、つまりさやかのDNAを組み合わせて初めて開けることができたのだ。パリィ博士のDNAでしか開けられないはずの鍵をさやかによって開いたということはパリィ博士はまさか・・・。
何とか確かめなければ。はやとは次の日の昼休み、さやかにそれとなく聞いてみた。「さやかちゃんのお父さんは最近お元気?」「ええ、別に変わったところはないわ。毎週末電磁気学を教えてくれるからだいぶ進んだわ」
「発明はうまく行ってるのかな?」
「たぶんね、仕事のことと自分のことは全然話さないからよく知らないけれど」はやとは以前も「自分のことはほとんど話さない」と言っていたのを思い出した。
「そうなんだ。ところでさやかちゃんはパリティ・シティのことを家族に話してる?」「言ってないわ。前にクロノス像の上で言ったでしょう。私たちで解決しようって」はやとは二人でクロノス像に腰掛けた日、冒険の始まった日のことを思い出して甘酸っぱいような気持になった。すぐ手の届くところでさやかが机に腰掛けて足をぶらぶらさせているということが突然はっきりと意識された。「僕も言ってないよ。まあ、うちの家族は異次元なんて話なんて聞いても信じようとすらしないだろうけど」「信じられないとかじゃなくて信じようともしないのね」さやかはちょっと笑った。少し疲れた表情だった。「ねえ、さやかちゃん。何か思いつめていない?」はやとは不意に尋ねた。「私が?いいえ、大丈夫よ。それよりはやとくんの方が疲れて見えるけど」さやかが言った。はやとは試験勉強と部活があるからねと言った。それからさすがに議論することも尽きてきたし試験が済むまでパリティ・シティの問題はちょっと置いておかないかと提案した。「そうね、そうしましょう。別次元を知っていることも時には重荷になるのね」はやとはパリティ・シティを忘れようとしたのではなく、さやかから少しパリティ・シティの問題を離しておいて一人で調査しようと考えたのだった。さやかが知るより先にあらゆることを知っておけば、万一パリィ博士が重大な過ちによって追放されたとかいうことがあったとしても(そういう結果でないことを祈るばかりだったが)さやかがあまりショックを受けないようにできるかもしれない。はやとはごく簡単な戦略を練った。まず土曜日にさやかを外出させる。その隙にラプラシアンハウスを訪問し、さやかの父さんに会って来る。本当にパリィ博士なのかを確かめるためにはちょっと顔を見るだけでいいんだ。はやとはクロノス像で会った紳士の顔をよく覚えていた。毎週末物理を教えているらしいからきっと家にいるだろう。もしいなかったら・・・その時はまた考えよう。はやとは戦略を紙に書き出してみてあちこちに落とし穴がありそうな気がしたが他に方法も思いつかなかったのでとりあえず決行してみることにした。次の日の休み時間、さやかを呼んで早速計画の第一段階にかかった。「昨日こんなイベントを見つけたんだけど面白そうじゃない?」はやとはインターネットからコピーして来たビラを見せた。ローレンツ祭という今週末にK大学が開催する理学部の研究室を紹介するイベントで、物理好きのさやかならきっと飛びつくだろうという想定だった。「ローレンツ祭ね。ぜひ行ってみるといいわ。去年行ったんだけどすっごく面白かったわ」さやかが答えた。これはいささか計算外だったが考えてみればありそうなことだ。「僕は部活があるから。さやかちゃん行かないかなと思って」はやとは半ばあきらめつつも言ってみたが試験勉強あるし今年はいいということだった。次の日はもう少し準備をした。前日の昼休み、さやかが友達の佐々木涼子と最近人気の映画について話していて、さやかが「私も見に行きたいわ」と言っているのを耳にした。はやとはあらかじめチケットを手に入れてきた。「今週末なんだけど家族が映画行こうってチケット買ったんだけど部活が入っていけなくなったんだ。かわりにさやかちゃん行ってこない?」はやとはチケットをひらひらさせて言った。「家族で映画なんてはやとにしては珍しいわね。でも私は遠慮しとくわ。別にディズニー好きじゃないし」「でも昨日佐々木さんに映画行きたいって言ってたんじゃ・・・」はやとはまさかいらないと言うとは思いもしなかった。「それは彼女が大のディズニー好きだからそう言っといた方がいいかと思っただけよ」
「・・・」嫌いなら正直に嫌いだと言えばいいのに、はやとは思わず突っ込みそうになるのを踏みとどまった。「じゃあ佐々木さんにあげようかな」はやとはもしかしてと思って言ってみたが効果はなかった。好きにしたらと邪険に言われただけだった。はやとはその日の晩にチケットを妹の宏美にあげてしまった。さやかを外出させておくのがこんなに難しいとは思わなかった。さすがにこれ以上自分が働きかけると何かあると疑われてしまうだろう。はやとは思案した挙句、最終手段、佐々木涼子を使うことにした。はやとは去年オープンしたばかりの私営の水族館のチケットを二枚買った。水族館ってこんなに高いのかと思うほどの値段だった。映画のチケットもあるし今月は間違いなく破産だ。「佐々木さん?ちょっといい?」はやとは次の日、佐々木涼子が一人でいる数少ないチャンスをとらえて話しかけた。「常盤くん、どうかしたの?」涼子は廊下の隅に行った。「ちょっとお願いがあるんだ。S水族館のペアチケットがあるんだけど今週末・・・」「今週末は空いてるわ」涼子が期待するようにささやいた。「いや、そうじゃなくて、ちょうど夏芽さんの誕生日だからこのチケットプレゼントにしてくれないかな?良かったら二人で行ってくれたら・・・」涼子は不思議そうな顔をした。「プレゼントって自分で渡さないの?しかもペアチケットって・・・」はやとは考えてきたとおり「抽選で当たったんだけど僕は時間がなくて行けそうにないから」という言い訳をしようとしたがもっといいことを思いついた。「やっぱり買った以上行った方がいいよね。なかなか誘いづらくて・・・」はやとはそれらしい雰囲気で言った。効果はてきめんだった。「いやいや、私があげるわ。やっぱり誕生日なんだし一番親しい友達と行くのがいいと思うの。じゃ、お金払うね」涼子はいそいそと財布を取り出した。はやとは断ったがどうしても払うというので一人分だけチケット代を回収した。「今度の対外試合、見に行ってもいいかしら?」「別にいいけど。僕がチケットを買ったことは夏芽さんに言わないでくれる?」「もちろんよ。じゃ、一番前の席で応援するからね」涼子が熱っぽくささやいた。佐々木涼子を使って漸く計画の第一段階は完了した。土曜日の朝、月の台駅にさやかと涼子が入って行くのを確認すると、夕方まで学校でサッカーの練習をしてから(明日が対外試合だった)はやとは南町のラプラシアンハウスへ直行した。夕方ならそのうちさやかが帰ってくるということで待たせてもらえるかもしれない。もっとも本当に帰ってきてしまっては困るのであまり遅い時間にならないように急いだ。どきどきしながらインターホンを鳴らす。誰も出てこない。もう一度鳴らす。やはり出ない。留守は十分想定できることだったが、いろいろ手を尽くしてこの結果は残念極まりなかった。庭を覗いてみると飼い犬のラブラドール犬までが芝生でぐっすり眠っており、ベルを聞いても耳をぴくぴくさせるだけで起きようともしない。はやとはせめて少し待ってみようと思って何軒か先の空き地に入って地面に座った。もしさやかの父さんがパリィ博士だったら・・・はやとはそうに違いないと思ったが自分の予想が裏切られ、ごく普通の発明家でありますようにと願わずにはいられなかった。父がパリィ博士ならさやかは否応無しに街の構築者で追放者の子供という運命を背負うことになる。もし一〇年後パリティ・シティが滅びでもしたら構築した父がタブーの研究をして追放されたゆえ何もできなかったことをどれほどつらく思うだろう。それにもし娘がパリティ・シティに行けるということを知ったらさやかと共にパリティ・シティに乗り込んで当局の危険な陰謀か何かに巻き込まれてしまうかもしれない。三〇分も経った頃、ラブラドール犬が吠え始め、一台の車がガレージに入りだした。空き地からは乗ってる人の姿は見えなかった。あまり遅くなるとさやかが帰ってくる可能性が高くなるが帰ってすぐのところを訪ねるのも失礼かと思ったのでなおも一五分待ってから再びインターホンを押した。
応答があってさやかの母さんが出てきた。
「あら、はやとくん?久しぶりね。さやかなら友達に誘われて水族館に行ったわ」
「そうですか。もしよかったら少し待たせていただいてもいいでしょうか?」はやとは単刀直入に申し出た。
「何時に帰ってくるか分からないけどゆっくりしていくといいわ」さやかの母さんが優しく言った。はやとは追い返されるか少なくともいろいろ質問されることを予想していたのでその寛容さに内心ひどく驚いた。自分の親からはとても想像できない。
「では、お邪魔します」はやとは敬意をこめてそう言うとラプラシアンハウスに足を踏み入れた。
「さやかが言ってたけど明日サッカー部の試合なんだってね。がんばってね」さやかはそんなことまで言っているのかとちょっと驚いた。それからしばらく部活や勉強について軽い会話を交わした。
「ところでさやかは最近学校では元気かしら?」さやかの母さんが突然言った。
「ええ、元気だと思います。ちょっと勉強をし過ぎかもしれませんが」はやとは学校ではという言葉に引っかかった。
「そう?それならよかった。最近家であんまり元気がないのよね。いつもは快活なのに何か隠してることがあるみたいで。まあ大丈夫だと思うけど」さやかの母さんの声が少し曇った。
さやかの母さんがレモンティーを持ってきてくれ、どの部屋でもいいから自由に本を読むなりテレビを見るなりして寛ぐようにと言った。はやとはゆっくりとレモンティーを飲みながら時期を待った。しばらくしてさやかの母さんが庭に出て行ったのでここぞとばかり二階に駆け上がった。
前回来た時と特に変わった様子はなかった。さやかの部屋の扉にはやはりN.S. Equation のプレートが付いているし廊下の観葉植物もそのままだった。奥の書斎の扉は半分ほど開いていた。なるべく足音を立てないように部屋に近づき、恐る恐る中を覗いてみるとこげ茶のテーブルの端が見えた。もうちょっと覗くと机に向かっているさやかの父さんが斜め後ろから見えた。顔は見えなかったがはやとの頭にクロノス像で会った中年紳士の顔を鮮明に浮かんだ。どうか彼でありませんように。その時、さやかの父さんが振り返った。視線がぶつかる。まぎれもない。クロノス像で会った紳士だった。
「すみません、さやかちゃんの友達です。お邪魔してます」話しかけられないうちに急いでそう言ってはやとは廊下に退いた。心臓が高鳴った。やっぱりそうだったんだ。さやかの父さんはパリィ博士だったんだ。はやとは階段の上で息をついた。穏和そうに見える中年紳士、“Laplacian Room”にいる彼こそがパリティ・シティの構築者の一人で、しかも過去へつながる研究をして追放されたのだ。その時突然新たな思いが溢れてきた。彼がパリィ博士ならさやかとこれまで議論しつくした謎の答えの多くを知ってるはずだ。クロノス像の詩の意図、クランや船戸くんの考えていること、なぜ過去へ行く研究をしたのか・・・これらの謎を一挙に解決するまたとない機会なのだ。強く湧いてくる知りたいという欲求に自分でもぎくりとしたほどだった。しかし・・・パリティ・シティに行ったことを知られてはならない。はやとは船戸くんと約束したことを思い出した。さやかを危険に陥らせてはならない。パリィ博士がさやかの秘密を悟ってしまう危険をおかすわけにはいかないのだ。はやとは階下に降りようとしてなおもためらっていた。少し話すだけならどうだろう。例えばどうやって発明家になったかとか何か無難なことを・・。それでもリスクをおかすことには変わりがない。はやとはどうしても決心がつかなかったが運命の方から先にやってきた。はやとの後ろで突然声がした。
「どこかで見たような気がするが。私の思い違いかな」さやかの父さん、いやパリィ博士がふかふかした緑のスリッパをはいて微笑みを浮かべて立っていた。
「いえ、初めてお会いすると思いますが。常盤はやとです」はやとは自分の声がいつもと違うのに気づいた。
「はやとくんか。さやかからいろいろ聞いてるよ。サッカー部のエースだとか物理が好きでよく教えているとかね」はやとは何と答えたらいいか迷った。屈託ない様子で話すさやかの父さんははやとの抱いていた愛想がなく、どこか薄暗いパリィ博士のイメージとはちょっと違った。
「さやかちゃんから聞いたのですが、発明家でいらっしゃるそうですね。最新の電池とかを研究なさってるって」
「たいそうなものでもないんだがね。興味があるなら部屋に入ってみるかい。もうさやかが案内したかもしれないが」はやとはさっき部屋を覗いた以上断るのも失礼かと思い、言われるままに書斎に入った。部屋の端っこの飾り棚を見ると前来た時に見た数々の装置に加え、新しいものもいくつか増えていたが船戸くんが壊してしまった熱電子放出器だけはなかった。
「発明家にはどうやってなられたんですか?」はやとは興味深そうにいくつかの装置を観察しながら不自然に聞こえないように注意して尋ねた。
「以前はある研究所に勤めていたんだがそこをやめて独立してね」やや機械的な調子で言った。ディメンションセンターのことを言ってるんだ、はやとは思った。
「研究所勤めは大変でしょうね。他の学者ともめたりすることも多いって聞きました」はやとは少し突っ込んでみた。パリィ博士は遠くを見るような表情になった。
「意見の食い違いはありふれたことだよ。だが時にはそれが取り返しのつかないことになる・・・」はやとはここまでくれば何とかクランの方に話を持って行きたかった。
「それはどういうことでしょう?」
「いや、大したことではない。きみは人にあらゆることを話させてしまう能力があるようだね」パリィ博士は冗談っぽく言いながらはやとをまじまじと覗き込んだ。
「本当にどこかで会ってないかね?例えば月の台公園とかで・・・」はやとはぞくっとした。どうやら覚えられているようだ。今になってとんでもないリスクをおかしてしまったことに気づき、しまったと思った。後でさやかに「前に公園の像について立ち話をした少年が訪ねて来たよ」なんて言われたら大変だ。
「いいえ、そんなことはないと思います」はやとは大急ぎで打ち消したが結果的にあまりにわざとらしくなってしまった。
「私は以前公園の像のところで一人の少年に会って心ならずも像の秘密を話してしまったのだが。クロノス像という言葉に心当たりはないかな」パリィ博士の目が鋭く光った。完全にばれている。万事休す。
その時、背後でなじみのある声がした。
「クロノス像という言葉に心当たりはあるわ」
はやとは計画内のことだけに留め、すぐに立ち去らなかったことを激しく後悔した。夏芽さやかが扉のところで肩をぷるぷると震わせながら立っていた。