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Chapter5

第五章


梅雨の時期になった。少々の雨なら部活はあったのではやとはほぼ毎日ぐしょぬれになって帰った。帰宅部のさやかは毎日授業が終わるや否や寸分の時間も惜しいかのように帰宅してしまった。はやとはさしずめ今度友梨に会った時に見返してやろうと思って勉強しているのだろうと推測した。

金曜日、土砂降りの雨が降っていたため、はやとは自転車で通学できず、満員のバスに揺られて始業時間ぎりぎりになって学校に着いた。教室に入るとさやかが待ち構えていたようにやって来た。

「昨日ね、トミーにディナーに誘われたの。今日なんだけど、部活さぼっていっしょに来ない?」

「この雨だったらさすがにないよ。さやかちゃん、パリティ・シティ行ってたの?一人で」はやとはちょっと驚いて聞いた。「うん、散歩がてら今週毎日行ってたわ。あっちに行けばずっと晴れてるし、それに急げば五、六時間目の授業にもぐれるの」

「僕も誘って欲しかったな・・・」はやとが毎日という言葉にいささか驚いた。それも授業にまで行くなんて。

「でも毎日部活じゃない。私みたいに時間がないでしょう」

「それもそうだけど。一人で街を歩いて大丈夫なのかな」

「心配しなくてもあそこほど治安のいいところもないわ。それに近いところしか行ってないし。だいたい五号区の地理は覚えたわ。で、ディナーは行くの?行かないの?」

「もちろん行くよ。雨もあがらないと思うし」

「やった、実は今日トミーがディメンションセンターを案内してくれることになってるの。すごい研究をやってるみたいだしはやともぜひ行くべきだと思うわ」

はやとは知らないうちにそんな約束までしていたのかと知ってちょっと置いていかれた気がした。この時ばかりはさやかの帰宅部をうらやましく思った。


学校の終わるころには予想に反して雨もほとんど止み、中本くんがこれなら自主練習ができるよと言ったがはやとは厚い雲が立ち込めていてまた降り出しそうだし、毎日濡れたら風邪をひくと言って断った。そしてさやかとすぐさまクロノス像に向かった。手をつないでパリティ・シティに飛びこむと梅雨の曇り空とは一転して明るい光が差し込んだ。週末に来た時と全く同じ空だった。

「毎週水曜の午前に雨が降るらしいわ。もちろん人工降雨だけどね。あとは植物のために毎晩深夜にちょっと降るって」さやかが言った。それからさやかは門の方ではなく、屋敷に向かって歩き出した。

「中に入るの?」

「うん、トミーがいるからね」さやかが言った。

「えっと、友梨もいるのかな」はやとは前のお茶に誘われた出来事があるのでできれば会いたくなかった。

「知らないわ。週末来た時から会ってないけど。きっとこの時間は学校に行ってるのよ」さやかがちょっととんがった声で言った。

二人は噴水のほとばしる心地良い音を聞きながら庭を横切り、お屋敷の入り口まで行くと玄関扉の横にあるベルの紐を引いた。お屋敷中に響くような大きなどらの音がした。しばらくすると足音がしてぱっと扉が開き、トミーが出てきた。

「お邪魔するね、トミー」さやかが言った。

「こんにちは、夏芽先輩。あ、はやとくんも来てくれたんだ。よかった、今日はディメンションセンターに行くから」

お屋敷は以前入った時はお茶のことで頭がいっぱいでろくに見てもいなかったのであたりを見回すと幾つもの新しい発見があった。玄関ホールの天井にはシャンデリアがかかっている。前回登った階段と同じのが反対側にもあり、同じ二階の廊下に接続していた。一階は正面に扉がある他、左右にもきちんと対称的に幾つかの扉があってそれぞれリビングや客間やらに続いているようだった。

「僕の部屋は二階の一番右だから先に行ってて。飲み物を取ってくるから。それと今朝の郵便でびっくりするものが届いたんだ。持ってくるね」トミーはそういってキッチンの方へ消えた。さやかが不思議そうに首をかしげた。

「このお屋敷はさやかちゃんの家の倍ほどありそうだな。家の中でサッカーができそう」はやとは玄関ホールの開いた扉からリビングルーム、その奥のダイニングルーム、そしてサンルームへと続いてるのを見て言った。「トミーのお父様はディメンションセンターのエネルギー研究所で働いていらっしゃって、そこの所長になったときにこのお屋敷へ引っ越したらしいわ。二階へ行きましょ」さやかは二つある階段のどっちに行くか一瞬迷ったが結局右の方から登った。

廊下の端に窓があり、覗いてみるとこの前バドミントンをしたガレージが見えた。今日は街でよく見かけるヘリみたいな乗り物が置いてあった。尖ったプロペラが畳まれていて、上から見るとサメにそっくりだった。

トミーはお盆に背の高いグラスを三つ載せてそろそろと歩いてきた。

「ドアを開けてくれる?」トミーが言い、はやとはトミーの部屋の戸を開けた。トミーは中に入り、テーブルにお盆を置き、赤いストロベリージュースを配った。はやとの家のリビングくらいある部屋に大きな寝台とソファがあり、開け放たれたクローゼットにはラジコン飛行機やらサッカーボールやらはやとの世界と別に変らないおもちゃがのぞいていた。

「さやかから聞いたんだけどお父さんはエネルギー研究所の所長なんだってね。すごいな。ディメンションセンターって入るのも大変なんじゃない?」

「うん、パリティ・シティじゃ結構な競争だよ。多くの人がセンターで働きたいと思ってるし、レベル一二まで行って見習いになれても全員は雇ってもらえないんだ」トミーが言った。

「ねえ、トミー。さっき言ってたびっくりするものってなあに?」さやかは待ちきれないように口を挟んだ。

「そうだった、これを見てよ」そういってトミーはポケットから茶色い封筒を取り出してさやかに差し出した。はやとは横から覗き込んだ。切手は貼っておらず、短く住所と宛名とが万年筆で書かれていた。


五号区 三❘九 夏芽さやか様


「きみ宛の手紙じゃないか。いったい誰から?どうしてここの場所が分かったんだ」はやとはいぶかしげに聞いた。さやかは手紙をひっくり返した。そこには同じ字体で「船戸航」と書かれていた。どこかで聞いたことある名前だなと思った。友梨がお茶の時に言ってたんだっけ。

「こりゃ驚いた。首席じゃないか。さやかちゃんお屋敷の住所教えたの?」はやとが聞いた。さやかは何とも答えない。はやとが顔をあげるとさやかはなぜかちょっと顔を赤らめて手紙を両手で握りしめていた。トミーが横でくすくす笑っている。

「教えて・・・ないわ」さやかが少し上ずった声で言った。

「もしかして手紙が来るような当てでもあったとか?」はやとが尋ねた。

「そんなこと、ないわ」さやかが今度は異常に小さな声になった。

「とにかく開けてみようよ。どんなことが書いてあるのかな」はやとは好奇心をあからさまにして言った。するとトミーのくすくす笑いがますます激しくなった。

「はやとくん、先輩をからかっちゃだめだよ。知らないかもだけどさやか先輩毎日パリティ・シティに来ててそれも毎日首席に会ってたんだからね」トミーは努めて真面目な顔で言った。

「ちょっと、トミー。やめてよ。私たちはただの友達よ。手紙が来るとは予想外だったけどだからと言って・・・」

「ねえ、さやかちゃん。別にトミーはきみと首席が友達以外の何かだとか言ってないと思うけど」はやとがそう言うとさやかはストロベリージュースと同じくらい真っ赤になった。

「まあ大事に持って帰るといいと思うよ」はやとは関心ないという風を装って言った。

「私、あっちで読んでくるわ」さやかは帰るまで待つ気になれなかったのかそう言って部屋の隅に行ってしまった。はやとはなんだか出来たと思ってたテストが予想外に悪い点数で返された時のような気分になった。友梨が「さやかってあんたが好きなんじゃない?」と言って以来はやと自身これまでのさやかの何気ない言葉の裏を密かに探っていたのだがやはり「気の抜けた炭酸水」の言うことなんか当てにすべきでなかったのか。ここ一週間ふとした拍子にどこからともなくやって来る淡い期待感、ちょうど数日後に控えた楽しいイベントを思い出した時の高揚感のような気持が思いの外大きく心を占めていたことに気づいた。「今思い出したんだけど・・・」はやとはそんな気持を振り払ってトミーに言った。「船戸くん一人でパリティ・シティに来たってさやかが言ってたけど何かあったのかな?両親ともめたとかなんとか」「詳しいことは知らないけどそうらしいよ。小さい時から賢すぎて、両親は将来大臣か社長かにさせようとしたらしい。まあ金のなる木みたいに扱ったんだろう。船戸くんはそれが嫌で家を飛び出したって。今ディメンションセンター近くのマンションで一人暮らししてるみたいだよ」トミーが説明した。「それは気の毒な話だな。子供の心を支配しようとする親は問題だな」はやとは自分の両親を思って苦笑いした。「うん、船戸くんは街に来て良かったんじゃないかな。学校でもだいたい一人でいる方が好きみたいだししょっちゅうパリティ・シティの森とか地下とかに一人旅してるらしいよ。唯一親しくしてたのがクランらしいから捕まったのは気の毒だけど。まあ、横領くらいだったらしばらくして釈放されるんじゃないかな。平の研究者に戻ったとしてもまあ頭脳に変わりはないはずさ」トミーが言い終えると手紙を読み終わったさやかが戻ってきた。「面白そうな話よ。二人も読んでみて」さやかが平静に戻って言った。「公開してもいいんだね」はやとはいくらか気が軽くなって手紙を受け取った。親愛なる夏芽さやかさんへ昨日楠森を散歩していたら地下に新しい道を見つけたんです。たぶん、重力発生装置か何か興味深いところにつながってる道だと思っています。それで明日ちょっと探検しようと思うのですがよかったらいっしょに来ませんか?上手くいけばパリティ・シティの最も優れた技術を見ることができるでしょうし何より未知の道を探検するのはひどく心惹かれますね。もしよかったら常盤くんも来てくれたらと思います。せっかくパリティ・シティに来たんだから奥底まで探検しましょう。来れるなら明日の一二時に五号区の駅前で会いましょう。船戸航


「ちょっとさやかちゃん、『せっかくパリティ・シティに来たんだから』って完全にばれてるし」はやとが呆れた顔で言った。

「しゃべったわけじゃないのよ。あっちの方から気づいたみたいなの。でも大丈夫、彼なら信用できるしちゃんと誰にも言わないって約束したもの」さやかが慌てて言った。

「その信用できるっていうの前にも言ってた気がするけど本当に大丈夫なのかな」はやとは少し疑わしげに言ったがさやかはいささかも意見を変えなかった。

「それで私明日探検に行くわ」さやかが今度は嬉しそうに言う。

「じゃあ、僕もいっしょに行くよ。トミーも来る?」

「ううん、僕は地下なら何回か行ったことあるし明日は友達と遊びに行くからいいや。はやとくんと夏芽先輩で行ったらいいよ」トミーが言った。

「はやとくんも・・・来るの?」さやかがちょっとためらいがちに言った。はやとは地下の探検はさておき、学校では首席で、しかも家を飛び出して一人で住んでいるらしく、さらに友梨を「気の抜けた炭酸水」と言ったその人にぜひ会ってみたかった。

「僕も誘われてるじゃないか。前から首席と話してみたかったしね。ま、二人より三人のほうが安全だろう。手紙からして誰でも入っていい感じの場所じゃなさそうだし」

「それは・・・そうね」

「とにかく僕も行くよ。なんだかあまり歓迎されてない感じだけど」はやとは船戸くんに会いたいだけでなくさやかと二人きりにしたくない気持に気付いた。

「いいえ、そんなことないわ。もちろんはやとも来てほしいわ。わざわざ誘ってくれてるんだし、ね」さやかは急いで打ち消した。


三人はジュースを飲み終わるとお屋敷を出てしばらく歩き、科学館の隣の駅に入った。トミーが親切にもチケットを二人に買ってくれ、さやかはきっとこの次「過去のお菓子」をおごるからねと言った。ディメンションセンターと表示された改札口をくぐり、さらに奥にあるガラスの扉を入ると小さな無機質な円形の部屋があった。はやとがぐずぐずしていると後ろからやってきた若い男性がさっさと部屋の真ん中に進み、そして姿を消した。東屋のトンネルでも周りの人にはこんな風に見えるんだろう、とはやとは思った。「ワームホールだよ。ものの一〇秒で着く」トミーが言い、自分も姿を消した。はやとも同じようにして部屋の真ん中まで行くと突然目の前が真っ暗になり、宇宙空間に浮いているような感じがした。風が猛烈に吹いていることからして空気だけある空間を高速で飛んでいることが分かった。と思うと逆向きの加速度を感じたかと思うとあたりがまた明るくなり、別の部屋に吐き出された。衝撃で少しよろめいた。後ろからさやかも出てくる。そうか、ワームホールってこんな感じだったのか。ディメンションセンター駅は五号区の駅よりもずっと大きく、改札口もたくさんあり、全部の地区の他、センター内のさまざまな場所に通じていた。学者らしい人が入れ替わり立ち替わり出入りしている。みんな部署か何かを表した銀色のバッジをいくつも胸につけていた。「ディメンションセンター内のワームホールはただだよ。お金がかかるのは遠い区間を結んでいるものだけなんだ」トミーが説明した。三人は続いて「メインセンター」と書かれたワームホールに入った。今度はものの一秒でくぐり抜けた。目の前に見事な大理石の螺旋階段や柱が何本か見え、高級ホテルの入り口のような光景が広がっている。自動扉を入ると大広間になっており、正面に巨大なモニターがある。それはディメンションセンターの地図になっていた。ざっと五〇ほどの建物の図に「中央図書館」とか「第一次元軸制御室」とか「エネルギー研究所」とかいう文字が光っていた。その隣のモニターにはパリティ・シティの温度や重力やその他よくわからない指標や数値やグラフがリアルタイムで映し出されている。時々ポンと柔らかい音がして数字が点滅したりした。「余剰次元を制御するのは結構大変なんだ。世界を成り立たせているあらゆる装置を制御しなくちゃならない。現在の状況を管理することは新しい研究と同じくらい重要な役目なのさ」トミーがちょっと得意そうに言った。「これってすごいわ、トミーのご両親はたしかエネルギー研究所って言ってたわね。どういうことをやってるの?」さやかが複雑なモニターに感心しながら尋ねた。「うちはパリティ・シティのエネルギー循環の研究をしてるよ。例えば空気中に放散されたエネルギーを回収して再利用したり、水を循環させたりね」「じゃあ余剰次元では自給自足ってこと?未来の普通の世界からエネルギーを取ってるんじゃないんだ」はやとは感心して言った。「そうなんだ。こっちではエネルギーは完全に循環してて未来からは取ってきてないんだ。もっともそれは大きな問題なんだけどね」トミーが言った。はやとはどうして問題なのか尋ねようとしたがその時、大広間が騒がしくなってあっちこっちの扉が開かれ、たくさんの学者たちが外に出て行った。みんなおそろしく急いでいるようで、ペンや紙を持ったままのもの、パソコンを抱えたもの、食べかけのサンドイッチを持ってるものまでいた。はやとたちは急いで隅っこによって道をあけた。「いったい何事なの?」はやとは突然の大移動に驚いて言った。「きっと何か研究成果が出たのさ。ここで学者が慌てている時は何か問題が発生したか成果があがったかどちらかだよ。事故って雰囲気じゃないしきっと新しい成果だな。あ、あっちに父さんがいる」トミーは大声で呼びかけると端っこの階段を駆け下りてきた大柄な人が振り返ってやってきた。学者風とは程遠く、背が高くて全身鍛え上げられていそうだ。胸には金色のバッジをつけていた。他の学者は見向きもしない。ますます人が増え、みんな押し合いへし合い外に向かっている。「友樹じゃないか、また遊びに来てるのか?わざわざディメンションセンターで遊ばなくても。研究者の邪魔をしてはだめだよ」トミーの父は明らかに急いでいるという風だったが横にはやととさやかがいるのを見つけて「友達も一緒なのか」と言った。「お父さん、どんな研究成果があがったんです?」トミーがうれしそうに問いかけた。「今日は新しい発見じゃないよ。昔の重大な極秘研究の文書のありかが分かったらしいんだ。いいかい、友樹、パリティ・シティを解放できるかもしれないぞ」トミーの父は声をひそめてそれだけ言うと大急ぎで去って行った。トミーはその姿を見送りながらにっこりとした。その表情が何か相当な重荷を降ろしたかのようなものだったのではやとは驚いた。「僕たちも行ってみよう。何か聞けるかもしれないぞ」トミーはそう言って混雑した出口を抜け、群衆について行った。みな先ほどの駅に入り、一つのワームホールの改札に押し寄せていた。「大会議室」と表示がある。三人はぴったり寄り添ってはぐれないようにしながら、あちこち小突かれつつ、ついにワームホールを通過できた。一瞬暗闇に放り出され、再び明るい廊下に着いた。正面に会議室の入り口があり、中では席取り合戦が起こっていた。その時、「子供は入れないですよ」という鋭い声が飛んだ。制服姿の警備員がつかつかとやって来てもう一度「ここは学者しか入れません」と厳しく言った。「のぞくだけでも?ちょっと聞き耳を立てるくらいなら?」トミーが晴れやかに装って聞いた。隣でさやかがどうしても入りたいんですという訴えをした表情をしていた。「もちろんだめです。悪ふざけは止して帰りなさい。両親に連絡しますよ」こう言われれば仕方がない。三人はすごすごと引き下がり、押し寄せる人垣を逆流してまたワームホールで大広間に帰った。「残念だなあ。ちょっとくらい入れてくれてもいいのに。帰ったら父さんに聞こう」トミーが言った。「どうしても入りたいって顔してたけどだめだったね、夏芽先輩」はやとが言った。「はやと、先輩はやめて」さやかが口をとがらせた。「どうして?トミーがせっかくそう呼んでくれてるのに。僕はただのはやとくんなのにね」はやとはにやにやして言った。「それはあんたに威厳がないからよ。とにかくはやとが先輩っていうとなんか先輩って感じがしないからだめよ」はやとはどういう論理だと思ったがあえて反対しなかった。三人はそのあと図書館やいくつかの研究棟に行ってみたがどこも鍵がかかっていて入れなかった。結局大広間と一般人向けのディメンション博物館にしか入れないようだった。どこに行ってもがらんとしており、ぽつぽつと事務員や警備員がいるだけだった。「学者はみんな会議室に行ってるんだね。きっと余程の発見なんだ」大広間に戻る道ではやとが言った。その時、前方のエレベーターが開いて背広姿の人たちが三人現れた。学者の雰囲気ではないし胸にバッジもない。どこか近づきがたい雰囲気があった。はやとは真ん中を歩いている若い男の顔に目が行った。まだ二〇代に見える若さだったが有無を言わせぬ強い意志と自信に溢れているのが感じ取れた。横を歩いている中年の男たちの平凡な顔とはまるで違う。「あれはパリティ・シティ当局の人たちだよ。ここの統治に関わってる人さ」トミーが説明した。「当局の人たち」ははやとたちの前を廊下いっぱいに広がって歩いて行った。「よくここに来るの?そういった人たちは」さやかが聞いた。「さあ、知らないな。僕もしょっちゅう来るわけじゃないから。過去ではああいう人たちはみかけないの?」

「見かけないな・・・そういえば先週のテストはどうだった?そろそろレベル六に上がれるといいんだけど」はやとはトミーの言葉で真ん中の青年が振り向いて鋭い視線でこちらを見たので急いで言った。さやかも「あんまりできなかったわ」などと演技した。

「気をつけないと」はやとは「当局の人」がいなくなるのを待ってから言った。

「そうだった。下手なこと言うと目を付けられるな。ことにああいう人たちに見つかると厄介な予感がする」トミーが重々しく言った。はやとはあんなに若くて、重大な任務についているなんていったいどんな人だろうと思った。


はやとたちがお屋敷に帰るとキッチンでトミーの母さんが忙しそうに夕食の支度をしていた。

「いらっしゃい、はやとくんにさやかちゃんだっけ。ちょうど父さんから連絡があって何か一大発見があったそうだから今日はパーティーにするつもりよ」それからトミーに「地下室からパリティ・ワインをとって来てちょうだい」と言った。

その時、玄関が開いて友梨が帰ってきた。はやとたちがいるのを見てちょっと驚いたようだったがすぐに二階に上がってしまった。はやとは「お邪魔してます」と丁寧に言った。


その後トミーはリビングで宿題をやり、さやかに時々質問したりした。はやとは自分も少し勉強しようと思ってトミーの教科書をぱらぱら読んでみた。半分くらいは分かりそうだったがあとの半分はまだ習ってないところだった。窓の外が徐々に暗くなり、通りの橙色の街灯が灯されるのが見えた。キッチンからいい香りが漂い始めている。一時間ほどたった時、例の屋敷中を揺るがすどらが鳴り、トミーが扉を開けに行った。トミーの父さんが書類カバンを手に入ってきた。ディメンションセンターで会った時と同じ格好だがもう胸のバッジは付けていなかった。

「お、前祝の準備が進んでいるようだね。今日は記念すべき日だぞ」トミーの父さんは朗らかに言った。そしてもったいぶった顔つきをし、質問を待った。

「極秘研究の文書はどうだった?」トミーが尋ねた。

「実はまだ開かれていないんだ。ありかが分かったのさ。楠森の地下だよ。でも数日開かれるはずだ。パリティ・シティの解放もすぐだ」よほどうれしいのかその体躯にふさわしい轟く声で言った。はやとは何の事かさっぱりわからず、さやかの方を見た。さやかも首をかしげている。

「ねえちょっと二人に説明していい?まだパリティ・シティの欠陥を話してないんだ」二人が困惑しているのを見てトミーが口を開いた。

「おお、そうなのか。いや、友樹、父さんが説明するよ」トミーの父さんは自分で説明したいのが見え見えだった。

「よろしくお願いします。まだ何も知らないんです」はやとはが欠陥とは何だろうと思いながら言った。

「パリティ・シティが完成したのは今から約一八年前。人口増加を受けて初めて開拓された余剰次元だ。これくらいは聞いているだろう」

「はい、先週科学館に行ったので」とさやか。

「そうか。ところが無事にパリティ・シティが完成し、一〇〇〇〇人の住民も移住し終わったある日、深刻な事故が起こったのだ。今でも毎年その八月のある日は悪夢の日として皆の記憶に刻まれている」トミーの父は思い出すのも恐ろしいというように言葉を切った。

「その日、ディメンションセンター中に警報が鳴り、余剰次元維持装置が突然コントロール不能になったことが知らされた。あらゆる基礎変数が制御出来なくなった。我々は今にも世界が滅ぶものと思ったが異変は一〇分も経たないで終わってしまった。自動的にシステムが回復したのかと思って胸をなでおろしたがすぐにセンター長のクランから恐ろしい連絡がなされた。次元維持装置が決して触れてはいけない時間軸に作用してしまったと。時間軸、これは空間軸とは完全に性格を異にし、ほとんど研究も進んでいないきわめて特殊なものだ。とにかく余剰空間次元にしか作用してはいけない力が何らかの理由で時間軸に干渉してしまったのだ。その結果、パリティ・シティの余剰次元全体が時間軸を逆に移動してしまい、数百年間後戻りしたところで文字通り宙ぶらりん状態になってしまったのだ」

「でも、ここは未来ではないのですか?また戻ることも可能でしょう」はやとが驚いて質問した。

「当初はだれもがそう願った。しかし、時間軸を空間軸と同じように操ることは誰も成功していなかった。もう知っていると思うが空間軸なら余剰次元を経由して二つの位置をワームホールで結ぶことができる。勿論歩いても自由に移動できる。しかし時間軸を移動することはそうたやすくはない。二つの位置、すなわち過去と未来をワームホールか何かで結ぶことはできない。ワームホールは同じ時間座標の空間どおししか結べないからね」

「じゃあパリティ・シティは本質的には私たちの世界と同じ時代にいるのでしょうか?」さやかが聞いた。

「そう、この世界はもはや未来ではないのだ。君たちの住んでいるところと同じ時間座標にいるのだよ。余剰次元だから元の世界とは空間的には切り離されているがね。ここでは誰も未来に帰ることができない。この世界全体を元の時間座標に戻さないことには」はやとは友梨が以前「今でも重大な欠陥があるの」と言ってたのを思い出した。あの時は友梨が悲劇的に見せようとしているのだと思ったに過ぎなかったが。

「・・・幸い、この余剰次元はあらゆるエネルギー資源を循環利用させる装置が仕組まれていた。だから永遠には無理だが今までのところ問題はないし、これからも相当の間世界はもつだろう。しかしいつかは寿命が来る。人々の中には単身で移住した者もいるし事故の時に観光に来たせいで家族と離れ離れになってしまったものも多い。だから事件が起こってから、なんとか原因を解明して元の時間座標に戻そうと必死に研究がなされた。一年の後、事件の原因は次元維持装置の操作する基礎変数のゆらぎに起因すると分かり、当時それは理論にすらないものだった。装置の修正はなされたが背景理論さえ不完全で未だ原因は完全に解明されていない。幸いそれ以降は異変は起きていないが元の時間座標に戻す、すなわちパリティ・シティを解放するとなると誰も手が出なかった」トミーの父さんが一息ついて水を飲んだ。

「ところで研究者の中でも最も優秀かつこの世界の成立に大きく貢献した人が二人いたのだ。一人はクランと名乗るものでこの前資金横領でつかまった。もう一人はパリィ博士というもの。二人ともずば抜けた頭脳の持ち主だった。パリティ・シティが隔離されて以来二人は猛烈に研究をした。お互い競争しているようでもあったね。この世界の成立に一番寄与しているんだから責任も重いと思ったのかもしれない。ところが三年ほど経ったある時・・・」再び言葉を切った。さやかも熱心に聞いている。一方トミーはもうその話は聞き飽きたというようにソファーに退屈そうに寝そべっていた。「ある時、パリィ博士の方が忽然と消えてしまったんだ。何の連絡もなく、置き手紙一つない。大規模な捜索も行われたが結局見つからなかった。生きているのか死んでいるのかすらわからず様々な憶測が流れた。地下深くに隠れているというものもあれば一人未来に帰る方法を見つけて去ったというもの、事故を起こしてまた別の次元に放り出されたというもの、枚挙にいとまがない。パリィ博士は消えてしまう前から何か公にしていない独自の研究をしているという憶測もあった。何らかの理由で一大成果をどこかに隠しているとも。パリティ・シティでは世間話にこと欠けると決まってこのゴシップが登場した。昨日まではね。ところが今日の会議でこの謎に決着がついたんだ」トミーが起き上がった。いよいよ今日の出来事を話すのだろう。さやかもいっそう身を乗り出した。「私は今日の午後会議室に呼び出された時、またエネルギー関係の何かの発見だと思ったよ。ところが様子が違った。やって来たのは成果を発表する学者ではなく、パリティ・シティのトップだった。そしてパリィ博士がやはり以前秘密裡に研究を行っていて、それはパリティ・シティを解放することに関するものであること、別の人物が故意にそれを隠していたこと、そしてそのありかが最近わかったということが発表された」「そういったことはどうやって分かったのですか?」少し間が出来たのでさやかが質問した。「クラン博士が一枚かんでいるのだよ。先日研究費横領で捕まったが、その時の取り調べで分かったらしい。彼はずっとパリィ博士と共同研究を行っていて、事情を知っていた。実はパリィ博士が消える前にパリティ・シティを解放する研究はほとんど完成していたというのだ。しかしパリィ博士は公表する前にクランによって消されてしまった。どうも小さな余剰次元を作って誰にも見つからないようにそこに押し込んだらしい。クランにはあくどい目論みがあったのだ。まず、数年間パリィ博士の研究成果を眠らせる。その間にクランは研究しているふりをして莫大な研究費を貯め込む。それから頃合いを見て自分の成果にして発表し、パリティ・シティを解放するというわけさ。限りない名誉と莫大な金、それらを同時に手に入れようとしたわけだ。この前横領が発覚していなかったら明日にでもパリィ博士の成果がクランによって発表されていたかもしれない。実際にその栄誉に値するものは永久に異次元に打ち捨てられてね」「パリティ・シティには・・・そんな出来事があったんですね。未来から隔離されてたなんて・・・」はやとは大きく息を吐いて言った。「そうなんだ、でももう解放も近い。クランはパリィ博士の研究成果のありかを明かした。楠森の地下だ。その部屋の入り口にはパリィ博士のみが入れるように遺伝子認証ロックがあったらしい。クランは時が熟した時いつでも破れるように自分の部屋にパリィ博士の髪の毛を一束試験管に保存していた。全く用意周到だよ。現在パリティ・シティの生命科学研究所でパリィ博士の遺伝子を解読しているところだ。おそらくひと月もかからないだろう。部屋に入り次第パリティ・シティは過去に宙ぶらりんになった状態から解放される。元の未来に戻れるんだ」トミーの父さんが最後は持ち前の轟くような声で言った。


その時ダイニングルームの方から「ご飯の用意ができましたよ」という声がしたのでトミーの父さんは二階に着替えに行き、子どもたちはテーブルについた。盛大な欧風料理に加え、ワイングラスが並んでいる。小さなガラスに入ったろうそくに火がついており、雰囲気を醸し出している。

友梨も加わったのではやとは話しづらくなったが彼女はこの前の出来事を微塵もほのめかさず、愛想のよいお嬢さんを完璧に演じ切っていた。はやとたちの世界はどんなだとか、学校はどうだとかいうことをさやかにまでいつもの態度とは打って変わって親しげに尋ねたりした。はやとも当たり障りのない返答をしていたが友梨が無理に洗練された社交性を発揮しようとしているように感じたのであまり楽しくなかった。トミーは少しうんざりしたように終始黙って食べたので、トミーの父さんのほえるような声とそれにこたえる母さんの饒舌さの中ではやととさやかは友梨と話し続けるほかなかった。


ディナーが終わってデザートも片付くと玄関までトミーの父さんが送ってくれた。「いったい全体どうやって過去から来たんだね。ディメンションセンターに感づかれるときっと君たちものすごい研究対象になるぞ。もっとも文書が見つかった今はどうでもいい話だが」トミーの父さんが首をひねって言った。「文書が見つかったら本当に研究対象にならないなのですか?私たちの秘密がわかっても」さやかがちょっと期待するかのように小さな声で言った。「いや、秘密にしておくに越したことはないだろう。過去から来た人がいろいろ深入りすると厄介だし。実際、以前は過去と空間的につながってしまおうという意見もあったのだよ。空間的に繋げるならまだ容易だろうし、最悪未来に戻せない時のことを考えてそっちの研究もすべきだっていう人もいた。一種のタブーではあったのだが。ま、文書が見つかったとはいえ君たちのことはちゃんと秘密にしておくし、それにパリティ・シティが解放されて元の時間座標に戻ったら君たちの世界とは行き来できないから今のうちに『未来』を楽しんでくれたまえ」秘密にすると言う割には大声だった。はやとはお屋敷がこんなに広くなかったらきっと隣近所に丸聞こえだろうと思った。さやかも気になるようで窓の方をちらっと見たりした。二人が玄関を出て行くと後ろからちょっと待ったと声がしたかと思うとトミーの父さんがワインボトルを持ってきてはやとに押し付け、「過去でもパリティ・シティを祝ってくれ」と陽気に叫びたてた。「過去」という言葉にまたさやかが身を縮めた。二人は急いで別れを告げ、東屋に向かった。開け放された窓からピアノの音が聞こえ、友梨の後ろ姿がちらっと見えた。またリビングの方で吠えるような笑い声がし、ピアノの音がくもった。友梨が振り返って二人が帰るのを見つけ、小さく手をふった。


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