Chapter2
第二章
さやかに勉強を教えてもらう約束はしたもののその後さやかは何とも言いださなかった。忙しいのかもしれないな、とはやとは思った。それとも自分から催促すべきなのか。
もっともはやとはかなり忙しかった。連日中間テストが帰ってきた上にこれまでの復習と称していろいろな先生が大量の宿題を出した。英語の「じいさん」がまた無理難題を仕掛け、「あなた方は単純な作文や読解の問題ができないようなので自由に創作するがいい」と嫌味たらしく言って英語で詩を書くことを要求してきたのだ。これにはクラス一同憤然となった。はやとは宿題に加えて部活もあった。さやかはなんの部活にも入っていなかったのではやとよりは暇なはずだったがそれでも日によっては忙しそうにしていた。
「今日は父さんの研究所を訪ねるの」と言って嬉しそうな日もあれば、別の日はじいさんに今まで習った教科書の例文を全部写してこいといわれたとかで泣きそうな顔をしていた(心底英語が嫌いなようだった)。
その週はなかなか終わらない気がしたがついに金曜日になった。帰る間際になってさやかがやって来て
「明日か明後日の午後空いてるんだけど」と言った。
「僕も週末は暇だよ。この前言ってた追加の英語の宿題終わってなかったら手伝おうか?」
「教科書を写すだけだったしもう済ませてしまったわ。ばかげた詩の宿題はまだだけどなんとかなると思うわ。それにわざわざ週末に英語なんてしたくはないし。もちろん物理を勉強するのよ」
「よし来た。頑張ってさやかに追いつくぞ」
「追い付けないように頑張るわ」とさやか。
「ところでどこで勉強する?学校の図書館とか空いてないし」はやとが聞いた。
「例え空いてたとしても休みの日まで学校を見たくはないわ。はやとの家とか使えない?」
「えっと、それは・・ちょっと・・・」別に使えない分けではなかったが女の子なんか入れたことないし、母や妹がどう言うだろうかと思うと現実的でない気がする。
「部屋が狭いとか?」とさやか。
「うん、それもあるし・・・」
「親がうるさいとか?」
「まあそういうこと。妹もいるしね」はやとが答える。さやかはふーんと言った。それから少し間が空いたがこう言った。
「なんならうちに来てもいいわよ。自分で言うのもなんだけどけっこう広いのよ」ちょっと自分の耳が信じられなかった。さやかの家に誘われるなんて。でも実際のところだいぶ嬉しかった。
「いいの?じゃあ明日お邪魔しようかな」
「オッケー、じゃあお昼くらいにね。住所は後でメールしとくわ」
そんなわけで次の日、昼食を食べた後、少しどきどきしながら家を出ようとした。
「どこに行くの?」
「ちょっと友達の家に行くだけだけど」
「二時までには帰って来れるんでしょうね」
「どうして?」驚いて聞き返す。
「二時半から歯医者を入れてたじゃないの。忘れるからちゃんと自分の手帳に書いときなさいって言ったでしょう」そうだった、完全に忘れてた。二週間ほど前に入れたのだがその時はちょうど中間試験の時でそんなことすっかり忘れていたのだ。
「それから終わったら早めに帰ってくるのよ。晩は食べに行くことにしたんだけどついでにショッピングをすることにしたから」ダブルショック。急速に気分が沈んでいくのを感じた。
「でも、大事な約束なんだけど・・・」聞くわけないとは思ったが一応言い訳してみる。案の定、忘れていたのは自分が悪いんでしょうとかあんただけの予定に合わせることはできないとか早口にまくしたてられた。口答えしても所詮無駄なことはこれまでの経験から十分わかっていたから曖昧に答えておいてとりあえず家を出た。
楽しみにしていただけにだいぶ落ち込んだがすぐに現実的な問題に気がついた。さやかにどうやって断ればいいんだろう。携帯電話を取り出してしばらく考えていたが結局正直に歯医者を忘れていたと謝り、明日はだめかとメールした。
しばらくぼんやりと歩いていると携帯が振動し、さやかから返信が来た。
「明日でもいいわ」それだけ。急いで返信した。
「ありがとう。先に確認してなくてごめん」するとすぐに返信が来た。
「別にいいわ」それから続けて「でもお菓子くらいは持って来なさいよ笑」と来た。
とにかく明日会えることになったので少し気分を取り戻して、まだ時間があったので遠回りしてから歯医者へ向かった。
北町の歯医者で長い間待たされた挙句、散々痛い目にあわされ、やっと解放された時にはもう四時前だった。今更ながら少なくともさやかの家に直接行って明日にしてもらうくらいのお願いはするべきだったように思えてきた。ちょっとは気を利かせるべきだった。歯医者の隣におしゃれなケーキ屋さんがあったので明日持って行こうと思ってクッキーの詰め合わせを買った。
それから自転車でいつものように公園を横切って家に向かった。丘の真ん中のクロノス像が目に入った時、ふと何か違和感のようなものを覚えて立ち止まった。近寄って見てみると特におかしなところはないようだった。でも、見慣れた像が何か違うのを感じた。そしてすぐに悟った。
砂時計と本が入れ替わっている!自分の目が信じられなかった。目をこすってもう一度よく見た。やはりおかしい。いつもは右手、公園のグラウンド側にある本が左手に収まっているし遊歩道から全体の見えていた砂時計が左手にあってよく見えない。何度見ても間違いなかった。一体どういう訳なんだ。その時また携帯の音が鳴った。宏美だ。像の方を見ながら取る。
「もしもし?」
「あ、お兄ちゃん、歯医者は済んだ?じゃあ早く帰って来てよ。今日はセンター街へ私の服も買いに行くのよ。母さんも買い物があるっていうし時間なくなっちゃう」全くうるさい妹だ。こんな時に。
「わかった帰るよ。すぐかは分からないけどね」それだけ言って電話を切った。不思議な気分に包まれて家に向かって歩きながらクロノス像に「噂どおり」のことがおきている理由を考えてみた。まともな理由は思いつかなかったがさやかに思考法に影響されたのかいくつもの「仮定」を浮かべることはできた。所詮は想像力の赴くままに、だったが。
もしかして、像は取り替えられたのかもしれない。実は中に黄金が詰まっていて、知るものが偽物を作って置き換えた。でも僕がbとdを逆にしたように間違えて作ってしまったんだ。よほど腕のない彫刻家に違いない。
それとも、もともと本も砂時計も取り外せるようになっていた。この入れ替えは何かの暗号かもしれない。スパイの暗号とか、大掛かりな銀行強盗が行われる合図とか。
あるいは、昨日テレビで「最近の若者は自然をよく観察しない」と主張している人がいた。きっと次の番組のネタに使おうと思っているのだろう。「一週間彫像に変化を与えたがそばを通った人の誰も気がつかなかった」とか言い出すのかもしれない。
明日さやかの意見も聞いてみよう、そう思いながら家についた。
そのあとは実に退屈だった。車で半時間ばかり揺られ、妹と母のショッピングにつきあい、父が新しいゴルフクラブを買おうというのでまた時間が取られ、重い荷物を持たされてレストランを回り、漸く決まった後も災難だった。父は家族そろって外食するといつもはやとに向かって様々な「訓戒」を垂れるのだった。こちらの考えは一切考慮されず、言いたいことだけ言っていると機嫌がいいのだ。
次の日の朝、はやとは目覚めるともう一〇時だった。カーテンを開けると眩しい光がさっと差し込んできた。やっと自由を手に入れた気がした。朝ごはんを食べるとすぐ、公園にまっすぐ向かった。昨日帰ってから思いついたのだがさやかに噂が本当だったという証拠写真を撮っておこうと思ったのだ。日曜だからか昨日のひっそりとした雰囲気とはうってかわって散歩に来ている人や近所の子供たちで溢れていた。遊歩道を回り、はやる気持を抑えながらクロノス像の丘まで行って像を見上げる。
何の変哲もない。当たり前のように右手に本を持ち、左手に砂時計を持っている。はやとは愕然とした。一日限りのものだったのか。昨日すぐに写真を撮っておくべきだった。ますます訳が分からなくなった。
困惑した気持で南側の出口へ向かった。公園を出たところに小さな交番がある。メールで知らされた住所によるとさやかは南町の一角に住んでいた。南町は住宅地しかなかったし店も少なかったのでごくたまに友達の家に遊びに行く程度だった。
携帯で地図を出してGPSを起動した。歩いて一〇分の距離だ。月の台のどこもそうだが通りは絶妙な角度でカーブを描いていて、前方に立ち並ぶまだ新しい家々がずらして重ねた本のように一度に目に入る景観を創り出していた。さやかの家の通りに入った。その通りに並ぶ家々は他よりもだいぶ豪華で大きかった。優雅に弧を描いたバルコニーがある家や温室、サンルームを備え付けたもの、三階がついているものもあった。庭も色とりどりの植物で飾られ、高そうな車が置いてあるところもあった。
さやかの家の前まで来た。屋根が少し急な傾斜の二等辺三角形でクリーム色の壁(一階の一部は少し苔むした煉瓦張りになっていた)、開放的な窓、張り出したバルコニーを備えている。静まり返った明るい庭には茶色い長い毛のラブラドール犬が芝生に寝そべっていた。
深呼吸をしてからインターホンを鳴らした。ちょっと間があってから玄関が開くとさやかが出てきて入るようにと示した。
「おじゃまします」少しおずおずとしながらライオンの顔をかたどった門の取っ手を回して開いた。門の格子の真ん中あたりに小さく”Laplacian House”と書かれていた。
「昨日は急にごめんね」
「あら、いいのよ」
「お菓子買ってきた」
「ほんとに?冗談だったのに。まあ入って」さやかはちょっと驚いたように言った。
玄関は丸天井の吹き抜けになっていた。横にぐるっと曲がった階段が二階に続いている。その奥にリビング、さらにダイニングへと続いていた。どの部屋もきれいにしつらえられており、生活臭がまるでなかった。以前旅行で行ったリゾートホテルを小さく切り取った感じだった。
「すごい、豪華なうちだね」はやとがそういうとさやかはちょっと得意そうにした。
「まあ、父さんの趣味だけどね」
「発明家ってそんなに儲かるんだ」別に皮肉をこめたわけではなく、単純に驚いたのだ。
「売れてないと思ってたの?前にある電池を改良していくつかの家電メーカーに持って行ったらだいぶ売れてその時にこの家を建てたらしいわ」
「すごいな、じゃあ僕たちが使ってる電気製品にも使われてるのかな?」
「さあ、たぶんね。実を言うと父さんは勉強とか最新の理論とかは教えてくれるけど研究を含めて自分のことはほとんど話さないの。ちょっと父さんの書斎を覗いてみる?」
「いいのかな?」
「大丈夫、友達が来たときはきっと案内することにしてるのよ」
そんなわけで二人は二階に上がった。廊下にはかわった観葉植物がハート形の葉っぱをつけており、一番奥にニスを塗られた濃い茶色の扉があった。真ん中に小さな金のプレートがついていて飾り文字で“Laplacian Room”と書かれていた。
「これどういう意味?」はやとが聞く。
「ラプラシアンよ。微積分に出てくる記号らしいわ。三角形で表すらしいんだけど、ちょうど部屋がその形になっているってことでつけられた名前よ」なるほど、部屋に入ってみると外から見た屋根の形通りに天井が深く三角形になっていた。飾り窓からやわらかな光が焦げ茶色のふかふかした絨毯を照らしていた。落ち着いたマホガニー製の家具とコンピュータ、肘掛け椅子、大量の分厚い洋書、小さな分解された電子部品などがあちこちに散らばっていた。部屋の雰囲気からすると物語に出てきそうな哲学者か文学者の部屋のようだったが置かれているものが科学的なものばかりで奇妙な対称をなしていた。
とても物珍しい部屋だったがはやとの最も気になったものは部屋の一番奥にある大きな飾り棚だった。棚は閉まっていたが棚の上にいくつかの見たことのない銀色の装置が置かれていた。
「ああ、これね」さやかははやとが見とれているのに気づいて言った。
「これは熱電子放出器よ。ほら」さやかは表面がステンレスで覆われた小さなレールガンのようなものを取ってなにやら目盛りを合わせるとはやとの手に向けてレバーを引いた。生暖かい感覚が広がった。
「三七度よ。これ、三〇〇度まで上げられるの。父さんの発明品でちょっとお湯を沸かしたりするときにとっても便利よ。そのうち実用化されるかも」さやかが説明した。
「僕はてっきりレールガンかと思った。こっちは何?」はやとはいろいろな形の端子を接続する穴だらけのずっしりした箱をとりあげた。
「それは知らないわ。なんども聞いたんだけど全然教えてくれないんだよね。自分で考えなさいってことね。こっちの筒もよく分からないし、この電子レンジみたいなのも分からないわ」さやかは「無限USB」と書かれた水筒のような装置や不透明な扉と幾つものネジやボタンのついた装置を触りながら言った。
「へえ、君の父さんはすごいんだね、そのうち街中でここにある装置を見かけることになるかもね」
「きっとそうだと思うわ、でも全然実用化されないんだよね。こう見えてまだ完成していないかもしれないし安全基準を満たしていないのかも。少なくともこの鍵のかかった戸棚の中にはそういった作りかけの製品がいっぱいつまっていると思うわ」さやかは誇らしげに言ってのけた。
その後しばらく部屋を見て回ったあと(博物館でも観光する気持だった)二人は部屋を出た。廊下を少し戻ると今度は普通の白い扉があって例によって金色のプレートが付いていた。なにやら複雑な数式が書いてあってその下にN.S. Equationと書いてあった。
「私の部屋よ。参考書をとってくるわ。下で勉強しましょ」
「ちょっと入っていい?」
「だめよ、女の子の部屋をのぞくなんて失礼よ」そういってさっさと一人で入ってしまった。しばらく廊下の手すりにもたれて吹き抜けを眺めているとさやかが何冊かの本を手にして出てきた。「ねえ、N.S.なんとかって何?」するとさやかがちょっと声を低めて言った。
「ナビエ・ストークスっていう人が二〇〇年も前に発見した方程式よ。イニシャルが私と同じなの。空気とか水とかの流れを説明する式だけどまだ解が見つかってないらしいわ」秘密でも打ち明けるように声を落として言う。
「なるほど。で、きみが将来答えを見つけるというわけか。発明家に未来の物理学者・・・なんだかすごい一家だなあ」さやかはちょっと赤くなって下を向いた。
「ところで」はやとは言いたくてずっとうずうずしていたことを切り出した。
「昨日僕も大発見をしたんだけど」
「どのくらいの大発見?」
「そうだなあ、レールガンかさやか方程式くらいの発見さ」とはやと。
「教えてよ」
「まだ解けていない方程式なみに謎の深い部屋に入れてくれたらね」
さやかはぷっと吹き出し、やめてよといってはやとの肩を小突いた。
「下で聞くわ。秘密の発見かもしれないけど私はもう自分の部屋の秘密を話したんだからね。次ははやとの番よ」
「そうなんだ、N.S.式って秘密だったんだ」はやとがからかうように言うとさやかはまた赤くなってさっさと階段を降りて行った。
リビングのソファに座ると玄関で音がしてさやかの母が入って来た。急いであいさつする。
「はやとくんね」母が優しそうに言う。するとさやかが口を出した。
「うん、物理ができないもんで教えてあげるのよ」
「あらそうなの?あんたがわざわざ連れて来るなんてむしろ逆なんじゃないの?もしはやとくん電気機械とかが好きだったらお父さんの書斎を見せてあげたら?」
「もうさっき見せたわ。でもいつもながらうまくガイドができないんだよね。あんまり装置を知らないんだもの」
「それくらい自分で勉強しなさいよ」さやかの母は笑いながら言って台所に行くと何が飲みたいか聞いた。
「あ、何でもいいです。ありがとうございます」はやとは慌てて言った。
「じゃあレモンティーでいいかしら。うちのスペシャルよ」
レモンティーが来るとさやかの母は二階に上がって行った。冷たくて甘酸っぱいレモンティーを飲みながら快適な家だなと心から思った。
「で、大発見ってなんなのよ」さやかははやとに持ってきたクッキーを開けながら聞く。
「昨日ね、歯医者から帰るときなんだ。公園にライトロード像があるだろう」
「光の騎士ね」
「うん、それでね・・・」はやとは像の噂を思い出させ、その通りになっていたこと、今日見たら元通りだったこと、スパイか銀行強盗が関わってるかもしれないがもっとありそうな原因が思いつくなら知りたいということを説明した。さやかは真面目そうにうなずいていたがしまいまでくると突然笑い出して、しかもあまりに笑うのでソファに横にならないといけないほどだった。
「銀行、強盗、だって、スパイ、だって」息もつけないほどだ。
「おいおい、さやかちゃん。あらゆる可能性を追求すべきだって言ったのはきみだぞ」
「そりゃ、そう、言った、わ。だけどその確率ってのを考えてみなきゃ。スパイだってありうるかもだけどもっとずっと可能性の高い原因が、ある」
「そりゃなんだい」
「はやとがちゃんと右と左を確認しなかったのよ。四次元とかいろいろ私が言ったせいで当たり前のものが当たり前に見えなくなったのかもね」
「そんなことないよ、ちゃんと確認した」
「じゃあ写真を見せてよ」
「・・・」つくづく昨日証拠をとっておくべきだったと後悔した。
「ね、そうでしょ」
「でも本当なんだけど。どうしたら信じてくれる?」
「そうねえ、伝説の通りになったらかな、つまりね。さっき言ってなかったけど噂には続きがあるじゃない。スポーツのできる人はできなくなるとか。はやとは残念だね。スポーツも勉強もできるから両方できなくなるわ」そういうとまた遠慮なく笑い出した。はやとは信じないにしてもそんなにおかしなことを言ったかなと思いながらそばにあった柔らかいクッションを取り上げてさやかの顔にぎゅっと押し付けた。やっと笑いの波が収まったようだった。レモンティーを一口飲むと
「さ、勉強しましょうか」そう言って参考書を開いた。
さやかは確かに教えるのがうまかった。いくつかのテキストを参照したり、図を書いたり、計算させたり、分かりやすい例を挙げたりでたちまちのうちにはやとはニュートンの運動論の基礎を飲み込んでしまったし、必要な数学の知識、サインやらコサインやら放物線だとかを覚えた。これまで当たり前のように考えていた現象が数式を使ってきれいに説明されて行くのはなんとも爽快だった。
二時間の後、学んだことでいっぱいになったところで今日はこのくらいにしましょうとさやかが言った。
「今度は、今日やったところを簡単な微分を使って説明してみるわ。私もまだ勉強中だけどね。いっしょにがんばりましょ」二杯目のレモンティーとクッキーも空になっていた。
「ありがとう。ほんとに詩の宿題はいいの?明日提出だよ。昨日ちょっと考えたけど全然できなかった」
「なら自分のを先にしなさいよ。私は晩にやってみるわ」
さやかは美味しいクッキーをありがとうと言ってから玄関まで送ってくれた。さやかのお母さんが庭に出ていて、はやとが帰るのを見ると玄関の横のレモンの木から黄色いレモンを一つもぎとってお土産にくれた。
「物理はよく分かったの?」
「はい。さやかちゃんがとてもうまく教えてくれました。学校の先生より分かりやすいかも」はやとがそう答えるとさやかのお母さんはさやかを後ろからぎゅっと抱きしめた。さやかはもがきながら私もレモンをとっていい?と聞いた。
はやとは素敵な一日を過ごしてとても軽快な気分で家に帰った。少し頭がぼんやりとして眠かったが頭をよく使ったからか、これまで育った環境とは全く違うさやかの家で非日常を味わったからかよく分からなかった。帰りにもう一度クロノス像を見て行くことを忘れなかったがやはりいつもと変わったところはなかった。謎だけが残ってしまった気分だった。さやかちゃんが真面目に考えてくれたらな・・・。誰に何と言われようが昨日見たことは疑いようがなかったし、きっとこの謎は自分で解いてみせると誓った。
家に帰るとリビングで妹の宏美と母さんが昨日のショッピングのことや最近の流行のファッションについて熱心に話し合っていたのではやとはさっさと二階に引き上げた。おおよそさやかの家とは違って学問の雰囲気がない。
部屋に入ってベットに寝そべっていると半時間ばかり眠ってしまった。目が覚めるとなんとなくクロノス像を思い浮かべていた。そういえば・・はやとはふと思い出した。確か右手に持っている本には何かが書いてあったはずだ。小学校のころよく登ったから覚えている。アルファベットで何か書かれていた気がする。その時は英語が読めなかったので内容はまだ未知だった。
そう考えると急にどきどきして来た。今見に行ったら何かが分かるかもしれない。
じっとしていれなくなった。すぐに頭がはっきりと目覚め、三〇秒後には携帯をポケットに入れて下に降りて行った。
「今度はどこに行くの?」宏美が聴く。
「ちょっと公園まで散歩」
「さっきまで遊んでたんじゃないの、私の宿題を教えてよ」駄々をこねる。
「あとでね、そんなにかからないから」それだけ言うと急いで外に出ると急ぎ足で公園に向かった。
日が沈み始めていた。公園の広場には強い西日がさしてクロノス像にも当たっていた。幾人かの犬をつれた人が散歩している。グラウンドでサッカーをしている子供たちもいたが構うことなくクロノス像に登り始めた。慣れた手順で上まで行くと何かから解放されて自由になった気がした。やっぱりたまには登った方がいい。そよ風が吹いてきて心地よかった。
はやとは秘密の文(と思っていた)を目にする前の高揚感を味わってからいざそれを見た。
密かに長い文章か詩が書いてあることを期待したのだが流れるような字体でごく短い題名がついているだけだった。
Princiqia
Isaac Newton
二行目はやや小さめの字で書いてある。ちょっと期待が萎えてしまった。Newtonしか読めなかったが察するにニュートンの何か著書なのだろう。やはり秘密も何もなく単に有名な科学者の本を選んだだけなのか。
それでもどんな著作か気になったので携帯電話を取り出してSafariに"princiqia newton"と打ち込んで見た。
一番上に「自然哲学の数学的諸原理」というものものしいタイトルが現れ、簡単な説明が書いてあった。クリックして詳しく読もうとしたがふと検索結果ページの一番上によく見かけるタグが出ているのに気がついた。
「principia newtonで検索しています」
あれ、打ち間違ったかな?実物をもう一度見てみたが打ち間違いではなかった。それどころかどう見てもクロノス像の方が間違っている。princiqiaではなく、principiaだ!
はやとはあきれてしまった。確かにこんな細かい題名まで見る人はそういないとはいえ、よくだれも途中で気がつかずに彫像になったものだ。pとqを間違えるなんて。明日さやかにこのこれから何年も公開され続けるであろう「スペルミス」を教えてやろうと思ったが自分もbとdをテストで書き間違ったことを思い出して可笑しくなった。大人でもこんな間違いをするものか。
しかし本当にそうなのか?はやとは不意に考えた。スペルミスはそんなに可能性のあることだろうか?むしろ誰かの注意を引くためにわざわざ間違えたということはないだろうか。
はやとはもっとよく見てみようと思い、身を乗り出して本を掴むとそのブロンズの表紙を凝視した。するとqの文字はよく見ると少しバランスがおかしい気がした。それもそのはず、それはqではなくてわざわざ反転させてqに見えるようにしたpだと気づいた。さらにqの垂直な棒の先が糸のように細い線になっており、下に伸びている。そのよく見ないと雨風にさらされてできた傷と見分けがつかないその細い線をたどって行くと九〇度の弧を描いて表紙の端まで達し、何かを示唆するかのように裏へ伸びていた。裏面を見ようとしてはやとは危うく像から逆さに落ちるところだった。冷や汗をかく。地面では何人かの小学生がこちらを見ながらゴリラのような真似をしていたがそんなことを気にしている場合ではなかった。本の位置からしてどうにも裏は見えそうになかった。その時いい手を思いついた。携帯をまた取り出すとカメラを起動し、本の裏へ手を伸ばしてボタンを押した。カシャっと音がして写真が撮れた。画像を確認してみると鮮明に写っていた。ついに謎を解く鍵を手に入れることに成功したと確信した。
クロノスの本の裏側には本をつかんでいる手がかかっていない端っこの小さなスペースに長々と英文が連なっていた。
その頃さやかはソファに寝転がって考え事をしていた。はやとがしていった光の騎士像の話を考えていたのだ。あの時はあんなに笑ったもののそう簡単に見間違いとして済ませられるようにも思えなかった。人のことは言えなかったが確かにはやとはたまにそそっかしいことをする。アルファベットを書き間違えたり、歯医者を忘れていたり、重要な時に写真を撮ってくるのもしなかった(私だったら絶対写真を撮ってくるのに、と思った)。
砂時計と本の反転。いつものくせでいろんな可能性を想像してみた。他の次元を通過したということはないだろうか。銀行強盗よりはましだろう。本で読んだ時には余剰次元は小さすぎて原子一つでさえ通り抜けられないと書いてあった。しかし少なくとも光の騎士は詳細に見に行くくらいの必要はありそうだ。
はやとが家に帰ると待ってましたとばかりに宏美が塾の宿題を持ってやって来、夕食までえんえん解説をさせられた(「人に教えるのが最良の学習なのよ」ときた)。
結局、夕食が終わり、妹がお気に入りのテレビ番組を見にリビングに行ってしまってから漸く部屋で戦利品を開く時が来た。
Uest the Ideas.
Pursue the Ideas.
In the past, present, and the future, whenever, and wherever you live, you can find the piece of the truth.
And, that is so precious as the Ideas.
ざっと読んでみたがよく分からなかった。辞書を引いてみる。驚いたことに一つ目の単語がさっそく見つからなかった。おかしいな。よく見ると最初の文字のuにはqから伸びた線がそのままつながっている。すぐに分かった。表のqから続けて読むのだ。Quest 探求せよ。
その後は早かった。片っ端から辞書を引いてなんとかだいたいの意味を掴むことはできた。何かを訴えた詩のような感じだったが何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
はやとがそのクロノス像の詩の意味を心から理解するのはまだずっと先のことであった。
その詩をわざわざ裏に書いたということは何かしらの意図があったに違いないとは思ったがこれ以上探れることもなさそうに思ったので明日とりあえずさやかに教えようと思った。明日の用意でもしようかと思ったとき、週末に出された宿題に全く手をつけていないことを思い出した。昨日どこかでやっておけばよかったと思ったが仕方がない。しぶしぶ問題集を取り出して、大急ぎで三次方程式を解き、古典を訳し、フランス革命のまとめをし、いくつかの化学反応式を書いた。
やっと終わった時、すでに夜の一一時になっていた。携帯が振動してメールの着信を告げた。さやかからだ。
「詩の宿題が全然思いつかない(泣)」
すっかり忘れていた。じいさんの宿題がまだあった。今から考え始めるなんてとても気が重かった。第一ばかげた宿題だ。詩なんか日本語でも書けないのにどうやって英語で書くというのだ。でもやって行かなかったらじいさんがもっとひどい宿題を罰として持ってくるに違いない。
またメールが来た。
「終わったー??」さやかだ。その時いいことを思いついた。詩ならもうあるじゃないか。苦労して手に入れた美しい詩だ(そう思いたかった)。隠し書きされていたものをちょっと借用しても誰も文句は言うまい。自分の英語力では明らかに書けなかったがじいさんを見返してやれるチャンスだ。はやとはきれいに写し終わってから(もちろん最初のQを付け加えることを忘れなかった)返信した。
「終わったよ」
さやかから返信は来なかった。きっと必死になってるんだろう。昼に言ってくれれば手伝ったのに。物理ならいともやすやすと解いてしまうさやかが英語で苦労してるところを想像するとちょっと可笑しかった。はやとは「がんばって」とメールを送った。
次の日、教室に入るとさっそくさやかに昨日の出来事を伝えようと思ったが彼女は多くの友達に囲まれていて楽しそうに談笑していてその機会がなかった。はやとは自分の席についてその様子を見ていた。はやとはよく夏芽さやかの人好きのするところを羨ましく思っていた。彼女は大体においてありのままの自分をみせ、そして皆から好かれているように思った。いつも明るく自信たっぷりに振舞っていたし、たまに変な目で見られても四次元とかそういう突飛な発言も遠慮しなかった。物理のできることを誇りにし、英語ができないこともむしろ得意げな様子で隠そうともしなかった。それに比べてはやとは大抵思ってることを言わないままに済ますことで友達の輪を保っていた。たまに人の言うこと、やっていることを心から批判したくなる時があった。それでもそうはしなかった。もししでかしたらたちまち残る中学生活を一人っきりで過ごす羽目になるだろう。そういう点で、自由に振舞っていても皆から愛されるさやかがうらやましかった。
さやかは見られているのに気づいて一瞬微笑みかけた。はやとは目だけで挨拶して一時間目の準備にかかった。
一時間目は数学でいつもの通りさやかは五〇分間寝通した。二時間目の国語も昨日の詩の宿題のせいか途中まで寝ていたが流石に先生もどうかと思ったのかいきなり指名すると「次のページを読みなさい」と言った。さやかは慌てて隣の席をのぞいて教科書のページを探すと寝ぼけた気のない声で朗読し始めた。
「そこはもう済みました。次の段落からです」その中年の女の先生は寛容にも怒らず、苦笑しながら言った。クラスの女の子が何人か目配せしてくすくす笑った。さやかはもぞもぞと最後まで読んで席に座った。しばらく教科書を眺めていたがまた頭ががくんと垂れて時々はっとなったりした。その様子を見てまたクラスの女の子たちがにやにやした。どこか冷たさを感じる態度だった。その子の何人かは朝親しげにさやかと話していたのにそれが友達に対する姿勢だろうか。はやとはふと考えた。そのままの自分をみせたからってそれを人が理解した上で寄ってきているとは限らないんだ。さやかの友達はさやかの明るさ、物理がおそろしくできること、たまに飛び出る突飛なしかし筋の通った発言、そういった退屈な日常を愉快にしてくれることしか見ていないのだ。だから授業中に寝ていたり怜悧なところを見せなかったらもう価値が目減りしてしまうのだ。確かに勉強ができなくても、馬鹿な答えばかりする人でも好かれている生徒もいる。しかし彼女らはさやかにそれを求めてはいなかった。さやかは友達が多かったが彼女らは皆さやかを彼女らの認める範囲内で動かそうとし、その範囲内でしか好いていないのだった。
昼休みの時間にさやかがやって来、昨日の詩を見せてくれといった。
「さやかはどんなの書いたの?」
「見てみる?夜中までかかって書いたのよ」そしてノートを見せてきた。優雅な字で五行の英文が書かれていた。
I like a physics.
I enjoy a physics.
Physics is the word of the world.
Physics is a truth.
So I like a physics.
「どう?」
「上手だと思うよ。さやからしくていいと思う」はやとは素朴だがきれいな文だと思った。
「そうかしら」さやかは嬉しそうな様子で言った。
「ただphysicsにaはいらないと思うな。あと、真実は一つだからthe truthだよ」するとさやかは言われる通りに訂正した。
「で、はやとのはどうなの?」
「僕は詩を書いてないよ」にやにやするのを抑えて言う。
「なんだって?昨日終わったって言ったじゃない」
「確かにね。でも」そして勿体ぶったように言った。
「書いたんじゃなくて見つけたんだ。それもまたあの像のところでね」はやとは写してきた詩を見せると一部始終を説明した。
「それってすごいじゃない。謎のメッセージよ。ほんとに、すごいよ。見つけたんだ」さやかははやとが驚いたほど感心した。
「今度はちゃんと写真も撮ってきたよ」はやとは携帯の写真を見せた。
「実は今朝私も光の騎士(はやとはまだ像の本当の名前を教えていなかったので依然としてさやかは光の騎士と呼んでいた)を見てきたのよ。特に変わったところはなかったけどこれから毎日通ってみるわ。もしかしたら昨日はやとが言ったことがまた起こるかもしれないし」
「じゃあ信じることにしたの?」
「もちろんよ。昨日は笑ったりして私は学者の卵を失格ね。あらゆる可能性を考慮しないといけないのに」さやかはちょっとすまなそうに言った。
その日の放課後、二人は月の台公園のクロノス像を訪れていた。部活があったがさやかも英語の補習で残されていたのだ。
「ここから登れるんだ」はやとは足をかけるところを示しながら言い、瞬く間に上まで登った。さやかもこわごわと足場に立った。はやとに言われた像の肩あたりをつかむ。慣れていないためかなかなか上に上がれなかった。手を貸すんだ。はやとの心はそう言っていたがなぜか手を出すことができなかった。さやかも手伝ってよという顔をしていたがそれを言い出さなかった。はやとがついに決心して手を差し出そうとした時、さやかは弾みをつけてぐいと上によじ登るとはやとの座っている肩と反対側に腰掛けていた。
「私も小学生の時に練習しておくべきだったわ」さやかが息を切らせて言う。
「ほら、そこから本の題名が見えるでしょ、pがqになってる」
「なるほどプリンキピアね。近代科学の始まりを象徴する本だって父さんが言ってたわ」さやかはそれを見ながら納得して言った。
「僕はこれからプリンキピアの謎を解いて行くわけか」はやとは少しおどけて言った。
「私と、でしょう。小さな物理学者の卵を忘れてはいけないわ」
「じゃあさやかちゃんと一緒に」はやとは言った。二人は顔を見合わせてにっこりした。なぜかはやとの心に氷水や濡れたさやかの顔が浮かんできた。さやかはちょっと腰をずらしてはやとに近寄った。像の両肩に腰掛け、二人ともクロノスの頭を持って支えていた。しばらく二人とも無言で遠くを見つめていた。五月の爽やかな風で公園の木々がさらさらと揺れていた。何羽かの小鳥が高い声で鳴きながら木から飛び立った。はやととさやかは一瞬何か幸せな予感が来るのを感じた。お互いに相手も同じように感じていることを知らなかった。