Chapter11
第十一章
溶けるような熱さの中、瞬間は無限の時となり、無限は瞬間になる。時の流れはおよそ意味をなさなくなり、ただ現在のみがかつてないほど強く現れた。
ふと、近くで人声がしたような気がした。はやとは人影を認めて身体を引き離した。「何?」とさやかが夢見心地の声で言った。「いいところを邪魔してすまない」また声がした。今度は二人ともはっきりとそれを聞き取った。東屋の外にKが一人腕を組んで立っていた。なぜか圧倒的な存在感を感じ、はやとはよくぞこれだけ世界を急転させることができるものだと内心感心した。「邪魔よ。邪魔すぎるわ」さやかがほとんど嫌悪をむき出しにして言った。「これでも一分ほど待ったんだが、これ以上待ってると明け方までここにいないといけないと思ってね」Kが冷たく言い放った。「きみ、名前は?」Kがはやとに向かって言った。「常盤はやとです。何か御用でも?」「では常盤はやと。これまでパリィ博士たちはとんでもないことをしてくれたな。楠森から文書を奪った上、一月前には私を殴ってクランを脱出させ、そのクランは当局の重大秘密をさらしてしまった。だがもうきみたちにこれ以上邪魔はできない。我々はついに『ここ』を見つけ出したからな」Kが東屋の真ん中あたりを指で指した。はやとはぞっとした。「これからトンネルは我々で自由に使わせてもらうよ」Kは努めて冷静に言ったがその顔は勝利の色に満ちていた。「いったいどうやってここを・・・」はやとは言葉に詰まった。「聞いて驚くなかれ。パリィ博士の仲間の一人が裏切ったんだよ。あれほど完璧に邪魔をしてくれたきみたちにも大変な落ち度があったわけだ」はやとは聞いた言葉が信じられなかった。「このトンネルをどうするつもりだ」「別に手荒なことはしないよ。当分は街に必要なエネルギーを調達するのに使うだけだから。それからのことは・・・楽しみにしていたまえ。さて、もう聞くこともないだろう。きみたちは永久に過去へ帰ってもらおう。このトンネルは二四時間見張りをつけておくから一歩でも踏み入れようものならすぐさま捕えるからな」Kが合図をすると暗がりからさっと六人の部下たちが現れてじりじりと詰め寄ってきた。「さあ、パリティ・シティを見納めるんだ。それから本来なら一発殴り返したいところだがパリティ・シティの先進的な倫理に則って免じてやる」包囲したKの部下たちが東屋に踏み込んだ。はやとはさやかを押して月の台に押し入れ、自分も足を踏み入れながらしっかりとKを見据えた。「僕たちは永久には帰らないぞ。こっちにクランという味方がいる。この街をきみたちだけに委ねはしない」はやとは視界が変わる瞬間、クランという言葉で確かにKがぎくりとしたと思った。
呆然とした思いで街灯の照らしだす道を二人は歩いた。トンネルが乗っ取られた・・はやとはなかなかその現実を受け入れられなかった。「パリィ博士の仲間の一人が裏切ったんだよ」というKの言葉だけがいつまでも響いていた。はやとは一瞬船戸くんのこと、一度彼がKから誘惑されたことを思いだした。まさか、そんなはずはあるまい。彼は絶対にパリィ博士を裏切らないはずだ。
いつの間にか公園の南門に出ていた。道を渡ってまっすぐ行くとさやかの家、左に曲がるとはやとの家のある東町だ。
「明日、起きたらすぐに家へ行くよ。それから博士に伝えよう」はやとは重い口調で言った。
「分かったわ」さやかがわずかに微笑んで言った。
別れようとしたとき、通りの右の方から賑やかな笑い声が聞こえて来た。およそ今の状況にそぐわず、どこか異質な響きだった。はやとはさっさと反対方向に行こうとしたがふと思いとどまって、長い影をこっちに向けてやってくる二人に目をやった。
友梨だった。その隣に涼子がいた。二人ともこれでもかというくらいの紙袋を両手に持ってゆっくりと歩いてきた。
「はやとくんにさやか?こんな遅くまで遊んでるの?」友梨が二人を見分けて大きな声で呼びかけた。少しいらいらとしたような調子だった。
「いったいどうしたの?」はやとは立ち止まって思わず二、三個荷物を地面に置いた友梨に向かって聞いた。
「涼子ちゃんと晩御飯食べてたんだよ。そんなことよりはやとくん、今日あっちのデパートにいたでしょう。さやかにリュックなんか買ってあげて、私・・」友梨が泣きそうな顔をした。
「つけてたの?」さやかが問い詰めた。
「違うわ。買い物してただけだわ。ねえはやとくん、もうさやかと付き合ってるんでしょう・・・。ショックだわ。まさか両想いだったなんて」友梨はそういって今度は本当に泣き出した。
「その通りよ」さやかが代わりに答えた。友梨は泣きながらさやかを睨めつけた。
「友梨、聞いてくれ。それどころじゃないんだ。トンネルが押さえられた」はやとは急いで解放団にとって必要な事だけ述べた。不意に友梨が泣き止んだ。はやとは友梨がちらりと涼子と顔を見合わせたのを見逃さなかった。
「友梨、何か知っているのか?まさか、きみが?」はやとは急激に嫌な予感がやって来るのを感じた。
「違う、違うわ」友梨が再び泣きじゃくりながら激しく否定した。はやとはさっきから一言も話していない涼子の方を見た。涼子は好奇心を装った顔をしていたが明らかに緊張している。涼子が持っている紙袋に目が止まって一瞬目を疑った。さやかに買ったリュックを入れてるのと同じだ。
「佐々木さん、まさか友梨からいろいろ聞いたんじゃ・・・まさかパリティ・シティに行ったんじゃないだろうな」はやとは信じられない気持で問いただした。
「いったい全体何のこと?パリティ・シティのことはさやかから聞いたけどまさかそんなこと信じてないわ。またさやかの他愛無い空想でしょう」涼子は断固とした調子で言った。
「じゃあその荷物は?」
「友梨にもらったのよ」涼子は平然と答えた。
「六袋も?友梨、そうなのか?きみが街に帰りたいと思うなら本当のことを言うんだ」はやとは再び友梨に向かって言った。友梨は唇をかみしめた。助けを求めるかのようにあたりを見渡した。それから再びはやとの方を向き、依然としてじっとのぞきこまれているのを知って覚悟したように話し出した。
「実は・・涼子を・・パリティ・シティに・・入れたわ。でもショッピングをしただけよ。誓って言うけど他の誰にもトンネルのことなんか話してないわ」友梨が悲痛な声で言った。涼子が軽蔑したように打ち明けてしまった友梨を見た。
「教えてくれ、いったい何回彼女を入れたんだ。そして何をやったか全部言うんだ」
「昨日と・・今日だけよ。今日は午後にちょっとデパートで一緒に買い物してお茶を飲んでそれから月の台のショッピングセンターにずっといたわ。昨日は・・五号区を歩いただけよ」
「昨日は博士のお見舞いに行ったじゃないか。もしかしてそのあいだ佐々木さんはあっちにいたのか?」
「ええ・・そうなの。私が病院に行くっていうと、もう少し街を見たいから夕方に迎えに来てくれって・・」
「じゃあこの間に何かあったんだわ。涼子、街で誰かにあのトンネルのことを話したの?いったい何があったのよ」さやかが激しく問い詰めた。涼子は腕を組んでそ知らぬふりをしていた。はやとはさやかに黙っててという合図をした。
「涼子、頼む。きみはあの街に関係がないんだからどうか本当のことを言ってくれ。あのトンネルの場所は極秘だったんだ。言ってくれれば一切においてきみの責任はなかったことにする。あのトンネルが破られると最悪の場合あっちの世界から侵攻されかねないんだ。もし何があったかを言わないなら、トンネルが突破された時にきみに全責任を負わせる」はやとは脅しにもお願いにもとれるような言い方をした。しばらく涼子はためらったがどちらかが効いたのだろう。少し顔色を変えて話し出した。「昨日友梨がいなくなってからちょっと街の方を歩いてたら帰り道が分からなくなって。ちょうど居合わせた高校生くらいの子にどこか東屋のある屋敷を知らないかって聞いたわ。そしたら不思議に思ったみたいでいろいろ聞かれて・・・どこから来たのって言うから過去からやって来たって言ったわ。そしたらその人は一緒にお屋敷を見つけてくれたの。私、あのトンネルのことを話しちゃいけないって全然知らなかったわ。それなら先にそう言ってくれればいいのに」涼子はすらすらと話したがあくまで自分に責任はないという口調だった。はやとは知らずにトンネルのことを話してしまった涼子はともかく友梨があまりに軽率だったことにあきれてしまった。誰だか知らないが過去と聞いて怪しく思ったその高校生が当局に通報したに違いない。はやとはふと誤ちの始まりは自分が友梨を解放団に入れたことだと気付いて呆然とした。「じゃあ、私はこれで・・」涼子がためらいがちに言った。誰も何も言わなかった。涼子はちょっと会釈して自分の荷物を全部持ち上げるとそそくさと逃げるように立ち去った。それを目で追いながら、さやかが「なんてことしてくれたの」とはげしく友梨に詰め寄った。「とりあえず明日みんなで博士に事情を説明しよう。一〇時に病院前でいいね」はやとがこれ以上状況を悪くしないために言った。さやかが頷いた。「ごめんなさい、みんな私のせいだわ。ああ、もし当局が攻めて来たら・・・」友梨が泣きじゃくって言った。「さやかちゃん、きみのところにもう一人くらい泊められるかな」はやとは友梨は無視してさやかに尋ねた。「たとえうちが今の二倍広かったって泊められないわ。友梨のせいで解放団の計画がめちゃくちゃよ。友梨なんて金輪際お断りよ」さやかは猛烈に拒否した。「じゃあ仕方が無い、今日は佐々木さんのところに泊めてもらうんだ。家は分かるね」はやとは仕方なく別の案を示した。友梨は涼子の聞いて気まずそうな様子だったが他に行くところもないと悟ったらしく素直に頷いた。「それから明日は必ず一〇時に病院に来いよ。みんなで釈明しなくちゃならない。きみを誘った僕の責任もあるし」友梨は「僕の責任」と聞いてはっとしたようだった。同時にとめどなく涙があふれた。「はやとくんは・・・私を信用して誘ってくれたのに私はそれを裏切ってしまったのね」友梨は自分の浅慮によって解放団を窮地に入れてしまっただけでなく、はやとの信用を裏切ったと知って始めて心から後悔したようだった。Kがこのことを知った上で「裏切りがあった」と言ったはずはないにせよ、Kの言う裏切りがあったとするとまさしくこのことだろうとはやとは考えた。地面には友梨の紙袋が場違いな感じで転がっていた。友梨は哀れな様子でそれらを拾い上げ、肩を落として立ち去った。「ごめんね、さやかちゃん。きみが友梨を入れるのに反対したのが正しかったようだよ」はやとは悔しそうに言った。「そんな、悪いのは一〇〇パーセント友梨よ。関係ない人を街に入れて、しかも一人にしておくなんて危ないって誰だって分かるじゃない」さやかがやりきれないように言った。「でもこういうことを見抜けずに引き入れた僕にも責任があるのは事実だよ」はやとははっきりと言った。さやかは何とも答え返せなかった。はやとはちょっと手を振ってから別れた。家に入ると連絡もなく八時まで帰って来ないなんてと母に散々文句を言われ、妹の宏美は「デートでもしてたの?」と小学生のくせにうるさく聞いてきたがこちらは母親に「そういうことは聞かないの」といわれて黙った。はやとはいつも通りさっさと自分の部屋に行き、トンネルのすぐ向こうには当局が控えているだろうなと思った。トミーは大丈夫だろうか。~~~
次の日、はやとは昨夜のことが夢でなかったのを辛く思いながら重い足取りで病院へ向かった。入り口のところで既に友梨が待っていた。「やあ、涼子はちゃんと泊めてくれたかい?」はやとが声を掛けると友梨はちょっと頷いてみせたがいつもとはうってかわって黙りこくっていた。「しばらく涼子のところに泊まれそうかい?」友梨は今度はかぶりをふった。はやとがなおも突っ込んでみると昨夜は一晩だけという条件付きで泊めさせてくれたそうだった。涼子にしたらこれ以上パリティ・シティや友梨に関わりたくはなく、いつ元の世界に帰られるか分からない友梨を置きたくなんかないに違いなかった。「じゃあパリィ博士に頼んでラプラシアンハウスの一部屋を借りるしかないな」すると友梨は観念したような表情になった。その時、さやかと船戸くんがやってきた。船戸くんはさやかに向かって「これからどうするのが解放団にとって最善かを考えるんだ」というようなことを真剣に話していた。みんなのろのろと、できればたどり着かなければいいのにというかのように博士の部屋まで行った。「今日はみんなえらく早起きだな。今朝医者が言ってたんだがあと一週間で退院だそうだ。ここを出られたらその足でパリティ・シティへ行こう。やることが山ほどある・・」パリィ博士が上機嫌で言った。はやとは悔しさと悲しさで胸がしめつけられた。友梨がしくしくと泣き出し、とても説明するどころではなかったのではやとが代わりに一部始終を説明した。博士が聞きながら表情一つ変えなかったのがせめてもの救いだった。そうでなかったら最後まで話し続けられなかったかもしれない。「というわけなんです。友梨を誘った僕にも責任があるので僕からも謝ります」
「そうか・・。いや、はやとのせいじゃないよ。最終的に決めたのは私だ」博士が沈んだ声で言った。それからふと思い出したように言った。
「あの時、きみは自分のためでも解放団のためでもなく友梨のためにというようなことを言って引き入れたね。私はあの時、実に動かされたよ。特に解放団の目的のためにはどんなリスクも避けたいという状況の中でもきみは意思を曲げなかった。今は残念かもしれないけれどもしかするとそのうちきみはあの時の自分を誇りに思う時が来るかもしれない」その言葉がはやとの心に深くこだました。こんなにも自分をかってくれるなんて。突然友梨が泣きながら堰を切ったように話し出した。
「ごめんなさい、悪いのは全部私なんです。解放団の任務も忘れて計画をめちゃくちゃにしてしまいました・・。私・・この失敗を償うことはできませんが・・これ以上邪魔をしないように解放団から・・身を引こうと思います」
「きみにこの失敗を償う唯一の方法があるとしたらそれはこれから解放団でできる限りにことをするってことだ」博士が言った。しばらく沈黙が訪れた。はやとが何時ものことながらパリィ博士の一言でまたきっと何もかもうまく行くんだという気がしてきた。船戸くんの方をちょっと見てみると真剣な面持ちで考え込んでいる。きっとこの場合友梨をどういうふうにするのが最善か、また博士の考えは妥当かどうか考えているに違いない。その隣のさやかを見ると明らかに不服そうな顔をしている。さやかが何か言いかけたが博士は鋭い視線で制止した。それから博士はちょっと友梨と話すことがあるからと言い、他の人たちは部屋を出た。
「当局がトンネルの生体認証を破るのにどのくらいかかるだろう」はやとが誰とに向かってでもなく言った。船戸くんが答えた。
「東屋の床下に生体認証が埋まっていることに気づくのに一日、解除するのに長くても二日だろう。そんなに高性能なものじゃない」はやとは何かが起こるなら週末だと思った。さやかがまた「友梨のせいで・・」とか「絶対許さない」とか言い出した。
「パリィ博士は友梨を許しそうな気配だったね」はやとはさやかを意識しながらさりげなく船戸くんに向かって言った。
「どうだろうな」と船戸くん。
「博士なら許すだろう。一番苦しんでるのは友梨なんだ。そして博士は一番弱いものに手を差し伸べる」はやとはそう言いながら船戸くんにアイコンタクトを送った。船戸くんはそれを了解した。
「博士が友梨を解放団に居残らせようって思うんならそれに従うべきだな。さっきから考えてたんだが、終わったことはいいとして追い出すよりは追い出さない方が賢明だろう。ここで友梨を切り捨てることは解放団全体の理念に反しかねない。理念に反することをすると往往にして具体的な活動にも影響してくる・・・」船戸くんもうつむいているさやかの方をちらりと見て小難しいことを言った。
「なんか二人揃って圧力をかけてるようだけど私は許さないわよ」さやかが顔を上げて少しむっとしたように言った。
「まあまあ。でもそれは困るなあ。だって友梨が許されなかったら友梨の失態に少々責任のある僕も許されないことになるからね」はやとがちょっとからかうような口調で言った。
「まさかはやとが見抜けなかったことは許すけど友梨はだめだっていうような非論理的思考はするまい」船戸くんもにやにやしながら付け加えた。
「二人とも計画がぶちこわしになったことを何とも思ってないの?」さやかが逆襲に出た。
「起こったことは悔やむけれど起こした人自身の価値判断をするのは出過ぎたことだろう。少なくとも僕にはできない」はやとが言った。
「まさしく未来的な考えだ。僕たちの世界ではそう考える」船戸くんが感心して言った。
「でもその論理だったらあの当局ですら悪いとは言えないじゃない。そのうち月の台に何かしでかしても文句言えないわね」さやかがまだ不服そうに言った。
「そう、当局ですら悪いと決めつけるわけには行かない。しかし打倒するには変わりないさ」船戸くんがこともなげに言った。
「それって矛盾じゃない?」とさやか。
「いや、そうではないよ。当局を放っておけないのは危険だからであって悪いと決めたからではない。暴れ犬を繋いで置かないといけないのは暴れ犬が悪いからではなくて放っておくと危ないからだからだよ」はやとが説明した。さやかは腕を組んで反論を考えていたがついぞ思い浮かばなかったようで黙り込んでしまった。
三人は足の赴くままに歩いていたが自然にラプラシアンハウスに着いた。
「お茶でもどう?」さやかが提案したのでみんな中に入った。
さやかがお決まりのレモンティーを用意し、三人は庭で喧しく鳴いている蝉の声を聞きながらお茶を飲んだ。
「はやとくん、そう言えば私も涼子にパリティ・シティのことを話してしまったことがあったわね」さやかが不意に言った。
「そうなのか?」と船戸くん。そこでさやかが前は仲が良くて・・というようなことを簡潔に説明した。
「私でさえ涼子にはやられたんだから・・」さやかが強気を装ったように言った。
「・・・友梨がああいうことをしてしまったのもそう分からないことでもないかもね」さやかはちょっと頬を紅潮させて言い終えた。
「おそろしく曖昧な表現だけどとにかく三人の意見が一致したね」はやとはさやかが自分が折れる時に限ってはっきり言えないのがなんだか可笑しかった。
博士がどう説得したのかはわからなかったが友梨は解放団を続けることに納得し、その日から友梨はラプラシアンハウスに滞在した。はやとは毎日ラプラシアンハウスを訪ねたがあのおしゃべりな友梨が人が変わったように無口になってしまったのには驚いた。しかも必要な時以外はあてがわれた北の部屋から出てこなかった。
昼過ぎに友梨はたいていひっそりと家を出て行った。はやとは一度それとなく後をつけて行くと友梨はクロノス像のところまで行き、長い間空を見ながら台座に腰掛けた後、危なっかしげに上まで登って(これまでは登る時には必ず誰かに引っ張ってもらっていた)入った途端当局に捕まってしまうトンネルを絶望的な表情で見つめていた。はやとは声をかけずにはいられない気持になったが後をつけてきたのを知られない方がいいと思って重苦しい気分のままラプラシアンハウスに戻った。
「大丈夫なのかしら。トミーもさぞかし心配だろう」友梨のことを散々言ってたさやかも珍しく心配そうだった。
その二日後には友梨の心配どころではない出来事が起きた。朝、さやかから「駅前が大変なことになっている」という連絡があった。はやとは嫌な予感がして大急ぎで駆けつけた。駅前の広場は騒然としており、警官やテレビ局の車でごった返していた。けたたましい音を立てて空からヘリが駅ビルの屋上に降りてきた。はやとは人だかりの中から素早くさやかを見つけた。船戸くんも一緒だ。
「何があったの?」
「当局がもうトンネルを突破したんだ。夜のうちにデパートに押し入った。まだ警察が調査中だけど当局の仕業なのは間違いないね。誰にも気づかれず、食料品から宝石に至るまであらゆるものが盗られた」船戸くんが言う。
「いったいどうやったんだろう。そんな大規模に奪ったなら誰か気づくはずじゃ・・・」
「ほぼ確かだと思うけど奴らはトンネルの口からデパートの中のどこかまでワームホールを作ったんだろう。後は簡単さ。熱電子放出器でどんなところも破れるし。奪ったものは片っ端からワームホールに突っ込めばいいだけ」
「そのワームホールの出口は分からないの?」
「探知機があれば探すのは可能だけどどっちにしろもう出口は閉じてしまってるだろうよ。また次の標的を見つけてそこに開くまではね」
人だかりがますます増え、いつの間にか地方紙の号外まで撒かれていたがもちろん船戸くんの説明のようなものが出ているわけでもなく「月の台デパートで大規模強盗事件発生。巧みな手口で全ての階を襲う。目撃者求む」といったようなことしか書かれていなかった。
「早く暴走を止めないと大変だわ」さやかが言った。
「うん、そうこうしている間に当局はどんどん力をつけるだろう。とにかく博士に報告しないと」船戸くんが言い、一同はそのまま病院へ直行した。
パリィ博士には伝えるまでもなかった。駅前の病院ではすでに情報が伝わってるらしく、あちこちの病室で味気ない毎日を送っていた患者たちが突然やってきた非日常に活気づいていたからだ。
それからの夏休みは暗雲のたれこめたようなものになった。数日に一度、月の台周辺のどこかの街で略奪が起こった。時刻は真昼間から深夜まで様々で、襲われたのも初めはデパート、スーパーだったのが徐々に倉庫、貨物列車、牧場などまで拡大した。それでいて当局は全く尻尾を出さなかった。ワームホールでどんなところへも直通できる上、危険と判断したら瞬時に逃げることが可能なので見つかるはずもなかった。
略奪のニュースが入る度に、はやとはラプラシアンハウスに駆けつけた。最初の襲撃から数日後、パリィ博士は漸く完全に回復して退院したがお祝いをするどころではなかった。博士はみんなを悲観的にさせないようにと思ってか退院してからいっそう明るく振る舞うようになっていたがはやとはふとしたすきに博士が深刻な表情で考えているのを見逃さなかった。
はやと、さやか、船戸くんはパリィ博士のように見かけだけでも明るく振る舞うことはできず、一日中「今日はどこかやられるだろうか」とか「パリティ・シティは大丈夫だろうか」といったようなことを考えていた。気が滅入ると三人集まって何とかして当局を抑える方法はないかとどんな実現不可能に思える案でも出し合った。みんなトンネルが奪われた今では当局と接触することすら限りなく困難だと分かっていたが、それでもじっとしていることが耐え難かったので議論だけでも絶やさなかった。
友梨は滅多に階下へ降りてこなかったが、たまにリビングを横切ったりした時に略奪のニュースを見ると、その度に憔悴したような顔になるので、はやとは慌ててテレビを消した。すると友梨は無言で自分の部屋に戻るか、クロノス像を見に行くかするのだった。
ある時、パリィ博士がそんな三人の愚にもつかない議論(その日は襲撃されそうなあらゆる場所に事前に張り込んでおいてはどうかというものだった)の最中に部屋に入ってきた。博士は大量の宝石を輸入していた貨物船の貨物がいつの間にか消えていたというニュースを流しているテレビのスイッチを切って言った。
「たとえ略奪している犯人たちを捕らえたところでどうにもならないよ。トンネルが開かない限り街へは行けない」
「何とかして開かせる方法はないかしら。略奪犯を人質に取るとかして」さやかが提案というよりどうにかしたいという思いを訴えるかのように言ったが博士はただ微笑んだだけだった。
「パリティ・シティにいるならまだしもこちらの世界からではどうにもならないよ。あがいても出来ることには限界があるってことを認めるしかない」
「あきらめて助けを待てってこと?」さやかが少しとんがった声で言った。
「助けは待たないといけないけれどあきらめるのとは違うよ。あまりに自分に頼りすぎると助けがあってもそうだと分からないことがあるんだよ」はやとは突然クランのことを思い出した。そうだ、クランがパリティ・シティの側から助けてくれるかもしれない。博士はクランのことを言っているんだ。
「クランの革命がうまく行くと当局が倒されてトンネルがまた開かれるかもしれないですね」はやとはパリィ博士と話しているといつも、難しい問題にヒントが与えられ、それで解答にたどり着けるといったような爽快な感じがあった。はやとが答えると博士はいつも「正解だ」とでもいうようににっこりと笑う。しかし今日はそうではなかった。博士は相変わらず深刻な表情だった。はやとは腑に落ちないのと同時に不安にさせられた。
はやとは毎日一時間おきくらいに襲撃がないかとテレビをつける習慣がついていたが、貨物船の略奪の後、襲撃事件はぴたりと止んでしまった。嵐の前の静けさのような一週間だった。はやとは週末に手持無沙汰な気持でラプラシアンハウスを訪れた。
リビングでさやかがテーブルに向かって何やら忙しそうにしている。
「どうかしたの?」はやとが聞いた。
「宿題よ。確かに宿題どころじゃない時だけど、もうすぐ新学期だもの」さやかがこともなげに言った。はやとは遠い過去からの記憶が光よりも早くやってくる気がした。
「新学期っていつから?」
「明後日よ」はやとは襲撃事件があろうとパリティ・シティがどうなろうとも新学期は始まるという当たり前のことをすっかり忘れていた。記憶を手繰り寄せてみるとどう楽観的に見ても宿題は半分しか終わっていない。
「すぐ帰ってするよ」はやとが焦って言った。
「なんならうちに来てやったら?私はもうすぐ終わるから手伝ってあげるわよ」はやとはそのありがたい申し出を受けることにした。
「当局が沈黙してしまったね。何か巨大な計画を企んでいるのかもしれない」二〇分後、再びリビングで宿題を広げながらはやとは言った。
「いい方に考えるとクランがいよいよ当局を倒しにかかっているのかもしれないわ」さやかが仕上げた宿題の山に肘をついて言った。
夏休み最後の日の午後だった。さやかが助けてくれたもののはやとは宿題に身が入らず、依然として終わりが見えなかった。はやとは分からないところはとりあえずさやかの言うとおり書き写し、理解するのはもっと大切なことが片付いてからにしようという戦略にした。パリティ・シティでは最後の希望の綱であるクランの革命がうまく行っていればいいが・・・。はやとはひたすらそれを願った。
階段の方で微かな足音がして友梨が降りてきた。また当てもなくクロノス像を見に行くんだろう。
リビングを出たところで友梨がぐらりと揺れて危うく倒れかかった。壁に手を突く大きな音が聞こえた。はやとは急いで立ち上がって部屋を出た。
「大丈夫かい?今日は休んでいたほうが・・」
「何が何でもお屋敷へ帰るわ。たった今トミーたちが当局に捕まっているかもしれないのに・・・」友梨が消え入りそうな声で言った。
「何か当てがあるのかい?」はやとはクロノス像通いで何か街へ帰る手がかりをつかんだのかと一瞬心が踊ったが友梨は小さく首を振った。
「今日は僕も一緒に行くよ」はやとがそう言い、さやかにも伝えた。
「私も行くわ」さやかが言って部屋から出てきた。
正午、月の台公園の広場は焼け付くような暑さだった。夏休み最終日に公園に遊びに来ている子供達もおらず、砂漠のような静けさだった。
クロノス像のところに人影が見えた。船戸くんだった。
「やあ、どうにもならないって分かってるんだけど来ないではいられなくてね。街を覗いてみようとしたけれどとっくに生体認証を書き換えられたのだろう。何の手ごたえもなし」船戸くんは額の汗をぬぐいながら言った。はやとは念のためと思って一〇分以上かけて像の頭から台座まで調べたが何の痕跡もなかった。一同は肩を落として太陽光で熱くなっている台座に腰を落とした。誰も口をきかなかった。当局の沈黙、街で何が起こっているのか分からないほど恐ろしいことはなかった。まだ襲撃が続いている時の方がましなくらいだった。ああ、何かが、何でもいいから何かが起こらないのか。
その時、微かに台座が振動した。みんな一斉に顔を上げた。
「地震かな」はやとが言った。はやとが立ち上がると揺れがおさまった。いや、クロノス像は揺れ続けている。明らかに地震ではない。
「下がった方がいい」船戸くんが叫んだ。
突然、像の手のあたりが銀色に裂けた。ゴーゴーという音と共に巨大な尖った物体が現れ、真夏の太陽光をぎらりと反射した。そしてゆっくりと全体像が現れた。銀一色の鋭く尖った円錐だ。目標を定めているかのようにゆっくりと空中で向きを変え、尖った方を上にした。底面にいくつもついた小さなノズルから青白いガスが出ていた。
「あれはいったい・・まさかミサイル?」はやとは信じられない気持で船戸くんの方を見たが船戸くんも初めて見るというように首をかしげていた。
その物体は突然ガスを急激に噴射し、高速で電車が通過した時のような旋風を巻き起こした。次の瞬間、空気をばりばりと切り裂きながら急上昇し、あっという間に小さくなってあたりには水蒸気のような靄が立ち込めた。最後にぴかりと光を反射させ、物体は見えなくなった。後には嗅いだことのない不思議なにおいが残った。
広場の端から誰かが自転車に乗って走ってきた。パリィ博士だった。
「さっきのはいったい?」博士が像の前で急停止すると息せき切って尋ねた。
「さっぱり分かりません。ミサイルか何かでしょうか?」船戸くんがその内容の割にはひどく落ち着いた声で言った。
「ちょうど書斎の窓から何かが上昇するのが見えたから飛んできたんだ。きみたちはあれがトンネルから出てくるところを見たのかい?」パリィ博士が聞き、はやとはさっきの出来事を詳しく話した。パリィ博士ですらあれが何なのか皆目見当がつかない様だった。
その時友梨が叫び声を上げた。夢中で像の上を見上げている。顔をあげたはやとも思わず叫び声を上げた。トミーだった。不安そうな表情でクロノス像の手の上に立っていたが下にみんながいるのを見ると歓声を上げて降りてきた。友梨が真っ先に飛びつくとしっかりと抱き合った。
「トンネルが開いた!」さやかが叫んだ。
「クランが勝ったんだ」はやとも飛び上がって言った。
友梨はなかなかトミーを放そうとしなかったがトミーはじたばたと暴れた挙句、友梨の腕からくぐり出た。みんなは早速街の様子についてトミーを質問攻めにした。
「それが・・・うん、まあ来てみればわかるよ」トミーが浮かない顔で言ったのでみんなはひやりとして顔を見合わせた。それからパリィ博士がまずトンネルに飛び込み、はやと、さやか、船戸くんが後に続いた。
はやとはトンネルへジャンプした瞬間、これはトンネルに詰まってしまったと感じた。いつもの通り、くぐった瞬間目の前が真っ暗になったが見慣れたお屋敷の庭の風景は一向に現れなかった。はやとの周りでみんなの驚きの声が上がった。
あたりはほとんど闇だったが遠くからぼんやりとした光が世界の輪郭を示していた。目が慣れてくるとはやとはそこがまさしくお屋敷の庭だと分かった。しかし以前と全く違っている。東屋はなく、横に屋根が真っ二つに割れて大きな黒い岩のように転がっている。庭の噴水も壊れて地面に落ちているし、お屋敷の大きな窓は粉々に砕けていた。トミーは外へ手招きし、足音を忍ばせてみんなを道路の方に導いた。
いつもの快適な気温とは程遠く、半袖のはやとは全身ががくがく震えた。しんとした道路の傍には消えてしまった街灯の代わりに電池式の照明が掛けられており、心もとない光を放っているのでさっきの光の源はこれだなと分かった。空を見上げると星ひとつない漆黒で、果てしない闇の深淵に一瞬吸い込まれそうな気がした。
突然遠くから闇を切り裂いてまぶしい光がやって来た。三機のヘリが隊列を組んでこちらに向かって来ている。はやとは自分たちを捕まえに来たのかと思ったがヘリは真上を通過してお屋敷の上空あたりで停止し、降下に移った。
「きわどいタイミングだったな。トンネルの守りが再び固められた」船戸くんが言った。
「我々ももう退けなくなったということだ」博士が静かに言った。
通りの端の家でトミーは立ち止まり、錆びついた門をぎしぎしと開けてみんなを中に入れた。はやとは門の右に手書きで「本条」と書かれた紙が表札代わりに貼り付けられているのを見た。
黴臭い冷え冷えとした部屋に入り、トミーが部屋の四隅で懐中電灯と以前お屋敷の食卓で使われていたろうそくを灯した。それらの覚束ない光が一同の不安げな顔を映し出したとき、はやとはただならぬことが起こったなと思って身震いした。恐ろしく長い夜が待っている予感がした。