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Chapter10

第十章


次の日、はやとは昼前になって漸く、カーテンから漏れるまばゆい太陽光で目を覚ますと一瞬何も思い出せず、ただ漠然とした不安に満ちた空白の数秒があった。それが過ぎるとあらゆる出来事が一気に戻ってきた。


クランが去ってしまった後、はやとはクロノス像の前でぽつんと待っている友梨と共に病院に行ったのだった。命こそ別条はなかったものの緊急手術を受け、しばらく入院しないといけないということだった。はやとは医者からもう少し遅かったらどうなってたか分からないと聞かされた時、その日一日を全部合わせたより何倍も大きな恐怖を味わったのだった。

「クランは・・・お屋敷に残っているの?」結局博士の家族以外は面会できず、夜明け近くに病院を出てから友梨が言った。

「去ってしまったよ。思いとどまらせようとしたけど無理だった」はやとは肩を落とした。はやとは質問攻めにされるかと思ったが友梨は何も聞かなかった。

「どうしようもなかったことは仕方がないわ」友梨はさわやかに言った。

「でも、僕が何とか説得できていたら・・・。パリィ博士が怪我までして救い出したのに・・」

「はやとくんのせいじゃないわ。クランはきっと今更博士の助けなんて欲しくなかったんだわ。多分相当変人ね。だからやっぱりこれははやとくんの問題ではなくてクランが・・・」やはり友梨がいつもの饒舌ぶりを発揮し始めた。

「そんなことは分かってるよ」はやとが強い口調で言った。友梨はいったい物事を真剣に考えることがあるのだろうか、と思いながら。

「ごめん、私はただ・・」友梨がすまなそうに言った。はやとは落ち着きを取り戻して友梨を見た。そして自分のことしか気にかけたことのない友梨がはやとを励まそうとしていることを察知した。

「いや、ありがとう。でも僕は大丈夫だよ」はやとは軽く微笑んで言った。


はやとは昨夜のそんな出来事を思い返しながらブランチを食べ、さやかの家に行ってみようと思った。昨夜は病院で不安を押し殺して医者の話を聞いていたさやかに一言も声をかけられなかったのだ。


ラプラシアンハウスに着くと船戸くんと友梨がいた。

「面会はできるんだけど一度に三人までらしくて今はさやか、トミーとさやかの母さんが行ってるわ」友梨が説明した。

「きみたちはもう行ったの?」

「いや、みんなが帰ってきたら交代するつもりだ」と船戸くん。はやとはみんなとリビングで待つことにした。

「クランは去ってしまったんだってね」船戸くんが言った。

「うん、計画がこんな風に終わるなんて思わなかったよ」

「まああり得ることだよ。彼は頑固者だったからね」

「これからいったいどうするつもりなんだろう。革命とか言ってたけど」はやとは漸く先のことを考える余裕ができてきた。

「うん、力づくで当局を打倒するつもりだ。軟禁されるしばらく前からクランは仲間を集め出していた。当局の独善的で危険な統治に反対する人たちをね。当然見習いの僕も誘われた。僕は当時クランの思想に心から共鳴していたがその仲間組織には入らなかった。自分の勉強を優先したかったし何よりあの時僕は一人でいたかったんだ。で、クランは寛容にもそんなわがままを聞いてくれて一つの単独任務を与えてくれた。それが知っての通り僕たちの最初の冒険さ」はやとはパリティ・シティの地下での冒険がずっと以前のことのように思われてきた。あれから本当にいろいろなことがあった。

「あの冒険はほんとにすごかったよ。さやかを使えば生体認証が開けられるってことによく気付いたな」

「彼女がレベル一二の授業を見学に来たのはラッキーだったよ。過去から来たことにはすぐに気付いたからその後いろいろ探りを入れてみた。そのうちにトンネルの生体認証が狂ってしまったせいで街に入り込めてることが分かり、だったら彼女がパリィ博士の娘かもしれないと考えたわけさ」

「すごいな、僕やさやかがそれを知ったのはきみよりずっと後だったのに」はやとは感服して言った。

「クランの話に戻すけれど、きみがもし昨日引き止めることに成功していてもパリィ博士と一致するのは限りなく困難だろう。僕はクランの思想にのめり込んでいながらも運命の皮肉というべきかパリィ博士と知り合った。そしていかに二人が違うかを知ったよ。クランは非常に強い理想、あまりに遠い世界から現在を見ていた。それに対してパリィ博士を動かしているのは博愛主義だね。ところではやと、ちょっと歩かないか?さやかに犬の散歩を頼まれたんだ」船戸くんは窓の方をしゃくった。

「うん、いいよ」はやとは同意した。

「私は?」横で聞いていた友梨が尋ねた。

「ショッピングに行くんじゃないから来たってしょうがないよ。うちでみんなが帰って来るのを待っててくれ」船戸くんが面倒臭そうに言った。


はやとは船戸くんと真夏の太陽の照りつける往来へ出た。実際散歩には暑すぎる日だった。閑散とした道には何人かの子供が自転車やスケートで通り過ぎるだけだった。さやかのラブラドールはあまり歩きたそうではなかったが船戸くんが無理やり連れ出した。

「はやと、今更だが昨日はどうもありがとう。僕が無事にあそこを脱出できたのもきみと博士が戦ってくれたおかげだよ」船戸くんが突然言った。はやとは普段無口で素っ気ない船戸くんがこんなことを言うのでちょっとまごついた。

「いやいや、船戸くんこそすごかったよ。ほら、あのKが味方にならないかって誘惑してきたときのはねつけかたが。Kは蒼くなってたよ」

「次会った時にどんな形で復讐されるか分からないけどね」船戸くんが少し笑って言った。はやとも笑い返したがそこで会話が途切れてしまった。はやとはさっき何となく気になったことを聞こうと思った。

「そういえばさっき部屋で『あの時は一人でいたかった』って言ってたのはどうして?」

「きみも知っての通り僕は他人に縛られないでいるのが好きだからね」船戸くんがさらりと言った。

「それは分かるけどあの時はっていうのは今は違うってこと?」はやとはもう一歩突っ込んでみた。船戸くんは驚いたように一瞬立ち止まった。

「なるほど、僕はそんなことを考えもしないで言ったけど確かにそうかもしれないな。でもそれは・・きみやパリィ博士に出会ったからだよ。僕は初めて誰かと協力しようと思った。もっとも最初のうちはそうではなかったけど」

「確かにきみは初めてパリィ博士に会った時、過去に帰れと言ったね。昨日のクランもそんな雰囲気だったよ」はやとは船戸くんとクランを重ねあわせて言った。

「なるほど、想像に難くないな。知識とか研究とかの差を除けば僕とクランは大概似ているし」

「きみは一人でパリティ・シティに乗り込んできたんだろう。それを後悔したりはしない?その・・元の未来にいたらきっと平和な中で世界レベルの研究者か何かを目指せてたのに」

「とんでもない。元の世界での生活はとても好きではなかったよ。僕はクランに会うまで誰にも本当の意味では理解されなかったんだ。以前から僕はクラン的な考えを持っていたがそれが分かる人は少なっかたし、むしろそれで当然と思っていた。両親にはこれっぽちも理想というものがなく、僕を使って将来金持ちになろうくらいにしか考えなかったし、兄弟も友人らしき友人もいなかった。だからクランと会っただけでも十分パリティ・シティに来た甲斐があったよ」船戸くんは少し皮肉的な調子で言った。

「でもパリティ・シティでも完全には満足できなかったんだろう」

「うん、僕はクランの弟子になって以来ますます彼の考えに接近したがどこかで自分を否定するような、違う考えを欲していたんだろう。それにクランは良き師匠であり、理解者ではあったが愛はなかった。それもその時は当然だと受け入れていたがパリィ博士の博愛に触れてからやはりそれも心のどこかで求めていたことが分かったよ。もし博士に出会っていかったら僕も将来クランと同じような冷徹で干からびた理想主義者になっていたかもしれない」船戸くんは珍しく自分の話をした。それから自分でも話すぎたと思ったらしく、いそいそと足を早めたが怠惰に歩いていたラブラドール犬をぐっと引っ張っただけの結果に終わった。

「じゃ、今きみは幸せだね」はやとが心から共感して言った。

「うん、きみとパリィ博士のおかげだよ」船戸くんがまた言った。はやとはそのいつもの船戸くんらしからぬ言葉によって二人の間の最後の壁が壊されたのを感じた。はやとは以前から❘最初の冒険の時に疑いの目で見ていたその時から❘どこか惹きつけられていた船戸くんと漸く心から打ち解けあったような気がした。二人とも何も言わなかったが足を並べて歩いているだけで何かとても豊かな気分だった。


いつの間にか月の台公園に入っていた。公園の木陰でラブラドールがここぞとばかり寝そべってしまい、一歩も動こうとしなくなったので二人とも腰を下ろして他愛もない雑談をした。

「はやと、きみはパリィ博士によく似ているね」

「そうかな、そうだったら嬉しいけど」はやとが言った。

「うん、そう思うよ。一方さやかはパリィ博士の子供なのにあんまり似てないね。彼女はまっすぐだが先入観が強いし、簡単に人に影響されるし・・」はやとは以前さやかが船戸くんに熱を上げていたことを苦々しく思い出した。

「でもさやかはいつも明るい方へ目を向けているよ。昨日のことだってきっと立ち直るだろうし。僕のようにすぐ重く考え込んでしまう人にはちょうどいいんだが」

「なるほど、それがきみの好きなところか。いや、前からなんでだろうって考えていたんだよ」船戸くんが納得したように言った。はやとは赤くなった。はめられたことをいまいましく思った。それにしてもいつから気付いてたんだろう。

「もう帰ろうよ。みんなそろそろ帰ってるんじゃないかな」はやとは怒ったように言おうとしたができなかった。船戸くんは笑いながら立ち上がった。


家に着くとちょうどさやかたちが帰ってきたところだった。予想以上にさやかの表情が明るかったのでほっとした。

「あら、船戸くん?ラブちゃん散歩させてたの?夕方涼しくなってからじゃないと歩きたがらないって今朝言ったのに」

「そうだっけ?すっかり忘れていました」船戸くんが首をかしげて言った。はやとはもしかして船戸くんが犬の散歩と言ったのは口実で、実際ははやとと話したかったのではないかと思った。

「博士は大丈夫だった?」はやとは話題を変えた。

「思ってたより良かったわ。一ヶ月くらい入院するらしいけど今週中に起き上がれるはずだって。後遺症とかも今のところ大丈夫みたい」はやとはほっとして胸を撫で下ろした。


それから、はやとと船戸くんと友梨の三人が博士の見舞いに行った。駅前の病院に行くと三階の部屋に案内された。はやとは恐る恐る扉を開けた。

「やあ、はやとに船戸くんに友梨ちゃん」パリィ博士がベットにうつ伏せに横たわったまま声をかけた。元気そうな声だった。

「大丈夫ですか?」はやとが心配そうに尋ねた。

「ずっとその格好なの?」友梨が聞いた。

「この通り、背中をやられたからしばらくはこの姿勢でいないといけないみたいだ」

「ひどく痛みます?」今度は船戸くんが言った。

「痛いのは痛いが心配するほどではないよ。もしひどくなったらパリティ・シティの痛み止めを持ってきてもらおうと思ったけど今のところは大丈夫」博士が陽気に言った。

「本当ですか?なんならすぐ取りに行きますが」はやとが言った。

「さやかもそう言ってくれたよ。でも私は本当に大丈夫だから。それよりきみたち昨日は本当にご苦労だった。みんなとても頑張ってくれたし、はやとは最後に私の無理も聞いてくれた。きみたちの信頼の証だよ」

「パリティ・シティの病院ならもっとうまくやれたんじゃないでしょうか」はやとがうつ伏せで固定されている博士を見ながらパリティ・シティの技術があったらと思った。

「後遺症が残らないなら少々痛くてもこっちの方がいいよ。少なくとも当局に捕まらないから」

「クランは去ってしまいました。最後に僕が引きとめられず、計画は失敗でした・・・」はやとが昨日の出来事を伝えた。驚いたことに博士は声をあげて笑い出した。

「さやかからも聞いたよ。クランの監禁を解いたはいいが張本人はあっけなく去ってしまうなんてね。あれだけ監禁されててもクランの心はいつでも自由奔放であったということだ」博士はさも可笑しそうに言った。

「それにきみが説得したのに聞かないなんて相変わらず強情だな。まあ、人の心まで好きにはできないさ。救出できただけで十分計画は成功だったと思うよ」パリィ博士が続けた。

「でも・・博士はパリティ解放団にクランを引き入れて共同研究を再開しようと思ってたんでしょう・・・」

「なら計画は変更するさ。ちょっとだけ惜しいがそのうち道はまた一つになるかもしれない。どっちにしろ最終的な目的は共通しているんだし」パリィ博士は昨夜のクランと正反対のことを言った。はやとは心の重荷が軽くなるのを感じた。これこそがさやか一家の持つ明るさだ。はやとは胸が熱くなった。

「クランは・・きっとまた帰ってくるでしょう。僕は彼が立ち去った時、一瞬そんな気がしたんです。クランは立ち去る前に少しためらったから」はやとは昨夜は気に求められないほど小さな直感だったが今ではれっきとした希望に変わっていた。

「ありがとう。再会できることを願うよ。さっきちょっとだけ惜しいと言ったが実のところひどく残念だ」博士もはやとにおとらずクランと一致を得られなかったことを悔しがっているようだった。


パリィ博士が入院したことでしばらくパリティ解放団の活動は停止することになった。クランも少なくとも自由だし心配するには及ばないだろう、そうパリィ博士は言った。

はやとはクランを救出するときに十分すぎるほど姿を見られたため、船戸くんと同じくらい当局に狙われるだろうということでパリティ・シティを歩き回ることは避けることにした。その代わりトミーと友梨が毎日遊びに来た。

毎日午後三時にみんなでパリィ博士の見舞いに行くことが日課になった。五人もの見舞客で病室はいつも賑やかだった。その後はラプラシアンハウスに遊びに行くことも多かった。トミーは夏休みの宿題が多すぎると言いながらも遊んでばかりいた(パリティ・シティの学校も八月は閉まるのだ)。さやかが勉強を教えてあげなかったらきっと一つも宿題を終わらせられなかっただろう。友梨はレベル七の見栄からかトミーよりは勉強したがそれでもデパートに行っている時間の方が長かった。さやかと船戸くんは解放団が休みになった今、こことばかりに勉強しまくった。さやかは「パリティ・シティの新学期が始まるのが待ち遠しいわ」と言っていたし、船戸くんは「クラン博士がディメンションセンターに戻られるときにはレベル一二を終えていたい」と言った。二人は何時間も食卓の端と端に座って厚い本を積み上げ、時々さやかが船戸くんに質問する以外は一言もしゃべらなかった。はやとは部活に行ったり、トミーと友梨と「過去の」科学館や水族館に案内したりと夏休みを謳歌した。


八月に入ってしばらくして、はやとはみんなで隣町の夏祭りに行かないかと提案した。トミーと友梨はもとより、しばらく勉強しかしていなかったさやかも気分転換になると言って賛成した。船戸くんはあくまで勉強を続けると言い張ったが誰も賛成してくれず、結局一緒に行くことになった。

そんなわけで日曜日の夜、一同は地下鉄に乗って畑や田んぼやごちゃごちゃと建て並んだ住宅が広がる隣町まで行き、毎年この日だけ賑わう神社の境内に入った。東の方にこんもりとした台地が見え、月の台のいくつかのマンションが灯台のように光っているのが見えた。

はやとは小さいころは浮足立ったお祭りも別に大したことがないように思われた。それよりみんなの反応を見ている方が面白かった。友梨はすっかりこちらの世界になじんで浴衣を着こなし、うちわまでもって来ていた。そしてあれは輪投げだとかあれは射的だとかはやとの代わりに説明し、珍しくトミーに感心されていた。トミーは金魚すくいを見て「明日の晩御飯に買って帰ろう」と言ったのではやととさやかは爆笑した。船戸くんは射的のところで急に紙と鉛筆を取り出し、何やら計算していたがしばらくして「正解が分かったよ。端っこの的から順番に五度ずつ上げていけばいい」と言って空気砲の角度を厳密に調整しながら撃ったが一つも命中しなかった。

「そういうものさ。なかなか当たらないんだよ」はやとが言うと船戸くんは「いや、きっと空気抵抗か管内抵抗の値に誤差があったのでしょう」と真面目に言っていたのでみんなくすくす笑った。


はやとは何人かの知り合いにすれ違った。さすがに小学生の時ほどたくさんは会わなかったがみんなちょっと恥ずかしそうに会釈した。

「あら、はやとくんじゃない?」佐々木涼子がクラスの女子と歩いてきた。はやとはなんだか縁日気分が濁された気がした。涼子は友梨と同じような今年流行の浴衣を着ていた。

「それにさやかに友梨ちゃん。・・この人たちは?」涼子が船戸くんとトミーを指した。

「友達だよ」はやとが短く答え、さっさと進んだ。涼子もそのまま通り過ぎて行った。

「待てよ。友梨、あの子を知っているのか?」はやとは急に立ち止まって友梨に聞いた。

「うん、前でデパートでね。どこかで見たことあるなと思ったらトミーと学校を見学した時に会った子だって思い出したから話しかけて・・・。それでね、涼子とバッグの趣味があったのよ。彼女鞄を見る目があると思うわ。だって私が今年はこの種類のバッグが流行りそうって言ったら・・」

「おいおい、お姉ちゃんもうほとんど過去の人じゃないか」トミーがあきれて言った。

「月の台に来てから鞄やら服やらの話ばっかりじゃない」さやかがいらいらと言った。すぐに友梨が何か言い返し、いつもの通りの言い争いが始まった。はやとは首を振って船戸くんに目くばせした。

「しばらく、パリティ・シティに帰ってないな・・。今頃当局はどうなってるだろう」船戸くんが喧騒から離れてはやとに言った。

「きみに続いてクランを逃してしまったから大変だろうな。内輪もめにでもなって弱体化してくれるといいんだけど」

「それより早くクランが行動を起こす気がする。一度つかまった以上できるだけ早く動こうとするでしょう」

「革命って簡単に行くのかな?内乱とかにならなければいいけれど」はやとが言った。

「分からない。とにかく何かが起こるまで長くはないはずだ」はやとは少しだけパリティ解放団の活動気分になった。二人はしばらくクランの出方や解放団のこれからの計画について議論した。縁日は目に入らなくなった。二人とも気がついたら入口の鳥居に戻っていた。

「そろそろ帰ろうか。みんなはぐれちゃったけど」はやとは時間を見ながら言った。

「みんなここに戻ってくるだろう」船戸くんが言い、二人は曲がった松の大木の平らなところに腰かけた。境内は騒がしいが参道側はしんとしていた。松の幹にもたれてぼんやりと空を眺めていると流れ星がすっと光った。

「流れ星だ。懐かしい」船戸くんが言った。

「そうか、パリティ・シティでは流れ星がないよね」はやとがしんみりと言った。

「うん。小さい頃はよく家が嫌になったりする度に近くの高原へ行って一晩中空を見てたけれど・・・。パリティ・シティに移り住んでからも時々流れ星が見たくなって元の街に戻ってた。流れ星を見ながらずっと未来の理想郷を想像してたんだ。あの事故で隔離された後はもう二度と流れ星も見れないかもって思ったけど今こうして過去の世界で見ているなんてなんだか信じられない気分だ」その声に呼応するがごとくまた天頂付近に流れ星が光った。

「きみはこっちの世界が好きになったね」はやとが言った。船戸くんはしばらく考えた。

「少なくとも僕は初めて自分の置かれた世界に足が立った気分だ。パリティ・シティであれ、過去であれね。どっちも不完全な世界なのは否めないが」船戸くんは少し苦々しそうに言った。

「それはそうだけどイデアのかけらはいくつもあるよ。僕にとってはそれで充分だ。だってその一つ一つが無限に深いんだと思うからね」はやとが言い添えた。船戸くんは射的の時と同じくらい奥妙に考えている顔つきになった。

少ししてさやかたちがやって来て騒がしくなった。

「神社を降りたところに蛍がいたよ」友梨がはしゃいで言った。

「みんなで見に行ってから帰らない?」さやかが言った。はやとと船戸くんはにっこりとして松の腰掛からはずみをつけて飛び降りた。


~~~


夏祭りが終わって二日後、いつものようにパリィ博士の見舞いに行くとトミーが大変な報告をもたらした。

「クランがパリティ・シティの寿命を公表してしまった」

「ええっー」はやととさやかが同時に叫んだ。

「街の人たちは信じたのか?」パリィ博士が言った。

「まだ混乱しているようです。クランは詳細な科学的データと共にヘリを使って街中に撒いたんです。それから当局がどういうことをたくらんでいるかも。で、街の人たちはこれまで通り当局を信じるかクランを信じるかで割れています」

「なるほど、クランは大きな冒険に出たな。これがきっかけで遅かれ早かれ街の人たちは当局に欺かれていたことに気づくだろう。クランとしては怒った街の人たちを革命の味方につけることを目論んでいるんだろうが果たしてそう上手くいくだろうか?」「当局も着実に味方を増やしているというし下手すると街が二分されてしまうわ」さやかが心配そうに言った。「それに人々は抵抗どころかパニックになる可能性が高いですね。あと一〇年で滅びるとなると」船戸くんが落ち着き払って答えた。パリィ博士が頷いた。「それにたとえ当局が倒れたところで人々がクランを支持するかは分からない。寿命までに未来へ戻す技術が完成しないとみんなが考えたら果たしてどうなるか。クランは寿命を公表するなら同時に過去へ逃れられることができることも知らせるべきだと思う」パリィ博士が深刻そうに言った。「クランは前からあらゆる真実、知らないほうが却って平和であろう真実をも隠さない主義だったんです。当局が都合の悪い色々なことを隠ぺいしていたのは不正だと言って」船戸くんが弁護するように言った。

「しかし過去に逃れることができるというのもまた事実だよ。クランの信条には反するかもしれないけれどやはり事実だ。だからもしあらゆる真実を知らせないといけないというならこちらも伝えるべきだろう」パリィ博士が反駁した。

「でも、今それをするのは危険すぎます。当局が過去を支配することに手を貸すようなものです」船戸くんが言った。

「もちろん当局が過去を支配したいと思っている限りあのトンネルの場所を広めるのは非常に危険だ。そう簡単に過去を支配することはできないだろうが少なくとも悪用してくるに違いない。でももし街の人たちがあまりに絶望に陥ったりするくらいならどんなリスクをおかしてでもあのトンネルを教える方がいいかもしれない。何事も絶望するより悪いことはないと思うよ」パリィ博士が静かに言った。


このことがあってからトミーと友梨は毎日パリティ・シティの様子を知らせに来たし、さやかも何度か見に行ったが、幸い大きな混乱は起こっていない様だった。少なくともまだ多くの人は資金横領で捕まった学者が突如脱出し、あと一〇年で街が滅ぶと叫びだしたことを人騒がせな出来事としか捉えていなかった。ただ街を解放できるという文書がまだ見つかっていないことが徐々に人々の不信感を強めていることは間違いなかった。さらにトミーが父さんから聞いたところによると、ディメンションセンター内では多くの人がクランの主張の理論的根拠を解析し、どうやら寿命は正しいようだということになりつつあるらしい。一方、センター長に就任したKは既に優秀な研究者たちをどんどん味方につけつつあるという情報もあった。

いつ事態が急変するとも限らない不穏な空気の中、パリィ博士は漸く杖を突きながら病院内を歩き回れるようになったが、街に乗り込んでいくほどには回復していなかったので、解放団はもう少しの間情報収集に徹しようということになった。


パリティ・シティのことについて考えることはいくらでもあったが街を離れてからというもの、はやとの心はともすれば別な方へ動きがちだった。さやかのことだった。依然として親しくしていたけれどあと一歩越えられない溝があった。だいたいの心は通じていたけれどあと一つ共有できない思いがあった。

はやとは前に一度だけさやかに「好き」だと伝えていればと思ったことがあったがむしろそれは例外的で、あれ以来そんなことは思いもしなかった。お互いに好きだという思いがあれば、そんなことはどちらかがあえて切り出すまでもなく、分かりあえるものだという思いがあったからだ。はやとはたまにクラスの子が、告白してみたら付き合えたとか、逆に断られて後悔したとかいう話を耳にしたが、やや疎んじた気持にならないではいられなかった。だいたい自分のことを好きかどうかくらいちょっとした言葉とか態度で分かるだろう。告白して断られるまで好かれていないことを気づかないなんて鈍感にしか思えなかった。また、たいして思われていないことを分かった上で「告白することによって」相手の気持を動かそうとするのなら、それは浅はかなことのようにしか思えなかった。それをきっかけで付き合うなんて本当な気がしないし、はやとはそんな軽い関係などちっとも求めなかった。そんな理論をさやかにも適用し、はやとはさやかに明確に好かれているという確信が持てない以上、少しばかり気が沈むこともあったとはいえ大抵は超然とした気持を保ち、告白することはおろか気を引いてみようとすらこれまでしなかった。

しかし最近になってこの気持が変わりつつあった。まず第一に、はやとはさやかが自分のことをどう思っているのか、また自分がどう思っていると思われているのかがそれほど明瞭でない気がした。さやかが自分以外の解放団のメンバーをどう思っているかは手に取るように明らかだったのに肝心の自分自身に対する心はまるで霧に覆われていた。今になってみると、佐々木涼子に水族館で言ったということはなんだか不自然な感じがしたし、あれからさやかにどこか謎のような一点ができたように思った。あれは本当の気持だったのだろうか。それとも何か別の理由があってあのように言ったのだろうか。さやかと涼子の間には何かただならぬものがあるようにも思った。はやとは何とかしてさやかの気持を明らかにしたいと思った。

もう一つ、船戸くんがはやとを散歩に誘い出した(に違いない)出来事もはやとを今までの「なるようになるだけだ」というある意味受動的な気持に変化を起こさせた。船戸くんがあの一歩を踏み出してくれたおかげでとても親しくなれた。これまでも親しかったのだが、遠慮心なのか、驕慢から来る独立心かが邪魔をして最後の壁を作っていたのだ。はやとは少し状況が違えば貴重な友人を指先だけで捕えかけたまま終わってしまったような気がして、ともすればさやかとの関係もそういう風になるのではないかという非常に惜しいような、もどかしいような気持になるのだった。


ある寝苦しい熱帯夜のこと、はやとはひそかにさやかの心の内を探ってみようと決心した。告白したりするのは問題外だ。もし涼子の言ったことが本当だったらそんなそぶりは微塵も見せたくなかった。でもちょっとだけ親密なそぶりを見せて試してみよう。それでさやかの反応をよく観察すればいいんだ。

はやとはそれから数日間どうしようかと考えたが何せ経験がないのと、失敗したらどうしようという不安であまりいい案が思い浮かばなかった。結局、前にさやかの父さんの正体を探りだした時と同様に、とにかく突き進んでみようと思った。綿密な計画を立てたほうが却って不自然で怪しまれるかもしれないし。


「今日暇だったら久しぶりにパリティ・シティを歩いてみない?」はやとは次の日、パリィ博士の見舞いを済ませて病院を出たところで囁いた。

「情報収集なら私に任せて。はやとと船戸くんは姿を見られてるから街に行くのは危険よ」

「五号区をちょっとだけなら平気だよ。久しぶりに街の様子を見たいんだ。大勢だと目立つし二人だけで行ってみようよ」はやとはトミーたちが近くにいないのを確認して小声で言った。

「そうね・・はやとが行きたいなら・・・ちょっとだけ覗いてみる?」さやかが少し考えてからためらいがちに言った。

「じゃあそうしよう。実はトミーに少しお金を交換してもらったんだ。考えてみればまだ一度もパリティ・シティでショッピングしてないし」

「友梨の性格がうつったんじゃないでしょうね」さやかが冗談ぽく、しかし少しとげのある口調で言った。

「まさか」はやとは友梨と聞くたびにつんとするのを可笑しく思いながら言った。


午後三時半、パリティ・シティに入ると蒸し暑さが急に吹き飛んでしまったのに驚いた。年中適温に保たれているのを知っていたが、久しぶりに来ると非常に心地よく感じた。

二人はなるべく人目につかないように五号区の中心まで行き、あまりおしゃべりもせずに公園を一回りし、駅前を通り、いつも人の少ない科学館を少しのぞき、それからデパートに向かった。

「特に混乱している様子もないわね。寿命が知らされても」さやかが言った。

「そうだけど前来た時とは明らかに空気が違うよ。人々の表情に不安が潜んでいる。それに当局が強権化してきたのが感じられる」はやとはすれ違う人々をいちいち観察していたのだ。さやかの表情が曇った。はやとは今日の目的を思い出して言わなきゃよかったかなと思った。

デパートの前の大通りには夜になるとライトアップされる街路樹が並んでいたがはやとは幹に派手なビラが貼られているのに気づいた。Kの写真と共に「街の解放のために今こそ応援しよう」と書かれていたり、クランの写真と共に「指名手配中:有益情報には懸賞金あり」と書かれていたりした。

二人ともその目障りなビラを無視してデパートに入った。

「特に買いたいものもないんだけど・・回ってみようか」はやとはデパートの館内マップを見ながら言った。

「私もお金換えてもらえばよかった」さやかがちょっと残念そうに言った。

「そういえば、前に誕生日パーティーした時、プレゼント忘れてたよね。今更だけど欲しいものあったら買ってあげるよ」はやとはさりげない口調で言った。

「あの時は水族館のチケットをくれたじゃない。ちゃんと覚えているわ」とさやか。はやとはそういえばそうだったなと思いだした。

「まあ、あれはきみに外出させるための戦略だったし・・」はやとは言い淀んだ。あまり幸先が良くない・・・。

「でも気持はうれしいわ。とにかく歩きましょ」さやかはそう言って中途半端に話を終わらせてしまった。はやとの事前の予想ではプレゼントを買ってあげると言った時の反応を見るつもりだったがわずかな隙も与えてくれなかった。今の返答では言葉の裏どころか表面的な意味‐いったいプレゼントは欲しいのか、それともそういうことは御免と思っているのか‐すら分からなかった。どちらかはっきりさせないのを苦々しく思ったが、もしかしてわざとそのような態度に出ているのではないかとも考えた。普段さやかがお茶を濁したような言い方をすることは滅多にないし。いったいさやかの心を探るどころか自分の心が探られているのだろうか。これは駆け引きだ。はやとはそう思った。


それからしばらく当たり障りのない話をしながら売り場を歩いた。パリティ・シティを歩くのはどこであれ楽しかった。そのうちに二人とも普段通りの気持に戻り、品物の品評をしたりあれこれ議論をしたりした。はやとはすっかり今日の目的は頭の隅へ行ってしまい、明らかに買う気のない服を広げてみたり、さやかはかわったアクセサリーを見ては誰がこんなの買うんだろうと言いながらそのくせ一つ一つ眺めたりした。三階の鞄売り場まで来た。さやかはパリティ・シティの地図が細かく刺繍されたリュックをじっくり見ていた。鮮やかなブルーの地に金色の糸で"Map of Parity City"とわざわざ書いてある。さやかが試しに背負ってみるとよく似合った。「じゃ、プレゼントはこれでいいかい?」はやとはこのリュックを手にとった時のさやかの表情が他の品物の時とは違うのを見て取った。さやかは少し気後れしたような様子をした。「でも・・・今度来た時に自分で買うわ」「遠慮しないでいいよ。僕だってしょっちゅうラプラシアンハウスでお昼ご馳走になってるし。それに・・・とってもよく似合ってるよ」はやとはさりげなく最後の言葉を付け足した。「友梨の高級なバッグよりかは可愛いと思うわ」さやかが無邪気な嬉しさを示して言った。デパートを出たところに小さなアイスクリーム屋さんがあって「パリティ・アイスクリーム」なるもの(ごく普通のアイスクリームだったが)を売っていたので二人ともそれを買って喉を潤した。さやかは新しいリュックを手に入れて嬉しそうだった。はやとも素敵な午後を過ごせて軽快な気分だったが結局さやかはいつものさやかであり、何一つ探り出せなかったのが心残りだった。さやかは少しもはやとに関する心の一室を開かなかった。あるいはそんな部屋はそもそもなかったのかもしれない。はやとは帰り道、いつもより一歩さやかに近づいて歩いたがさやかは接近するでも離れるでもなく、表情一つ変えなかった。パリティ・シティの空が天頂から徐々に暗くなってきたころ、二人はお屋敷に着いた。だいぶ歩き疲れ、はやとは加えて気疲れして口数も少なかった。「久しぶりにリラックスしたわ、ありがとう」さやかが言った。そして東屋に入った。今日一日が中途半端に生温く終わるような感じだった。急にこのまま帰ってしまえばもう後がないような気がし、はやとは何かに引っ張られるように東屋のベンチに腰掛けた。さやかは右足だけ月の台に踏み入れた状態で振り返り、停止した。それからためらいがちに再び全身をこっちの世界に現した。数秒間時間が止まった。横向きに差し込んでくる金色の光が芝生にきらきらと反射し、庭の噴水が控えめな音を立てていた。さやかが無言でやって来て隣に座った。はやとはさやかの釈然としなかった心が俄かに明瞭になってきたように思った。そして、さやかが自分と同じ気持を抱いているのを直感した。急に心臓がどきどきし、愛おしさがこみあげてくるのを感じた。何か見えない力に動かされたようにさやかの両手を取って立ちあがらせるとそのまま強く抱きしめた。瞬間的に全身が熱い奔流に飲まれたがさやかがひどくもがいているのに気づいた。「放して、おね、がい」さやかがきれぎれに言った。はやとは少しも力を緩めなかった。「お屋敷から見えるわよ、どうして、こんなこと・・」「さやかちゃん、きみが好きだから」意外にもごく自然に言葉が浮かんだ。さやかは不意にもがくのをやめた。二人は片手だけつなぎあったままベンチに座った。「さっきのこと本当?」さやかが少しどぎまぎした声で囁いた。「冗談だったらどうする?」はやとはすっかり落ち着いていた。さやかはくすくす笑った。「こんな時が来るのを夢見てたわ。私も、ずっと好きだったの。でもはやとが全然そんな様子を見せないから・・・」「むしろ自分でも知らないうちにそんな様子を見せていたと思うけどな。会ってわりとすぐからね。ただきみは船戸くんを彷徨ったりで気付かなかったかもしれないけど」さやかは船戸くんと聞いて困ったような顔をした。「あの時は自分の本当の気持に気づかなかったのよ。それにあなたが友梨のことを好きなんじゃないかと思って・・・」「僕が友梨を好きだって?船戸くんが言ってたけどきみはやっぱり思い込みが激しいね」「そうかもしれないわ。でも、ほら、お茶会とかあったし、友梨を解放団に入れるし、それに友梨の方が繊細だしかわいいし・・」さやかは珍しく頼りなさそうに言った。そうか、さやかは意外とこの方面に関してずっと自信がなかったんだ。それで今日も一日気持を隠していたんだ。「ねえ、あのお茶会の時何にもなかったんでしょうね」さやかがなお突っ込んできたのではやとは笑ってしまった。「なんか抱きつかれたけど断固お断りしたよ。それに僕は友梨が可愛いとはあんまり思わなかったけどな」はやとはさりげない調子で言った。さやかは恥ずかしそうにうつむいた。「そういえば佐々木涼子から聞いたんだけど水族館に行った時、『僕のことなんか気にもしてないとか』なんとかって」はやとは気になっていたことを思い出した。「私、ずっと謝ろうと思ってたことなんだけど、前に涼子なんかと付き合うなと言ってくれたのは正しかったわ。私が迂闊にもパリティ・シティのことを話してしまった後、涼子はどうしてもそこへ行かせろと言って聞かないのよ。でも私は街の謎ははやととだけ解きたかったから断ったの。そしたらついにあの日水族館でどうしても行かせてくれないなら私がはやとのことを好きってことをばらしちゃうって言うから・・。それであんなふうに言ったのよ。あの時以来涼子とはお別れしたんだけどきっと恨まれたのね。わざわざはやとに言いに行くなんて」「なんだい、それなら正直に『好きですが何か?』くらいに言えばよかったのに。涼子がそれを僕に伝えてくれたらむしろ好都合だったんじゃないか。彼女をキューピッドにさせられて」「でもあの時は片思いだと思ってたんだもの。そんなこと出来るわけないわ。とにかくあれ以来、私は涼子と付き合うんじゃなかったって思って落ち込んだわ。もし涼子が私の言ったことを伝えたらとか考えると・・まあその通りになっちゃったけど。涼子なんかとは別れたほうがいいってはやとに指摘された時には噛み付いちゃったわね。嫌という程分かってるところに突っ込まれたからつい・・・」「いろいろと難しく考えてたんだな。さやかちゃんの心をだいたい分かってると思ってたけど・・半分くらいだったかな」はやとはやっぱり言わないと伝わらないこともあるんだと身に染みて感じた。あたりはすっかり暗くなっていた。お屋敷からもれてくる光だけが二人を照らし出していた。トミーたちは今頃夕食だろう。はやとは心にどっと幸せが押し寄せてきて苦しいくらいだった。さやかと繋いでいる左手が不思議な心地だった。「そろそろ帰ろうか」はやとが立ち上がって声をかけた。「もうちょっとだけいましょうよ」さやかがひっぱられて立ち上がりながら言った。「さっきはいきなりでびっくりしたわ。はやとくんもあんなふうに爆発することあるんだ」可笑しそうに言う。「そんなことないよ。ちゃんと計算づくの上、理性というフラスコの中で燃焼させただけだ」はやとは顔が火照ってくるのを感じた。「なんだか船戸くんの言いそうなことね。最近親しくしてるからかしら。でも私はそんな器用なことできないわ。燃える時はフラスコまで溶かしちゃう」さやかの声が上気してきた。返そうとした言葉が見つからないうちにさやかが接近してきた。目の奥まで覗き込めるほど近づいた。そして、信じられないことに、さやかの口がはやとのにしっかり合わさった。ファーストキス。さやかの熱は自分のフラスコどころかはやとのフラスコまでも溶かしにかかった。はやとは生まれて初めて、理性をも軽々と放り投げてしまうほどの情熱を知らされたのだった。そして知らないうちに同じものをさやかにも与えていた。


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