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Chapter1

第一章


早朝まで降り続いていた雨がやみ、まぶしい朝の光がここ「ニュータウン月の台」に降り注いでいた。今日は五月の七日。真新しい家々が立ち並び、整備されたアスファルトの歩道にはひびひとつなく、広々とした公園はきちんと手入れされたまだ若いカエデの木々が新しい葉をつけていた。五月は月の台が最も美しい時期だ。一〇年前に開発されたこのニュータウンは近郊の町よりいくらか標高の高いところにあった。ぐるりと曲がった坂道を登って月の台に入れば誰しもが均整のとれた街とはこのようなものかと驚くのだ。格別高級な邸宅が並ぶわけでもなかったが、どの往来も台地特有の清明な空気とやわらかな光に満ちていた。特に今日のような雨上がりの午前には、吸い込んだ空気はいつまでも胸の中に留まり、降り注いだ光はいつまでも肌から消えないような感覚にさえなるのだった。


七時半になると閑静な通りに小学校へ行く子供たちの声で溢れたがまたしずまった。少しずつ強まってきた日光がアスファルトに残った雨の跡を一つ一つ消していった。


月の台の東町のある通りに常盤はやとの家はあった。一五歳で先月、月の台中学校の三年生になった。いつもながら少し寝坊をしたため、八時を過ぎて髪を撫でつけながら漸くテキストの詰まった鞄を持ち上げ、自転車に飛び乗った。

「行ってきます」眠かったので少しぼんやりとした声になる。

「いってらっしゃい」台所で声をかける母は相変わらずの忙しそうだ。

月の台中学校は西町の端っこ、隣町へ続く地下鉄の駅の近くにあった。自転車で一五分ほどの距離なので遠くはないが油断すると遅刻してしまう。月の台と同じ年齢の新しい学校で、のどかな雰囲気だったが厳しい先生が多いという評判だった。


学校に着くともう始業ベルのなる一分前だった。クラスの大半はとっくに到着して雑談にふけっていたり、その日の宿題をいそいそとしているものもいた。はやとが知り合いに挨拶をして席に着いたとたんベルが鳴った。また同じような一日が始まると思うとあまり気分が乗らなかった。新しいクラスの新鮮さもだいぶ薄れていたし、学校というコミュニティの中で五月ははやとの嫌いな月だった。というのもだんだんクラス内のグループが固まりだす時期だからだ。クラスの誰とでも同じ初対面の親しさをもって話せる時期は終わり、誰もが「気の合う」友達同士の集団に入りたがる。ある種の排他性を備え、帰属するメンバーの言動ですら束縛してしまう力を持つそのようなグループをはやとはあまり好まなかった。とはいえそういった集団を完全に自分から排除してやって行くには謙虚過ぎたのでどうしても自分を押し殺して混じることになるのだ。

こんなことをぼんやりと考えているうちに黒板がだいぶ進んでいたので急いでペンを取った。

一時間目は物理の授業で、はやとの好きな科目の一つである。教科書は先に予習していたし、先生も親しみやすかった。ふと二つ前の席を見ると例によってそこに座っているクラスメートの夏芽さやかは腕枕をしてぐっすり眠っている。腕の端から白いノートの端っこがのぞいていた。夏芽さやかが活動を始めるのはだいたい二時間目からなのだ。それなのにどういうわけかクラスでも優等生の内に入る方だった。特に物理と数学に関してはだれもかなうものがいないという評判だった。そんなわけだから最初の方こそ先生も注意していたがだんだん気にされなくなった。実際のところ得意なのは物理と数学だけで英語など大の苦手らしいのだがその二つがあまりにもできるのでオールマイティーなイメージができてしまい、寝ていようがよそ見していようが注意する先生は滅多にいなくなっていた。


二時間目は英語だった。休み時間に隣のクラスから中間テストが帰ってくるという情報が来ていたのでみんなそわそわしていた。さやかの方を見ると既に目が覚めたようで友達と試験についてあれこれ話していた。

英語の先生はもう定年間際の小男でいつもよれっとした茶色のスーツを着ていた。一風変わった身なりのためか以前は芸術家だったという噂もあった。そして授業もテストも厳しくてしかも意地の悪いことで有名だった。噂では教師に転じたのは芸術では食べていけなかったからで、それで生徒に意地悪く当たるのだと言われていた。生徒間ではじいさんというあまり気が利かないあだ名で呼ばれていた。

その日もわざわざテストを返すのを授業終了間際までとっておき、生徒がそわそわしたり隣と話していたりすると待ってましたとばかりに罰則を「ほのめかしたり」した。

ベルのなる五分前になって漸くテストを返し始めた。名前が呼ばれていくにしたがってクラスの雰囲気が重々しくなってきた。今回もいつもながら厳しい採点なんだろう、はやとは思った。

「三五点だ。やられた」知り合いの中本くんがテスト用紙を見せに来てつぶやいた。サッカー部のキャプテンでサッカー以外の「あらゆる退屈な事」には取り組まないことにしている。

「平均点も低いんじゃないのかな」そうあってほしいと願いつつはやとが答える。

「でも親は素点しか気にしないからな」中本くんが残念そうにつぶやく。

「はやとは何点だった?」続けて聞いてくる。

「七四点だった」とはやと。

「すごいじゃん。そんなにできたのか」と中本くん。

「でも我ながらあきれ返るような書き間違いをしたよ。この問題、smart brainがsmart drainさ」はやとは笑いながら言った。ずっと前にも一度dogをbogと書いてしまったことがあったのだがまた気付かないうちにbとdを書き違えてしまった。中本くんも「それはさすがに俺でも間違えないぞ」などと言いながら笑っていた。

「それにしてもわざわざdの下に三本も赤線を引かなくてもよさそうなものに」はやとは言った。そのとき先生の澄ましたような声が響いてきた。

「平均点は四八点です」クラスがシーンとなった。

「諸君、私は中学校三年生の最初の中間テストでこの平均点にはいささか驚いた。ことにひどい間違いをおかす人がいる」先生はそこで言葉を切って生徒たちをゆっくりと舐めるように眺めまわした。

「He is a student with a smart drain.と訳したものがいる。文法以前の問題だ。私なら人を排水溝呼ばわりしたりはしないがこういう生徒がいると考えを改めなくてはならんかもしれぬ」わざわざ大きく黒板にdrainと書かれてしまった。誰も笑わなかった。はやとは赤くなってうつむいたが中本くんにつっつかれて顔を挙げた。

「常盤、やられたな。ひどいじいさんだ」にやにや笑っている。ベルはとっくになっていたが漸く先生が帰ったので解放された教室は途端に騒然となった。中本くんが不要な「宣伝」をしてしまったのでそれを聞いていた近くにいる人が「珍解答」を見ようとこぞってやってきた。はやとはお茶を濁したように笑っていたがふと見ると、夏芽さやかが興味津々にあちこち手渡された解答を覗き込んでいるのを見て驚き、次に恥ずかしさに真っ赤になった。いそいで取り返しに行く。

「あの先生こんなに間違いを強調することもないのにね」さやかが笑って言う。

「まあ・・・ふつうはこんなミスしないんだけどね。左右くらいわかるよ」答案用紙を受け取りながら開き直ったように言う。すると急にさやかは真面目な顔になって驚くようなことを言った。

「あなたはちゃんとbと書いていたのかもよ。知らないうちに四次元軸にそって反転しただけかも」

ちょっとした沈黙が訪れた。もうみんな珍解答を見てしまったので既にほかの話題に移っていて誰も二人を気にしているものはいなかった。はやとはこれまであいさつ程度しか話したことのないさやかから急にびっくりするようなことを言われて戸惑った。

「それ、どういうこと?反転って」

「つまりこうよ。bという字は紙の上ではどう回転させてもbのまま。でももし紙と垂直な方向に文字だけ持ち上げることができたとしてそれをひっくり返せばdになるよね。それと同じようにbと書かれた紙は空間上でどう動かしてもbのままだけど四次元軸上で反転させればdになりうるわけ」ここまで一気に話されたのだがだいたいの意味はつかむことができた。もっともどうしてそんなことを言いだしたのかは皆目見当がつかなかった。

「なるほど・・。すごい考え方があるんだね。まあ九九%自分が間違って書いたんだけど」別にお世辞を言ったわけではない。はやとはさっきの奇抜な一言だけでも普段一日の雑談全部合わせたくらい面白いと思った。するとさやかがさらに続けて言った。

「もちろんそういったことが実際あるとは考えにくいわ。でも可能性がゼロではないなら少なくとも仮定してみるの。それにね、実際最先端の理論では世界は一一次元だと考えられているのよ」

「そうなんだ、いつもそういう勉強してるの?」立ち話程度だったのにいつの間にか隣の椅子に腰かけている自分に気付いた。

「まだそんな難しいところまでは行ってないけどそのうち行くわ」至極当たり前のように言う。なんだか既に相当なところまで行ってるようだ。

休み時間は一〇分しかない。次の時間は体育のようでクラスの大半はもう校庭に向かっていた。

「そろそろ行かないと」さやかが体操服を取り出して言った。はやとも思い出したように席に戻り、準備をして校庭に向かった。


その日の体育はサッカーだった。はやとはスポーツが得意だった。特に小学校からやっているサッカーではひときわ目立っていた。おかげでこれまでいろいろと救われたと思う。グループに馴れ合わないことによって皆から少々疎まれてもスポーツができることでまた引き入れられるということがこれまで何度もあった。

部活の時とは違い、体育でのサッカーは男女混成チームだった。スポーツに関して真剣に全力を出して戦いたいはやとにとってこれはうんざりすることだった。その日も力を調整したり、うまくない人にも平等にボールを回したりすることを思うと気が進まなかった。

「常盤、今日もキャプテンを頼む」同じチームになった友達が声をかけてくる。

「キーパーじゃだめかな」ちょっと言ってみたがもちろん聞き入れられなかった。チームメイトははやとが入ったことで嬉々としている。一方相手チームのエースになった中本くんは絶対負けるなと他の人たちを鼓舞していた。夏芽さやかは相手チームだったが勝ち負けには全くこだわらない様子で友達と雑談していた。

ゲームが始まり、はやとはすぐにドリブルで先制点を奪い、あとは追い付かれるまでゆっくり味方にパスを回していた。中本くんを除けば強い人は誰もいなかった。ことにさやかは全くやる気がないようでボールが当たりそうになるとわざわざよけたりしていた。パスを回されてもすぐ別の人にパスしてしまうだけで、それもともすれば敵に渡してしまうのでだんだんボールが回されなくなった。しばらくするとさやかはちょっと休憩と言ってゴール横に控えてしまった。

そのうち中本くんが二点入れ、チームメイトの無言の圧力を感じたのでちょっと力を入れ、瞬く間に同じだけ取り返した。もう一点入れておこうという気になってコーナーキックから強烈なシュートを放ったその時、ちょっと気が入りすぎたせいか、それともゴールが部活の時より小さいせいかうまく枠をとらえきれず、ボールはゴールポストに激突した。

と思ったのだが見学していたさやかが顔を覆っているのを見てポストにもたれていた彼女に直撃したことが分かった。ほかの生徒がやってしまったなという目くばせをしてくる。

「ごめんね。大丈夫?」周りの視線を感じながら走っていって声をかける。目のあたりが腫れていた。さやかはそんなにひどくないわとかなんとかつぶやいていた。

「とりあえず氷を貰いに行こう」保健室の方向に向かう。さやかは何も言わずについてきた。中本くんはこれぞチャンスとばかりに試合再開の号令を出した。

「サッカーは好きではないわ」さやかが歩きながら言う。

「バドミントンとかもうちょっと優雅なスポーツはできないものかしら」

「サッカーは面白いよ」はやとは平気で言い返す。

「見てるにはね。やるのはごめんだわ」

「見てるだけでもボールに当たったじゃないか」知り合ったばかりにしてはちょっと言い過ぎたかなと思ったけどさやかは笑っていた。

「意外に核心を突くのね」

保健室についてさやかはじゃあねと言って一人で入って行った。はやとは不完全燃焼のゲームにさっさと戻りたいとは思わなかったのでじっと待っていた。五分ほどして扉が開くと氷水の入った袋を顔に当てがってさやかが出てきた。

「あら、待ってたの?キャプテンがいない間に負けちゃうんじゃない?」

「まあそれもいいさ」二人はまた並んで廊下を歩きだし、校庭に向かった。校舎を出た所の階段でさやかは足を止めた。

「今日はだいぶ暑いわね。もう後一五分ほどで授業も終わりだしここで待ってない?」

「でも・・試合が・・」はやとはいささか驚いた。

「さっきはどうでもいいという口ぶりだったわ」じっと真顔で見つめてユーモラスな響きで言った。そしてさっさと階段に腰かけてしまった。怪我させておきながら一人置いておくのもなんだか気が引けたしはやとも横に座った。階段に沿った植え込みに植えられた楠がちょうどいい木陰をつくっている。涼しい風がどっと吹いてきた。確かにこの暑さの中で面白くない試合をしなくていいかもしれない。しかしすぐに後悔に変わった。二人きりでいったい何を話せばいいんだ。話題を探ろうと必死に頭を回転させる。さやかは特に自分から話し始める気はないようでじっと校庭の方を見ていた。学校は斜面にあるため、校庭は階段をいくつか降りたところにあり、その端っこで行われているサッカーは視界が悪くてあまりよく見えなかった。

沈黙を破るためにとりあえず最初に思い付いたことを言ってみる。

「さっき英語の時に言ってた四次元の解釈面白いね。なるほどと思った」なんだか自分の声がいつもと違う気がした。沈黙を守っていた方がよっぽど自然だったかもと思えてきた。

「そう?私はよく何かあれっと思うことがあったらいろいろな理由を仮定してみるの。たとえそれがありそうになくてもね。父さんがよく、『謙虚にあらゆる可能性を追求すればその中に真実があるかもしれない』って言ってるわ。最初からありえないと決めつけるのは驕った考えだし何より面白くないわね」さやかがこっちの数倍しゃべってくれたのでほっとした。

「そうなんだ。えっと、夏芽さんのお父さんは何の仕事をしてるの?」

「なんだと思う?」逆に聞いてくる。

「えっと・・・学者とかじゃないのかな」これまでの印象からなんとなくそうだろうという気があった。

「だいたい近いわ。どうして分かったの?」ちょっと驚いたように言う。

「なんとなくそんな気がしただけ・・。でもだいたいっていうのは厳密にはどうなの?」

「そうね・・普通の大学教授とか研究者とかいうわけではないのよ」ちょっと言葉を切る。

「分かった。学者に似てるけど普通の研究者じゃないってことはきみのお父さんは発明家じゃないのかい?」確信があって言ったわけではなかったがどうも的中したようだった。さやかは今度こそ本当に驚いたようでよくすぐに分かったわねと言った。

「それで、どんなものを発明しているの?」

「いろんなものを作っているわ。例えば最新の充電式電池ね。電気自動車とか人工衛星とかに搭載するやつ。小さな研究所に数人の助手を雇ってやっているわ」

「なるほど、発明家らしいな。それで、いろんなことを教えてくれるの?。四次元とかいろいろ」

「うん、いろんなことを教えてくれたわ。簡単な微積分とかも教えてくれるし、最近は簡単な電磁気学を始めたの。ローレンツ力とか電磁誘導とか言ったあたりね。もちろん本格的に微積分を使ってやるのはまだだっていうけど暇さえあれば高校のテキストで教えてくれているわ」

「いいなあ、うちはただの会社員だし。勉強なんか教えてくれたことないよ。物理は好きで教科書とか先に読んだりはするけど誰かに教えてもらえたら効率がいいのにってよく思う」

「じゃあ私はとてもラッキーなんだね」幸せそうに言う。また沈黙になったが今度はもう気まずい感じは全然しなかった。

こもったような笛の音が聞こえてきて下で試合が終わったのが分かった。かすかに歓声も聞こえて来たがすぐそばの木で鳴いている鳥の声に簡単にかき消された。

「私たちが帰ってこないんで心配してるかな?」

「さあね・・少なくとも中本くんは何得点かして喜んでいるだろう」ちょっと言葉を切る。その後ちょっと迷ったが口が先に動いた。

「ところで、あの・・夏芽さん」

「さやかでいいわ、私の父が発明家なことを知らない人まで名前で呼んでるのに知ってる人がそうしないのは逆だと思うわ」さりげない会話がやけに論理的だ。少し気持を落ち着けることができた。

「じゃあ・・・さやかちゃん?」

「何?」

「もしよかったら、今度物理か数学教えてくれないかな?四次元とか一一次元とか知りたいし。それに、まあ、期末テストの勉強にもなるし」

「いいわよ」あっさりと即答された。

「自分で言うのもなんだけど私、物理を教えるのが上手いのよ。その代わり七四点で排水溝のはやとくんは私の英語をどうにかしてくれないといけないわ」冗談めかして言う。

「きみの英語がどうかしたの?」

「試験勉強を一秒もしなかったの。二〇点だったわ」別に微塵も後悔してないけどというかのように朗らかに言う。

「いいよ。それにしてもあのじいさん人を排水溝呼ばわりする代わりにきみの点数を指摘するべきだったのじゃないか。まったくいつも女の子にひいきするんだから」思いがけないほど会話がうまく進んだのではやとも冗談を言うほどの余裕ができた。さやかがくすくす笑いながら立ち上がったのではやとも腰を上げた。さやかはもう大丈夫かなと言って当てがっていた氷を下して尋ねた。

「もう腫れてない?」ちょっと目をやると氷で冷やされていつも通りになっていた。目元から頬にかけて汗と結露した水滴に光が反射してきらきらとしていた。しずくが一粒落ちてはやとの手の甲に着地し、ひんやりした感覚がすっとつたった。

「うん、治ってるよ」

さやかは微笑んでちょっと首を振って水滴を落とした。また水滴が何滴か日にさらされた腕に降り注ぐのを感じた。さやかがふと目を挙げ、その拍子に視線がつながった。落ち切らなかった小さな水滴で目元がまだ濡れている。

なぜか急に心臓がどきどきし、顔のあたりが熱くなった。先程から心にできていた余裕は同時に隙にもなっていた。悟られないように急いで前へ踏み出そうとしたが突如氷水の袋が頬に押し当てられるのを感じた。

近くでベルが鳴り響き、授業の終わりを告げた。

「ほら、私はもういらないからあげるわ」はやとは知らない間に氷を受け取っていた。

がやがやとクラスメートたちが登ってくる音がし、さやかははやとを残して一人校舎の中に消えて行った。

中本くんが先頭に立ってやってきた。

「圧勝だ。一〇対四。君のチームの人たち、なんでキャプテンが帰ってこないのかって怒ってたぞ」

「あ、そうなんだ・・」

「ん、常盤、なんで氷なんか持ってるのか?」

「夏芽さんが持ってたんだけどもういらないからって渡されたんだ」

「そっか。とにかく今日の部活のいい練習試合になったぞ。さっさと今日の授業終わらないかな。またテストが帰ってこなければいいんだけどな」先程の英語のテストの点はすっかり忘れたのか機嫌がいい。いろいろ問い詰められなかったのでほっとした。

「そうだな。また隣のクラスから情報が来るだろう」二人は更衣室に向かった。途中廊下のごみ箱で中本くんに気付かれないように素早く氷を捨てた。


始業ベルが鳴り、数学の時間が始まって漸く冷静にゆっくり考える時間が手に入った。さっきの出来事を思い返してみる。一番気がかりなのはさっき氷を押し当てられたのがいつも通りのきまぐれからなのかそれともさやかが見つめられていたのに気づいて、気まずくならないようにとっさに動いたのか分かりかねることだった。一瞬隙を見せたことにどのくらい気が付くひとなのかは分からなかったがこういうことに関して女の子はカンがいいと聞くし、これまでの会話からしてさやかが物理と数学しか頭にないわけでもないことははっきりしていた。みんなが校庭から帰って来た時さっさと校舎に帰ってしまったのもなんだか気にかかる。はやとはどうか何も気づいていませんようにと心から願った。


さやかの方を見てみると今度は机の下でこっそりと何か分厚い本を読んでいた。きっと数学の授業が簡単すぎて何か別の勉強をしているに違いない。

先生がプリントを配り始めた。ホッチキス止めで五枚もある追加の宿題だ。あちこちでため息が漏れるのが聞こえた。はやとの席にも回ってきたので一枚とって後ろに回そうとした。すると取ったプリントの下にルーズリーフが挟まっていた。真ん中あたりに繊細な文字で何か書いてある。「四次元方向があればどういう現象が起こりうるか」さやかが回す時に二枚下にすべり込ませておいたに違いない。プリントを後ろに回してから改めて問いを見て、それからさやかの席を見た。振り返って目くばせしている。はやとは受け取ったよという印にちょっと頷いて見せた。

さやかは暇つぶしにはやとを試しているに違いない。さっき物理を教えてくれと言った以上負けるわけにはいかないという気持で問いを考えた。数学の授業はどこかに飛んで行ってしまった。

最初に次元について考えてみた。この世界は三つの方向がある、三次元だ。紙の上は二つしか方向がないから二次元、線だと一次元。じゃあ四次元はもう一つ直交する軸があればいいわけだ。しかしそれがあったらどんなことが起こるのだろうか。ふとさやかが英語の時間に言っていた「反転」を考えてみた。二次元では起こりえないbとdの反転でも三次元空間で文字を持ち上げれば反転させられる。二次元に住んでいる人を仮定するとその人は急にbがdに変わったのを知るだろう。はやとは一つ次元を落として考えてみることにした。ほかにも二次元世界から三次元を察知する現象はないだろうか。ルーズリーフに棒人間を何人か書いてみた。自分も紙に貼りついていると考えてみた。待てよ、自分も張り付いていたら他の人はみな線に見えるぞ。おかしなことだ。いろいろ考えたり落書きしたりしているうちにいいことを思いついた。一人の人間の周りを線でぐるっと取り囲み、そこから逃げられないようにした。二次元から見ると他の人には線になった檻しか見えない。でも中に人がいることは声で分かるのではないか。声は三次元を伝わるとすると。さらにもし檻の中の人間も三次元にちょっと踏み込むことができたとしたら難なく檻の外に出られるだろう。新鮮な発見だった。ではこれを三次元の世界に適用すると・・。完全に遮断された檻の中にいる人が壁を壊さずに出てこれたり、完全に防音なのに声が届いたりする現象が起こりうるのだろう。

はやとは立方体とその中の棒人間を絵にかき矢印を引いて「脱出」「声」と書いた。

授業は済んでしまった。黒板が消されてしまわないうちに遅れていたノートを取ろうと頑張ったが半分も行かないうちに消されてしまった。友達に見せてもらうしかなさそうだ。さやかがやって来て机の端に置かれたルーズリーフを見ると「私の知り合いの誰よりも早くできたわ」と言った。

「でもおかげでノートを書ききれなかった」するとさやかはノートなんてと言うかのようにちょっと肩をすぼめて立ち去った。


午後のけだるい授業も終わり、部活の時間が来た。月の台中学校のサッカー部はまだ新しくてそれほど強くはなかったが練習は真面目にやっていた。その日も監督の先生やキャプテンの中本くんにみっちりしごかれ、走り込みをした後パス回しを練習し、ドリブルをし、シュート練習をし、三〇分の練習試合の後、反省会まであってやっと解散になった。すでの一八時近かった。

まっすぐ帰るつもりだったが月の台の中心にあり、四つの街に接している月の台公園に差し掛かると少しだけ遠回りになるが中を突き抜けていこうという気になった。はやとは昔からこの公園が好きだった。広々としたこの公園で小学校の頃はよく遊んだものだった。中央に芝生の生えた丘があり、その周りには土のグラウンド、遊歩道、鯉のいる池があった。周りは葉っぱの小さな木々が適度な間隔を空けて立ち並び、木漏れ日のある木陰を作っていた。公園への入り口は四つあってそれぞれ北町、東町、南町、西町に続いていた。

はやとは西町の門から入るとぐるっと遊歩道を自転車で回って東町の門に向かった。西の空が夕焼けに赤く染まっている。なんだかさっさと帰る気にもなれず、自転車を降りて芝生を踏みしめながら丘の方に向かった。丘の真ん中にブロンズでできた高さ三メートルほどの像があり、空に向かって差し出された両手には右手に閉じた本を、左手には砂時計を水平にして持っている。大理石でできた台座はそれほど高くはなく、よく見かけるような像に関する説明を書いたプレートはなかった。

月の台に住む子供たちにとってこの像はなじみの深いものであった。遊び友達との待ち合わせ場所としてふさわしいところだったし、頑張ればてっぺんまでよじ登ることもできた。はやとも中学に入るついまではよく登っていたものだ。まず台座によじ登る。それから少し平らになったマントの裾に足を掛けて腕の付け根のあたりを両手でつかみ腕だけで体を持ち上げる。最後にがむしゃらに頭をつかんで体を引っ張り上げるとうまく肩のあたりに腰かけることができるのだ。よく何秒で上まで行けるか競ったりもした。

その像はいろいろな名前で呼ばれていた。はやとが小学校の低学年だったころは単に「砂時計の像」と呼ばれていた。そのうちにはやりのカードゲームに出てくる騎士に似ているという評判になり「ライトロード」と呼ばれるようになった。中学に入ってからも男の子たちはそのように呼んでいたが女の子たちは子供っぽいと思ったのか「光の騎士」と呼んでいた。大人たちにとっては特に意味のあるものでもないただのオブジェにすぎなかったので何の名前も付けなかった。

最近までみんなこれに上っていたのに中学生になってから誰も登ろうとしなくなった。はやとは像を眺めながら少しさみしい気持になって考えた。小学校の頃よく遊んだ友達が中学に入って急に遊び心を失ってしまい、公園を駆け回ったり像に登ったりする代わりにとりとめのない世間話に時間を費やすのを残念に思うことがよくあった。無邪気に遊ぶ代わりに同じような雑談をすればするほど友達との距離が広がっていくこともよくあった。はやとは子供のみんなが持っているのにほとんどの人はどこかで失ってしまうまっすぐな好奇心や純直さを心のどこかで大切にしたがったのでいくら新しいことを経験したり学んだりしてもそれらをいつも心の隅に保っていた。

そろそろ帰ろうかと思った時、少し横に中年の紳士が立っていて像を見上げているのに気が付いた。恰幅のある体格で薄い茶色の上着を優雅に着こなして、手には大きめのブリーフケースを持っていた。仕事帰りの人だろう。あまり気にとまる要素はなかったが像を見上げている大人はめったにいないこと、その表情がちょっと悲しそうな、それでいて何かを期待しているようなものだったので思わず足を止めてしげしげと眺めてしまった。相手の男の人も気が付いて振り返ったので、はやとは軽く会釈した。

「こんばんは」その人は良く通る声で言った。

「こんばんは」はやとも答えた。

「部活帰りかい?」愛想のよい人のようだ。

「はい、家に帰る途中です」男の人はうなずいたがそのまま像を見上げていた。

「きれいな像ですね」はやとは実際のところ観光地にあるような有名な像でもないのにそんなに眺めているのに合点がいかずに聞いてみた。

「ありがとう、この像は私が設計したんですよ」男の人はすこし誇らしさがこもった声で言った。

「そうなんですか」はやとは驚いて言う。

「ええ、といっても実際に彫刻したのは別の人なんですがね。私のごく親しい友人をモデルにある彫刻家に依頼したんです。事情があってその友人に会えなくなってしまったのですが写真をもとに彫ってもらったんですよ」

「そうなんですか・・」はやとは不思議な話だなと思ったがふときいてみたいことを思いついた。

「この彫像に名前はあるんですか?その、僕たちはいろいろな名前でこれまで呼んできたもので」

「私はクロノスの像と名付けました。ほら、ギリシャ神話の時間の神ですよ。私の知り合いをモデルにしたところで他の人には関係ないわけだし、公共の場所に置く以上何か他の人にもわかるテーマにしようと思って本と砂時計を持たせ、時間の神にしたわけですよ」はやとは納得いったようにうなずいた。男の人は少し話し過ぎたと思ったのか突然「じゃあ気を付けてお帰り」と言って公園の南門へと立ち去った。


はやとは自転車で家に向かいながら見慣れた像にそんな裏話があったのかと驚いた。よりによって設計者に出会うなんて。

子供の間ではよくあるとおり、この像にも実はある都市伝説があって、折に触れて話の種になっていた。それは誰が言い始めたのか「本と砂時計の位置が入れ替わる」というものだった。それを見たものは「勉強ができてスポーツのできない者は勉強ができなくなり、スポーツができるようになる。逆もまた然り。両方できないものは両方できるようになり、両方できるものはどちらもできなくなる」というはなはだややこしいものだった。半ば冗談として語られ、小学校低学年のころは半分信じていたり、逆になっているのを見たという人騒がせなものも現れたりしたがそんな話もじきに流行らなくなった。

はやとはもしさっきの人に会ったのが小学生のころなら新しい情報をみんなに提供して楽しかっただろうなと思ったりした。


帰宅すると夕食の用意が整っており、家族は既に食べ始めていた。

「遅かったじゃないの」母が文句を言うかのように言う。

「うん、ちょっと部活が伸びちゃって」

「早く手を洗いなさい。夕食の後は宏美の算数を見てやってね」はやとはうんと気乗りのしない返事をつぶやいた。三つ年下の妹は最近父が昇進して懐に余裕ができたとかで月謝の高い塾に放り込まれているのだが、あまりできず、たびたび教えさせられるのだ。そのくせ妹は口だけはませていて「教え方が下手だからできない」だとか「それくらいちゃんとわかっていた」などといちいち腹立たしいことを言ってのけるのだ。

八時になって漸く自由な時間ができたので今度さやかに物理を教えてもらうに当たってなにか本を読んでおこうと思って二階の両親の本棚を覗き込んだ。だいたいの棚は父の好きなバイクの雑誌で埋まっており、他の戸棚には現代小説の文庫本や新書、ハウツーものなどが並んでいた。母がやってきたので

「数学か物理の参考書とかはないの?」と聞いてみた。

「数学?あら、珍しいものに目覚めたわね。そうねえ、二人とも文系だからないと思うわ。必要なら自分で買いに行きなさい」そういうとさっさと本棚のわきに置いてあった家計簿を取って階下に下りて行った。

週末に探しに行くか・・。人が勉強しようというのにもうすこしましな返事はないものかと思いながら宿題をやりに自分の部屋に入った。


宿題を開いてはみたもののあまり身が入らなかった。今日の出来事がいろいろ思い返された。まず、これまで考えたこともなかった四次元空間について議論したこと、それからろくに女の子と話したこともないはやとがさやかと親しくなったことは軽い驚きだった。

机の上に置いた麦茶の入ったコップの周りに水滴がきらめいているのを見て体育の時間の出来事が鮮明によみがえってきた。

最後に、公園のなじみ深い像にクロノスという正しい名前があったこと、そしてその設計をしたという男の人のことを思い出してなんだか不思議な気持になった。好奇心をくすぐるクロノス像の由来をもうちょっと聞いておけばよかったなと思った。


日付が変わるころ、はやとの家の上にまばゆい星が輝き、細い三日月の光がクロノス像を照らし出した。

二週間もたたないうちに驚くようなきっかけでこの像の秘密にもっと深くかかわるようになるとは今は思いもよらないことだった。


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