いつの間にか結婚していたらしい【全年齢版】
少女は気づくと、暗い部屋にぽつんと立っていた。足元には少女を中心として大きな魔法陣が描かれており、それは部屋を埋め尽くしそうなほどに広がっている。
「……えっ、なに?」
一体なにが起ったのか理解できないまま、少女は暗い部屋の中を見回した。するといつからそこにいたのか、魔法陣の外側に立っていたフ―ドを目深にかぶった男が少女に近づく。その姿に少女は怯えて一歩後ろに下がろうとしたが、体は思う通りに動かなかった。
「―――、―――――?」
「……えっ?」
男は少女の目の前に立つと、口を開いてゆっくりと言葉を紡ぐ。しかし、男が発した言葉は少女には理解できなかった。それは少女がなじみのある母国語ではなく、多少なりとも聞いたことのある言語でもないようだ。
「な……なんなの、もう……わけわかんない……!」
少女は不安で涙目になり、肩を震わせる。そんな少女の様子に慌てた男はなだめるようにやさしい声を出したが、その言葉の意味を理解できなかった。はじめこそやさしく声をかけていた男だが、次第にその声に苛立ちが含まれ、少女は萎縮し身を縮こまらせる。
「わ、わかんないよっ」
わからないと繰り返しながら少女が首を横に振ると、男は深いため息をついて口を閉ざす。どうやら、意思の疎通を諦めたようだ。
「え? なんなのよ……」
男は懐からあるものを取り出す。それはつるんとした表面で、握りこぶし大ほどの大きさの丸くて黒い球体だ。それを反対の手で指さした男は、少女が聞き取れるようにゆっくりと言葉を続ける。
「レガ―レ」
「え?」
意味はわからずともそれを聞き取った少女は、驚きに声を上げた。少女のその様子に男は再び球体を指さしながら、さきほどの言葉を繰り返す。何度か繰り返されてようやく、少女は男が球体の名を呼んだのだと理解した。
「……それ、レガ―レ?」
少女がその名を反唱すると、男は口元に笑みを浮かべながらうなずく。男は催促するように掌を返し、少女はそれが名を催促されたのだと理解して素直に答えた。
「私は……」
少女が自分の名を口にするとすぐに、男は手に持った球体を少女の唇に押し当てる。驚いた少女は咄嗟に身を引こうとしたが、体が動くより先に触れた唇から熱いなにかが流れ込み、なにが起こったのか理解できないまま少女は人形のようにその場に崩れ落ちる。
「あ……れ……?」
薄れゆく意識の中で、男が倒れた少女を見下ろしながら静かに笑っているのが見えた。男の手のうちにある黒い球体はただ無機質であったが、どこか禍々しいなにかを感じさせる漆黒であった。
少女が気づいたとき、少女はまた別の場所に立っていた。薄暗い部屋の中、目の前には大きなガラス張りの容器があり、それは僅かに色がついた奇妙な液体で満ちていた。そしてその中には――
『きゃあああああ!」
一糸まとわぬ姿で水中に漬かった少女の姿があり、それを見た少女は悲鳴を上げた。
◆
(……な―んてことも、あったなあ)
少女は目の前の容器を眺めながら、のんびりと昔のことを思い出していた。奇妙な容器の中に漬かっているのは、全裸の少女。そしてそれをガラス越しに眺めているのは、意識を失う前に着ていた服を身にまとった少女自身だ。
(相変わらず、十八歳のまま)
少女はそっと手を伸ばす。すると指はガラスに触れ、そのまますり抜けた。容器の中には液体が満ちていたが、少女は指先からなんの感触も覚えなかった。
(せめて、服くらい着せてほしいっての……)
少女は体と精神が分離した状態だった。それがどういった原理なのかはわからなかったが、精神体になったためになににも触れられず、だれからも認識されなくなっていることだけはわかっていた。
(私がこうなったの、絶対あれと、あのフ―ド男のせいだ……)
少女の身体は怪しげな液体で満たされた容器に保存され、容器は狭くない部屋の半分を占める機械とつながっている。そして機械の中央には、少女が以前見た黒い球体が同じように漬けられていた。
少女は怪しげな黒の球体をにらみつけ、辺りを見回す。部屋の中には数名の人間がいるが、あの黒い球体を押しつけたフ―ドの男はいない。
(あれ? あの人……おじさんになってる)
少女は一人の男に目を留め、首をかしげた。その男は少女の世界ではなじみのなかった鮮やかな青色の髪をしており、四十歳半ばといったほどの容貌だ。
(前見たときは、お兄さんだったのに)
部屋に出入りする人間は少なくない。少女は彼らから認知されることはなかったが、ずっとこの部屋に居座っている少女は彼らを認知していた。その中で鮮やかな青い髪をした、まだあどけなさを残した青年のことは少女の記憶に新しい。
(だいぶとんじゃったなあ……)
少女は肉体がないため休息も睡眠も必要なかったが、眠気のような感覚に襲われて意識を失っている時間のほうが長かった。意識を失って目を覚ませば数年、ときには数十年経過していることもある。睡魔に襲われずとも目を閉じれば一日どころか、一週間や一ヶ月経っていたということも多かった。
(今回は、二……いや、三十年かな?)
少女は青年の面影を残して歳をとった男を眺めながらため息をつくと、部屋の壁にかけられているカレンダ―らしきものに目を向ける。これのおかげで、少女は数字らしきものを理解できるようになっていた。
意識がとんで気づいて、その繰り返しでおそらく百年。少女は初めのころは悲しさに叫んだこともあったが、だれにも気づかれず、涙も流れなかった。
少女は部屋を出入りする人々の会話から言語を理解しようとしたこともあった。だが真実を知るのが怖くなって、すぐに止めてしまった。部屋を抜け出して近くの街に出たこともあったが、異国の風情あふれる町並みに心が踊ったのは初めだけ。だれにも気づかれない孤独に寂しさを覚えた少女は、結局、部屋に戻って引きこもった。
(ああ、もう……やだな……)
そうして孤独に過ごしている間に名を呼ばれなくなった少女は、ここにやってくる前のことを、自分の名を忘れててしまった。それは時間の経過のせいか、それともなにかほかの力が作用しているのか。
(あの身体が死ぬまで、ずっとこうなんだろうな……)
容器に保管されている自分の身体を見つめ、少女は深いため息をついた。いっそ目覚めないでほしいと思っていても、少女の精神は目覚めてしまう。憂鬱な気分で少女は自分の身体に背を向けると、うつむいて再び深いため息をついた。
不思議なことに歳をとらない肉体は、一体いつ死を迎えるのか。少女はその終わりのときだけを、ずっと心待ちにしていた。
(早く、終わればいいのに……ん?)
そんな少女の前に、さきほどの青い髪の男が立つ。少女はどうせ気づいていないと高をくくり、身動きもせず立っていたが、男はおもむろに少女に向かって手を伸ばす。
「えっ!?」
少女は驚いた声を上げた。といっても、それは音にはならなかったが。男の手は少女の体を突き抜け、その後ろにある容器に触れる。そこで少女は男が自分に気づいたのではなく、ただ容器の中を観察しているだけだと気づいて唇を尖らせた。
(なによ。ちょっと期待しちゃったでしょうが!)
男は憤慨する少女のことなど男は気づきもしない。彼の細められた目は容器内の少女に向けられており、薄く開かれた唇からは小さな声がもれる。少女はその言葉の意味は理解できなかったが、その言葉を聞いた途端、体がほんのりと熱を帯びるのを感じ取った。
(えっ、なに!?)
実体を持たない精神体のはずなのに、体が熱く感じる。少女は驚いて自分の両手に目を向けたが、変わったことはなかった。
(まさか……身体のほう、とか?)
少女は容器の中へと入り、自分の身体そばまで近づく。相変わらずぴくりとも動かない身体には変化は見られなかった。
(どうしたんだろう……)
少女は疑問に思いながら、自分の身体にそっと手を伸ばす。指先が肌に触れた途端、少女は視界が真っ白に染まり、頭の中も真っ白に染まってそのまま意識を失った。
◆
少女の前にひらひらと一枚の花びらが落ちる。淡い紅色のそれがとても懐かしく思えて、少女は僅かに笑んで手を伸ばした。
(……あっ)
だがその手が花びらに届くことはなく、目を開いた少女の目に映ったのは変わらない暗い部屋が映る。さきほどの男の姿もなくなっており、どれほど時間が経ったのかもわからなかった。
(なーんだ)
少女は肩を落とし、ため息をつく。息を吐いたつもりでも空気は流れることもなく、ふわふわと浮いた少女は眼の前にある漬けられた自分の体を眺めるしかできなかった。
(あれ? なんだろう……)
少女がさきほど感じた、懐かしいという感情。それがなぜか、部屋の壁を突き抜けたずっと先にある気がした。
(どうしよう、すっごく気になる……)
目にも見えないはずなのに、少女にはそこにあると確信があった。少女は躊躇なく壁をすり抜けて外に出ると、まるで引き寄せられるようにそちらへと向かった。
太陽が何度沈んで昇っただろうか。野を漂い、山を越え、川を下り、谷を跨ぐ。いくつもの町や集落を過ぎ去って、少女がたどり着いたのは大きな城の中庭だった。
(あっ、これだ!)
少女の目に映るのは、中庭の一角に一本だけ植えられた木だ。淡い紅色の花を咲かせていて、その根元には絨毯のように花びらが敷かれている。
(懐かしい……けど、なんだったっけ?)
少女は懐古の念を抱いたが、その木の名前を思い出せなかった。花びらの絨毯の上に座り込み、木にもたれかかる。実体がないため、実際には触れていないが、それらしくは見えた。
(なんだか、気持ちいい……)
少女は心地よさに目を閉じ、しばらくそのまま動かなかった。しかしふと赤子の笑い声が聞こえて、ゆっくりと目を開く。
(……赤ちゃん?)
いつの間にか、目の前にはゆりかごがあった。美しい女性がゆりかごを揺らし、その中で赤子が楽しげに笑っている。
(かわいい)
赤子のまん丸な碧い目が少女を真っすぐに捉えているような気がして、少女は小さくほほ笑む。すると赤子はひときわ楽しげに笑った。
いまのは偶然だろう。そう思いながらも、だれにも気づいてもらえない自分を見つけてもらえたような気がして、少女はうれしかった。
女性がやさしげな表情で赤子をそっとなでると、赤子は眠くなったのかうとうとしはじめ、そのまま瞼を閉じる。
(ああ、すごく……気持ちいい……)
それにつられたように、少女もゆっくりとまぶたを閉じた。
◆
少女は近くでだれかが泣いている事に気づいた。必死に声を押し殺そうとして時折もれる嗚咽がひどくかなしげだ。
少女が目を開くと、目の前にひらひらと淡い紅色の花びらが舞い降りた。少女は手を伸ばすが、花びらは少女の手をすり抜けて落ちていく。一つため息をついた少女は自分の隣に目を向けた。
少女の隣には木の根元にすがりつくように腕と顔を押し当てた幼子の姿があった。花びらが幼子のやわらかそうな金色の髪に落ちる。それに気づかず、幼子は必死に涙をこらえようとしていた。
(ぼく、なにがかなしいの?)
少女は自分の声がだれにも届かないと知っている。だから口を開くことなく心の中で幼子に問いかけた。届くはずがないとわかっていたが、泣いている幼子をなぐさめたかったのだ。
幼子はなんの反応も返さない、と思いきや。
「……っ!?」
幼子は息を呑む音と共に、ばっと顔を上げた。そしてその目を真っすぐ少女へと向ける。
(……へ?)
まるで自分の声が届いたかのような幼子の反応に、少女は目をしばたたかせた。
(……私の後ろになにかあるの?)
少女は後ろを振り返ってみたが、なにもなかった。不思議に思いながら視線を戻すと、幼子は少女をじっと見つめている、ように見える。
(私のことが見えて……いや、ないない。百年以上だれにも気づかれなかったんだし。そう都合のいいことがあるわけがない!)
少女はもう一度後ろを振り返って確認するが、やはりなにもなくて幼子に視線を戻す。
幼子と、ばっちりと目があった、気がした。
「……私のこと、見えているの?」
少女は驚いた表情で口を開き、問いかける。実体がないため、それが音になったかどうかはわからなが、幼子はまるでそれに反応したかのように口を開いた。
「―――、―――――」
子どもらしい高い声が聞こえるが、なにを言っているのかまったく理解できなかった。
「待って、なにを言っているのかわからないの」
少女が制止をかけるも、幼子の口は止まらない。少女が幼子の言葉がわからないように幼子も少女の言葉がわからないのか、そもそも声が届いていないのかもしれない。なおも話し続ける幼子にどうしたものかと思い、少女は幼子に届けと思いながら心の中で話しかける。
『ぼく、ちょっと止まってくれるかな』
すると、幼子はぴたりと話を止めた。どうやら、心の中で伝わるように意図して話しかけると、言葉が届くようだ。
『ぼく、お姉さんに心の中で話しかけてみてくれないかな?』
幼子は戸惑った様子だったが、小さくうなずく。きゅっと口を引き結び、両手を握りしめて懸命に心で話しかけてきた。
『精霊さん、ぼくの言葉は届いていますか?』
『え、精霊?』
少女が思ってもみなかった言葉に驚くと、幼子は不思議そうに首をかしげる。
『違うの? ずっとここで眠っていたから、木の精霊なんだと思って』
『ずっと?』
『うん、ずっと。みんな見えないって言っていたから、精霊さんなんだと思っていたの』
そこで少女は、この木の下で眠る前のことを思い出した。美しい女性にあやされていた、かわいらしい碧い目の赤子と目が合ったこと。よく見れば、幼子はその赤子と同じ目の色をしている。
だれかに見つけてもらえた気がしたあの赤子の笑い声は、勘違いではなかった。そう思うとたまらなくうれしくて、少女は満面の笑みを浮かべた。
『ぼく、ありがとう。私を見つけてくれて』
幼子はぽかんと口を開けて硬直し、すぐに顔を真っ赤にする。かわいい反応に少女はくすくすと笑い、手を伸ばして頭を撫でようとした。
(あ……)
しかしその手は幼子にふれることができずにすり抜けてしまう。少女は幼子に見つけてもらえたが、依然として幽霊のような状態だった。
『精霊さん、泣かないで』
少女の表情がかなしげだったからか、幼子が慰めの言葉をかける。涙を流すこともできない少女は安心させるようにうなずいた。
『泣いていたのは、ぼくのほうじゃない?』
『な……泣いてなんか、いないもん』
慌てて涙を拭い、頬をふくらませた幼子はそっぽを向いた。
『そっか。私の勘違いだったね』
少女が笑うと、幼子は頬をふくらませたまま彼女を見る。
『……精霊さんじゃないなら、お姉さんはなんなの?』
少女は幼子の問いに困ったように眉尻を下げる。少女自身も、いまの自分の状態を正確に把握しているわけではない。ただ、精霊でないことは確かだ。
『私も、一応人間だよ』
『一応?』
『うーん。幽霊みたいな感じかな。いやでも、たぶん生きているはずだし……』
『どういうこと?』
『えっとね……精神と体が離れちゃったの。私は、精神のほう。ぼく、わかるかな?』
『ぼく、もう五歳だし、それくらいわかるもん!』
むっとした様子で幼子は首を縦に振った。それがかわいらしく見えて、少女はくすくす笑う。
『じゃあ、体はどこにあるの?』
『うーん、どこだろうね』
『わからないの?』
『私の体、悪い人たちに捕まっているの』
その言葉に幼子はかなしそうな顔になった。こんな小さな子どもに言うべきことではなかっただろうと反省し、少女は慌てて話をそらす。
『ぼく、名前は?』
『ロマーノだよ』
「ロマーノ」
少女が口を開いて名を呼ぶと、幼子、ロマーノは頬を赤らめてうれしそうに笑った。それに少女が胸をなでおろしていると、ロマーノが首をかしげて問いかける。
『お姉さんは?』
『私は……忘れちゃった』
少女がそう答えたところで、だれかの声が聞こえた。少女はそれが何を言っているのか理解できなかったが、ロマーノはその声に反応して後ろを振り返る。ちらりと少女を窺う様子から、だれかに呼ばれたのかもしれない。
『またね、ロマーノ』
少女が軽く手を振ると、ロマーノは少し躊躇したようだが、すぐに駆けて行った。
◆
ロマーノは毎日のように少女のもとに通うようになった。初めて言葉を交わした、木の下で声を押し殺して泣いていた日とは打って変わって、好きなものの話やほめられたことを自慢げに話す。それらを聞きながら、少女はロマーノの正体を考えていた。
会話の中に出てくる使用人といった言葉や、こんなに大きな城の中庭を自由に歩き回っていること、よく見れば護衛のような人物がつかず離れすぎずの位置に控えていることから、ロマーノは相当の身分だと思われる。
『お姉さん、聞いているの?』
『うんうん、ちゃんと聞いているよ。……それで、何の話だっけ』
『聞いていないじゃないか!』
『ごめんごめん』
少女の反応の薄さにロマーノが頬を膨らませて抗議する。それにうなずきながら少女が謝罪すると、ロマーノはため息をついた。
『お兄さんの話だよね』
『うん。兄さまは、すごいんだ!』
ロマーノはきらきらと目を輝かせながら兄の話をする。強くて、頭が良くて、かっこいい兄のことを語るロマーノは心から兄を尊敬していることがわかる。しかし同時に、どこかかなしげでもあった。
『……ロマーノは、お兄さんのことでなにか悩みがあるんだよね』
『えっ』
ロマーノは下唇をきゅっとかむ。それはロマーノがかなしいことをがまんする時のくせだった。ロマーノとはいままでいろいろと言葉を交わし、しっかりした子だと印象を持っていたが、それでもまだ小さな子どもだ。
『私はロマーノにしか見えないし、話せないから、だれにも言わないよ。さあ、お姉さんにはなしてごらん?』
ロマーノはためらっていたが、やはりまだまだ子どもだ。大きな目をうるませ、きゅっと両手を握ってうつむき、小さく弱々しい声で悩みを吐露した。
『……ぼく、兄さまに嫌われているんだ』
『お兄さんに、嫌いって言われたの?』
『ううん。でも、ぼくは……』
それ以上は言葉にならず、ロマーノはぽろぽろと涙をこぼし始めた。その姿があまりにもかわいそうで、少女はロマーノを抱きしめる。本当は触れられないので、ただ抱きしめたような恰好をしているだけだ。接している部分からはなんのぬくもりも感じられない。
少女はうつむくロマーノから目を外し、ちらりと中庭に面する外廊下へと目を向けた。そこには護衛らしき人物だけではなく、ロマーノと同じ髪色の青年が柱の陰に隠れるように立っている。その青年の目はロマーノに向けられており、表情はどこか心配げだ。
ロマーノは気づいていないようだが、少女はこの青年を何度か見たことがあった。
『ねえ、ロマーノ。人間関係でこじれるときって、言葉が足りないことが多いんだよね』
少女の言葉に、ロマーノは顔を上げた。少女は昔のことは思い出せないが、このことはなぜか後悔の念とともに思い出せた。
『お兄さんに、嫌いって言われたわけじゃないんだよね』
『うん……でも、ぼくは……』
ロマーノには兄から嫌われる要素が自分にあると思っているらしい。しかし、そんなロマーノがこれほど兄を慕うのだから、兄が彼を嫌っているようには思えなかった。
『ロマーノはお兄さんに、好きって伝えたことはある?』
『ううん……』
『伝えてみて。きっと、よろこんでもらえるから』
『そうかな……よろこんでくれるかな』
『私だったら、ロマーノにそんなことを言われたらよろこんじゃうね』
少女の言葉にロマーノは顔を真っ赤にした。しばらく恥ずかしそうに目を伏せていたが、顔を上げて少女をじっと見つめる。
『……ぼく、お姉さんのこと……大好きだよ』
少女は新しい扉が開きそうになった。
『私も、ロマーノが大好きよ!』
少女はうっかり抱きしめる腕に力が入ったが、腕はロマーノの体をするりとすり抜ける。元々この幽霊のような状態を恨めしく思っていたが、いまはさらに恨めしかった。ロマーノも少し残念そうに眉を下げる。
『ふあ……』
そこで突然、いままでと同じ睡魔がやってきた。
『ごめんね、ロマーノ。すっごく眠くなっちゃって……』
『うん。おやすみなさい、お姉さん』
少女はふわふわと浮かびながら木の根元に移動する。その場に座り込み、木の根元に背を預けるような恰好をして、ゆっくりと目を閉じた。
『つぎはいつ起きれるかわからないけど、またお話してくれるとうれしいな……』
『……えっ、お姉さん?』
かなしそうなロマーノの声が遠くなっていく。なにか声をかけたいと思うも、抗えない睡魔に緩やかに意識が沈んでいった。
◆
だれかに呼ばれたような気がして、目が覚めた。目の前にひらひらと淡い紅色の花びらが落ちてきて、体をすり抜けて地に落ちる。少女がぼんやりと目の前を眺めていると、ふと、となりから声が聞こえた。
『お姉さん、起きたんだ』
そちらに目を向けると、隣りの木の根元に背を預けて据わる美少年の姿があった。さらさらの淡い金色の髪が風に揺られ、碧い目が少女をじっと見つめている。まぶしい笑顔の美少年に、少女は思わず見惚れて言葉を失った。
『ぼくのこと、忘れちゃった? ひどいな、お姉さん』
『ロマーノ? 大きくなったね』
『十歳になったよ。お姉さんがぼくをほったらかして、五年も気持ちよく眠っていたからね』
美少年はくすくすと笑っている。少女には五年はたいした時間ではないが、ちゃんと生きているロマーノには長い時間だったのだろう。
『ごめんね、ロマーノ』
『いいよ。ねえ、お姉さん。名前は思い出せた?』
『ううん……』
『そっか。ねえ、お姉さん。がんばって名前を思い出してほしいな』
呼ばれることがなかったので思い出せなくても不自由はなかったが、こうしてロマーノと会話をするのには不便だ。美少年にお姉さんと呼ばれるのは悪くないが。
『がんばってみる。思い出せるまでの間、代わりになる名前をつけてくれない?』
『ぼくが?』
『うん。この世界の言葉がわからないから、なにが普通なのかわからないの』
こうしてロマーノと会話をしているのは心の声だ。どういう原理かはわからないが、おたがいに使っている言語に翻訳されて理解しているのだろう。
『じゃあ……』
ロマーノは少し考えこむ。しばらくして、ロマーノは口を開いてその名を音にした。
「シリエ」
まだ声がわりを迎えていない少年の声で、新しい名前を呼ばれる。たったそれだけのことなのに、少女の胸にじわりとよろこびが広がっていた。
『……ありがとう、ロマーノ』
少女はにやける顔を両手で覆って隠した。それにロマーノが不思議そうに首をかしげる。
『どうしたの、シリエ』
『なんだか、すごくうれしくて。本当に私のことが見えていて、私のことを呼んでくれて……ロマーノは特別なんだね』
『特別……』
ロマーノは頬を赤く染め、うれしそうにはにかみながらつぶやく。その姿がかわいらしく思えて、少女はくすくすと笑った。
『シリエ、覚えていることを全部教えて。一緒に名前を思い出そうよ』
『ええ? うーん……ロマーノには刺激が強いかも』
『なんだよ、それ。ぼくはもう、子どもじゃない』
十分に子どもだと思ったが、背伸びしたい年ごろの少年だと思いなおして少女はうなずいた。
(私のこと……)
百年以上、少女はだれにも気づかれなかった。ロマーノだけが少女に気づき、少女を見て、少女に話しかける。これから先、ロマーノのような人物が出てくるとは限らない。
(ロマーノに、覚えていてほしいな)
せめて、ロマーノに自分がいたことを覚えていてほしい。そう思った少女は、名前すら忘れてしまった自分のことを覚えている限り伝えようと考えた。
『じゃあ、聞いてくれる? 私のこと、覚えていてほしいな』
『うん。シリエのこと、聞きたい』
少女は自分の記憶をたどりながら、少しずつ話をする。おそらく異世界から召喚された時のこと、謎の男と球体のこと、抜け殻のような自分の体のこと。思い返してみれば、あの部屋で過ごしていた記憶は短いものだった。ほとんどの時間を眠って過ごしていたし、だれとも接していなかったのだから、こんなものなのかもしれない。
『シリエは異世界人なんだ』
『その前のことを覚えていないから、自信はないけど……たぶん。異世界人って、すんなり受け入れるんだね』
『異世界人が迷い込むことは、たまにあるんだ。この世界では、異世界人は尊い人とされているんだよ』
異世界の存在をあっさり受け入れられたことに少女は驚く。ロマーノによると、国によって扱いは様々だがこの国では異世界人は大切な客人として扱われるそうだ。
『そいつら、許せない。シリエを無理やり結婚させて、しばりつけているなんて』
『え、結婚?』
少女は突然出てきた結婚という言葉に目を丸くした。もちろん少女に身に覚えなどなく、困惑するしかない。
『真名……本当の名前を明かし合って、魔力のこもった口づけを交わしたでしょう?』
『言われてみれば……そうなるの、かな』
『それによって、魂の結びつきができるんだ。ぼくたちの世界では、そうやって結婚するんだよ』
衝撃的な事実に少女は打ちのめされた。たしかに謎の男によって球体の名前、おそらく真名を教わり、自分の名前を口にして球体と口づけた覚えがある。どうやら、少女はいつの間にか結婚していたらしい
『うぅ……ひどい……っ』
『シリエ、泣かないで』
少女が両手で顔を覆ってうつむくと、ロマーノは励まそうとした。実体がないため涙は流れなかったが、泣きたいくらいにひどい現実だ。
『ぼくが、シリエのことを助けるから』
少女が顔を上げると、真剣なまなざしのロマーノと目が合った。
『……ありがとう。気持ちはうれしいよ』
『ぼくのこと、信じていないね。……いいよ、好きなようにするから』
ロマーノは拗ねたように唇を尖らせる。気持ちはうれしいが、まだ少年のロマーノを頼りにはできなかった。
『でもね。もう、体がある場所がわからなくて』
少女はこの木のもとにやってくるまでのことを思い出せなかった。いまさらになって、体から離れるべきではなかったかもしれないと思う。
『真名がわかれば、体の場所もわかると思うんだ』
『そうなの?』
『うん。真名は精神と体に刻まれた名前だからね』
少女には理屈がわからなかったが、この世界の住人であるロマーノが言うことだからと納得する。
『……どうして、思い出せないんだろう』
思い出さなければと思うのに、自分のことがまったく思い出せない。この世界にやってくる前のことは、靄がかかったかのようにわからなかった。かなしげにため息をつく少女に、ロマーノがやさしく笑う。
『……シリエ。ぼくといろんなことを話そうよ。もしかしたら、なにかのきっかけで思い出せるかもしれない』
必死になっても思い出せないが、記憶となにかが結びついた時に不意に思い出せるかもしれない。少女はロマーノの言葉にうなずいた。
『ねえ、ロマーノの話も聞かせて?』
『うん!』
ロマーノは満面の笑顔で話をした。以前は兄に嫌われていると嘆いていたロマーノだったが、いまはとても良好な関係らしい。
『ちゃんと気持ちを伝えたらね、兄さまの傘下に置いてもらえたんだよ』
『よかっ……んん? よくわからないけど、よかったね』
『うん。全部、シリエのおかげだよ。ねえ、シリエは兄弟はいるの?』
『うーん、どうだったかな……』
二人は笑い合いながら様々な話をした。そこから何かを思い出すことはできなかったが、少女は楽しいひとときを過ごせた。
◆
少女はシリエという名を得てから、木の下でロマーノと語り合った。好きな食べ物のこと、嫌いな食べ物のこと。褒められたことや怒られたこと。たあいのない話をしているうちに、少女は時々自分のことを思い出すこともあった。
やがて眠気が襲ってきて、少女は眠りにつく。ロマーノが少女を起こすと、少女の目に映った彼は成長していた。
ロマーノは少女の身長を追い抜き、顔立ちは少しずつ幼さを失っていく。赤子は幼子に、幼子は少年へ成長し、やがて青年へ。少女は目に見える成長をよろこんでいたが、同時に暗い気持ちが心に芽生えていた。
『ロマーノも、もう十八歳なんだね』
ロマーノは十八歳になった。淡い金色の真っ直ぐな髪は背の半ばまで伸ばして後ろで一つにまとめられ、くっきり二重に切れ長の碧い目は泣いていた少年のころとは違い、しっかりとした意志を持って輝いているように見える。
『シリエと同じ歳になったよ』
ロマーノは成長しない少女の歳と並んだ。これからも歳を重ね、少女の年齢を超えてしまうのだろう。
『ロマーノ……』
置いていかれるさみしさに、少女は陰鬱な気持ちでうつむいた。それと同時に睡魔が襲ってきて頭をふらつかせる。
『シリエ?』
『ごめんね、すごく眠くて……』
少女はこの木の下で過ごすようになって初めのうちは自発的で起きていたが、いまではロマーノに起こされないと起きられなくなっていた。その上、起きていられる時間は徐々に短くなっている。
『……体と精神が別れていることが問題なんだ。早く、シリエの体を見つけないと』
ロマーノは真剣な表情でつぶやく。そんな彼を眺めながら、少女はほほ笑んだ。
『どうしたの、シリエ』
『ロマーノ、かっこいいなって』
『もう。ぼくは心配しているんだよ?』
ロマーノは顔を赤らめて顔をそらす。少女はそれをずっと眺めていたいと思ったが、睡魔のせいで意識がとびそうになった。
『……シリエ』
『うん?』
『覚えてもらいたいことがあるんだ』
少女は睡魔と必死に戦い、なんとか顔を上げる。少女の目に映ったロマーノは、ほほ笑みながらゆっくりと口を開いた。
「――」
声変わりした男性の声に、少女は睡魔がとんだ。少し目が覚めた少女にロマーノは心で語りかける。
『いまのは、肯定の「はい」だよ。シリエも言ってみて』
「……はい」
『うん、すごくいいね。じゃあ、次はぼくの言うことをしっかり聞いてね』
ロマーノは満足そうにうなずく。少女は再び襲いかかる睡魔に抵抗しながら、ロマーノの言葉を聞き取ろうとする。
『シリエ。体を見つけて、精神と体が一つに戻ったら』
『うん……』
「―――、――――――――」
少女はロマーノの声をしっかりと聞き取ったが、それがどんな意味なのかは理解できなかった。いまにもとんでいきそうな意識を必死に止めている少女に、ロマーノはにっこりと笑いかける。
『ぼくと、結婚してください……と言いました』
『へっ』
その瞬間、少女の意識は一気に浮上した。笑顔のロマーノを何度も見返し、胸に手を当てる。あるはずのない心臓が高鳴るような錯覚に少女は困惑する。
『シリエ、慌てちゃってかわいい』
『ちょ、ちょっと、ロマーノがなにを言っているかわからない』
『意味はちゃんと教えたでしょう?』
『そうだけど……』
『いまさら、とぼけるの?』
少女はロマーノの真剣なまなざしに言葉を失う。まだ幼子だったころから共に過ごしているうちに、ロマーノが自分を見つめる目も、語りかける言葉も、少しずつ変化していたことには気づいていた。
少女にとってロマーノが特別なように、ロマーノにとっても少女は特別なのだ。
『……私、はいしか教えてもらってないんだけど。いいえは?』
『教えない』
ロマーノはいたずらっぽく笑う。美しく、格好良く成長したのに、その笑顔は子どものようでかわいい。
『……私、いつの間にか結婚していたのよね?』
『大丈夫、ちゃんと別れさせてあげるから』
少女は望んで結婚したわけではないし、その結婚のせいでこうなったのだ。そもそも相手は生物ですらなさそうなのだから、別れられるのなら願ったり叶ったりだ。
しかし、ロマーノとの結婚は別の話だ。
『わたしなんか……』
『ぼくはシリエから勇気をもらったから、いま、ここにいられるんだ』
ロマーノは兄との関係が改善されたことで、いまがあるという。少女にとってはたいしたことではなかったが、幼いロマーノにとって、兄と向き合うことは大きな勇気が必要だったのだろう。
『ずっと、大好きなんだ。ぼくはシリエに触れたい。抱きしめたいし……抱きしめてほしい』
抱きしめようとしても、すり抜けてしまう体だ。抱きしめられることもない。そんなものだと諦めていたが、本当はちゃんと抱きしめたかったし、抱きしめられてみたかった。
『シリエも、そう思うでしょう?』
ロマーノの言う通りだった。少女は答えなかったが、ロマーノはすでにわかっているのだろう。
「ぼくと、結婚してください」
その声は、男性らしい低い声だ。初めて会ったときはかわいらしい子どもの声だったというのに、ロマーノはいつの間にか成長して立派な男性になっていた。
ロマーノは少女を置いて成長した。しかし、叶うのなら。
(……一緒に、歳をとりたい)
同じ時間を過ごし、歳を重ねていきたい。そのために、少女はいままでに思ったことがないほど、強く体に戻りたいと願望を抱いた。
「はい」
少女はロマーノの言葉に応える。ロマーノはうれしそうに笑い、頬を、耳を赤くする。少女は顔を赤くすることはできなかったが、胸はそこに心臓があるかのように高鳴っていた。
ロマーノは少女を抱きしめるように腕を回す。格好だけだが、これが本当になれば良いのにと少女は願っていた。
『……ごめんね、ロマーノ。本当に眠くて……』
二人を割くように、強烈な睡魔が少女を襲う。その時、少女はこのまま眠りにつくと二度と起きられない気がした。
『シリエ、だめだ』
ロマーノのすがるような言葉が伝わる。少女もこのまま眠りたくないと抗うが、睡魔はその想いすら飲み込もうとしていた。
『名前……私の名前……』
名前さえわかれば、ロマーノは少女の体を見つけられるという。なんとか思い出そうとするが、思考はどんどん鈍くなっていく。
『……あ』
ひらひらと、淡い紅色の花びらが落ちてきて、少女の体をすり抜けた。懐かしいと感じた、この木。
『桜……私、サクラだ……!』
自分の名の由来となったこの木のことを思い出し、少女は真名を思い出した。それと同時に、なにかに引かれるように意識が遠のいていく。
「シリエ!」
ロマーノの焦る声を最後に、サクラは暗闇に包まれた。完全に意識が沈む直前に、ロマーノの言葉が届く。
『覚えていて。ぼくはエラルドだ。サクラ、言質はとったからね』
◆
(あれ……)
視界は真っ暗で、なにも聞こえない。体はまったく動かせず、まるで水の中を揺蕩うような不思議な感覚だった。
(……私、どうしてここにいるんだろう)
なにもできず、なにもわからず、彼女はぼんやりとした頭でなにかを思い出そうとしていた。
(わからない……)
思い出せることはすべて曖昧で、断片的なものばかり。しかし、ひらひらと舞う淡い紅色の花びらと、その下で笑っているだれかの姿だけははっきり思い出せた。
(あの人……)
それがだれなのかは思い出せない。けれどもその姿を思い出すだけで、胸が熱くなるのがわかった。
(……会いたい)
真っ暗な世界で見つけた、光のような存在。彼に会いたい、その想いが大きくふくらんでいくが、目を開くことも、口を開くことも、手も足も動かすことができなかった。
(会いたいよ!)
彼女が強く願ったその瞬間、真っ暗で静かな世界に亀裂が走った。ガラスが割れるような音が響き、次いで勢いよく水が流れる音がする。揺蕩う感覚が失われて体が倒れ込みそうになるが、なにかが彼女の体を支えた。
「っげほ、……げほ、っは……」
口から液体を吐き出し、咳き込む。苦しげに咳き込む彼女の体を、柔らかな布が包んだ。
「サクラ」
どこかで聞いたことのある声に、少女は顔を上げる。ゆっくりとまぶたを上げると、彼女の目にやさしげにほほ笑む男性の姿が映った。
さらさらな金色の髪と碧い目をした、とても美しい男性だ。彼女はその男性を知っている。
「……エラルド」
かすれた声で、サクラは彼の名を呼んだ。エラルドはうれしそうに目を細めて笑うと、サクラの唇に口づける。突然のことに呆気にとられたサクラだが、重ねた唇からなにか熱いものが流れ込んでくるのを感じて混乱した。
(ちょっとまって、なにが……)
なにがなんだかわからないうちに、流れ込んだなにかが体の隅から隅までに届き渡る。サクラはなにも理解できないまま意識が遠のいていき、再び暗闇の中に落ちていった。
◆
サクラは唐突に目が覚めた。目に映るのは白い天井で、真っ白でふかふかなベッドの上に横たわっていることに気づく。
「次は、なんなの……」
サクラは、体を起こして辺りを見回した。サイドテーブルには淡い紅色の花が飾られ、窓からは穏やかな陽の光が差し込み、やさしい風に白いレースのカーテンが揺れている。
「……あれ」
そして、サクラの右手をつかむだれかの手。彼女の手よりも大きな男性の手をたどると、その人物はベッドの横にある椅子に目を閉じて座っていた。
「ロマーノ……?」
そこで、サクラの記憶は一つにつながった。異世界に召喚されて囚われていたこと、体と精神が切り離されて百年以上の時を過ごしたこと。切り離された精神のみで桜の木を見つけて、ロマーノと出会ったこと。
そしてようやく体と精神が一つに戻って、おそらくロマーノに助け出されていまに至ること。
(ちゃんと、私の体よね)
サクラは不安を覚えて自分の体を確認する。髪を一房すくうと黒い髪が見えて、ほっと胸をなで下ろした。
「……私、生きているんだ」
「うん」
サクラは驚いて声が聞こえた方へと目を向ける。そこには目を開き、ほほ笑むロマーノの姿があった。
「おはよう、シリエ」
「あ……おはよう、ロマーノ。あっ、エラルド、かな?」
「ロマーノでいいよ。でも、真名で呼ばれるのもうれしいな」
サクラは小さくうなずく。いままでなにがあったのか不思議に思うサクラの気持ちを察してか、ロマーノはゆっくりと話し始めた。
真名を思い出したことで精神が体に戻ったらしく、ロマーノは真名を知ったことで彼女の居場所をつきとめたらしい。これまでのサクラとの話も、情報を特定する手がかりとなったそうだ。
サクラを誘拐した組織は世界のどの国からも問題視されている国だという。救出にあたって組織の拠点の一つを壊滅させ、重要な人物を捕獲できたことで、ロマーノとサクラはこの国では相当に評価された。
「体は時間が止められていたけれど、戻せたから問題ないはずだよ」
「そっか。確かに、なんだかちょっと寝てましたって感じ」
サクラはベッドから立ち上がり、軽く体を動かした。体に疲れはなく、本当に寝て起きただけの感覚だった。そのまましばらく体を動かし、満足したサクラはベッドのふちに座る。
「これでたくさん話ができるね」
そう言ってやわらかなほほ笑みを浮かべたロマーノに、サクラは胸が高鳴った。ロマーノはサクラの右手を持ち上げて手の甲に口づけ、手のひらにも口づける。
「やっと、シリエに触れられる」
「ひえ……」
サクラはロマーノの行動にときめき、間の抜けた声をもらした。くすくすと笑ったロマーノはサクラの隣に腰かけると、彼女をやさしく抱きしめる。
「あ……」
久しぶりに感じる人の体温に、サクラはひどく安心した。視界が滲み、涙があふれてぽろぽろとこぼれ落ちる。そんなサクラを、ロマーノはただ大切そうに抱きしめていた。
「あり、がとう……ロマーノ……、私を、見つけてくれて……」
だれにも認識されず、だれの目にも映らず、だれからも声をかけられず、ずっと孤独でさみしかった。そんなときにロマーノに見つけてもらえて、サクラの心は救われた。ロマーノがいなければいまごろ、サクラの心は死んでいたかもしれない。
「シリエ、もう大丈夫。ぼくはこの国の第二王子だ。それなりの権力があるから、君を守ることができるよ」
「……えっ」
よろこびに涙を流していたサクラだったが、ロマーノの言葉におどろいて涙が引っ込んだ。相当な身分だろうとは思っていたが、まさか王子だとは思わなかった。
「ロマーノ、いまなんて……えっ、言葉が通じているの?」
「うん。ぼくたちはちゃんと意志を確認した上で、真名を教え合って夫婦になったからね。おかげで、サクラはこの世界に定着できたんだ」
「え? ……えっ、夫婦?」
さらに驚くような事実に、サクラの思考が停止する。
「大丈夫、きみの元夫はしっかり潰しておいたよ」
ロマーノが指す元夫とは黒い球体のことだろう。おそらく生物ではないが、なかなか物騒な言い方だ。サクラはまた、いつの間にか結婚していたらしい。
サクラの脳裏にこれまでのことが思い浮かぶ。桜の木の下で出会った碧い目をした小さな赤子。幼子から少年へ、少年から青年へと成長していった彼と過ごした日々のこと。そして、交わした結婚の約束。
「私たち、夫婦なんだ」
「うん。……急いでしまって、ごめんね」
「ううん! これからは一緒に歳をとれるんだって……うれしくて」
サクラがはにかみながら自分の想いを伝えると、ロマーノは彼女の頬にそっと手を添える。そのまましばらく見つめ合っていたが、サクラが目を閉じるとロマーノは唇を重ねた。