青い月夜の一幕
宙に散らばる色とりどりの光虫が、まるでクリスマスのネオンのように見えて、少しだけ元の世界が懐かしくなった。吐いた息が白く煙り、ますます冬を連想させる。葉っぱに鎮座する光虫をよく見ると、テントウムシみたいな形をしていて可愛らしい。近づいた私を威嚇するように強く光った。
背の低い草で出来た道を、青白いカンテラの光を頼りに進む。木々の合間から射す月光が、細い柱のように点々と見えた。青い森。ここでは同色の私のカンテラが、あまり意味を成してないような気がする。
道中の幾つかの分かれ道は、明るい方を選んだ。リュックに入っているマップは見ていない。今日は攻略するためではないからだ。それに何故か、そんな気分じゃなかった。私は何かを探すかのようにひたすら森の奥へとゆく。
三匹の狼の影が木立の影の合間に映り、まるで影絵のようだと呑気な感想を漏らす。森の開けた場所に三匹のウルフがいる。藪に身をかがめて様子を窺ってみる。三匹は私に気付かず、別の方向を一心に見ていた。
一匹でも苦労したのだ、これは無理だ。そっと気配を消しながら身を翻す。数分ほど元の道を戻り分かれ道に辿り着いた後、私は茫然と夜空を仰ぐ。
突如湧き上がってきた強烈な喪失感で身が凍った。何故かは理由は分からない。私はきっと、取り返しのつかない事をしてしまった。これから手に入るはずのものを沢山失った。意味不明な感情に翻弄されて、私は突っ立ったままぼろぼろ泣いた。泣いても時は戻らないけれど、それでもぼろぼろ泣き続けた。
私はきっと、選択肢を間違えたのだ。
窓辺から聞こえる微かな雨音で目覚めた。天井がぼやけて見えて、顔の横が濡れている。私は夢を見ながら泣いたらしい。ワンピースの袖で顔を拭いながら、緩慢な動きで身を起こす。ベッドスタンドに置いた懐中時計の針は朝の6時。降りしきる雨が、窓の景色を全て灰色に塗りつぶしていた。今日は雨が降っているせいか随分冷え込んでいる。ほう、と吐いた息が白く煙った。
スクランブルエッグとトマトに似た野菜。簡単な朝食を作って、のろのろと力なく食べた。まだ胸の芯に、あの喪失感が残っている。最近ずいぶん夢に振り回されてる、と嘆息を漏らす。現実味が有りすぎるのだ。カツンッ、とフォークが空を切って皿に当たる。回避力の高いトマトに似た何か。しんと静まり返った居間に、雨音だけがいやに響いた。
チュートリアル島に来て以来、初めての雨。街は静まり返っている。転移者たちは活動を控えているのだろう。肌寒い今日は布団の中で惰眠を貪るのにちょうどよいはず。迷宮に外の気候は影響しないはずだけど、街全体に休日特有のぼんやりした空気が漂っているのだ。深くかぶったフードが湿って重さを増しては、すぐに乾いて軽くなる。白ローブは雨に濡れても謎効果ですぐに乾くので、こういう雨降りの時は便利だ。でもどうせなら撥水性も欲しかった。通気性を維持しつつ。
石畳の街路をカエルたちが一列に並んで横切っている。踏まないよう軽く跳んでやり過ごした。迷路じみた住宅街を歩いているのだけれど、みんな閉じこもっているのか一向に人を見ない。私もこんな日はベッドの上でうとうと過ごしてもよかった。でも、とてもそんな気分になれない。胸にぽっかり穴が開いたような、それでいて焦燥感ばかりが募る。
じっとしていられなくて街に出たのだ。じめじめした性分のせいか雨の日は割と好きだったのだけれど、今日はまるで財布を落としてしまったかのように落ち着かない。いつまでもこの気持ちを持て余している。念のため、と持ってきたリュックを深く背負い直した。
光虫の群れが風に流されて、夜空に舞い上がっていく様はどこか深海に似ている。すうっ、と深く息を吸い込むと、深い森特有の清涼感のある苔の香りがした。やはり2階層の森はいつでも月夜。でもいつもより心なしか気温が低い。カンテラの側面についている魔石に触れると青白い炎が灯った。腰の短剣を確認して、森の入り口を目指す。
宙に散らばる色とりどりの光虫が、まるでクリスマスのネオンのように見えた。慎重に森の中を進んでいる途中、既視感のある光景に思わず足を止める。赤、白、黄色、時折青が点滅している。ほう、と吐いた息が白く煙り、ますます年の瀬を思い起こす。茫然と立ち尽くした私を案内するかのように、光虫たちは森の奥へと飛んで消え去った。頭の芯まで凍りついたような心持だが、私の足は勝手に先へと歩き出した。
背の低い草で出来た道を、青白いカンテラの光を頼りに進む。道中の幾つかの分かれ道は明るい方を選んだ。私は思考が定まらないまま、夢の景色を淡々となぞった。
やがて見えてくる、青い月が映しだす三匹の狼の影絵。【気配遮断】の効果か、横向きの狼たちは私に気付いていない。
この光景を見て、今朝の夢は完全に予知夢だった事に思い至る。そして、夢の私は間違えた。私は一匹のウルフに悪戦苦闘して、奇跡的に勝っただけの実力なのだ。よく言えば互角。とても三匹のウルフに勝てるとは思えないし、いくら教会で復活すると言っても死ぬのは怖い。
無意識に抜いていた短剣が微かに震えている。でも、と思い直す。逃げ出した後の謎の喪失感。その理由は分からないが、あんな気持ちはもう味わいたくはない。ここで逃げても夢みたいに泣く事は無いだろう。それでも、理由を知りたい。リュックサックをその場に下ろし、緊張で震える足を無視して、慎重に藪を進み距離を縮める。私は、夢に踊らされて死ぬ馬鹿だ。
ゴリッ、と不快な音を立てて、右手の短剣が一番近くにいたウルフの横っ面に深く突き刺さった。
やってしまったと、つい自嘲交じりの笑みを浮かべてしまう。急な事で驚いたのか、他のウルフはこちらを見て固まっている。返り血がずるりと纏わりついて、短剣を抜くのに苦労した。血が出る生き物を刺したのは初めてだ。地に伏すウルフを横目に、じりじりと後ずさりして距離を取る。
「ごほっ」
「え!?」
急に人の咳き込む声が聞こえてきて、驚いた私は一瞬ウルフから目を逸らしてしまった。その刹那、隙と見た一匹のウルフが飛びかかってきて、慌てて転がり回避する。パッと赤い血が飛んだ。
二匹のウルフを目に捉えながら起きた私は、左腕を爪か何かで引き裂かれていた。痛いと思うより先に、ただ熱いと感じている。異世界に来て怪我をしたのは、これが初めてだ。撤退の文字が頭をよぎる。
視界の端に、木にもたれて座っている子供が一人。右足を手で押さえていて、その足は血に染まっている。
私の右側面にゆっくり迂回していたウルフが私に飛びついてきた。無我夢中で短剣で突いた瞬間、私の視界が四方八方にぶれて、背中に強い衝撃を受けた。滲む視界は夜空を映していて、ウルフに押し倒されたのだと気付く。
右手の激痛に気付いて顔を向けてみれば、私を押しつぶしたウルフの口内に右手が収まっていた。牙が腕に食い込んでローブが赤く滲むが、ウルフはこれ以上噛む力を強めない。右手の感覚はしっかり短剣を持っている。口内を突き刺した状態だと察し、死んだウルフの亡骸から慌てて右手を引き抜いた。まだ一匹いるのだ。
ずるりと抜いた右手は血で真っ赤に染まり、短剣は無い。刺し所が悪く、滑って引き抜けなかったのだ。
「ひぃ!!」
引き攣った高い声。最後の抵抗か、ウルフが真っ直ぐ子供の方へ走り出した。偶然か、転がされた私は比較的子供と近い場所にいる。
両腕が痛んで、武器は無い。
「ぐっ!」
子供の顔に血潮が飛んだ。近くで見れば、まだ7才くらいだろう女の子だ。切りそろえてある緑色の髪に血がついてまだらになってしまった。髪と同色の瞳を潤ませて、震えながら私を見上げている。抱き着く形になってしまったがこれは仕方ない。
「これは、事案、ですか……?」
「か、肩!肩に!!!!!」
右肩に熱湯をかけられた感覚に眉を顰める。幸いまだ痛みは感じない。とうとう女の子はぼろぼろと泣き出してしまった。元成人男性としては、安心させてあげなければならない。徐々に痛みが増してくる。微笑んで、大丈夫だと伝えなくては。
「い、いたい……」
私の口から予想だにしない言葉が出た。腕の中の女の子の頬に、ぽたぽたと水が降る。肩に燃えるような激痛。私の意志は無視して体は正直だった。肩をウルフに噛み付かれたまま、みっともなく泣く。両腕の痛みも増してきて力が抜けてきている。ちょうどいいと思い腕を解いた。
足を庇いながら立ち上がった女の子は、ぼろぼろ涙を流しながら私を見た。小さな少女は蹲った私とちょうど同じ目線だ。私は泣きながら苦笑いして頷く。今ならこの子は逃げられるはずだ。背中にウルフを背負ってるし、小説の主人公みたいに格好よくは無いが、一応助けることはできたんじゃないか。もう体が動く気はしないし、きっとこの後、私は死ぬ。
ガッ、と肩に衝撃が来て、一瞬気が遠くなった。私はそのまま地に倒れ、背中がフッと軽くなる。横たわった私の視界に、細身のナイフが眉間に刺さったウルフが倒れていた。あの幼い少女が刺したんだろうか。薄れる視界の片隅に、震える少女の脚が見えていた。
「馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの!?見た感じ杖も無いし魔法使いでも無いんでしょ!?あんなへっぴり腰の短剣だけでウルフ三匹に突っ込むって無謀極まるわ!鉄砲玉にもなりはしないわ!もはやお手玉よ!!!」
お手玉だったらしい。青の森の寒空の下、私は女児に怒られていた。下着姿になって座り込んだ私に女児が泣きながら緑色の水をかけてくる。ポーション、と呼ばれる傷薬だと教えてもらった。女児は元気に喋ってるのに、一向に涙が止まっていない。瞬く間に塞がっていく傷に驚きながら、布で血を拭いていく。今はただ、ひたすらに寒い。
「てか、服は!?あんたの脱いだ服消えてる!?」
「あ、それは大丈夫です」
座ったまま変身ポーズをして服を着用している状態に戻った。女児はビクッとしたあと、気にしない事にしたのか背中を向けてポーションの瓶を仕舞っている。その際、ぐしぐしと黒いローブで涙を拭いていた。
「あたしの名前はパニカ。あんたは?」
「シア、です」
異世界に来ておよそ10日。私はこの時、初めて自己紹介したのだった。