その小さな世界は珈琲の香り
風が頬を撫でる感触で目が覚めた。半開きにしていた窓からやわらかい風が入ってきていて心地いい。暫しの間ぼんやりと天井を見つめ、隣で眠るパニカさんを起こさない様に静かに起き上がる。時計の針は朝7時を指している。さて、朝食の準備をしなければ。ぐっと体を伸ばした後、物音をたてないようにそろりそろりとキッチンに向かった。
朝食の準備とはいっても、実際私がすることはほとんどない。菜園の野菜でサラダを作った他は、お皿にレーションを盛り付けていくだけだ。そろそろパニカさんが起きだす頃かと思い、コーヒーカップをふたつ取り出した。どうやら私の勘は正しく、眠たげに目を擦るパニカさんがとことこリビングに入ってきた。
「おはようございます、パニカさん」
「おはよ~シア。あと、パニカさんじゃなくてちゃんとマスターって呼んで」
「はい。すみませんマスター」
いつものやり取りを終えたマスターはテーブルに突っ伏した。いけない。早く配膳しないとマスターが二度寝してしまう。慌ててテーブルに料理を置いたが、私の奮闘虚しくマスターは既にぷーぷーと寝息を立てていた。その間2秒。即落ちである。マスターのほっぺに熱いコーヒーカップを押し付けてみるが微動だにしない。はぁ、と溜め息をついて私はひとり朝食を食べ始めた。
菜園のトマトの成長ぶりには目を見張るものがあり、それぞれ1メートルほどの大きさにまで膨らんでいた。これは食いでがある。私は右手に短剣を呼び出してスパスパと収獲していく。数個ほど落下の衝撃で潰れてしまったが、私はそもそも農作業用の機体ではない。これはしかたないことなのだ。決して私が不器用とか、そういう事ではない。
「シアってば。横着するからよ」
ガーデンチェアに寝そべっていたマスターに見られた。先ほどまでお絵かきに夢中になっていたので誤魔化せると思ったのに。
「私は戦闘用です。向き不向きがあるのです」
ピンッ、と宙に弾いた小石を短剣で真っ二つに切った。そのまま腕を振り上げた状態の格好いいポーズをしていると、マスターはぷふっと噴き出した。
「なによその変なポーズ。そんなプログラムまで入ってるの?まさかシア自身のオリジナル?もしかしてそれ格好いいと思ってる?ねぇねぇ」
私に赤面する機能が無くてよかった。マスターの言葉を右から左へ受け流し、私は平然とした表情を装いながら収獲を続ける。
「だいたい戦闘用って。戦闘する機会なんて皆無じゃないの」
いつの間にかマスターがトマト山脈によじ登って遊んでいる。潰れるからやめてほしい。
「それは分かりませんよ?外の原生生物が凶暴な進化を遂げるかもしれないじゃないですか」
「何千年先の話よそれ!あたしは人間なんだから普通に寿命で逝くわ!」
わいわい騒ぐマスターを抱っこし、菜園の隅へ着陸させた。野に放った途端にてってこトマト山脈の方に向かう。困る。暇を持て余してるらしいマスターに私はピクニックを提案した。仕方ないわね、等と言いながらマスターはウキウキと準備に向かい、その隙に私はさっさとトマトを収穫していく。天候は晴れ。丁度いい、トマトをひとつ持って行こう。
見渡す限りの大草原を前に、深く深く深呼吸。私には呼吸の必要は無いけれど、マスターがそうするので真似をしている。ピクニックの日は生産量の少ないお砂糖の解禁日でもあるので、ここに来るまでの間ずっとマスターがそわそわしていた。適当な場所にシートを広げて、おやつとコーヒーの準備を進めていく。
「う~ん。この景色も開放的でいいんだけど、ちょっと飽きてきたわ」
「リモコン持ってきてますよね。変えてみてはいかがです?」
「そうね!なんかこう、涼しげな感じにしてみたいわね!」
マスターが手元のリモコンをピッピと操作すると、周囲の景色が砂嵐のようにぶれていき、平たい草原だった景色が山脈に囲まれた高原に変わった。ついでに気候も操作したようで、涼やかな風が辺り一帯を吹き抜けていく。目が冴えるような青空が気持ちいい。私達が住むシェルターの内部は自由に景色を切り替えることが出来るので、マスターのその日の気分によって色んな世界を楽しめる。でも私にはそのリモコンを一度も貸してくれないのが不服である。壊しそうだから、と言ってマスターが隠してしまうのだ。
おもむろに変な体操を始めたマスターを横目に、私はシュガーラスクとコーヒーの準備をしていく。持ってきたトマトはナイフで削って砂糖をまぶした。それだけでデザートみたいな味になるので私のお気に入り。なんせ楽である。水筒に入れて持ってきたコーヒーをカップに注ぐと、辺りにふわりと香ばしい匂いが広がった。ピクニックの日だけはコーヒーを甘くできるので、実の所私もこの日が待ち遠しかった。マスターはいつもブラック。たぶんカッコつけてる。
「準備完了ですマスター」
「ん!景色も良いし甘味もあるし、完璧と言う他無いわね!」
マスターが満面の笑みで言い、次の瞬間ラスクをがつがつ貪り始めた。まるで全て自分の物だと主張するかのような速度で食べるので、慌てて何個かキープしておく。私の分のお菓子はちゃんとマスターから離れた場所に置いたので、安心して高原の景色を眺めた。
「マスター。シェルターの外も、こんな風な景色なんでしょうか」
「そればっかりは分からないわね。有害物質の濃度はずっと危険域だし、もしかしたらもっとヘンテコな事になってるかもね」
いつの間にかラスクを殲滅したマスターは、トマトの切り身を口に放り込みながら本を開いていた。見た目も中身もボロボロで、申し訳ない程度に文字と挿絵が載っている前時代の本。無人探査機が外で拾ってきたマスターの宝物だ。俯せに寝転がって、足をパタパタさせながら熱心に読んでいる。
「はぁ~。シア~この『ぶたにく』っての食べてみたいわ。ほっぺたが落ちるらしいの」
「頬が溶解するというのは、強酸性の毒物なのでは」
「でも他に何もいらなくなるほどの至福って書いてあるわよ?文面を見るに美味しいって事の比喩じゃないの?」
「……にしては物騒な例えでは。それに文脈から麻薬性を彷彿させます。危険です」
「う~ん。もしかしたら昔の人間には耐性があったのかもね。残念ね~。あたしは人間だからダメかもしれないけど、シアなら平気なんじゃない?ロボットなんだし」
「いくら私でも強酸性のものを体内に取り込めば壊れますよ」
ふーん、と気のない返事をしたマスターは、ぶたにく、ぶたにくと呟きながらページをめくる。私は時折マスターの飲み物やトマトのおかわりの世話をしながら、心地よい高原でのんびりとした時を過ごした。
日が沈み始めて空が赤みを増した頃、長らくシェルター外を旅していた無人探査機が戻ってきた。真っ白いふわふわの毛玉に、長い耳がぴょんと立っている姿で、マスターからは『ウサ丸』と呼ばれている。風呂敷を担いで戻ってきたウサ丸は、ぴょんぴょん跳ねながらマスターの元に来た。
「キュイ!」
「帰還ご苦労よウサ丸!じゃあさっそくいつもの質問をするわよ!」
真剣な顔をしたマスターがウサ丸の前で仁王立ちしている。私はその様子を玄関先に座って見ていた。
「外で、生きている人間は見た?」
ウサ丸はすぐに顔を横に振った。それを見て、マスターは溜め息をつきながら俯く。数か月に一度の見慣れた光景だった。
「……やっぱり、もう人間はあたし1人しかいないのかしらね」
小さな呟きが風に乗って流されてきた。私は何と言っていいか分からず口を噤む。ウサ丸も狼狽えて、その場でころころ転がった。マスターは鼻息を強く鳴らし、次なる質問に取り掛かる。
「それで、おみやげは?」
「キュイキュイ!」
ウサ丸が風呂敷の中身をその場にばら蒔いた。壊れた時計や小粒の宝石。あと、マスターお待ちかねの本が数冊。マスターの表情がパッと明るくなり、嬉しさ余りかウサ丸をころころ転がした。
「やるじゃないのウサ丸!これ状態の良い写真集よ!!やるじゃないのやるじゃないの!!」
「キュイ!?きゅきゅ~!!!!」
高速回転させられたウサ丸が悲痛な声を上げるが、マスターがあまりに嬉しそうなので助けには入らない。ウサ丸、がんばれ。たぶんそのくらいじゃ壊れないから大丈夫。
やがてウサ丸を転がし飽きたマスターは、ガーデンチェアに座って新しい本を読み始めた。陽が落ちてきたので玄関先にカンテラをぶら下げた後、マスターの後ろに立って本を覗き込む。今までの本の中でも飛び切り保存状態が良くて、見開き一杯にカラー写真が載っていた。
「世界の絶景って題名に偽りなしね!これ凄いわ!!水にお城が浮かんでる!!綺麗!!」
「すばらしいですね。どんな技術で浮かんでいるのか見当もつきません」
「キュイ!キュキュキュ!」
ウサ丸も見たそうに飛び跳ねていたので、持ち上げて抱っこした状態で覗き込んだ。マスターは大興奮でページをめくっていく。真っ青な水の洞窟や、オレンジ色の屋根の街並み。沢山の薄桃色の鳥の群やエメラルドグリーンの夜空など、その写真のひとつひとつがあまりに綺麗で、それぞれ独立した世界のような、そんな印象を抱かせる。
「実際に見てみたかったわ。シアとウサ丸の三人でいろんな場所に旅したりしてさ」
マスターがぽつりと呟いて、本の表面をやさしく撫でた。
「いつか行けますよ。三人旅」
私の言葉に、マスターは曖昧に笑って何も言わない。晩ごはんできたら起こして、という言葉を残してマスターは家に入っていく。その小さな背を見送った後、私はウサ丸に向かって頷いた。するとウサ丸は体内に隠し持っていた試験管を取り出し、きゅ、と小さく鳴く。
マスターには秘密のやり取り。試験管に入った液体を小指につけると、暫しの間をおいて不快な臭いの気体が噴き出し、私の小指がドロリと溶けていった。やはり、私の体でも外はまだ無理なようだ。今の所、特別性のウサ丸だけが歩ける世界。
「きゅきゅ~……」
「大丈夫ですよ。ちゃんとスペア用意してますから」
私は自分の指を修復しながらも、ウサ丸に記録された外の毒素を詳しく調べていく。ウサ丸の頭部から飛び出た画面には、沢山の数字の羅列が並んでいて、映像こそないが外の気候や毒素濃度、ウサ丸の辿ったルートなどが分かるようになっていた。この数値を信じるならば、外は少しづつ、本当に少しづつ息を吹き返している。あと500年もあれば私も外へ行けるかもしれない。
修理と調査がひと段落すると、ウサ丸が「キュキュ!」っと鳴いて玄関の方へ飛び跳ねていく。私も後片付けを終えてその後を追う。今日はたくさんトマトを収穫したから、トマトシチューを作ってもいいかもしれない。マスターが喜んでくれるといい。
その夜、マスターは生命活動を停止させた。私のベッドに潜り込んだ状態のまま一切の動きを止めている。まるで人形のように力なく、その肌は陶器のように冷たかった。私は暫し茫然と立ち尽くし、逡巡した後にマスターの服を脱がせた。
マスターの背中にあるくぼみにゼンマイのねじを差し込んで、キリキリねじを巻いていく。限界までねじを巻くと、マスターが小さな寝息をたて始めた。
私がマスターを地面から掘り起こしたその時から、マスターは自分自身が人間で、私の主人だと思い込んでいる。家族を欲しがる人向けの子供役ロボットだと付属の説明書には書いてあった。記憶にブロックがかかっているせいか、マスターも私と同じ存在だと教えても頑なに信じてはくれないのだ。私の考えではおそらくもう、この世界に人は存在しない。
何度も何度も繰り返し調査を続けるマスターを見るのがつらくて、時折、ずっと眠らせておいた方がマスターのためじゃないかと思ってしまう。人間を、親役を探している。そういうプログラムが打ち込まれているのだ。私は人間ではないから親役に選ばれなかった。
私達が世界を歩けるようになるまでまだまだ長い時がかかる。でも、私達には長い時を過ごせる体がある。いつかは行けるはずだ、人間を見つけ出す長い長い旅に。
マスターに服を着せて、私もベッドに潜り込む。今日はたくさん甘いものを食べたせいか、マスターの寝息が少し甘い。おやすみなさい、と呟いて、旅を空想しながら眠りについた。
風が頬を撫でる感触で目が覚めた。半開きにしていた窓からやわらかい風が入ってきていて心地いい。暫しの間ぼんやりと天井を見つめる。ふと見渡してみれば、いつの間に侵入したのかパニカさんが同じベッドで寝ていた。私はごそごそとパニカさんの背中をまさぐり、ゼンマイのねじを入れるくぼみが無い事を確認した。窓の外はちゃんとチュートリアル島の街並み。ホッと胸を撫で下ろした後、隣で眠るパニカさんを起こさない様に静かに起き上がる。時計の針は朝7時。ぐっと体を伸ばした後、物音をたてないようにそろりそろりとキッチンに向かった。
ぼんやりと夢を反芻しながらベーコンエッグを作り、街のパン屋で買ったクロワッサンを並べた。そろそろパニカさんが起きだす頃かと思い、コーヒーカップをふたつ取り出す。どうやら私の勘は正しく、眠たげに目を擦るパニカさんがトコトコ居間に入ってきた。
「おはようございます、パニカさん」
「おはよーシア。あと、パニカさんじゃなくてちゃんとマスターって呼んで」
「はい。すみませんマスター」
いつものやり取りを終えたパニカさんはテーブルに突っ伏したが、次の瞬間ガバリと顔を上げた。ポカンと口を開けて私を見ている。私も同じような表情でパニカさんを見ている。硬直した私達を見て、椅子に座っていたウサ丸が「キュ?」と鳴いて首を傾げた。




