満天夜空の空中散歩
空に散らばった星々が静かな海に映りこんで、まるで島が宇宙と繋がっているかのように見えた。月のない静かな夜。上空はやはり冷えるのか、吐く息が白く煙って風に揺られる。
時折強い風が吹いては、その度に私は無抵抗で流されていく。天と地の間。水晶の翼を広げた私は、飛行訓練とは名ばかりの空の散歩を楽しんでいた。星空がやけに近く見えて、天井に描かれた絵のように感じてしまう。手を伸ばしてみるも当然届くことは無い。上昇しては落下して、そして風に流されていく。
空を飛んでみたい、と思った事のある人はたぶん多いだろうと思う。自由への渇望だったり、逃避だったり、または交通手段の一つとして。私もそんな一人で、そして妙な経緯で飛べるようになってしまった。水晶製で淡い光を放つ綺麗な翼。いざ飛べるようになってしまえばあっけないもの、と格好つけたいところだけど、私は今、超はしゃいでる。
高度を上げ過ぎると体が凍りつく、と何かの映画で見たので、その点に気を付けながら夜を泳ぎ回る。何だかんだ翼が生えてから今日まで、あまり飛ぶ機会に恵まれなかったのだ。空中で無駄に錐もみ回転してちょっと気分が悪くなったけど、それでも最高。最高と言う他無い。私は口を押さえながらよろよろ飛んだ。
外壁の上のランニングはいい訓練になるとイチカさんに教わっていた。ゆえに丁度いいと思い、外壁の上に降り立つべくふわふわ飛ぶ。その時、外壁の上にぽつんと座っている一人の少女に気付いた。外壁の手すりに腰を降ろし、街明かりをぼんやりと眺めている。もしちょっとでも体勢が崩れれば、5メートルほどの高さの外壁から真っ逆さまに落ちてしまうような危うい位置である。
街を眺めるその少女の目に、どこか既視感を覚えた。憧憬、渇望、虚無。少女の視線を追ってみれば、そこには街の建物群から漏れ出る無数の窓明かり。ぎゅっと胸が痛くなる。想像でしかないが、あの小さな公園にいた時の私と同じような気持ちを抱えているのではないか。
私が考え込んでいるうちに、少女が手すりの外側に降り立った。もしや飛び降りる気では。私は一気に顔を蒼くした。チュートリアル期間は死から逃れることが出来る。いまにも落ちそうなあの少女が自殺を試みても、痛みはあれど命を落とすことは無い。それでも、ここで放っておけるものか。
「あの!!!」
私は宙に浮いたまま少女に声をかけた。その声に気付いた少女が振り返り、私を見て目を丸くした。少女の腰元ほどもある長い金髪が、夜風に煽られてふわふわ踊る。自殺を止める、という初シチュエーションに私は大いに緊張し、うまく言葉が続かなかった。そんな私を凝視しながら固まっていた少女が、おもむろに口を開いた。
「……てんし?」
おそるおそるといった口調で少女が言う。
「……天使さん、天使さん。わたしも飛んでみたい」
少女が私の目を見つめながら言った。期待しているのか、どこか熱っぽい目をしている。どうしよう。なんか天使って呼ばれてるけど、これ否定したら落ち込んで飛び降りてしまうんじゃないだろうか。困る。飛びたいらしいが、腕を持ち上げて飛ぶってのじゃダメだろうか。
「わたしも、あなたみたいに飛びたい。飛びたいな」
抱えて空輸はダメらしい。どうしよう。無理ですなんていったらそれこそ物理的に飛び降りるのではないか。
「あ、あの。とりあえずそこは危ないので、こっちへ」
「ん?うん。分かった。分かったよ?」
少女は軽い動作でトンッと手すりを飛び越えて、外壁の通路に降り立った。私もふわふわ高度を落とし、少女の目の前に立つ。少女少女と言っていたけれど、私よりも頭一つ分大きい。真っ直ぐなロングヘアーの金髪が、赤いワンピースの上で揺れている。とりあえず自殺の危機を救ってホッとしたが、それでも問題解決に至っていない。頭ごなしに、自殺、だめ、と言っても意味はないだろう。心を開いてもらって、そしてさり気無く悩みを聞くのだ。
少女がキラッキラした目で私を見てくる。あれ、なんか生命力に満ち溢れている気がするのだけど、気のせいだろうか。この子の望みは翼だ、翼を生やして飛びたいらしい。もしかしたら、という方法が一つだけある。もし成功すればこの少女は心を開いて、そして悩みの内容を教えてくれるはず。そしたら私は何処までだって力になりたい。
「まず、一つだけ。成功するか分からないです。でも、強く、強く想像してください。翼をです」
「わたしも飛べるの!?分かった!分かったよ天使さん!」
少女がガシッと私の両手を掴み、そしてそのまま瞼を閉じた。予想外の体勢で戸惑う。なんだかすごい力で握られているけれど、なんとか力を振り絞り手の隙間を空けた。そして水晶短剣を呼び出す。
「……?天使さん、これなに?なにかな?」
「ね、願いの短剣です。さあイメージです。翼のイメージですよ」
目を閉じながら首を傾げる少女に、私は適当に説明した。少女はニコニコしたまま頷き、うんうん唸って集中した。でもなぜだろう。少女は手を繋いだままグイグイ近づいてくる。たまに手を引きよせようとしてくるし、謎ばかりである。
気を取り直し、私も目を閉じて集中した。どうにか上手くいって欲しい。失敗したら人命に関わるのだ。本気出せ。覚醒の時。冷や汗を流しながら少女の翼をイメージし、私は、少女と【夢】を混ぜた。
赤い光を感じて、ゆっくり目を開ける。少女も私と同時に目を開けた。少女の背景が赤い光に染まっている。お互いに目を見開いて、固まる。
「……翼が……」
「……え、え?え?」
手が解けたので、少し離れて観察する。いつの間にか少女の背から、赤い光を放つ立派な翼が生えていた。ふわふわした天使みたいな翼だけど、全体的に赤黒く染まっていて赤い粒子を放っている。成功した、ともろ手を挙げて喜べない。どうみても禍々しい印象なのである。よく言えば堕天使。素直に言えば覚醒した邪神の眷属。
「や、やったー!!すごいすごい!!天使さんすごい!!わたし羽生えた!生えたよーー!!」
ばふっと抱きしめられた。私の顔を胸に抱きかかえる図である。どうしよう、困る。そんな禍々しくてもいいのだろうか。どうしよう、着やせするタイプだ。困る。
「カッコいいなー!!天使さん天使さん!飛ぼう!!お空であそぼ!!」
「あ、あの、とりあえず離してもら」
「じゃあ行こう?行こう!!いざ空へー!!!!」
全然話聞いてくれない。風圧で飛び立った事に気付く。少女が赤い翼をはためかせて、私を抱きしめたまま宙に飛んだ。この子のテンションが破裂してる。本当にさっきまで自殺しかけていたのだろうか。困惑が絶えない。少女は笑いながら錐もみ回転を始めた。待って。それ体調悪くなる。と言うかどうしてそんなにいきなり飛び回れるのか。
「は、離してー!」
「ん?はい!!分かったよ!!」
錐もみ回転のまま、砲丸投げの要領で私は高高度に打ち上げられた。縦横無尽に振り回されて、吐かないように口を押えながら自由落下に身を任せる。とりあえず高度を落とさないと風が辛い。寒い。寒いを超えて痛い。
「ご、ごめんね天使さん!!つい嬉しくって!!」
体を縮めて落下する私の隣に、同じく羽を縮めた少女が落下している。言葉とは裏腹に、その表情は嬉々満面に艶めいていて、嬉しさ余りか赤く上気していた。街明かりが遠すぎて目立たない。どこまで高く飛び上ったのか。
「もう少し下で遊びましょう!高いと寒いですからね!」
「はーい!!!!」
苦笑い交じりの私の言葉に、少女は目を輝かせたまま何度も頷いた。風が邪魔で話しづらいが、息がかかるほどに近い距離のおかげで声が届いた。高校生くらいだけど、どこか子供っぽくて憎めない。手のかかる妹みたいで、少し頬が緩んだ。
青白い私の翼と赤い少女の翼が夜空を横切る。満天の星と、それを映し出す海との隙間。上下左右に星の海。遠目に街明かりが見えることだけが、ここが宇宙ではない事を物語る。
少女が飛行しながら海の表面に足先を付けて、小さな飛沫を舞い上げる。その水を喰らった私は、少女を追い越して大人げなく反撃した。流れ星が通り過ぎて、空と海の境界線でくっ付いて消えていった。
楽しそうな少女につられて、私もどんどん楽しくなっていく。
「空を飛べる子出ておいで。いっしょに遊ぼう」
短剣に、もしくは自分の中に声をかけた。
待ちわびていたのか、私の周囲から謎生物が一斉に噴き出した。蒼く光る透明な魚群。七色原色の小鳥達。空を駆ける小さなヒツジの群。無理やり出てきたのか、大きな紙飛行機にのる猫たち。それぞれが光っているせいか、辺りはすっかりイルミネーションに彩られた。
「なにこれ!!すごい!!」
少女はこの光景に感激した様子で、辺りをきょろきょろと見回しながら飛んでいる。私には様々な謎生物が挨拶に来るので、手を振ったり撫でたりとちょっと忙しい。少女の所にも猫が行き、にゃーんと鳴きながら握手をしていた。
踊るように、散歩するように光が回遊していく。謎生物は次第に増えていって、もはやここが現実なのかどうか曖昧になってきた。顔の付いたお茶碗が、私をにこにこした顔で見ている。そっとお茶碗の縁を撫でると、満足げに空へ舞い上がっていった。
「夢みたい。ほんとうに、夢みたい……」
宙に静止した少女が上空を眺めていう。夜空で遊ぶ謎生物は、まるで遊園地に解き放った園児たちみたいにはしゃぎ回って暴走している。
「わたしの夢見た異世界だ。きれいだね。すごく、きれい」
呟くような声だったけれど、私には聞こえた。少女の横顔を見るに、もうあんな哀愁に満ちた目をしていない。なぜそんな目をしていたのか気になるけれど、今更自殺の理由なんて蒸し返さないほうがいいような気がする。ぼんやりと宙に浮いたまま、私達は自由に遊び回る謎生物たちを眺めた。だが無邪気な謎生物に感傷的な空気など意味は無く、やがて私達は大規模な鬼ごっこに巻き込まれた。いつの間に出たのか、ピンク色のクジラが追ってきたのだ。クジラにしては小さいけれど、それでも私は一口で食べられてしまうような大きさである。本気で慄いた私は必死で逃げ、少女は大笑いしながら飛び回った。
「ありがとう天使さん。楽しかったよ?すごく、すごく」
憑き物が落ちたような顔で少女が笑う。私達は疲れ切るほど遊んだ後、元の外壁に戻ってきた。謎生物を夢に帰し、ようやく翼を解除すると少女の翼も消えていった。返事を笑顔で返すと、少女の笑みがますます花咲く。
「天使さんもう一つだけ。わたしと、友達になって?」
ぎゅっと両手を掴まれた。
「……はい。私でよければ」
当然の答えだった。遊んでいて楽しかったし、それにこの子の苦悩が何なのかは知らないままだ。それでも一緒にいて癒える何かなら、答えは一つだった。私の答えを聞いて、少しだけ眦に涙を溜めている。無邪気な子だし、パニカさんとも気が合うんじゃなかろうか。
「わたしの最初の友達。一生の友達。うれしい。うれしい。ずっとだよ?ずっと。やった。邪魔する者は全部切るね?」
涙目のまま笑顔を見せる少女が言った。ん?何か物騒な言葉が聞こえた気がするが、きっと気のせいだろうと思う。ずっと両手を掴んだまま、なぜかぐいぐいと押してくる。顔が近い。逃げようとしてもずっと押してくる。
「エステル様!こちらにおられましたか」
外壁の上の通路で謎の攻防を繰り広げている所に、銀色の鎧をまとった女性が現れた。その女性の後ろにも同じ格好の女性が2名ついている。確か治安維持部隊の女性部門、『女騎士道部』の人達だ。その3名が近づくにつれ、少女から冷えた空気が溢れだす。
「……ん?何?わたしを連れ戻しに来たの?書記君の指示?切られたいの?切るよ?」
「「ひっ!!!」」
「お、お待ちくださいエステル様!!連れ戻しに来たのではなく書記からの伝言です!!エステル様の案を通す故、もう勘弁してくれ!との事です!!!!!」
私は先ほどからのやり取りにいまいち着いていけず、困惑したままずっと両手を握られてる。
「まだ三回くらいしかバラバラにしてないけど、そう、わたしの案が通るんだ。ふふ」
「は!!生徒会事務所の茶菓子撤廃案は取り下げられ、調理部からの試食を優先的に回してもらえるよう手配しているそうです!!」
女騎士の人が震えながら言う。生徒会の偉い人。物騒な事を言う少女。私は冷や汗を流して縮こまる。そんな私の視界の隅、外壁の手すりの上に小柄なくノ一が姿を見せた。
「……探したぞエステル殿。書記殿はもう怒ってないそうだから、安心していいぞ。怒ってないというか、泣いてたが」
「そう。それは良かった。毎日の彩りは大切だからね?みんなのやる気にも関わるし、わたしのやる気にも関わるよ?」
「そ、そうだな。地獄絵図だった生徒会事務所もメイド部に綺麗にしてもらえたし、もう帰還しても……て、シア殿!?なぜエステル殿と!?」
紅葉さんは唖然としながら私と少女を見比べている。少女は掴んだ手をするりと解いて、おもむろに私を背後から抱きしめてきた。
「そっかー。シアちゃんって言うんだね。よろしくねシアちゃん。シアちゃん、シアちゃん。シアちゃーん!シーアちゃん!!」
頭に頬擦りされている。連呼が怖い。
「し、シア殿……。生徒会四天王の2人目を落としたのか……?今度は違う意味でだが……」
「え……、あの、え?」
「あ、シアちゃんて噂の子だね!ヨモギを飛ばした『強欲』の飼い主!へ~そっか~。じゃあわたしも『強欲』と仲良くするよ?切らないよ?でも切って欲しい人がいたら教えて?死なない様に切り続けて、死んだら教会で待ち伏せて切り続けるの。ね?」
ね?じゃないが。この子、生徒会のヤバい子だ。三日に一度人を切らないと手が震えるとかいうヤバい子だ。あの時と髪型違うから気付かなかった。どうしよう。物騒な単語のオンパレード。というか出会った当初の悲しげな目はお菓子問題についてなのか。ものすごい力で抱きしめられている私を、紅葉さんが沈痛な面持ちで見てくる。
「エステル殿、とりあえず事務所に帰って書記殿に合ったほうがいいだろう。直接話し合わねば和解とは言えまい」
「ん。分かったよ。それにシアちゃんを蹴ったらしいヨモギも切らないといけないし。とりあえず二等分?」
「待て待て待てエステル殿!!あれは模擬戦だしシア殿も納得済みだ!シア殿も何か言ってくれ!」
予想外の事態に顔が青ざめる。ヨモギさんはあの後謝ってくれたし、同時に私も謝った。このままではヨモギさんのお団子が半分になってしまう。
「え、エステルさん!ヨモギさんは、いい人です」
「ん!シアちゃんが言うなら切らないよ?ヨモギは切らない」
女騎士さん達はホッと胸を撫で下ろし、紅葉さんは切り替えの早すぎるエステルさんを見て溜め息をついた。エステルさんは私を抱きしめたまま持ち上げて、そのままスタスタと歩いていく。そのまま外壁の階段を下りて街を歩く。紅葉さんと女騎士さん達は何か言いたげな顔をしながらも何も言わない。
「あの、その、私は何処に行くのでしょうか」
言うと、エステルさんは渋々、本当に渋々私を解放した。野に解き放たれた私をしょんぼりと見つめる。また会える旨を伝えると、笑顔満点で手を振ってくれた。何度も振り返りながら手を振るエステルさんは、人を切らなければとてもいい子だとしみじみ思う。人を切らなければ。でもとりあえず友達ができたのだ。友達が増えた。やはりシア殿は変人ホイホイか、とでも言いたげだった紅葉さんの目を、私は意識の外に追いやった。極力余計な事を考えず、私は一心に街路を歩いていく。




