それでも私は立ち上がる
「な、ないんですか」
「……うん。無いね」
私のおずおずとした言葉に、男性は申し訳なさそうに答える。私が唖然とした表情をしたせいか、男性は所在なさそうに身動ぎを繰り返している。私は涙が零れないように、天を仰ぎ目を瞑った。ああ、神よ。私は両手を組んで祈る。神よ、いい加減にしろ。
「……もう一度。もう一度だけおねがいします。念のため」
「構わないよ。どうぞ」
私はカッと目を見開き、テーブルの上に設置されている水晶にそっと右手で触れた。ボーリング大の水晶が仄かに光り輝く。白くて、吹けば消えるような頼りない光。
「白いですね……。これは、【聖】属性でしょうか」
「もう一度言うけど、これは属性無しだよ」
「私は【無】属性って事ですね?」
「……君は魔法が使えないって事なんだ」
私は男性の言葉にうんうん頷いて、おもむろに椅子から立ち上がり後ずさりした。迷宮前の広場の一角で、私の心がぽっきり折れた音がした。折れたどころか粉砕である。私の心は雨模様、なのにこんなに空は晴れている。へなへなとその場に座り込んでしまい、そのまま神に祈りを捧げた。ああ、神よ。私をどうしたい。これではへなちょこ半端ロリの逆チート転生譚ではないか。ひどい。匿名掲示板に悪口書くぞ。私は祈りを捧げながらさめざめ泣いた。
「ちょっと待って!?なんで泣きながら拝まれてるの!?人目が辛いから!!立って!!」
へっぽこ身体能力で魔法無しである。もし転移者最弱決定戦があるなら私は決勝のシード席。限りなく優勝候補。わーい。私はさめざめ泣いた。
「ねえ君!ちょ、……警邏来た!警邏来たから!ぼ、僕は何もしていない!!」
涙拭わぬまま天を仰いだ。何処までも何処までも高く蒼い空。涙で滲んだ視界のせいで、真昼の月が揺れている。せっかくの異世界なのに、ろくに戦えない私はどう生きてゆけばいいのか。生産系は不器用な私に勤まるとは思えない。なにより人が怖い。テンションが奈落の底まで落ちていく。圧倒的無力。やがて属性鑑定してくれた男性が別の男性に連れて行かれた。肩を組んでいる辺り友達なのだろうと察する。友好関係を見せつけている。踏んだり蹴ったりである。
ふと気づけば、戦士風の女性が跪いていた私の背中を撫でてくれていた。慰めてくれているらしい。やさしい。少し気持ちを持ち直して、しゃくり上げたままお礼を言い、そそくさとその場を辞した。
泣いたまま街を歩き、泣いたまま謎の串焼きを買って、小石に躓いて謎の串焼きを落として増々泣いた。少女の体になってから、何かあるとすぐに泣くようになってしまった。涙腺が緩んでるどころの話ではない、全開である。たぶん箸が転がっても泣く。涙の数だけ強くなれたらなら数年後は宇宙の覇者。
今日はもう迷宮に行く気力が無くなってしまった。今日はもうスライム踏まない。気分転換を図ろうと、そのまま街を散策することにした。
黒いリュックサックに付けているカンテラが、私の歩調に合わせてカタッカタッ、と小さく鳴る。今日は迷宮に入らないと決めた今、準備万端な探索道具がなんだか忌々しい。ふんふん鼻息荒くして街を歩く。細い路地を歩いたり階段を上ったり下りたりと私の行軍は止まらない。真っ白な路地が方向感覚を徐々に狂わせ、私はあっという間に迷子になってしまった。
自分が何処にいるのか分からない、という感覚は、案外簡単に人の平常心を奪い去る。でも私は、意外と迷子の心細さは嫌いじゃない。日常から外れたその一瞬だけは、自分が抱えた色んなしがらみを消し去ってくれる。帰り道がふつりと途切れた後、川に流れる草船のように揺蕩うのが好きだった。石版を呼び出せば地図の機能もある。でもそんな気分でもなく、私は自ら路地の中に迷い込んでいく。
そういえば、とふと気づく。唐突に我が身に降りかかったこの異世界転移は、どこか迷子と似ているのだ。とても心細いのに、同時に肩が軽くなったような、そんな心持。不思議と私は、元の世界に帰りたいとは一切思わなかった。私を心配するような人はそもそもいないが、それでも故郷への未練が微塵も湧かないのが不思議である。身体が変わった時に、もしくは、名前を失った時に私は何か変わってしまったのだろうか。
キュウッ、と何処かでねずみの鳴き声のような音が聞こえた。立ち止まって音の方向に目をやれば、路地の日陰に一つ目の黒い毛玉がいた。スイカくらいの大きさのその生き物は、涙目で辺りを見回しているように見える。異世界に来てたくさん見かけるようになった不思議な生き物シリーズ。魔物は迷宮の中にしかいないはずだから、あの黒毛玉は誰かの使い魔なのだろう。黒毛玉は誰かを探している様子でうろうろと転がっている。不器用に移動する様がなんだかかわいい。私と同じ迷子だろうと察した。
撫で回してみたいと思いふらふらと近寄ったが、横の路地から駆けてきた少女が黒毛玉を抱きしめて確保した。もふっと顔を埋めた少女に黒毛玉が気付いて、キュッ、と安心したように鳴く。よかったね、と思うのと同時に、誰かに探してもらえる黒毛玉を少し羨ましく思う。
跳ねるように歩き去っていく少女と黒毛玉を、私は静かな気持ちで見送った。私の視線に気付いたのか、黒毛玉が私を見てキュッ、と鳴く。やがて入り組んだ路地の向こうに消えて見えなくなった。
石版を呼び出して現在地を確認し、私は颯爽と踵を返した。黒毛玉は鳴いて飼い主を呼び、自らの足でちゃんところころ移動したのだ。私も努力せねばなるまい。迷宮に潜る準備はもともと完璧だ。腰にはちゃんと短剣を吊るしてきている。もしもの時の携帯食料もリュックサックに入っている。戦えないと諦めるより先に当たって砕けるのだ。今日この時から私の物語が始まる。ずんずんと行進し、やがて見えてきた迷宮入口を睨み付けた。
迷宮の転移陣部屋で転移ルールを口頭で説明していたライオンが沈痛な面持ちで見てくる。ライオンの顔をした獣人の男性が、何かを言いかけては口をつぐむ。その目は心に刺さる。やめてください。この男性もまさか『そんな装備で大丈夫か?』『大丈夫です。問題ありません』のやり取りをドヤ顔で行った少女が迷宮入場後僅か3分で泥だらけの涙目で帰ってきた事に言葉も無いのだろう。唯一の短剣も無くした。この惨状に至る経緯を想像できなくてもしょうがない。
刹那の出来事だった。迷宮2階層の森に転移した私は、すぐ近くに昨日の怨敵がいる事に気づいた。ウルフである。昨日手も足も出なかった事実が脳裏をよぎり、若干手足が震えていた。それでも、今はこんなでも私は男なのだ。戦わねばならぬ時がある。今がその時だ。短剣を鞘から抜きヤクザ映画のカチコミの如く構え、走りだし、転がる。割と距離があった筈なのに軽快にころころ転がり続けウルフの足元に辿り着いた。短剣はどこかに吹っ飛んだ。ウルフは困惑を隠せない様子。正直私も困惑が隠せない。やがてウルフは気を取り直したのか、仰向けの私の顔を前足で踏み、勝鬨の声を上げた。それでも諦めなかった私は、即座に勝利への道筋を思い描き、全力で、撤退したのだった。完。
大勝利だ、と一人ごちて勝利の美酒で喉を潤す。人間ってのは生きてるだけで勝ちなのだ。確かにウルフは倒せてない、武器も無くした、だかそれでもあの激しい戦いの中で生き延びた。これが勝ちと言わず何を勝ちと言う。3年間は生命の保証がされているのだからずっと自動的に勝ち続ける。これが勝ち組か。僅かに鼻を啜りながらもぐいっと美酒を一気飲みする。石版通販でみつけた柚子酒。ほの甘くておいしい。異世界に柚子あるのか。色々疑問に思いながらもずるずるパスタに似た何かを食べ終えて、ボフッとソファに横たわる。
窓の外は夕暮れ時の赤に染まっていた。東の空に一際輝く暁の星。涼やかな夜虫の鳴き声が、1日の終わりを告げているかのように静かに響く。すっかり動く気力の無くなった私はソファに溶けこむようにへばり付いていた。ぐでんと仰向けになった私は、その体勢のまま左手を伸ばし、カーペットに落ちていた小さな物体を取った。黒い長方形の石。見た目といいサイズといい携帯電話に酷似している。
名前:未登録
技能:気配遮断 2
索敵 1
白く浮かび上がる文字は、私の名前とスキルを表示した。自分で名付けることが出来るであろう箇所には「未登録」と表示されている。ほとんど誰とも交流していない私は名前が無くても不便は無かったのだ。でもいつかは必要になるだろうと思い、出来るだけ男心を忘れぬように中性的な名前を思案している。技能、というのはスキルの事だ。私が最初から覚えていたスキルは2つ。【気配遮断】は文字通り影が薄くなり、【索敵】は周囲の気配を探る。双方ともぼっちに相応しいと言わざるを得ないスキルである。この2つだけが今の私の生命線。横の数字はスキルレベルらしい。最大が10まであって、5で達人と呼ばれると『異世界への手引き』で知った。私は未だにただ影の薄い人レベルだと言える。
夜の帳が降り始め、夕暮れが青く深く変化していく。部屋は既に薄暗く、窓からのぞく景色がテレビみたいに見えた。広場の方から歓声が聞こえる。転移者達は日が落ちると決まって集団で酒盛りを始めるのだ。異世界に来たという事実に、1週間経った今でも喜びはしゃいでいるのだと思う。
夜の喧騒を聴きながら、瞼を閉じた。チュートリアル島はお祭り騒ぎみたいな日々が続いている。迷宮の最前線をゆく強者が巨大な魔物の素材を掲げ、その度に宴が開かれる。生産系の人が次々に店を作っていき、街がどんどん発展している。人が集まって組織を作り、イベントの開催まで計画しているらしい。なんだか私だけが取り残されているような気持ちになるが、それでもまだ諦めてはいない。まだまだ出来る事はあるはず。斥候の道もいいかもしれない。
石版通販で新たな短剣を購入し、テーブルの上に置いてから、私は眠りについた。