ようこそチュートリアル島へ
はあ、とついた溜め息が白く煙る。ゆらゆら宙に浮かんだ息が夜空に溶けてゆく。森を抜けるまで走り続けていたせいか、足が小鹿のように震えていた。周囲を見渡して安全を確認し、私はぺたんと草原に座り込んだ。その際、さらりとフードからこぼれた金色の長い髪を、少し乱暴な手つきでフードに仕舞い込む。
「2階層は私にはまだ早かった……」
私がぽつりと独り言を呟いたちょうどその時、まるで私の言葉に答えるかのように、森の方向からウルフの遠吠えが聞こえた。ウルフが勝ち誇っている。私は奴に手も足も出なかったのだ。それどころか戦いにすらなっていなかった。奴は私のナイフをするりと避けてはパンチを繰り返してきた。パンチだ。ウルフが噛み付きではなくパンチって。
ぼこぼこにされたあげく転ばされて、私の後頭部に前足を乗っけた奴はその場で勝鬨の声を上げた。完全に遊ばれた私は涙目で逃走するほか無かったのである。
月明かりに照らされて、私の白いローブが青白く光って見える。仲間だと思われたのか、仄かに光る光虫がふわふわと寄ってきた。すっかり消沈した私には、それが慰めてくれているように感じ、若干目頭が熱くなった。虫に救われる私。増々落ち込んでくる。涙目の進行は止まらない。
頭を振って気を取り直す。いつまでもここに居てもしょうがないと立ち上がり、握りっぱなしだったナイフを鞘に戻して、颯爽と出口に向かった。
迷宮を出てみれば外はまだ日が高く、お昼を少し過ぎた時間帯だった。迷宮に入るたびに迷宮内の不思議な景色に驚かされる。迷宮の中に空があったり森があったり、私はまだ見たことは無いが天空の都市まであるらしい。実に興味を惹かれる。でも私は今日2階層に着いたばかりのへっぽこなので先は遠そうだ。
迷宮への転移陣がある建物は巨大な神殿風で、ちょうど街の中心に位置している。迷宮前には噴水広場があり、私以外の転移者達がくつろいでいたり仲間を募集していたりと賑々しい。広場には屋台や露店がいくつも立ち並び、音楽を奏でている人達もいるので、ここに足を運ぶたびにまるでお祭りのような気分になる。
私は人目が気になりフードを深くかぶり、丁度空いているベンチを見つけていそいそと座る。いつも人が多いので競争率が高いのだ。
「ボード」
私の言葉に反応して、空中に正方形の透明な石版が現れた。左手で掴むと実体化して、黒い色になり重みを増す。私はその石版に今日の戦果、スライムの魔石を3つ入れた。石版に近づけるとふわっと消えるのだ。
+1500ポイント 計18万2800ポイント
石版の下方部に今日の稼ぎと残金が表示された。1500ポイントは日本円で換算すると1500円分。1日の食費は稼げた事になる。魔物の中で最弱のスライムは踏めば死ぬ悲しい生き物だ。今日は三匹踏んだ。迷宮1階層に生息し、一匹踏めば安いご飯が食べられるせいか、競争率が激しくて三匹でも多く踏めた方である。全然自慢にならないのだけれど。
はぁ、とため息ついて、とぼとぼと帰路に就く。武器を持って戦う、なんてことは純日本人たる私には経験が無かったのだ。異世界に順応しようと奮起して迷宮に潜ってみてはいるけれど、私に倒せるのは踏めば死ぬスライムくらいで、2階層の森に生息する野生のウルフには手も足も出ない。一方的だった。パンチされて転ばされて踏まれた。勝鬨を上げられた。そもそも刃物で刺すのは勇気がいる。時折私を通り過ぎていく他の転移者はウルフの毛皮を沢山担いでいて、その順応性の高さに驚くばかりである。
真っ白な壁にパステル色の屋根がついた家が建ち並んでる。そんな街の様子を見て、まるでおもちゃみたいだと思う。海外の写真で似たような街を見た事あるような気がする。街の一角ではエルフの女性がビラ配りをしていて、そのビラを二足歩行のクマが受け取っていた。翼の生えた男性が空を飛びながら無地の看板に絵を描いていて、その様子を小人たちが興味深そうに眺めている。みんな例外なく、私と同じ転移者だ。
私がいるこの街には転移者しかいない。小さな島にある転移者だけの街。石版で読むことが出来る『異世界転移への手引き』によれば、今この世界にはこの島しかなく、現地人などは誰一人として存在していないらしい。この島は言わば地球と異世界の狭間の世界。唐突に魔物蔓延る異世界へ連れてこられてもアレだろう、と配慮した女神様が、転移者達へ3年間の準備期間を与える場所。たしかに下積みもなく経験も知識も心構えもない状態で放り出されるのはあまりにも危険だろうと思う。女神様曰くここは『チュートリアル島』という名前である。実に分かりやすいけれど、そのネーミングセンスに物申したい。
チュートリアル特典は5つ。死亡しても期間中は教会で復活する。期間中のみスキルの成長率が常人の数十倍。いずれ固有スキルに目覚める。自宅の貸出。石版通販。
スキル。その文字を石版で見た時、ゲームか、と盛大に突っ込んだ。異世界転生物の小説でよく目にするやつだ。転移者達は3年間、このスキル強化に努めていく。私も頑張ってはいるけれど、いかんせんへっぽこなので戦果はイマイチだ。固有スキルというのは、所謂チートと言うやつだろうと予想する。いかんせんへっぽこでぼっちの私には確かな事は分からないのだ。石版通販というのは、石版のポイントで食品や雑貨、武具等を買う事ができる。魔物を倒して魔石を手に入れ、石版でポイントにして食糧を買う。至ってシンプルな構図である。そういう所もどこかゲームじみている。
そんなチュートリアル島に、二千人はいるであろう転移者達が一週間前に飛ばされてきた。そのうちの一人が私だ。元々転生物の小説を読んでいた私は集団転移による治安の悪化などを不安に思ったが、全然まったく平和なものだった。みんな異世界を謳歌している。
私の家がある西居住区は高低差があって、あちこちに階段が備え付けられている。おもちゃみたいな家が折り重なっていて、それこそ引っくり返したおもちゃ箱みたいな有様である。細かい路地が無数にあって、まるで迷宮みたいだと日々思う。そんな迷宮住宅街の一番高い所に私の家が建っていた。長い長い階段を上った先のてっぺんに、真っ白い正方形のお豆腐が建っている。屋根の代わりに屋上が付いた、お豆腐としか言いようのない愛しの我が家。
「ただいま」
玄関を開けてすぐのリビング。バッグを放り投げて備え付けのソファにダイブした。俯せの状態で、おかえり、と呟く。しんとした我が家に私の弱弱しい声が響いた。あのにっくきウルフの事を思い出して唸っていたら、自分の髪が泥で汚れているのに気付いた。胸下くらいに伸びた金髪に泥や葉っぱが絡み付いてる。眉の皺を深めて復讐を固く決意した。奴は一匹の復讐鬼を作り出したのだ。
「私は32歳。物流加工食品部の物静かな青年だ。名前は覚えてない」
お風呂で体を綺麗に洗った後、脱衣所の姿見を見ながら私は言った。全裸仁王立ちで鏡を睨み付ける。
鏡の中には前髪ぱっつんキラキラ輝く金髪ストレートの少女がいる。トロンと少し眠そうではあるもののそれが逆に癒しを感じさせる大きく蒼い瞳。小振りで整った鼻、桜色に色付いた小さな唇。14才くらいだろうか、子供と大人の中間くらいで線が細く庇護欲をそそる。ぱっと見の印象でいえば『不思議の国のやる気のないアリス』とか『睡眠に対して積極的な姿勢を見せる眠り姫』といった感じの美少女である。かわいい半端ロリ。そんな少女が鏡の中で全裸仁王立ちしている。どうやらこちらを睨んでいるようだが、欠片も迫力が無い。
威風堂々たる風情で姿見の中の少女を睨み付けているつもりなのだが、何故か鏡の中の少女は涙目で困ったような表情になってきている。その姿が情けなくて涙がでそうになる。ますます鏡の少女の涙目が進行する。
私は、異世界に転移したと同時に、金髪少女になっていた。吾輩は洋半端ロリである。名前はまだない。チュートリアル島に来てから既に一週間。いまだに自分の姿に慣れなくて鏡を見る度に驚愕する。街を歩くたびにまるで女装してるような心持になるのだ。もちろん地球で女装なんかしたことは無いが。私は異世界に来て名前を失い、ついでにマグナムも失った。生まれた時から片時も手放さなかった自慢のマグナム。思い出してほろほろと涙が頬を滴る。
転移者はチュートリアル島に到着すると同時に魔力のある体に変化するものらしい。確かに他のみんなは獣人になったり角が生えたり奇抜な髪色になったりしていたが、私は性別が変わってしまったのだ。たいそう驚き、初日はずっとおろおろしていた。島の草原で目覚めておろおろし、用意された家に着いてもずっとおろおろしたまま過ごした。『異世界転移への手引き』で調べた限り、魂や性格に適した人種および外見になるとの事。解せない。どうみても今の私はメルヘンでゆるふわガーリィと言う他無い。私はクールで孤独なナイスガイだと自負している。一人称は仕事柄元々だ。まさか『私』という一人称の所為で少女にされたのだろうか。何にせよ解せない。
着替えて居間のソファに舞い戻った私は、はぁ、と深い深い溜息をついた。今日はずっと溜め息ついてばかりいた。溜め息でポイントが溜まる仕様なら今頃私は大金持ちだ。御大臣である。控えおろう。
ぴーちょんちょん。ぴーちょんぴぴぴぴぴ。
異世界特有なのか、やたらに丸く太った鳥が私をばかにしたように鳴いてる。窓を開けて威嚇したが、ぴぴぴぴ、と鳥に笑われた。くそう。
悔しさを誤魔化すかのように、私はおもむろにナイフを取り出し素振りした。私は少女の体になって随分非力になってしまった。剣が重くて持てない、弓の弦が固くて引けない、箸より重いもの持てない。ゆえにナイフである。箸より重いはずだがこの際気にしないのだ。シュッシュッとへっぴり腰でナイフを振り回す。自慢じゃないが、今の私は他の転移者達にくらべても最弱に位置してるだろうと思う。それでも、諦めたくはないのだ。最弱がチートで最強になるっていうのが小説だとよくある展開だけれど、内心少しは期待しているけれど、でもこれは現実なのだ。地力を上げなくては強くなれない。生きるために強くなるのだ。
それに、強くなれば他の転移者に尊敬されるかもしれない。そしたらパーティーに誘われるかもしれない。共に戦うのだ、それはもはや友達と言える。友達ができる。人見知りのせいで転移して以降誰とも喋っていないけれど、強くなれば自動的に友達が出来るのだ。私には魔物と戦うより他人と話す方が勇気がいる。せっかくの異世界転移、このチャンスを活かすのだ半端ロリよ。一層ナイフを握る手に力が入る。
ここは私に任せて皆さんは先へ!
お前にだけいい恰好させるかよ!
友達の命を救うためにただ一人魔物の群れに立ち向かおうとした私の横に、ニヒルに笑う戦友が並ぶ。そんな場面を想像して、眦に涙を溜めながらナイフを振う。そんな私の姿を見て、やたらに丸く太った鳥がばかにしたようにずっと鳴いていた。