ミハイルと慣性相殺
私は指示通りマリアがD2に入った後、扉を閉鎖しました。その間、ミハイルは医務室に向かい、そこでリーナの死亡診断を行って、クライオニクスではなくエンバーミング処置を施しています。
格納庫の隅で発見されたリーナは、すでに全身が凍りつき、体内の細胞が蘇生不可能なまでに破壊されていたからです。
死因は窒息、死亡推定時刻は10時間前とされました。ミハイルはリーナの死体が入ったタンクを運び出すと、救難艇に積みこみました。
それからAI頭脳室に来ると、タキオン通信を破壊、これは最も単純で効果的な手法、通信機器のカバーを切断し、内部に有機溶剤を流しいれることで行われました。その後手動でCPU室の冷却循環を停止させ、10分後にはCPUが高熱を感知し私は非常停止しました。
ブラックボックスには、この直後、救難艇のAIが作動したことによるブザー音が記録されております。
私がマリアによって再起動されたのはその40分後です。
AIが停止したため、D2の閉鎖も解かれていました。
タキオン通信が回復不能なまでに破壊されていることにきづくと、マリアは恐慌状態に陥って昏倒しました。乗組員がいない場合、命令系統は所属星のコントロールに引き継がれますが、通信途絶状態によりそれもかなわず、私は待機状態になりました。
マリアが目覚めるまで2時間を要しました。それも、自然に覚醒したわけではなく、私が拾った遭難信号のアラートで覚醒したのです。
タキオン通信は壊されていましたが、姿勢制御のための感知は働いていたため、光速度の無線パルス信号を拾えたのです。
遭難信号の発信元は約10億km先でした。船舶コードはシンシア号の救難艇で、ミハイルが乗っていると思われる船です。
マリアにそれを伝えると、血圧と心拍数が上昇、緊張状態になりました。マリアは操舵席に座ると航行に必要なシステムの起動を行いました。
船内環境維持をブリッジに限り、ブラックボックスは直近12時間の音声と位置情報のみ、生活維持も停止。計器類も最低限にして、自動操舵を稼働させました。
シンシア号は遭難信号の発信元へ90分かけて向かい救難艇を発見しました。
救難艇は停止後、エンジンを止めて慣性航行を行っていました。無線通信で呼びかけると救難艇のAIが答えました。そのAIによれば、救難艇はシンシア号から離れた後、タキオン通信を試みましたが失敗。帰属区域方面へ遭難信号を放ちながら準光速まで加速。同時にブリッジの生命反応がロストし、救難艇は緊急停止をした、とのことでした。
マリアは救難艇を格納庫へ収納するよう命じました。収納後、シンシア号も停止すると、マリアは環境維持の範囲を広げて格納庫へ向かいました。
後日、マリアが残した記録です。
『格納庫へ向かい、E5をオープンにしました。中に入ると、すぐに鉄の臭いを感じました。ブリッジへ行き扉を開けると、操舵席から血が滴り落ちているのが見えました。しかし後ろから見た様子では、誰も座ってはいません。床にも少量飛び散っていましたが、それよりもずっと、私の足元が……扉側の壁とその床が血だらけでした。肉片と骨の欠片もあったと思います。学生の頃の資料映像を思い出しました。慣性相殺が働かなかった場合の事故映像です。映像は精巧な模型でしたが、この救難艇ではミハイルが、元の形がわからないほど、ばらばらになっていました。エリカがリーナの遺体も乗っているというので、探しました。別室にタンクがあり、タンクもまたひしゃげていました。中はミハイルと同じです。誰かもわからない状態でした……』
マリアはミハイルが自殺をする可能性は万が一にもないと考えていたようです。
私はマリアに命じられ、救難艇のAIを調べました。すると、タキオン集積部に穴があけられ、さらに慣性相殺のシステムプログラムが一部書き換えられているとわかりました。書き換えの内容は進行軸に対する慣性相殺の値をマイナスにし、その危険がAIに検知されないようにするといったものです。つまり、加速する値が大きければ大きいほど、本来かかる加速度の2倍以上が働きます。
慣性相殺システム自体は正常に働いているので、AIは命令通り加速してしまったのだろうと考えられました。
マリアは誰がそれを行ったかについては言及しませんでした。救難艇のAIは、最も準拠するべき人間への安全性を欠いたと認識すると、自動的に停止しました。
マリアは私に手順を指示させ、救難艇のAIから演算部を取り外し、シンシア号のAI頭脳室に入ると、それをCPUに加えました。
マリアは私に所属星系への帰還を命じました。
もちろん、亜光速航行だけでは月時間で10000年、船内時間でも1000年以上かかるので、アルクビエレ・ドライブを用いての航行です。寄り合わせの演算領域では十分な出力は出せないので、短距離短時間の運用を繰り返し行い、約8760時間、月時間で1年かけて戻る計画を立てました。
不幸中の幸いか、食料等、4人分の貯蓄があったため、帰還までマリアの生命維持は可能だったのです。
先ほど見せた2つのマリアの映像は、この1年の航行中にマリアが残したものです。
ブラックボックスが記録できなかった部分と、自動操舵のため直近一時間しか残らなくなった救難艇の事件後を補うために作成されました。




