99 前夜
今まで屋敷で受けていた講義も私の入学と共にすべて終了する。すでに魔術と礼儀作法は、最後の講義を終えていた。
魔術の講師は、最後まで私が満足に魔術を使えなかった事を悔やむよりも、アシリカに教えられなくなる事の方が残念そうだったけどね。
そして、礼儀作法の講義。マリシス様の厳しい講義が終わるとあって、寂しいより、ほっとしたのが正直な気持ちだった。だが、最後にマリシス様の言葉にそんな気持ちも吹っ飛んだ。
「では、学院に入ってからは、引き続き私が王太子妃教育を担当しますから」
どうやら王太子妃教育の担当者にマリシス様が指名されたようだっだ。
「侍女の二人も、王太子妃の侍女となるのです。公爵家の侍女と同じと考えていてはいけません。あなたたちも一緒に頑張るのですよ」
マリシス様の満面の笑みにアシリカとソージュも顔を引きつらせていたな。
有無を言わせないマリシス様の迫力に私たちは頷くしかなかったな。マリシス様は、いい人だけど厳し過ぎるのよね。
そして、今日がエネル先生の最後の講義だ。
エネル先生は、お世話になったというより、こちらがお世話した気がしてならないが、勉強を教えてくれた事は感謝しなくちゃね。あまり出来のいい生徒じゃなかったけどさ。
「では、これで最後の講義を終わりますね。三人とも、よく頑張りましたよ」
あれ? やけにあっさり終わったな。エネル先生なら、もっと寂しがると思っていたけどな。アシリカとソージュもちょっと意外そうな顔をしているよ。
「それで、ですね。お嬢様たちに報告があります」
「報告?」
まさか、結婚?
「はい。実は、ようやくコウド学院の採用試験に受かりましてね。実は、お嬢様の入学と同時に僕も教師として学院に通う事になりました!」
エネル先生は胸を張り、自慢げである。
「そうだったの! おめでとう! やっと、採用試験に受かったのね!」
なんだ、結婚じゃなかったのか。でも、これはこれでめでたい。
やけにあっさりしていたのも頷ける。
「おめでとうございます」
「良かったデス」
アシリカとソージュもお祝いの言葉を口にしている。
「ありごとうございます。いやあ、苦節五年。ようやくです。それに……」
嬉しそうにエネル先生は、顔を綻ばせている。
「それに?」
おっ。教職に就く事を機に、カレンさんにプロポーズをするとでも言うのかしら。
「お嬢様に会えなくなったら、誰に相談すればいいかわかりませんから」
相談?
「お嬢様は、恋愛の先生ですよ。もし、お嬢様に相談出来なくなったら、どうしようかと必死になって採用試験を頑張りましたよ」
「エネル先生……」
もっと、別の理由で頑張ってよ。それこそ、プロポーズの為に頑張る方が普通だと思うけどさ。採用試験への原動力が私に相談したいからって……。
ちょっとずれてるエネル先生らしいといえばそれまでだけどさ。
「カレンさんも大変ですね……」
アシリカのため息交じりの呟きに全面的に同意する私だった。
そんな訳ですべての講義が終わりを告げると同時に、入学の準備も一通り終わったようである。ようやく屋敷はいつもの落着きを取り戻していた。
そして、いよいよコウド学院へと移る前日の夜を迎えていた。入学式は三日後であるが、寮へはその少し前に入ることになっている。
コウド学院は全寮制である。しかし、学生のほとんどが貴族である。当然身の回りの世話をする者は必要だし、立場によっては警護が必要な者もいる。
その為、寮へは侍女や従者を二人まで、雑用などをする使用人を一人連れていくことが許されている。
私もアシリカとソージュ、そしてデドルを連れていく事になっていた。アシリカたちはともかく、何故デドルなのかと他の使用人に不思議に思われたが、お父様の分かったという一言で問題なかった。
「いよいよか……」
私は一人部屋で窓から暗くなった外を眺めていた。
ついに入学の時を迎えるのだ。それは、今まではどこかまだ先の事だと考えていた私の断罪を待つ未来が、確実に近づいてきているのを実感するに十分だった。
不安が無いと言えば、嘘になる。断罪されて、命を失うかもしれないのだ。不安に思わない方が不思議である。
そうなったら、アシリカやソージュらはどうなるのか。彼女たちだけは無い。デドルや屋敷の者、お父様やお母様、お兄さまたちだってどうなるか分からない。普通に考えればただでは済まないはずだ。
転生してしばらくした時もそれは考えていた。だが、今はその時以上にそれを考えると辛くなってくる。それだけ、私はこの屋敷で、家族や皆に幸せを味合わせてもらったからに違いない。
部屋の窓からは、広い庭が見える。
何度この景色を見てきただろうか。それでも、今日の私はこの景色をずっと見ていたいと思わずにはいられなかった。
いつぶりだろうか。ここまで自分の未来に怯えるのは……。そう、正直に言おう。今、私は怖い。この先に待ちかまえている運命が怖い。
白紙の運命と言っても、断罪を避けられると確定したわけではない。どうなるか分からないというだけだ。世直し計画は順調だけれども、一方で断罪回避の対策はまったく何もしていないと言っても過言ではない状況だ。
最近会っていないが、レオとの関係は悪くないとは思う。婚約者同士という甘い関係ではないけどさ。
しかし、いざヒロインが現れたらそれもどうなるか分からない。ヒロインは私の一つ年下だから、来年には学院にやってくるはずだ。その時、レオはヒロインに惹かれ、私を敵視するのだろうか。そして……。
「私の命を……奪いにくるのかしら」
そう口にしてしまった私は、身震いする。
今までに感じた事がないくらいの不安と恐怖が押し寄せてくる。
何故だ? 分かっていた未来なのに、いつかは来る事だと分かっていたのに、何故今になってここまで、恐ろしく感じるのか?
「私は……」
窓に額を押し付ける。
ひんやりとした感触が伝わってくる。
「死にたく、ない」
命が惜しいだけでない。お父様やお母様、お兄様たち家族。
アシリカやソージュにデドル。それにガイノスたち屋敷のみんな。
グスマンさんやトルス。それにシルビア。クレイブら道場のみんな。
二度と会えなくなるのは嫌だ。
「ああ……、そうだったのか……」
これは、未練だ。
まだまだ皆と一緒にいたいんだ。
キュービックさんやエディーやニセリアたちにだってまた会いたい。
ジェイムズが立派にアトラス領を豊かにするのも見たい。
私が助けた人たちが幸せになっているのを見たい。
馬鹿な事やって、笑って、怒って、泣いて、生きていたいんだ。
「駄目だな、私は……」
一度沸き上がってきた不安と恐怖は私の中でどんどん大きくなってくる。
分かっていた事なのに、今までの生活が充実しすぎていた。断罪の未来を忘れるくらい満たされた毎日だった。
だからこそ未練を抱くのだ。執着が生まれたのだ。
我儘ナタリアと同じ末路を辿りたくない。強くそう思う。
「お嬢様……」
背後からアシリカの声が聞こえる。
「……どうしたの?」
顔にぐっと力を入れて、振り返る。
アシリカやソージュの要らぬ心配を掛けられない。これは私だけの問題だから。
「……旦那様がお待ちです」
そう言えば、お父様に入学前の挨拶をするんだった。
「分かったわ。すぐに行きます」
私は頷き窓から離れる。
「お嬢様」
部屋から出ようとする私をアシリカが呼び止める。
「私はいつもお嬢様のお側におりますので」
ただ一言、アシリカ。
「私も何があっても側にイマス」
ソージュもじっと私を見ている。
「……当然よ。二人がいないと私、何も出来ないからさ」
体から余分な力が抜ける。
さっきまでの、不安と恐怖が小さくなっていく。
彼女たちの事だ。私の些細な変化でも見逃さない。きっと、さっきまでの断罪が待ち受ける未来に恐れおののいていた私の異変に気付いたのだろう。
「お父様の所に行ってくるね」
部屋から出る私を見送る二人にウインクをして、お父様の待つ書斎へと向かう。
書斎に向かう途中の廊下でお母様が一人立っている。
「リア」
「お母様?」
こんな所で、しかもお一人で何をしているのだろう?
「エリックもイグナスも学院に入る前にお父様の書斎に呼ばれたの。その前にいつもそれをこの廊下で見送っているの」
私が来るのを待っていたのか。
「あんな小さかったリアもとうとう入学なのね。随分と大きくなったわ」
懐かしそうに目を細めているお母様は小さい頃の私を思い出しているのだろうか。だが、その頃のお母様が見ていた私と、今目の前にいる私は別物だ。少し複雑な思いである。
「三年ほど前からあなたは、随分と変わったわ。剣の修行だ、動きやすい服だまではいいけど、やる事為す事、どれもこれも令嬢らしくない事ばかり……」
お母様は苦笑して、首を振る。
「ごめんさない」
そうよね、随分お母様にも心配かけきたわよね。何度も騙すように言い包めた事もあったし。
「でもね」
謝る私の肩にそっと手を掛けるお母様。
「そんなリア、私は好きよ」
私に向けるその目は慈愛に満ちているという言葉がぴったりだ。
「お母様……」
私はお母様に抱き着く。
「あらあら。もう入学するというのに、随分と甘えたなのね」
私の背に手を回してお母様も抱きしめてくれる。
「まだ、入学前です」
顔をお母様にうずめ、変な言い訳をする。
そんな私の頭を撫でて、お母様は小さな笑い声を立てる。
「さあ。お父様がお待ちよ」
しばらく抱き着いていた私の背を優しく叩いたお母様が告げる。
「はい」
名残惜しいが、お母様から離れる。
「では、行ってまいります」
私はお母様の見送りを受けて、お父様の書斎へと再び歩みを進める。
「失礼します。ナタリアです」
書斎の扉をノックする。
「リアか。入りなさい」
扉の向こうからお父様の声。
「はい」
書斎では、ソファーに腰掛けたお父様が待っていた。対面のソファーを勧められ私はそこに座る。
「リアもついに入学する年になったか」
感慨深そうにお父様は私を眺める。
「入学は楽しみかい?」
そんな事ある訳ない。けれど、そんな言葉を口にするわけにもいかず、曖昧な笑みを浮かべて頷く。
「そうか……」
沈黙が書斎に横たわる。
いつもと雰囲気の違うお父様に戸惑いを覚える。普段なら、次から次へと話しかけてくるお父様がじっと黙って私を見ている。
「あの、お父様?」
思わず首を傾げてこちらから声を掛ける。
「いやいや、すまない。つい、リアの成長に感じ入ってしまってね」
照れた笑い顔で頬を掻いている。
「でもね、同時にリアには申し訳ないという思いもあるんだよ」
申し訳ない? あれだけ愛情を注いでくれているのに、申し訳ないとはどういうことだろうか。
「我々大人の都合で、王家に嫁がすことになってしまった。貴族の家に生まれた者なら仕方ない部分があるとはいえ、父親としては申し訳なく思っているのだよ」
照れた笑いの代わりにお父様は複雑そうな顔になる。
「貴族の令嬢では、王家に嫁ぐ事を栄誉に思い、喜ぶ者も多くいるだろう。でも、リアはそうではないと感じていてね」
伺うような目で私をお父様が見つめている。
「でしたら、婚約を取り消して頂けるので?」
私も真っすぐにお父様の目を見つめ返す。
「リアの為なら、もちろん……」
言葉の裏側に、すべてを賭けても、というお父様の強い気持ちが伝わってくる。
「ふふ」
しばらく見つめ合った後、私はお父様に笑みを向ける。
「冗談ですわ。私はサンバルト家の娘。いえ、お父様とお母様の娘ですわ。決して一度決めた事を無かった事にするような真似はしませんわ」
「そうか」
お父様もいつもの優しい笑顔を私に返してくれる。
「でもね、リア。これだけは忘れないでおくれ。何があっても、私も、母様もエリックやイグナスはリアの味方だ。私たちだけじゃない。屋敷の者は皆、リアの味方だからね」
私の味方……。
そうよね。私は一人じゃないのだ。家族や私を支えてくれる人もいる。
私は一人じゃない。一人じゃない。そう何度も心の中で繰り返す。
入学が目の前に迫り、少し弱気になっていたみたいだ。ならば、もう一度決意をすればいい。
それは、自分自身の為だけじゃなく、周りの人の為にも。
「ありがとうございます。お父様」
私は満面の笑みをお父様に見せる。
その笑顔にお父様が納得の顔で頷き返してくれる。
白紙の運命、上等よ。
私は私の運命をこの手で切り開くのだ。
断罪など、この手で跳ね返してやる。もちろん、虐げられている人も助ける。
私は欲張りになろう。世直しも断罪回避も全部やってやる。
そう決めた。私はナタリア・サンバルト。
決めたなら、全力でやってやる。