96 レースに事故は付き物です
そんなコースの下見と乗馬訓練を重ねて、あっという間に二日が過ぎた。
そして、レース当日。
「お姉さま! 凛々しいですわ!」
訓練にはついてきていなかったシルビアが私の乗馬姿に歓声を上げる。普段のスカート姿ではなく、ビシッとパンツルックで決めている。白いシャツの胸元にはワンポイントで、ピンクのリボン。
「そう?」
いや、本当は自分でも似合っていると思っている。何度も鏡の前でポーズを決めていたもんね。
一方、ここに来て、登録の変更と私の出走を知ったユタさんとオルラさんは血相を変えていた。
「ミラ! お前は何を考えて……。ナタリア様もお止めください」
さすがにサンバルト家の令嬢である私をレースに出す訳にはいかないと、オルラさんは、ミラを叱りながら、私にも考え直す様に言ってくる。
「ナタリア様。ご再考を。確かにマツカゼは仔馬の頃から優秀な馬でした。しかしながら、レースに出ると言うのは……」
ユタさんも渋い顔で私を止める。
「お父さん、お母さん。今更出走は取り消せないわよ。ここまできて棄権なんてライト牧場の名折れになるわよ」
そんな両親にミラを頬を膨らませる。
「そうですわ。それに今の私はエルカディアの商家の娘でミラの従姉妹。何の問題もありません」
やる気満々の私とミラに困り果てた顔となり、ユタさんらは縋るような目で、デドルを見る。
「すまんな、ユタ。こうなると、うちのお嬢様は誰にも止められなくてな」
苦笑いでデドルが口添えしてくれる。
「やはりジェイムズ様らの言っていた通りです。何事も無くエルカディアに帰れるはずありませんでしたね」
アシリカとソージュは諦めモードだ。
「大丈夫です。必ずや、栄冠を手に入れてみせますわ」
ユタさんとオルラさんに笑顔を見せる。
「マツカゼ、ナタリア様を頼んだよ」
肩を落とし、ユタさんは私の跨るマツカゼの首を撫でる。
「ナタリア様。くれぐれもお怪我だけはなさらぬように」
オルラさんも一度首を横に振ってから、私の手を握る。
「ええ。大丈夫です。もちろん無事に帰ってきます」
私は頷き返す。
「ナタリア様。そろそろ出走です。所定の場所に移動しましょう」
ミラが時間を気にしている。
「分かったわ。マツカゼ、行きましょうか!」
私は、マツカゼのたてがみを撫でながら、気合を入れていた。
所定の位置に移動し、レースが始まるのを待っている。
参加するのは三十頭あまり。どの馬も体格がいい。スピードとスタミナに自信のある馬が集まってきているのだ。
即席の客席が設けられていて、熱気の籠った声援を送っている。それぞれに応援している馬がいるのだろう。その客席に収まりきらない人たちは、少しでも馬が見えそうな位置に陣取り、手を振り声を出している。
そんな興奮に包まれた観客を見ながら開始の合図を待っている間にデドルからの報告を思い出していた。
やはりコサールは、今回のレースに並々ならぬ思いで参加しているようだ。何でも今回のレースで好成績を収める条件で、大口の契約が決まるらしい。きっと、どうせなら、優勝で箔を付けて、ちょっとでも高値で馬を売りたいのだろう。
明確な証拠は残っていないが、ユタさんの事故やマリオンの体調不良など、優勝候補筆頭のライト牧場が参加できなくなる事態にとなったのは、偶然にしては出来過ぎている。
用心しておいた方がいい、というのがデドルの意見だった。
「おや? アンタ、ライト牧場の参加者か?」
男が話しかけてくる。
「俺らはコサール牧場の乗り手だ。ユタの代わりがこんな小娘だとは驚いたな」
三人の男が馬鹿にした目で私を見てくる。それぞれが跨っている馬もなかなかに立派ではある。ま、マツカゼには、劣るけどね。
「レース前に随分とおしゃべりなのね。もしかして、不安を紛らわせる為とか?」
私は鼻で三人を笑う。
「な、何を!」
三人は眉間に皺を寄せる。
「あら? そんなに怒るって事は図星だったのかしら」
「くそ生意気な小娘だ。おい、行くぞ」
男は馬を返し、私から離れていく。
あいつらが、コサール牧場の者たちね。その顔、しっかり覚えたわよ。
「間もなく出走になります!」
組まれた櫓から主催者が叫んでいる。
ぐっと手綱を握る手に力が入る。じっと櫓からフラッグが振り下ろされるのを待つ。
緊張に包まれ、辺りがシンと静まる中、フラッグが振り下ろされる。
一斉に馬が走り出す。団子状態で、砂埃を上げながら馬が駆けていく。
マツカゼも私の合図を待つことなく、走り出す。
いやあ、さすがマツカゼ。任せていて安心だね。私はこの砂埃で前が良く見えないよ。それに、この周囲から聞こえてくる馬の土を蹴る音、すごい迫力ね。お腹に響いてくるよ。
初めてのレースに圧倒されながらも、マツカゼのお陰で順調に進んでいく。最初のうちは、集団の中程にいたマツカゼだが次第に前へ前へと順位を上げて駆けていく。
優秀な馬ばかりが出走しているとはいえ、やはり実力差はある。その為、団子状態で走っていたものが、距離が進むにつれ、ばらつきを見せ始める。一つめのチェックポイントに辿り着く頃には、いくつかの集団に分裂していた。
私とマツカゼは八頭あまりに絞られた先頭集団にいる。その中には、コサール牧場の三頭もいる。馬も乗り手も実力は確かなようだ。
「順調よ。この先も頼むわよ」
そう言いながらマツカゼの首をポンと叩く。自分で言うのも情けないが、すべてマツカゼ頼みだ。この先頭集団に付けているのもマツカゼのお陰であるのは言うまでもない。
小川を渡り、小高い山を越え、二つ目のチェックポイントを通り過ぎる。コース沿いに声援を送る人がちらほら見える。
レースも中盤に差し掛かり、お互いの様子を探り合いながら、ややペースを落として先頭集団は走り抜けていく。
その均衡が崩れたのは、三つ目のチェックポイントを過ぎたあたりからだった。
一頭が勝負所と判断したのか、スピードを上げる。他の馬もそれに続いていくがしばらくすると、スタミナが切れ始めた馬、上がったスピードに付いてこれない馬が出てきた。
気づけば、残っているのはマツカゼ以外に三頭。あのコサール牧場の三頭が私たちの少し前を走っている。
「あいつら、意外とやるわね」
まあ、私のマツカゼには敵わないだろうけど。
この辺りの風景には、見覚えがある。渓谷の谷の部分だ。ここまで来ると、ゴールは後少しのはず。マツカゼもそれが分かっているのか、少しずつスピードを上げてきている。さすがは、私のマツカゼ。分かっているわね。
よーし、一気にこいつらをぶっちぎっちゃっえ!
先を進むコサール牧場の馬のすぐ背後まで迫る。そんな私たちを振り返って確認する三人である。
まずは最後尾の馬を抜こうと横に並んだ時である。
二番手に付けていた馬がスピードを落とし、私に並ぶ。自然とコサール牧場の馬二頭に挟まれる形となる。
「っ!」
両隣の馬が私たちにその馬体を寄せてくる。
「危ないでしょ! 何するのよ!」
このスピードでぶつかれば危険である。
「レースに事故は付き物だっ!」
コサール牧場の乗り手の一人が叫ぶ。
本性を現したわね。ここは、険しい渓谷の為、見物の人もいない。事故を起こすならうってつけの場所という訳か。
マツカゼの進行方向を塞ぐように、幅寄せをしながら、足蹴りをこちらに浴びせてくる。その間に先頭を走る馬がどんどん差を広げていく。
勝つためなら、本当になりふり構わないのね。
「卑怯な奴らね」
私は片手で鉄扇を取り出す。こんな不測の事態に備える為に私がいるのよ。
手綱を手に絡めて、体を斜めにして馬体の横に突き出す。
「これは事故よっ!」
そのまま、鉄扇で乗り手を張り倒す。
「ぐわっ!」
そのまま落馬していく。
あれは痛そうね。大丈夫かしら?
「次は、こっち!」
体を反対側にせり出させ、もう一人を同じく薙ぎ倒す。こちらもあえなく勢いよく馬から転がり落ちていく。
「アンタたちの言うとおりね。レースには事故は付き物ね!」
乗り手を失った二頭の馬は走るのを止め、立ち止まっている。
後は、先頭を走るあの一頭を残すのみだ。あいつも何か仕掛けてくるかもしれない。
マツカゼが鬱憤を晴らすかのように、スピードを上げてすぐに追いつき横に並ぶ。それを見たコサール牧場の最後に残っっている馬の上から、私に向かって鞭を打ち付けてくる。
マツカゼがそれを避ける様に速度を落とし、後ろに下がる。
「ちょっと! それはさすがに痛いわよ!」
マツカゼのお陰で体には当たらなかったが、あれは痛いに違いない。
だが、その行動に怒りを感じたのは私だけでは無かったようである。
マツカゼだ。
一気呵成にスピードを上げると、そのまま大きく飛び上がる。見事、前を走るコサール牧場の馬を飛び越えていく。乗り手の顔を後ろ脚で蹴りながら……。
「さすが、マツカゼ! やるわね!」
後ろを見ると、乗り手は落馬している。馬の方は突然の出来事に驚き、見当違いの方角に走っていってしまっている。
さあ、これで一番手だ。先頭を走っている。
「このまま、ゴールまで一気に行くわよ!」
私の叫びにマツカゼが嘶きで応える。
渓谷を抜け、草原地帯に入り、遠目に街が見えてくる。マツカゼのスピードは衰える事なく、先頭の馬を見ようと立ち並ぶ人々の前を駆けていく。
「ミラだ!」
ゴールの側で私とマツカゼを見つけて飛び跳ねて喜んでいるミラの姿が見える。
出発地点でもあったゴールに、私とマツカゼが一着で駆け抜けた。
「やったぁ! 優勝よ!」
私は右手を突き上げる。
ミラやアシリカたちが駆け寄ってくる。
「お見事です!」
ミラは興奮が収まらないといった様子でぴょんぴょんと飛び跳ね続けている。アシリカとソージュはとにかくほっとしたという感じだ。
私たちが喜びを分かち合っている中、次々と後続の馬もゴールしていく。
無事に帰ってきたそれぞれの馬と乗り手を労う輪がたくさん出来ている。観客席からも健闘を讃える賛辞が惜しみなく拍手とともに送られている。
そんな騒ぎの中で、一人ぽつんと顔を真っ赤にしてゴールを見ているいるコサールの姿が目に入る。優勝を逃したばかりか、未だに帰ってこない自分の馬にかなりご立腹のようだ。
しかし、次々にゴールを切る馬がやってきて、とうとう彼の牧場以外の出走馬がすべて帰ってくる頃には、赤い顔が青ざめたものに変わっていた。
「ミラ。ヤツに挨拶に行きましょうか?」
真っ青になる呆然となっているコサールに視線をやりながら、ミラを誘う。
挨拶はきっちりとしないとね。それに、アイツは少しお灸をすえてやらないとダメな奴だしな。
「いいですね」
意地悪な笑みになり、ミラが頷く。
「コサールさんの馬はまだみたいですわねぇ」
まだ当分こないと思うよ。むしろ、助けに行った方がいいくらいだよ。
やってきた私とミラに悔しそうに唇を噛みしめるコサールは言い返す言葉が出てこないみたいね。
「忙しく準備していたのに残念な結果になりましたねぇ」
ミラもこの前のお返しとばかりに、嫌味たっぷりな口ぶりである。
青褪めていた顔が再び赤く染まる。相当悔しいようだ。
「これでは軍との契約、無理かもしれないわね」
声を小さくして、コサールに囁く。
そう、デドルから報告を受けたコサールの大口契約の相手は王国軍。
「な、何故、それを!?」
コサールが驚きの表情となる。
「納入予定先の指揮官には、このレースの結果を知ったら何というかしらね。卑怯な手まで使って、この結果とはね」
「な、何のことだ? 卑怯とは、変な言い掛かりは――」
「それより、アンタの所の乗り手を迎えに行った方がいいんじゃない? レースに事故は付き物だからね」
コサールの言葉を遮り、ゴールの向こう、コースの先を見る。あの三人、命に別状が無いだろうが、早く助けてあげた方がいいと思うしね。
「まさかお前、何かしたのか?」
コサールが怒りの眼差しを向けてくる。
「いいえ。こちらからは何も……」
嘘は言ってないよね。仕掛けてきたのは向こうからだものね。
「貴様、許さんぞ。こうなれば、軍に訴え出てやる。あちらの指揮官の方は有力な貴族のご子弟だ。お前らみたいな小さな牧場など、一捻りだ」
乾いた笑い声をコサールは出す。
「好きにすれば? でも、その指揮官、多分私の言う事の方を信じると思うわよ」
だってその指揮官、イグナスお兄様だもの。
「はぁ?」
何を言っているとばかりにコサールは私を見ている。
「イグナスお兄様が、あなたと妹の私の言葉、どっちを信じると思う?」
私は鉄扇を他からは見えないようにそっと開き、コサールだけに扇面を見せる。
「なっ、なんっ、え、はぁ?」
コサール、何を言っているか分からない。まあ、うまく話せないくらい驚いているという事にしておこう。
「あなた、いくら勝つ為とはいえ、あまりにも卑怯ですわ。馬を愛し育てる資格など、あなたにはありません」
コサールはその場にへなへなと座り込む。
「私も今回はお忍び。ユタさんの怪我も軽いし、マリオンの体調も回復してきているから大目に見ます。でも……」
閉じた鉄扇をコサールの首元に当てる。
「二度と同じような真似はしないことね。次は、貴方が一捻りされるわよ。この私にね」
体を震わせ、私を見上げながらコサールは何度も頷く。
これで、もう二度と姑息な手段で勝とうとは思わないだろう。
「それと、ここでナタリアお嬢様に会った事も口外されませんよう。あなたの身の安全の為にもご忠告します」
いつの間にか私の後ろに立っていたアシリカが鋭い目でコサールに告げる。
コサールはそれにも頷いているが、すでにその顔は涙と鼻水でぐしょぐしょになっている。
ふー。これで、一件落着。
「じゃあ、祝勝会としますか!」
私は人もまばらになっていた、ゴール付近でもう一度右手を高く突き上げた。