95 馬の祭典
多くの人で溢れ、辺りは熱気に包まれている。
歩く人によって土煙が上がる道の上には無数の黒い塊が鼻をつんざく臭いを放っている。その臭いを発しているものの正体は、馬糞である。
しかし、行き交う人々は、そんな臭いを気にする様子もなく、道を歩いている。
「酷い臭いね」
人に流れから少し離れた場所で顔を顰めて、隣のアシリカに同意を求める。
「ええ。ここまでの量ですと、さすがに……」
アシリカも同じく顔を顰めて頷いている。
よく皆平気な顔で歩いていられるわね。
「仕方ありやせんよ。ついさっきまで多くの馬がここを歩いていたのですから」
顔を顰める私たちにデドルが苦笑する。
私たちは今、バイドという街にいる。ガイザを発ち十日以上が過ぎて、すでにアトラス領からも出て五日経っている。
何故私たちがこのバイドにいるかと言うと、馬の品評会を見物しに来たからである。マツカゼの生まれた牧場で、ミラが言っていた馬の品評会である。
アトラス領から帰る道中で、デドルから寄ってみないかとの提案に即答で寄り道を決定した私だった。
もちろん、ライトさんの牧場も参加しているそうで、レースに出るという彼らの応援をするつもりだ。
「こんなに人が多いのにミラさんに会えますでしょうか?」
シルビアは臭いが気にならないらしく、いつも通りの顔だ。その色気で馬糞の匂いを打ち消しているのかしらね。
「それは大丈夫です。品評会に馬を出している者は指定の場所にいます。そこに向かえば必ず会えやすから」
それなら安心だけど。
一口に品評会と言っても、色々な催しがあるらしい。馬の体格や毛並みの美しさを競うものや、単純にスピードを競うレース、さらには馬のオークションも開催されるとの事である。
一つ共通しているのは、それらの結果によっては、その牧場の評価が一変する可能性もあるらしい。
ミラの牧場は毎年この時期に開催される品評会のレース部門に参加している。そういえば、ジェイムズがカサルと名付けた仔馬の父親も品評レースで優勝したと話していたな。
「お嬢サマ、ぼうっとしてたら迷子になりマス」
私の手をソージュが引っ張る。
「あ、ああ。そうね」
考えていたらぼうっとしてたみたいね。
「さあ、行きマスヨ」
人ごみの中をソージュに手を引かれ進んでいく。
そんな私をアシリカは呆れ顔で、シルビアは微笑まそうに眺めている。
ようやく辺りに漂う臭いにも慣れてきて、人が少なくなってきた頃、柵を張り巡らされた一画が見える。ゲートが儲けられており、そこに立っていた人にデドルが何やら話しかけている。
「さあ、こちらへ」
話を済ませたデドルが私たちをゲートの中へと入るように手で合図した。
「この柵から向こうが品評会に参加する者の区画です」
どうりで、さっきまであれだけ多くいた人がいなくなり、代わりに馬があちこちにいるのが見えるわけだ。天幕が並び、それが参加者の控室となっているそうだ。
馬の嘶きがあちこちから聞こえる中、私っちはデドルに付いて歩いていく。
「おっ。ここですな」
“ライト牧場”と書かれた天幕の前でデドルが立ち止まる。
「おーい。誰かおるかい?」
そう言いながら、デドルが天幕を捲る。
「デドルさん! それにナタリア様も! 来てくれたのですね!」
ミラが快活な声で出迎えてくれる。
「もちろんよ。応援しに来たわよ!」
確かライトさんは、ジェイムズが名付け親になったカサルの父馬が出走すると言っていた。熱の籠った応援をするよ。
「応援……ですか……」
途端にミラが顔を曇らせる。
どうしたのかしら? 何かあったのだろうか。
「これは、デドルさんじゃないですか」
ミラの後ろから女の人が顔を覗かせる。その隣には、松葉杖をついている男の人も立っている。
「あっ、父と母です。お父さん、お母さん、ナタリア様よ」
ミラが私を紹介してくれる。
「これは、サンバルト家のお嬢様でしたか! この前はうちの馬の出産でお世話になったそうで。ありがとうございました。私はミラの母のオルラです」
オルラさんは、日に良く焼けた肌で、豪快そうな人である。
「父のユタです。私からも感謝します。ちょうどオルラとよその街に馬を運んでいた時でしたので、助かりました」
父親のユタさんは、精悍な体付きだが顔からもその雰囲気からも温厚で物静かな感じがする。
ちなみにライトさんは馬の世話で牧場に残っているらしい。
「いえ。そんな大した事してませんわ。それより、ミラ。何かあったの?」
さっきの沈んだミラが気になる。
「それが、実はね……」
再び暗くなるミラに代わり、オルラさんが説明してくれる。
ミラさんは両親と共にこの品評会で行われるレースに参加する為にバイドに来たのだが、乗馬する予定だったミラさんの父親であるユタさんがコースでの試走中に落馬し、足を骨折してしまったらしい。当然、そんな状態ではレースに参加するどころか、騎乗もままならない。
悪い事は重なり、出走馬であったカサルの父馬も体調を崩してしまうという不運ぶりである。
「それは、また……」
あまりの悪運に気の毒を通り越して、お祓いを勧めたくなるな。
「あれは、絶対わざとよ! お父さんが落馬なんてするはずないよ! それに、マリオンの体調だって、あいつらの仕業かもしれない」
母親の説明にミラが口を挟む。その口ぶりは激しい。
わざと? あいつらの仕業? 何やら不穏な言葉が並ぶわね。
「ミラ」
オルラさんが娘を窘めるような声を出すが、ミラは止める様子は無い。
「だって、そうでしょ? 進路を妨害するような幅寄せ、お父さんが落馬している間マリオンを見ていたのは、コサールのヤツらじゃない」
うーん。どうやら根深そうね。
「酷いと思いませんか!?」
話しているうちに怒りがこみ上げてきたのか、眉間に皺を寄せてミラは私に同意を求めてきた。
「え? そ、そうね」
ミラの迫力に思わず頷く。
「ほら。ナタリア様も私に同意してくださっているじゃない?」
「ミラ。気持ちは分かる。でもね、レースには不測の事態は付き物だ。それに、馬を育てる人間が、他人の馬といえども体調を崩さす様な真似はしないよ」
穏やかな口調でミラを言い聞かせるように、ユタさんがゆっくりと言った。
「でも……」
それでもなお、納得出来ない様子のミラが口を尖らせる。
「ミラ。お父さんの言う通りよ。ほら。せっかくナタリア様が来てくださったのだから、少し案内してさし上げたら?。私はお父さんの世話があるしね」
そう言ってオルラさんはユタさんの足を指差す。
「……分かった」
天幕を出て、品評会に出される馬を見て回る。品評会に出される馬ばかりとあって、どれも見栄えのいい立派な馬ばかりである。綺麗にたてがみを揃えられ、中には飾りつけをされている馬もいる。
「ナタリア様はどう思われますか?」
天幕を出てから黙ったままだったミラが口を開く。
何を聞かれているかは、改めて聞くまでも無い。
「そうね。確かに怪しくはあるけれど……」
だが、ユタさんの言っている事も一理ある。偶然の事故もあるし、馬が突然体調を崩す事もまったく無い話ではない。
「おっ。これはライト牧場の娘じゃないか」
馬を連れた男がミラを見つけて、近寄ってくる。連れられた馬は大きな体躯で明らかに他の馬より見栄えが良い。
「……何の用?」
明らかに不機嫌な顔になったミラが近づいてきた男を睨み返している。
「いやいや。優勝候補のライト牧場の娘に挨拶をと思ってな。いや、優勝候補だった、が正解か」
小馬鹿にしたような目でその男が肩を揺らして笑い声を立てる。笑うのに合わせてそのでっぷりと突き出たお腹が揺れている。
そんな男に、ミラは怒りで顔を真っ赤にしている。
「おや。お友達と散歩だったか。こっちはレースの準備で忙しいのに、優雅に散歩とは羨ましい限りだ」
いちいち気に障るヤツだな。見ているだけで腹が立つな。そもそも随分太っているけど、そんな重そうな体で馬に乗ったら、馬が可哀そうだわ。それに、そのバーコードハゲ、馬が走ったら全部抜けるんじゃない?
「では、失礼するよ。何せ、こっちはレースの準備で忙しいからね」
最後も不快な高笑いを残して、男が去っていく。
「誰、あのハゲたデブは?」
私の言葉にミラは怖い顔を引っ込めて、ぷっと吹き出す。
「お嬢様、もう少しお言葉を……」
アシリカ、窘める様な事を言ってるけど、あなただって半分笑っているじゃないの。
「あのハゲ……、いやあいつはコサールです。さっき言っていたお父さんの落馬の原因となったコサール牧場の牧場主です」
あいつが、そうなのか。いやあ、思いっきりムカつく系のハゲデブだな。
「でも、あの体形で馬に乗れるの?」
それに横から無理やり持ってきている髪が悲鳴を上げるじゃない?
「いえ。彼は乗りません。部下が乗ります。部下の方もコサールと似た様な性格の奴らばかりです」
ミラが再び忌々しそうに答える。
「あいつの馬は強いの?」
随分と立派そうな馬を連れていたわよね。
「はい。かなり規模の大きい牧場ですから。今回もレースには三頭出走するはずです。でも、毎年二位にしかなれませんけどね。何せ、優勝はここ五年は毎年うちの馬ですから」
毎年二位か。だったら、ライト牧場は彼らにとって目の上のタンコブだったのだろうな。
「それが悔しくて、絶対お父さんを落馬させ、マリオンに何かしたに違いないはずです」
うーん。ミラがそう思うのも無理はないかな。
「ナタリア様」
真剣な顔になり、ミラが私を見つめる。
「どうです? お父さんらには内緒で、レースに出ませんか?」
「レースに? 私たちが? そんな事出来るの?」
ミラからの提案にさすがの私も聞き返す。
「ええ。出来ます。ナタリア様さえ、頷いてくだされば」
ミラは、とっておきの悪戯を思いついたような笑みを浮かべていた。
マツカゼに乗った私は風を切っている。
二日後に行われるレースに向けての特訓中である。
ミラは彼女の両親に内緒でレースへの出場登録を変更したのだ。出走馬はマツカゼ。そして馬上には私だ。もちろん立候補した。だって、こんな機会滅多に無いでしょ。当然、アシリカとソージュは猛反対したけど。
それに、コサールらが何かしたかどうかの真偽は置いておいいても、あの鼻に付く態度は許せない。絶対に私が優勝して、こっちが高笑いしてやる。
レースは街から出発して、郊外のいくつかのチェックポイントを通り、一番最初に帰ってきた馬が優勝という単純なものだ。だが、途中、小川を渡ったり、渓谷を走ったりと結構ハードなものである。距離も長い。ゴールまでゆうに三時間以上は掛かるらしい。
まずは最初にやるべき事は、その道のりを覚えなければならないのだが、方向音痴の私にはかなりの試練だった。
「そっちじゃありません!」
マツカゼに乗り、右に向かって進もうとした私をミラが止める。
「え? こっちじゃなかったっけ?」
クロクモに跨るミラを振り返る。
「お嬢様、迷子になってはレースどころではありませんよ」
コース確認に付いてきているアシリカとソージュも困り果てた顔で、私を見ている。彼女らはホウショウツキゲに二人で乗っている。
「やっぱり私が出た方がいいかしら……。それともデドルさんに……」
ミラが呟く。
「だ、大丈夫よ。ほら、ミラが出るとなるとユタさんらに気付かれそうだしさ。それにデドルにはコサールらの動きを探ってもらっているからさ」
このままじゃマズイ。乗り手をクビになってしまう。それだけは、避けなければならない。しかも、コースを覚えられないからクビって、かなりカッコ悪い。
「そ、そうだわ。マツカゼ。あなたが道を覚えなさい。ほら、レースは人馬一体って言うでしょ。お互いの足りない所を補い合うものよ。私がコースを覚えられない分、マツカゼが覚えなさい」
苦し紛れに、マツカゼに話しかける。そんな私を呆れ顔で皆が見ている。
何よ、何でそんなに気の毒そうに私を見ているのよ?
「ね、お願いよ」
もう一度頼む私に応えるように、マツカゼはクビを上下に揺らす。
「そう、偉いわ、マツカゼ。ねっ、これでコースは間違えないわ」
自信満々で、三人を見る。
「それだったら、お嬢サマ、マツカゼに乗っているだけデス」
痛い所を着くわね、ソージュ。
「私は不測の事態に備えているのよ。さっ、行くわよ」
コースの事はマツカゼに任せ、再び進みだした。