160 見えない壁
風が木の枝を揺らす。その音だけが辺りに響く。
誰も口を開かずに時間だけが過ぎていく。
何と言えばいいのか分からない。それはアシリカとソージュも一緒だろう。
時間にしたら短かったのかもしれない。でも、その場にいた私には長い長い沈黙の時間に思えた。その無音の時間を最初に破ったのは、アルマさんだった。
「お久しぶりです、母上さま」
身に沁みついているのだろうか、恰好は清掃の為のの作業着だが完璧な所作でマリシス様に挨拶を述べる。
「ええ」
それに短く一言答えるマリシス様。しかし、その目線はアルマさんから逸らそうとはしない。
「噂で耳にいたしました。レイボーン家の爵位と所領を返上されたとか」
「ええ」
静かにマリシス様が頷く。
「娘をお恨みですか? 母上さまにとって何より大事なレイボーン家をそのような事にしてしまったのは私のせいでございましょう?」
涙は消え、淡々と話すアルマさんの顔から感情が伺えない。
とても久方ぶりに再開する母娘には見えない。二人の間に目に見ない壁はあるように感じる。高く、厚い壁が。
「いいえ」
ゆっくりと首を横に振る。
「どうでしょうか……。母上さまに逆らい、好きな人と共に生きることを選び家を捨てた私を恨んでおられぬとは思えません。爵位と所領の返上も何か裏があるのではございませんこと?」
「……いいえ」
またしても静かに首を横に振る。
アルマさんの貴族への憎しみの半分は自分自身を縛り付けようとしたレイボーン家とマリシス様のせいだろう。アルマさんの目を見てそう思う。
でも、マリシス様が本当に娘を愛していたことだけは分かってあげて欲しい。不器用で表現の仕方が下手な人だけど、そこだけは信じてあげて欲しい。
「マリシス様は、あなたが思っているような冷たい方ではありません。マリシス様ご自身もレイボーンという名の檻に閉じ込められて――」
「ナタリア様、よろしいのです」
マリシス様に遮られる。
「で、でも……」
「良いのです。もうすべて終わったこと。すでにレイボーン侯爵家もありません。そして、一度無くなったものは取り返せないものです」
一度無くなったもの……。それは何だろうか? レイボーン家? いや、今のマリシス様からしたら、娘からの信頼か。
「一度無くなったものは取り返せない。初めてですわね。母上さまのお言葉に同意するなんて……」
アルマさんが自嘲気味に笑う。
「ですが、それを良いとは決して私は言えません。終わったことだと気持ちを切り替えることはできません」
アルマさんが唇を噛みしめる。
彼女は失ったものって何だろうか?
ふとジェナの言葉を思い出す。
そっか。ジェナの父親、つまりアルマさんの旦那さんね。去年の夏に亡くなったって言っていたもんな。駆け落ちした相手だろう。ずっと二人で苦労してきたのは簡単に想像できる。その愛する人が無くなる。そりゃ、簡単に気持ちを切り替えるのは難しいだろう。
「これ以上、母上さまとお話することもございません。失礼させて頂きますわ」
「お待ちなさい。ちゃんと生活が出来ているのですか?」
立ち去ろうとするアルマさんをマリシス様が呼び止める。
「……はい。貧しいですが、苦には思っておりません。娘のことを思えば、どんなことでも苦には感じません」
「娘? 子供がいるのですか?」
珍しくマリシス様が叫ぶ。
そうよね、マリシス様から見たら孫だもんね。
だが、そんなマリシス様にアルマさんは警戒心を露わにして、険しい顔になる。
「娘は決して母上さまには渡しません。私がされたようにレイボーンに縛り付けさせたくありませんから」
冷たく言い放つ。
「そ、そんなつもりではありません」
「失礼します」
否定するマリシス様を一瞥した後、一礼して去っていく。
再び静寂に包まれる。
「マ、マリシス様……」
「ナタリア様。申し訳ございませんが、今日の講義は……」
弱々しくそう告げたマリシス様に何と声を掛けていいか分からない私たちだった。
その夜、こっそりと学院を抜け出していた。行先はアルマさんの自宅。
短刀を握りしめ、アルマさんが狙っていた人物の素性はすでにデドルから聞いていた。
ディーガス伯爵家の一人息子、ルティエントという人物。特にこれといって悪い噂も聞かない人物だそうだ。かといって特別いい噂がある訳でもなく成績なども含めてごく平凡な学院生のようだ。卒業後は、軍への勤務が決まっているとのことである。彼自身はともかくとして、その父親であるディーガス伯爵は弓の名手として知られているそうだ。ルティエントも軍高官である父親の口添えもあり、軍への勤務が決定したらしい。
うん、どこにでもある話。どこにでもいる貴族という印象しか受けない。その彼とアルマさんの接点が思い浮かばない。しかも、彼女は短剣を手に命を奪おうとするほどの憎しみを抱いているのだ。
しかし、あの時声を掛けてきたルティエントからはどう見てもアルマさんが頭の片隅にさえ残っているようには見えなかった。
「お嬢様、着きやしたよ」
考えを巡らせている間にアルマさんの家に着いたみたいだ。御者台のデドルから到着を知らされる。
「夜分に失礼致します」
馬車から降り、扉をノックする。
「はい、あら? あなたたちは……」
迷子になったジェナを探しに来ていた老婦人が扉の隙間から顔を覗かせる。すぐに私たちだと気づいてくれたようだ。
「突然、申し訳ありません。アルマさんはおられますか?」
「ええ、いますが……。ただ、帰ってきてからどうも様子がいつもと違って……。何かあったのですか?」
不安な様子で聞き返される。
「ええ、まあちょっと……」
コウド学院の生徒を狙っていたなんて、とてもじゃないが言えない。言葉を濁して曖昧に答える。
「……狭い所ですがどうぞ」
少し思案顔をした後、老婦人が中へと招き入れてくれた。
デドルに馬車で待つように伝え、アシリカとソージュを伴ないお邪魔する。
「……その方たちは?」
入ってすぐの台所兼居間で、白髪の男性。
「夜遅くに申し訳ありません。私たち、アルマさんに会いに来た者で……」
年齢的にも老婦人の旦那さんだろう。
「ほら、ジェナちゃんがお世話になった」
「ああ。その節はお世話になりました」
老婦人の言葉に私たちが誰か理解したようで、立ち上がると深々と私たちに頭を下げる。
「い、いえ、そんな……」
そこまでされると逆に恐縮してしまう。
この二人、やはり夫婦でアルマさん母娘に一部屋貸してあげているそうだ。ここで改めて自己紹介される。ヘクターさん、マティーさん夫妻。子供もいない二人はアルマさんたちと一緒に住み始めてからとても楽しいそうだ。
「何かあったのですか?」
ヘクターさんも心配そうに尋ねてくる。マティーさんと同じく帰ってきてからのアルマさんの様子を心配しているようだ。どうやら帰ってきて食事もせずに、部屋に籠っているらしい。
「まずは、会わせてもらっても?」
アルマさんを心配する二人には申し訳ないが、やはりあんなことは話せない。
「……分かりました」
そう言って、マティーさんが廊下の先、一番奥の部屋の前に案内してくれる。
「ジェナも一緒ですが、この時間だと眠っているかと……」
老婦人が部屋の扉をちらりと見る。
「私です。少しよろしいですか?」
ノックと共に老婦人が声を掛ける。
「はい……」
ややあってからアルマさんの返事。その声には張りがない。
扉を開けたアルマさんは私の顔を見て、気まずそうな顔を一瞬見せる。
「ママァ?」
寝ぼけたジェナの声だ。
「ジェナちゃんは私たちが見ていますよ」
マティーさんがベッドの中で半分眠りかけているジェナを迎えにいき、そのまま抱きかかえて居間へと戻っていく。
「入っても?」
尋ねた私にアルマさんは無言で頷く。
小さな部屋だ。ベッドが一つ。おそらくジェナと二人でここで眠るのだろう。それ以外にある家具と言えば、小さなタンスとこれまた小さな机と椅子。
無言のまま唯一ある椅子を私の方へと押しやり勧めてくるアルマさんに、首を横に振り断わる。
「ありがとうございます。ですが、このままで……」
そう言うと、アルマさんは無理に勧めてくる素振りもなく椅子を元の位置へと戻す。
「あの……、アルマさん、それともイリス様と呼ぶべきでしょうか?」
「……アルマで。レイボーンの家を出た時にイリスという名は捨てましたから」
仮面を付けた顔ではない。無表情。まったく感情を見せることなくアルマさんが答える。
「では、アルマさん。私がここに来た理由、お分かりになっておられますよね?」
「二つ思い浮かびますが、どちらでしょうか?」
じっと私の目を見つめたまま静かにアルマさんが尋ねてくる。
「そうですね。まずは、ディーガス伯爵家のご子息の件から。何故、あのような真似を? どんな理由があれ、貴族の者を襲えばどうなるかは、よくご存じのはずです」
「もう一つは?」
私からの問いには答えず、またしてもアルマさんである。
「過去にいろいろ有ったのは想像できます。マリシス様を誤解しているとは言いません。ですが、もう少しあの方の今お気持ちも分かって頂きたく」
マリシス様自身もレイボーンという家に縛られた悲しい人だった。
「そうですか……」
無表情のまま、私から目を逸らすことなくアルマさんが頷く。
「それがあなた様にどんなご関係が?」
すべてを拒否する冷たい目のアルマさんだ。
「確かに関係ないかもしれません。ですが、少しでもアルマさんの力になれたらと思います」
困っている人をひとりでも多く救いたいのだ。
「……綺麗事」
アルマさんの一言。
「貴族のご令嬢の自己満足にございますか? 力になるですって? 見栄の為の寄付か何かとご一緒にされているのでは? 貴族の方は皆そうです。すべては己と己の家の為になること、自身が満たされることしか興味ございませんでしょう? 下の者の気持ちなどまったく理解されておられない」
淡々と語るアルマさんだが、そこからは、貴族への深い憎しみがヒシヒシと感じられる。
「マリシス様のご息女といえども、我が主への愚弄、聞き捨てなりません」
背後からアシリカが眉をひそめるて、声を張り上げる。
「やめなさい」
アルマさんに詰め寄ろうとする勢いのアシリカの前に腕を突き出して止める。
「……申し訳ありません」
一礼して、アシリカが元の位置に下がる。
「……私も言い過ぎました。どうかお許しを」
アルマさんも頭を下げる。
「ナタリア様。学院にお戻りを。いくら供の者を付けているとはいえ夜も更けては危のうございます」
すべてを拒否するように私に背を向ける。
今のアルマさんには何を言っても無駄かもしれない。
「……分かりました。ですが、これだけはお伝えしておきます」
大きく息を吸い込む。
「伯爵家の子息を狙うのを止めるのは、ジェナの為。父親に続いて母親まで失わせるわけにはいきませんから。そして、マリシス様の気持ちを分かってあげて欲しいのは、アルマさんの為。母親を憎んだままだと、いつか後悔しそうですから」
私の言葉に僅かにアルマさんの肩が動く。だが、そこから彼女が何を思い何を感じたのかは分からない。
「突然のご訪問、失礼いたしました」
アルマさんの背に頭を下げて部屋から出る。
「私を抱きしめてくれたマリシス様、暖かかったデス」
部屋から最後に出ようとしたソージュがアルマさんに振り返る。
「母が……あなたを抱きしめた?」
思わずといった感じで振り返り、アルマさんが目を見開く。信じられないといった顔だ。おそらく彼女自身もマリシス様に抱きしめられた記憶が無いのかもしれない。
「ハイ……」
再びソージュが頭をさげて部屋を後にする。
居間まで戻ると、ジェナはすでに静かな寝息を立てていた。
「遅くにお騒がせしました」
アルマさんの部屋から出てきた私たち三人を不安そうな顔で出迎えてくれるヘクターさんとマティーさん。
「では、失礼致します」
深く礼をし、外に出る。
「何も分かりませんでしたね……」
アシリカのため息交じりの声。
「そうね……」
さて、どうしたものか。このままアルマさんが諦めるとはとても思えない。
「あの……」
馬車にも乗らず考え込む私たちに声がかかる。
「ヘクターさん?」
後ろ手に扉を閉じて立っている。
「はい。少し聞いて頂きたいお話がございます」
ヘクターさんの真剣な眼差しである。
「何でしょうか?」
聞いて欲しい話? 首を傾げて尋ね返す。
「アルマさん……、いや、イリス様のことにございます。失礼とは存じますが、さきほどお部屋でのイリス様とのお話、こっそりと伺わさせていただきました」
イリス様? この人、アルマさんの出自を知っている?
「私たち夫婦は元々はレイボーンに仕えておりました。そして、イリス様の駆け落ちを密かに手引きした者にございます」
そうか。そうだったのか。だからこそ、アルマさんとジェナにあそこまで親身に接していたのか。
「そしてその直後、レイボーンの家からお暇を頂きました。マリシス様が私どもの行動に気付かれていたのかどうかは分かりませんが、何も言われることはございませんでした。お陰でこの年まで何とか生きてこられました」
マリシス様、気づいていたのかな? 私にも想像が付かない。
「遠き地でお幸せに暮らしておられると思っていたイリス様が突然私ども夫婦を訪ねてこられたのはつい最近のことにございました。イリス様とジェナ様のお二人だけで……」
ヘクターさんはそこで表情を曇らせる。
「そして、告げられたのです。イリス様と一緒に駆け落ちしたハリーが亡くなった。しかも、殺されたと」
苦痛に顔を歪めて俯く。
「殺されたですって?」
ジェナの話で去年の夏に亡くなったのは知っていたが、殺されたとは……。
終わったことだと気持ちを切り替えられない――アルマさんの言葉が頭の中で繰り返される。
「まさか、アルマさんの旦那さんの命を奪ったのは……」
彼女が殺してやりたいくらいに恨んでいる人間。
「はい。お察しの通りディーガス伯爵家の方にございます」
当たった予想に眉を顰める私。
そこからのヘクターさんの話は顔を顰めたくなるものだった。