142 ニャタリアです
またもやレイアに逃げられてから一ヶ月。
秋の様相も深まる頃、学院はすっかりいつもの雰囲気に戻っていた。まるで、あのような事件があった事が無かったかのようだ。
かくいう私も今まで通りの生活に戻っている。今も早朝の剣の稽古中である。レオとフォルクが打ち合っているのを眺めていた時だった。
「ん?」
池の向こうで何か動くものが見えたような気がする。
「どうされました?」
隣にいたアシリカが尋ねてくる。
「いえ。何でもないわ」
もう一度目を凝らして、先ほど草が揺れて何かが動いていた辺りを見てみる。
しばらくすると、また草が揺れる。やはり何かいるみたいね。学院は自然が多いから、いろんな動物もいるけどリスでもいるのかしらね。
「ちょっと、池の回りを散歩でもしてくるわ」
「でしたら、ご一緒致します」
「いいわよ。池の周りを回るくらいだからさ」
そう言って、私一人でさっき何かが居た辺りを目指す。だって、大勢で行ったら逃げちゃうかもしれないからね。
「何がいるのかな」
さっき草が揺れていたのはこの辺よね。
「みゃあ」
みゃあ?
音の出所は私の足元だ。
「子猫?」
茶虎の子猫だ。まだ生後間もないのだろうか。手の平に乗るくらいの小ささだ。
か、可愛い! 可愛いすぎる!
私はしゃがみ込むと、手をそっと差し出す。
「ほら。おいで」
子猫は私の手を何度か嗅いだ後、ペロリと小さな舌で舐める。
「可愛いなぁ、おい」
私は顔が緩んでいるのが自分でも分かる。
「あなた、母親は?」
周囲を見回してみるが、この子の母猫はいない。
「もしかして、迷子?」
「みゃあぁ」
私に返事するように子猫が鳴き声を上げる。お腹が減っているのだろうか。その鳴き声はどこか弱々しい。
「ちょっと、待ってね」
何か食べるものは持っていないだろうか。ポケットの中を探ってみる。
「これでいいかな」
ソージュにあげようと思っていたクッキーである。
「ほら、猫ちゃん。これを食べなさい」
ソージュに心の中で謝りながら、クッキー目の前に出してやる。
「にゃあ」
私を見上げて、ひと声上げてからクッキーに齧りつく。
ふふ。可愛い。お礼を言っているのかしらね。
相当お腹が減っていたのだろう、一心不乱にクッキーを食べている。
「そんなに慌てて食べなくてもいいわよ」
これが、私たちの出会いだった。
それからも稽古の度にその子猫に餌をあげるのが日課となっていた。その為に毎日朝食からこっそりとパンを失敬している私である。
「ほら、ムサシ。お食べなさい」
「みゃあ」
私は、彼にムサシと名付け、癒しの時間となっていた。
やはり迷子になっていたのだろうか。あれから一週間経つが、ここからどこかに行く気配も母猫がやって来る様子も無い。
ちなみに私以外にムサシの存在を知る者はいない。
猫をこっそり飼っているってシチュエーションに憧れていたのは秘密だ。それにこの子を正に猫可愛がりしている姿を人に見られたくないという思いもある。何か馬鹿にされそうな気がする。
「美味しかった?」
そう言いながら、ムサシの頭を撫でてやる。
気持ち良さそうに目を閉じて、されるがままの姿がこれまた可愛い。
「また明日の朝、来るからね。危ない所に行っちゃだめよ」
喉を鳴らしながら、私の手にじゃれついてくる。
うう、可愛いな。連れて帰りたいけど、寮はペット禁止だしなぁ。皆にバレちゃうしなぁ。
「お嬢様。何をされているのですか? もうそろそろ教室に向かわれませんと」
池の対岸からアシリカが私を呼んでいる。
「い、今行くわ!」
名残惜しいが、今日はここまでだ。
「またね」
小声で呟いて皆の元へと戻る。
「稽古終わりにやたらお一人で池の畔に行かれますが、何をされておられるので?」
戻ってきた私にアシリカが尋ねてくる。
「精神の集中よ。ほら、剣を極めるには精神を研ぎ澄ます必要があるからね」
いずれ、ここでの行動に疑問を持たれるのは予想済みだ。予め用意しておいたそれらしい答えを口にする。
「なるほど。その辺は魔術と変わらないのですね」
真面目なアシリカは感心したように頷いている。
よし、怪しまれていない。
ちらりとムサシのいる辺りを見て、心の中でバンザイをしていた。
その日の授業を終え、廊下でアシリカとソージュが出迎えてくれていた。
だが、私はそれどころでは無い。午後の授業が始まってから雨が降り始めたのだ。しかも雨脚がどんどん強くなってきていてる。
ムサシ、大丈夫かしら……。
窓から表を見る。空には黒い雲が広がり、時々雷が光っている。
「お嬢様。肌寒くなってきております。お体が冷えますよ」
アシリカが私の肩にストールを掛けてくれる。
「え、えっと、アシリカ」
「どうされました?」
立ち止まる私にアシリカが首を傾げる。
「実は、今日、レオ様が送ってくれる約束をしていたの」
咄嗟に嘘を吐く。
ムサシが心配だ。せめて、濡れない所に移してやるくらいしてやりたい。
「そのような話は伺ってませんが……」
アシリカが眉を顰める。
「急にレオ様から誘われたからさ。せっかく迎えに来てくれたのに悪いけど、先に帰っていて。じゃあね」
「お嬢様、お待ちください! せめて殿下の所までご一緒致します」
「大丈夫よ。すぐそこで待ち合わせだからさ。あ、そうだ。この傘借りるね」
付いてこようとするアシリカから傘を奪うようにして取り、その場を走り去る。
一気に廊下を走り抜け、人目に付かないように中庭に出る。傘をさして、徒歩で寮へと帰る他の生徒の間を縫う様にして駆けていく。
「ムサシ、今行くからね」
雨に濡れて寒がっていないだろうか、雷の音に怯えていないだろうか。走りながら、ムサシの心配が尽きない。
早朝の稽古場である池の畔まで辿り着くと、すぐにムサシの姿を探す。だが、その姿はどこにも見当たらない。
どこに行ったのよ? もしかして、ムサシの身に何かあったんじゃ……。
「ナ、ナタリア様?」
不安に包まれる私を呼ぶ声。
「副院長?」
私を呼ぶ声の主はなんと副院長。こんな所で何をしているのかしら。
意外な所で会ったというのは、お互い様のようで何を話していいのか黙り込んでしまう。
「にゃあ」
睨めっこ状態の私と副院長の足元から聞こえる鳴き声。
「ムサシ!」
「ジャスティン!」
足元で無邪気な顔のムサシを見て、同時に叫ぶ私と副院長。
「え?」
「え?」
再び顔を見合わせる私と副院長。
何か気まずい。お互い何故ここにいるのか、考えずとも分かる。
「あの……、いつから?」
長い沈黙を先に破ったのは私の方だった。
「……三日前からです。ナタリア様は?」
「一週間前からです」
お互い何が、を言わずとも通じ合うのが不思議である。
そこからポツポツとお互いのこの子との出会いを話し始める。
副院長は、学院内の見回り中に偶然見つけたらしい。元々猫好きで、しかもこの可愛さにやられたそうだ。そして、ジャスティンと名付け、放課後に餌をあげていたらしい。
「でしたら、ご自宅で飼ってあげては?」
ムサシに会えなくなるのは辛いが、大切に飼ってくれる人がいたらこんな所で飼われるよりいいはずだ。雨の心配もせず、雷に怯える必要も無くなる。
「そうしたいのはやまやまなのですが、うちの家内が動物が苦手でして……」
それで、家に連れて帰る事も出来ずに、私と同じようにここでこっそりと飼っていたのか。
「私も寮で飼えたらいいのですが……」
二人で大きなため息を吐き、雨に打たれてびしょびしょになったムサシを見つめる。あ、副院長はジャスティンか。
「ナタリア様はこの子を飼うつもりがおありで?」
「もちろんですわ。ですが、寮の規則が……」
連れて帰れるのなら、連れて帰りたい。
「それはお任せを。何とかしてみせましょう」
おお、副院長、何か今までに見た事がないくらい凛々しい。輝いて見えるよ。いや、頭は関係なくだよ。
「私も教師の端くれ。命の大切さを教えるのも大事な務め。ならば、この小さな命を守る為にひと肌脱ぐのも教師でしょう?」
副院長が力強く頷く。
「さすが、副院長先生! 感動しました! 教師の鑑ですわ!」
惜しみない賞賛を贈る。
「この職責を賭けてもでも、何とか致します!」
おお。何と頼もしい言葉か。
「……ですが、すぐにとはいきません」
一転して悔しそうな顔になる副院長である。彼の言い分はもっともだ。規則を変えるなんて、すぐには無理だろう。
そうなると、この雨の中ムサシをこの場で置いて置くことになる。しかし、それは問題だ。
「しかし、この雨の中このままでは……」
まだ小さいムサシ。体調を崩すかもしれない。
ぐっと、唇を噛みしめる。
「ナタリア様。規則とは破る為にあるとも申します……」
意味ありげな視線をこちらに向けてくる副院長。
教師の端くれと言いながら、教師としてあるまじき発言である。だが、副院長の真意は分かるよ。それはこの小さな命を守る為。敢えて自ら泥を被るのだ。
「お任せくださいませ。誰にも気づかれず、私の部屋で守ります。このナタリア・サンバルトの名に懸けて!」
「おお、さすがナタリア様!」
お互い、何か変なテンションになっているが、気にしない。
「では、早速これで」
副院長が用意していたタオルにムサシを包んで抱える。
「ナタリア様のいう事を聞くのだよ、ジャスティン……、いや、ムサシでしたな」
副院長は自分の名付けた名前をムサシと言い換える。
「いいのですか?」
副院長にしても思い入れを持って名前を付けただろうに。
「よろしいのですよ。これからはナタリア様の元で暮らすのです。でしたら、ナタリア様の名付けられた名前の方がよいでしょう。すべてはこの子の為です」
漢だ。漢を見たよ、副院長。
これは絶対に副院長の期待にも応えねばならない。規則の改正まで、何が何でも隠し通さなければ。
決意を新たにして、副院長と頷き合う私だった。
タオルに包んだムサシをストールで覆い隠し、寮へと入っていく。
意識していないのに忍び足になり、周囲に誰もいない事まで確認している。これじゃ、まるで泥棒だね。
「ムサシ、しばらく大人しくしていてね」
ストールの上からムサシを撫でる。
幸いにも誰にも出会う事なく、無事に部屋の前まで辿り着く。そこで、立ち止まり一息つく。
「さて……」
ここからも問題だ。
すでにアシリカとソージュは戻っているはずだ。彼女らにもムサシの存在を知られる訳にはいかない。特にアシリカは生真面目だから、規則に反する行動には反対するはずだ。副院長が規則の改正を勝ち取るまで隠し通さねばならない。
という事はだ。リビングはダメだ。私の寝室でこっそりと飼うしかない。よし、今日から適当に理由をつけて、寝室の掃除やベッドの準備は自分でやろう。
大きく深呼吸をしてから、部屋の扉を開ける。
「帰ったわよ」
「お嬢様!」
部屋に入るなり、アシリカが飛んでくる。
「約束されるのは構いません。ですが、今後は事前に教えてくださいませ。それとあのように学院内を走るのはいかがかと思います。お嬢様は――」
かなり不機嫌なアシリカである。まあ、彼女を振り切って逃げるようにしてムサシの所に行ったからなぁ。ここは素直に謝るしかないね。それにムサシを早い所、寝室に連れて行かなければならない。
「ごめんなさい」
「え?」
頭を下げてしおらしく謝る私にアシリカが言葉を失う。
いや、素直に謝ってこんなにも意外そうな態度を取られるのもショックだな。
「ごめんなさい。これからは気をつけます」
ショックを抑えて、もう一度謝罪を口にする。
「い、いえ。分かって頂ければ良いのです。そ、それより、お体は冷えておりませんか? 暖かい飲み物でも……」
今度は心配の表情に代わり、私の様子を伺うように顔を覗き込んでくる。
「いえ。大丈夫よ。ちょっと疲れたから、寝室で休みます」
そう言って、寝室へと向かう。
「あの、大丈夫だから。本当に少し疲れただけだからさ。心配はいらないわ」
普段はリビングでくつろぐ私を心配そうに見つめるアシリカとソージュに言葉を掛けてから寝室へと籠る。
ふう。ひとまずは安心だ。
「ムサシ、出ておいで」
ストールの中からムサシをベッドの上へと放してやる。
ムサシはきょろきょろと周りを見回してから私を見上げる。
「今日からここがあなたのおうちよ。何も心配する必要は無いわ」
私もベッドに腰掛け、そっとムサシの背を撫でてやる。ムサシは甘えるように私に体を擦りつけてくる。
堪らなくなるくらい可愛い。絶対に、私が守ってあげるからね。
まずは、この子の寝床を作らないとね。万が一アシリカやソージュが入ってきてもバレないような寝床だ。しばらくは可哀そうだが、ベッドの下にでも毛布を引いて、そこで飼おう。
今後の事を思案していると、扉をノックする音が聞こえてくる。
「お嬢様。よろしいですか?」
アシリカだ。
とりあえず、ムサシをベッドの中に入れて私も一緒に潜り込む。
「どうぞ。いいわよ」
「では、失礼致します」
そう言いながら神妙な顔でアシリカとソージュが入ってきた。
「調子が優れられないので?」
ベッドに横たわる私を見て、アシリカとソージュは心配そうな表情になる。
「うん、まあ、ちょっとね……」
心配をかけるのは心苦しいものがあるが、これもムサシの為だ。副院長が規則改正を勝ち取った後にちゃんと謝らないといけないね。
「それよりどうしたの?」
何か用事があったんじゃないだろか?
「いえ……」
アシリカとソージュは顔を見合わせ頷いてから、こちらを向く。
「あの、何かございましたか?」
「お嬢サマ、様子変デス」
「……大丈夫よ。何でもないわ」
それより、ムサシがベッドの中で私の腕を甘噛みしている。痛くはないが、今は大人しくしていて欲しい。
「何かお悩みでしたら、私たちが力になります」
今度は、私の腕をペロペロと舐め始める。これはこそばゆい。お腹減っているのかな。
真剣な表情のアシリカとソージュには申し訳ないが、思わず笑ってしまいそうになるのを必死に堪えるので、精一杯だ。布団で顔を半分隠す。
「辛そうなお嬢様を見てはおれません。どうか、心の内をお話くださいませ」
うん、辛い。ムサシ、もうやめて。これ以上は笑い声が出てしまうよ。必死で我慢する顔をアシリカに誤解されているよ。
何とか私の腕からムサシを引き離す。頭を撫でてやり、大人しくしているように祈る私である。
「お嬢様、どうされました? どこかお苦しいのですか?」
ベッドの中で不自然にモゾモゾしている私に、さらに心配の度合いが増しているアシリカだ。
どうしようかと考えていた時である。突然、ムサシが鳴き声を上げる。
「にゃー」
「――タリア・サンバルトですわ」
咄嗟のフォロー。
「は?」
アシリカとソージュは顔を引きつらせている。
「だ、だから、ニャタリア・サンバルトよ……」
自分でも無理があるのは重々承知している。
「にゃあ」
「――んか用事かしら? ニャ?」
私は両手を頭の上に出し、手で猫耳のポーズ。
自分で自分が情けないのはよく分かっている。
「ど、どうしたのかニャ?」
絶対、アシリカとソージュに猫属性は無いだろうな。どんどん目が冷えていっているのが、一目瞭然だもんな。
「にゃー」
「――にか用事かニャ?」
ムサシ、少し静かにして。もう限界よ。隠すのも、私の精神も。
「……お嬢様。少々失礼致します」
無表情になったアシリカがベッドの布団を勢いよくめくる。
「ニャ? やめるニャー!」
ああ、自分でも何言っているか分からない。
「みゃあ」
ちょこんと座るムサシが姿を現わす。
「……これは?」
「ニャんだろうね……」
「お嬢様!」
アシリカの一喝。
「は、はい!」
私はベッドから飛び起きる。
「まさかこの子猫を拾ってきたのですか?」
「は、はい……、だにゃあ……」
再度猫のポーズ。
それに対して、冷たい視線だけが私に浴びせられる。
バレては仕方ない。私はムサシとの出会いから今日の経緯をすべて白状する。
「何ともまあ……」
副院長との話に呆れ顔になるアシリカとソージュである。
「しかしですね。いくら副院長先生が暗黙の了解をしているといえども、これを容認し難いと私は――」
ムサシがピョンとベッドが飛び降り、説教モードに変わるアシリカの足にじゃれつく。
「えっと、その……。か、可愛いらしいですね……」
アシリカの頬が緩む。
「みゃあぁ」
続けて、ソージュの顔を見上げて可愛い声を出す。
「う。……何か食べ物上げたくなりマシタ」
ソージュの口元も緩んでいる。
「ふっふっふっ」
ほら、ムサシの愛くるしさに跪きなさい。この子の可愛いは無敵ね。
「ねえ……。もちろんこの子の為に協力してくれるよね?」
私の問いに二人はムサシに見入ったまま、コクリと頷いていた。
アシリカとソージュもムサシの可愛いに陥落して三日後。
何と僅かその三日間で副院長は寮でのペット飼育解禁を勝ち取っていた。驚くべき早さである。もっとも、元々学院長や上の人たちが動物好きだったそうで、それが大きな要因だったらしいだけど。
何であれ、メデタシである。
これで、ムサシを思いっきり可愛がれると思っていたさらに一週間後。
「可愛いですわね。癒されますわ」
「お、おい。俺にも……」
「殿下。失礼ながら先ほども抱かれたばかりではありませんか。次は私の番でございます」
「あの……、最後でいいので僕にも……」
シルビア、レオ、ミネルバさん、ザリウルス様である。ちなみに副院長も愛情の籠った熱い眼差しをムサシに向けている。
皆に囲まれても、動じる様子もなく愛嬌を振りまいているムサシである。
「あのさ、ここ、私の部屋ですけど……。それと、私もムサシを抱きしめたい」
そんな私の呟きを聞く者は誰もいない。
今では、すっかり『ムサシの部屋』と化している私の部屋だった。